温泉遺産
都道府県別データ一覧にあるすべての温泉関連遺産
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
湯本の道標
(追分の碑)
ゆもと
岩手/花巻市
ホテル花巻とホテル千秋閣の間
石道標(自然石)
元禄10(1697)
市有形
WEB
移設
(正面)「右ハ 山みち/左ハ ゆのみち」/17世紀の道標/温泉遺産/平賀次郎左衛門・松井道円らにより建立
2
C
浅沢の道標1
あさざわ
岩手/花巻市
<奥州街道>
石道標
推定1m以下
文政2(1819)
WEB
浅沢の道標2と共にコンクリートの台座に固定されている/移設?
「(南無阿弥陀佛)右 松林寺みち/左 ゆみち」/湯道とは花巻温泉源泉の台温泉方面を指す
3
-
浅沢の道標2
あさざわ
岩手/花巻市
<奥州街道>
石道標
推定1m以下
嘉永5(1852)
WEB
浅沢の道標1と共にコンクリートの台座に固定されている/移設?
「右ハ 松林寺/左ハ ゆみち」/湯道とは花巻温泉源泉の台温泉方面を指す
3
-
鶴脛温泉源泉地
つるはぎ
山形/上山市
温泉
長禄2(1458)
市史跡
WEB
観光整備
僧・月秀が、脛に傷のある鶴が足をひたしているのを見て発見したと言う伝承の源泉/上山温泉郷最古の源泉
2
B
板鼻の道標1
いたはな
群馬/安中市
(2丁目)交差点
石道標
高96㎝,幅24.5㎝,厚24㎝
文政13(1830)
上州の近世石造物1p278/WEB(鎌倉街道上道)
移設?
(正面)「や者多ミち」(=八幡)、(右面)「はる奈、くさ川 い可ほ(=榛名,草津温泉,伊香保温泉)/河原湯 か祢古(=湯宿温泉?,金古?)/澤多り 志婦川(=沢渡温泉,渋川)、みち」/温泉が多く記されている→温泉遺産
2
B
大原町の道標
(あづま道道標)
おおばら
群馬/太田市
<銅山街道・あづま道>
石道標(尖頭角柱、安山岩)
高74㎝,24㎝角
天保4(1833)
市建造物
WEB(山歩きとサイクリング)
市教委が保管/現地にはレプリカ
〔写真は、敢えてレプリカ〕
(正面)「南 江戸道、太田/木崎/足利」、(右面)「北、足尾銅山/日光道、桐生/大間々/赤城山」、(左面)「西 あ津ま道、産泰/大胡/伊勢崎、前橋/伊香保/草津」、(裏面)「東 在〃道」、(同左端)「上州新田大原駅」/足尾銅山や伊香保・草津の温泉地が書かれている
3
C
伊香保温泉の石階段
いかほ
群馬/渋川市
伊香保温泉
(伊香保神社~関所)
石階段
約360段(現在)
天正4(1576)
WEB
全面的に御影石を用いて修景・整備
天正3の長篠の戦いで敗れた武田勝頼が真田氏に命じて造らせたとされる
3
A
下豊岡町の道標
しもとよおか
群馬/高崎市
八坂神社・前
石道標(尖頭角柱、安山岩)
高198㎝,幅34㎝,厚36㎝
江戸期
市重文
WEB/市教委
2度の移設後、元の位置に戻す
(正面)「草津温泉」、(正面右上)「榛名山」、(正面最下部)「かわな可/か王らゆ/者とのゆ、温泉」/(右面)「従是、神山 三里/三ノ倉 五り半/大戸 九り半」、(左面)「左 中山道、安中/松井田/横川」/江戸期から温泉が盛んであったことを示す貴重な温泉遺産
1
B
湯滝の燈籠
ゆたき
群馬/(吾妻)草津町
湯畑源泉(草津温泉)
石常夜灯
高2.43m
文政13(1830)
町建造
町教委/WEB
湯滝の崖上に保存
伊勢太々講中の人々によって寄進/源泉の脇にあった不動堂の常夜灯
2
B
泣き燈籠
なき
群馬/(吾妻)草津町
草津運動茶屋公園
石常夜灯(道標兼)
高3.06m
万延元(1860)
町建造
町教委/上州の近世石造物1p298
昭和30~39年に現在地より南東50mの江戸道と沢渡道の追分から移設
