二〇〇五年八月一五日、日本は六〇回目の敗戦記念日を迎えた。アジアの各旧交戦国との間で、残された歴史問題の清算が終わっていないばかりでなく、この節目の年でこそ一触即発の緊張を見せている。年始以来、教科書検定内容の問題[1]、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題に関して日中、日韓間の対立が激化し、おりからクローズアップされた日本の国連安保理加入問題、日中間の尖閣諸島(釣魚島)の領有権争議、東海ガス田争議、日韓間の竹島(独島)の領有権争議問題と絡み合って、さらに日本とアジア近隣諸国との関係を一層複雑化させた。
勢いを増してきた小泉政権の過去への無反省の姿勢はメディアを通じて中国民衆の反日感情を刺激し、四月、ついに各地で反日デモ、日本製品のボイコット運動が勃発し、中国政府の黙認姿勢の下で全国的に広がり、一部は上海の日本領事館に対する襲撃事件のような過激な行動にまで拡大した。
かたや日本の国内では、中国民衆の反日行動に刺激されナショナリズムが激昂し、歴史認識問題、教科書問題で中、韓両国に対する激しい応酬が展開されたほか、一部の国会議員が靖国神社の集団参拝を組織したり[2]、あるいは地方議会で靖国神社参拝支持の決議を採択したりして対抗行動をエスカレートさせた。
いうまでもなく、問題の核心は靖国神社にある。小泉純一郎が首相に就任したあと、世論の反対を無視して毎年のようにこの神社を参拝し、国内で物議を醸しただけではなく、海外からの批判、抗議も集め、一気に靖国神社参拝問題を日本の政治、外交問題の焦点に押し上げた。
小泉は靖国神社の参拝を「国内問題」と言い切り、国外からの批判に反発するが、果たしてそうだろうか。周知のように靖国神社は決して普通の神社ではなく、歴史上の諸経緯から、否応なく政治化、国際問題化された場所であり、実際にも現在、日本による過去の侵略戦争を批判する平和勢力と、それを肯定する保守・右翼勢力との対立の最前線となっており、また世界の国々からも注目される、日本政治保守化のバロメーターにもなっている。毎年八月十五日、かつて軍国主義時代の日章旗を翻した旧軍人、特攻隊のユニフォームで身を纏った右翼団体や戦争支持者たちがこの場所に雲集し、「大東亜聖戦」を始め、近代戦争で「殉国」した「英霊」の功績を讃える。境内に設けた遊就館の展示[3]も、同じように近代日本が行った侵略戦争を自存自衛のための戦争とし、その死者を「殉国の英霊」と讃えている。
「公人」か「私人」と表明する以前に、こうした政治の最前線に政府の首相、閣僚が出かけていくこと自体が、過去の戦争に対する自らの政治的立場の表明、あるいはアジア諸国の国民感情への挑発行為と解釈されても、致し方がない。靖国神社は決して侵略戦争で殺された戦死者全体に対する追悼の場ではなく、特定の死者を護国の英雄、殉国の英霊として祭りあげ、その功績を称える場所であり、この在り方から見れば、参拝か否か戦争に対する肯定か否定かの意思表示の意味があろう。靖国神社は、こうして政治の踏み絵でもあったのである。
首相の靖国神社参拝問題を通じて我々は、長い間、日本政府の戦争に対する公式な謝罪、反省という「建前」の後ろに見え隠れる「本音」の部分が窺える。いわば、「新しい教科書を作る会」や、「自由主義史観」[4]グループが持つ歴史認識と相通じるような、過去の戦争に対する評価を覆し敗戦によって失われたとされる日本国民の「誇り」、「民族的自尊心」を取り戻そうとする政治志向である。こうした疑似愛国主義的政治志向は、過去の侵略戦争の責任に対する不完全な反省の基礎上に立っているが故に、国内の戦争讃美論、ナショナリズムの奇形な発展を刺激し、日本の右翼的政治勢力の温床になったと考えられる。
このような侵略戦争を美化する歴史認識は決して今日唐突に生まれたものではなく、溯れば、敗戦後のA級戦犯を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)における、日本側弁護団副団長清瀬一郎の冒頭陳述にすでにその原形が見られる。曰わく、戦前の日本は平和愛好の国家、人種差別反対のデモクラシーの国家であり、「満州事変」、「支那事変」と「大東亜戦争」も、一貫した計画(共同謀議)ではなく、それぞれの原因によるものであり、しかも何れの場合も日本の自衛権の発動で、侵略とは言えない、と[5]。