(台石右面)「江戸/高崎/川原湯/大戸/長ノ原/信州道」、(台石左面)「沢渡/中之条/四万/伊香保/沼田/日光道」/白石栄左衛門が若い時行き倒れになり、終夜泣き明かしたことから、後年、霊泉への感謝を込めて道しるべのため寄進
3
B
将軍御汲上の湯枠
くみあげ、
ゆわく
群馬/(吾妻)草津町
湯畑源泉(草津温泉)
湯枠
東452㎝,西352㎝,南北277㎝
享保11(1726)
町建造
町教委/WEB
湯畑の源泉の中に四角に組まれた木枠が沈む
享保11に、8代将軍吉宗の命で、湯畑の湯を樽に詰めて江戸城まで運んだとの記録が残る→湯畑の中の檜の木枠の中が源泉なので、「御汲上の湯枠」と呼ばれている/草津温泉の象徴
3
A
天明大笹温泉引湯道
・跡
てんめいおおざさ
群馬/(吾妻)嬬恋村
<天明大笹温泉>
石積湯道
(浅間石)
約6㎞→残存区間 長約400m
天明5(1785)
村史跡
村教委
雑木林の中に石積水路が残る/別荘地で一部喪失
天明3年7月8日の浅間山噴火に伴い山麓に湧き出した温泉を、飢え人救済のため、黒岩長左衛門が大笹宿に引いた/溶岩の熱による温泉のため、文化3年には温泉の温度が下がり廃止/この種の温泉施設は、判明している限り、我が国で唯一
3
天明大笹温泉湯溜
てんめいおおざさ
群馬/(吾妻)嬬恋村
<天明大笹温泉>
湯溜
天明5(1785)
村教委
凹地らしい状態がほとんど分からない/未整備(文化財との認識なし)
かつて湯溜だった凹地
4
C
湯道百体観世音(八十番)
ゆみち
群馬/(吾妻)嬬恋村・
長野/
東御市
地蔵峠
町石(舟型)
高95㎝,幅60㎝,厚10㎝
慶応3(1867)
市教委(上田小県の道しるべp99)
移設、集約
(光背右)「八拾番觀音」/光背中央に聖観音立像の陽刻
2
C
板室の湯本道標
(板室本村の湯本道標)
いたむろ
栃木/那須塩原市
石道標
(温泉遺産)
天保7(1736)
市史跡
市教委
肝心の裏面が判読困難な状態
(正面)「右 會津街道」、(同最下部)「三斗小屋/江 三里/八丁」、(左面)「左 ゆもと道」、(同最下部)「従是/二十/八丁」、(裏面)「奥州津軽弘前品川町産
□
拝難病/
□□□□□□□□□□
承
□
道
□
力/
□□
□□□□□
治瘍平
□
□
碑
□
建」→奥州津軽弘前品川町の「遊圓」という人物が板室温泉での湯治により難病が完治したので地元世話人の協力により建立した旨が記されている、とされるが現在は判読困難/みすぼらしい風体の足の不自由な人が湯治に来たが、あまりにもきたないので共同湯の湯じりに別に湯つぼを設けて入湯させられた。ところが、湯治の甲斐あって立派に足が立ち、喜びのあまり大日堂の前で踊りをおどって帰郷し、再度板室を訪れて同じ病に苦しむ人々のために、この「ゆもと」への道しるべを建立したとの伝承がある
3
B
湯道百体観世音(四十番)
ゆみち
長野/東御市
地蔵峠
町石(舟型)
高87㎝,幅51㎝,厚23㎝
慶応3(1867)
市教委(東部町の石造文化財p128-132)
移設(ルート変更に伴うもの)
湯道百体観世音は新張部落から鹿沢温泉(群馬)までの路傍に並べられたもの(出発点が1番)
/(光背右)「四拾番觀音」/光背中央に准胝観音坐像の陽刻/文久4(1864)から明治6(1873)にかけて整備されたので江戸期の像は少ない
2
C
湯道百体観世音(八十番)
ゆみち
長野/東御市・
群馬/
(吾妻)嬬恋村
地蔵峠
町石(舟型)
高95㎝,幅60㎝,厚10㎝
慶応3(1867)
市有形
市教委(上田小県の道しるべp99)
移設、集約
(光背右)「八拾番觀音」/光背中央に聖観音立像の陽刻
2
C
落合の道標
おちあい
長野/(諏訪)富士見町
<甲州街道>
石道標(自然石)
江戸期?
WEB
移設?
(正面)「右 山浦/左 す王、道」、「山浦」の右に「志ふのゆ」(渋の湯)と小さく刻字
2
C
走湯温泉
・跡
はしりゆ
静岡/熱海市
伊豆山
源泉
文武3(699)以降
市史跡
WEB
Cトンネルの形で整備/常に蒸気が出ている
伊豆大島に配流された役行者・小角が島を抜け出して浜辺を歩き回る途中で発見したとの伝承がある/源実朝の『金塊和歌集』に「走り湯の 神とはむべぞ 言いけらし 速き験の あればなりけり」などの歌がある/かつては湯出(ゆず)と呼ばれれ、それが「伊豆」の語源になったとも言われる
3
A
大湯間歇泉
・跡
おおゆ
静岡/熱海市
上宿町
自噴泉
天平21(749)
市史跡
WEB
昭和初期に停止→昭和37から人工的に噴出
熱海温泉のシンボル的な存在としての自噴泉/年代は「縁起」によるもの→実際は不明(少なくとも、江戸初期以前)
2
A
河原湯
かわら
静岡/熱海市
銀座町
温泉
寛文6(1666)
WEB
温泉や木造瓦葺の覆屋を含めすべて再現
村人の入浴場(石のごろごろした河原)を、小田原城主・稲葉美濃守が、浴室を設け瓦葺の屋根としたため「瓦湯」と称したとも言われる
4
B
大泉の道標
おおいずみ
富山/富山市
(見龍橋)<立山道>
石道標(尖頭角柱)
高約1m,幅約30㎝
天保11(1840)
WEB
若干の移設
(正面)「右 立山道」、(正面左隅に小さく)「左 本江湯屋」/立山信仰/建立: 尾州名古屋・杉尾佐助、杉尾佐太郎/立山温泉への道標を兼ねる
2
C
弥陀ヶ原の地蔵道標3
みだがはら
富山/富山市
<立山道>
石道標(舟型)
江戸期?
WEB
原位置?
(光背右)「右 湯之道」、(光背左)「左 立山道」/光背中央に地蔵立像を陽刻/立山信仰/立山温泉への道標を兼ねる
1
C
上滝の道標
かみだき
富山/富山市
(大川寺前)<立山道>
石道標(自然石)
江戸期?
WEB
台石とC接合(移設)
(正面)「左 立山道」、(正面右に小さく)「右 ゆみち」/立山信仰/立山温泉への道標を兼ねる
2
C
牛ケ増の道標
(ふかたに湯道標)
うしがませ
富山/富山市
<立山道>
石道標(自然石)
江戸期?
WEB
保存状態良好
(正面頂部)「立/山/下」、(正面)「是ヨリ右 四里/ふかた尓湯/右 湯ヨリ立山権現迄 十二里/同 大岩寺迄 二里/同富山迄 三里半」(「立山下」「ふかた尓湯」が大きく刻字)/立山信仰/立山温泉への道標を兼ねる
2
C
大聖寺永町の道標
(永町道標)
だいしょうじなが
石川/加賀市
石道標(凝灰岩)
高130㎝,幅29㎝,厚30㎝
安政5(1858)
市有形
歴史の道
3p95,122
移設
(正面下部)「山中温泉道、是ヨリ/三リ」/正面上部に「やまなかや菊は/たおらじ/湯のにほひ」、右面に「納経所、國分山/瞖王寺」と陰刻/大聖寺城下で商売をしていた山中温泉の商人により建立されたとされる→温泉名を標記した道標はきわめて稀
2
B
有馬町の道標
ありま
兵庫/神戸市(北区)
<魚屋道>
石道標(自然石)
高125㎝,幅50㎝,厚40㎝
江戸期
WEB
(神戸の道しるべ)
移設
(正面)「右 六かう山/すぐ 京 大坂、道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性/魚屋道(ととやみち)は漁港から六甲山頂付近を越えて有馬の温泉街へ新鮮な魚を運ぶための道とされる
2
C
秀吉の岩風呂遺構
ひでよし
兵庫/神戸市(北区)
有馬温泉・太閤の湯殿館
岩風呂
2.1m四方,深65㎝
天正7-8(1579-80)
→慶長3(1598)
市史跡
太閤の湯殿館
平成11に湯殿館を建設し、館内で保存展示
豊臣秀吉の湯山御殿跡の発掘により発見されたもの/岩風呂は、筧で引かれたお湯が岩肌の裂け目から滝湯のように浴槽に流れ込む仕組み/温泉遺産
2
A
秀吉の蒸し風呂遺構
ひでよし
兵庫/神戸市(北区)
有馬温泉・太閤の湯殿館
蒸し風呂
竹管による蒸気式
天正7-8(1579-80)
→慶長3(1598)
市史跡
太閤の湯殿館
平成11に湯殿館を建設し、館内で保存展示
豊臣秀吉の湯山御殿跡の発掘により発見されたもの/粘土を固めた床面の8cm下に直径約6cmの竹製パイプを埋め込んで、それに蒸気を通して浴室を暖める方式/温泉遺産
2
A
千僧の題目塔道標2
(荒牧延宝2年銘道標)
あらまき
兵庫/伊丹市
(1丁目)伊丹市立博物館
<中山道>
石道標(駒型)
高91㎝,30㎝角
延宝2(1674)
絲海「市内の古式道標」/WEB(神戸の道しるべ)
館内展示(もと、荒牧)
(正面右下)「右ハ たんばみち」、(同左下)「左ハ ゆの山みち」(=有馬温泉)/正面中央上部に「南無阿弥陀佛」と陰刻/17世紀の道標
3
B
関金町関金宿の金毘羅常夜灯2
せきがね、せきがねしゅ
鳥取/倉吉市
<備中往来>
石常夜灯(道標兼)
高3.05m
文久3(1863)
市教委(関金町の石造物p49)/歴史の道2p27
原位置?
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿右面)「大神宮」、(竿左面)「厳嶋大明神」、(竿裏面)「大山大權現」/(中台正面)「東」、(中台右面)「北」、(中台左面)「南」、(中台裏面)「西」/(台石右面)「右 (當温泉/作
州
下
□
)/中 倉吉/左 (八橋/米子)」、(台石左面)「右
□□
/中
□□
/左
□□
」、(台石裏面)「右 倉吉/中 (八橋/米子)/左 作
州
長田」(
緑字
は異体字)/「當温泉」は関金温泉を指す→温泉に係わる道標兼常夜灯は江戸期において極めて珍しい
1
B
道後温泉の湯釜
どうご、
ゆがま
愛媛/松山市
<道後温泉の浴槽内・湧出口>
温泉の湧出口
(石造)
直径166.7㎝,
高157.6㎝
天平勝宝年間(749-57)?
県有形
県教委
/市教委(道後温泉・増補版)
移設
設置年代の古代は伝承(道後温泉には聖徳太子湯治伝承がある)/正応元(1288)、河野通有(伊予水軍の将)の依頼で一遍上人が湯釜の宝珠(湯釜最上部の湧水口)に「南無阿弥陀佛」の名号を書いたと伝えられる/享禄4(1531)、河野通直(伊予国の戦国大名)が湯釜に僧・徳応の撰した温泉の効用に関する文を、尾道の石工に命じて彫らせた→「此時一の湯に釜をすへ、面に薬師の尊像を彫付、蓋に六字、廻りに願文并享禄四辛卯年河野通直と記す」とあるので、「一遍上人の名号」伝承は間違いの可能性もある/撰文(像から右周りに):「夫吾朝伊豫國守/河野太郎通直有道/德行兼備詩禅
□□
/塾仁謂之
□□□□
/孝靈天皇
□
□□□
/伊豫親王
□□□□
/座側有一湯
□□□
/地也洗
□□□
□□
/成醫豈
□□□
□□
/宮□于時有
□□□
/如意寶珠
□□□□
/湯荘厳将謂
□□□
/
□□
局也盛哉
□□
/享禄四天辛卯小春如意珠日/備後國尾道芥河
□□□
/柳原左衛門尉
□
次
□□
」/すべてが享禄4(15
31)としても戦国期であり、全国最古の温泉遺産であることに変りはない
2
祝森の大師道標
いわいのもり
愛媛/宇和島市
(柿ノ木)<宿毛街道>
石道標(駒型)
高130㎝,幅23㎝,厚20㎝
嘉永5(1852)
歴史の道7p16/WEB
移設(もと、柿本氏宅裏の庚申堂の前)/5つ以上の破片に割れたものを修復(読めなくなった字は彫り直してある)
(正面像下)「是ゟ 御城下御番所迠 一里半」、(右面)「四拾壹番いなり様江 四里二丁/道後湯の町江四拾里/
□
…くみ… 二十五里」、(左面)「是ゟ 篠山権現様迠 五里半/是ゟ右お徒き通 観自在寺迠 八里」/正面頂部を光背型に削り込み大師坐像を陽刻〔温泉遺産〕
3
B
久万の道標1
くま
愛媛/(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
石道標
高130㎝,30㎝角
弘化5(1848)
歴史の道2p43/WEB
下部C打設・埋没
(正面)「(右指差し)右 へんろ道」、(同最下部左)「當町」、(右面)「(左手差し)きやく(=逆)遍ん…」、(左面)「浄るり寺江…/道後湯之町江…」/道後温泉の方向を刻字〔温泉遺産〕
2
C
閻魔坂の石畳
・跡
えんま
大分/別府市
(照湯)
石畳道
天保15(1844)
市教委/WEB
石畳→放置→C舗装→石階段/石畳の上にコンクリを貼り、一部分のみ敷石を露出させている
下記「照湯遺構」の温泉施設群の最上部に造られた坂道の石畳/大温泉地・別府の原点に関わる施設
5
C
銭瓶峠の道標
ぜにがめ
大分/別府市
銭瓶峠
石道標
(尖頭角柱)
江戸期?
WEB/歴史の道・豊前道p89
原位置(修景)
(正面)「西 ゆふいんみち」、(右面)「南 どうしり道」、(左面)「北 別府道」、(裏面)「東 府内道」/温泉遺産
1
C
照湯遺構1
てるゆ
大分/別府市
(照湯)
温泉
浴槽まわりの敷石、湯のそそぎ口
天保15(1844)?
WEB
嘉永2(1849)洪水で流失/かつての湯屋の1つ「小浴場」が、照湯温泉の男湯に移築されている
第8代森藩主・久留島通嘉が小倉の佐藤中左衛門らの要望を聞き、天保14(1843)6月に照湯御普請所を開設、翌年10月に温泉施設群が完成→一の湯・二の湯・三の湯・蒸湯・飛泉などの湯屋が立ち並んでいた(弘化4(1847)の「鶴見七湯の記」の絵図より)/薬効のある明礬温泉/大温泉地・別府の原点
2
照湯遺構2
てるゆ
大分/別府市
(照湯)
温泉
石垣
天保15(1844)
市史跡
市教委/WEB
嘉永2(1849)洪水で流失/石垣が一部残る
同上
4
A
湯平温泉の石畳
ゆのひら
大分/由布市
湯平温泉
石畳道
長約500m
享保年間(1716-35)
WEB
温泉街のシンボル的存在
病魔退散を祈願し工藤三助が敷設/温泉街の中心に敷かれた石畳/温泉関連の遺産/街を覆う鄙びた風情や情緒ある佇まいの演出に効果
1
菅原の地蔵道標2
すがわら
大分/(玖珠)九重町
(地蔵原)
石道標(舟型)
高166㎝
(うち、塔身65㎝)
天保6(1835)
九重町石造物資料p38
原位置?/頂部欠損
(最上段台石正面右)「右ハ/湯坪 筋湯道」、(同左)「左ハ/田野 寒地獄」、(最上段台石右面)「あ連湯山 苦悩を/のがる/温泉ぞ
/
筋ゆう/のんで/をどる/ごくらく」の句(中央に袖付き右手差しの陽刻)→
温泉遺産(全体写真の下に右面を添付)
/参考までに最上段台石左面には「李庭/あそこたの 志つの/在る/身ハ
/
こと/せん/万/かんのぢごく尓/をちこちの人」の句(中央に袖付き左手差しの陽刻)/3段の台石上に光背付きの地蔵立像(蓮台)を載せる
1
A