この冒頭陳述の発言は当時、裁かれようとした日本の戦犯容疑者に有利な判決条件を勝ち取ろうとするための策略的法廷辯護であり、戦争の「正義性」の主張(=いわゆる「国家辯護」を主張)について、日本側弁護団の内部においても必ずしも一致した意見とはいえなかった[6]。しかし、この発言の精神は事後、水面下において継承され、一九五二年独立後、一部の軍国主義者、右翼的政治家、日本政府の潜在的政治立場になってゆく。特に一九五五年以降、高度成長を背景にした日本の政治、経済地位の向上と共に、この見解は一層強くなり、近代アジア侵略の不名誉を隠し、また失われた国民の自尊心を取り戻す理論根拠として、歴代の閣僚の「問題発言」[7]、政府当局の対アジアの外交姿勢、および学校教科書の検定を通じて現れ、一種の半公式化、隠然たる歴史認識として定着し、あるいは日本政府の潜在した「本音」として機能するようになる。一九六〇年代作家林房雄が主張した「大東亜戦争肯定論」[8]や、六〇年代から問題となった教科書検定に現れる政府の政治的意図、八〇年代における中曽根政権の「戦後政治の総決算」、九〇年代に現れる、いわゆる「自由主義史観」論者の政治的立場、「新しい教科書を作る会」の活動など、みなこのような「本音」の現れと見て良かろう。この本音部分の露顕は、近年国内政治の右傾化、世代交代による戦争記憶の風化に従ってさらに加速する勢いである。
中国の政府当局は、冷戦時代からの「人民連帯」の立場と、少数軍国主義者を孤立させる外交、政治的策略から、この歴史認識にある「本音」の部分を、日本の右翼、極少数の政治家、軍国主義者に限定されるものだと説明するが、実際には決してそんな簡単なことではない。この無反省の歴史認識が長年、根深く存在できた理由には、多くの民衆によって支えられてきた、巨大な社会的背景と深い歴史的背景があったと、指摘しなければならない。
以下では歴史認識の方法論、戦争責任認識の問題点および歴史教育の三つの面から、具体的に日本人の歴史認識の問題点を分析していきたい。
先ず注目すべきは、大多数の日本人が近代の侵略戦争を来した歴史構造について理解は極めて貧弱だということである。これには、加害者の鈍感だけによるものではなく、為政者による意図的政治操作および、長期間にわたる政府当局の教育指導など、複数の理由があったと考えられる。
前述した「本音」から、日本政府当局やその御用の学者たちは、故意に明治維新以来日本が行ってきた数々の侵略戦争を、一定の歴史環境と条件の下で発生した一連の因果関係のある必然な行動と見ず、その中の一部を隠したり(たとえば琉球合併)、一部を美化したり(たとえば、日清、日露戦争)、あるいは各戦争間の偶発性、非連続性、無関係性(たとえば、満州侵略、日中戦争、太平洋戦争の関係)、あるいは戦争発生の外因(たとえば、自衛としての太平洋戦争論)を強調したりする。
日清、日露戦争に対する賛美は、もともと戦前日本軍国主義による皇国史観の教育内容にあったが、戦後一時アカデミーの中心となったマルクス主義史観によって否定されたものの、一部学問と政治の分野にとどまり、多数国民の歴史認識への影響は不十分であった。また、敗戦後行われた極東軍事法廷の裁判(東京裁判)も、主として日本軍国主義の満州侵略(一九三一年)以来の責任を追及したため、日清、日露戦争を近代の侵略戦争から除外する意識を助長させる結果になった。さらに高度成長以降、国民の自尊心を呼び戻すための、日本政府による歴史教科書の検定操作、様々な文学作品による明治時代の称揚などによって、この明治時代に行われた二つの戦争はむしろ、「日本の誇り」として多くの日本国民の歴史認識の中に浸透していった。またそれだけではない。実はこの明治期の戦争に対する肯定の評価は、侵略戦争に反対するはずの、多くの平和運動家や進歩的知識人の中でも根深く存在していた。以下では幾つかの例を挙げてその認識の所在を見てみよう。
いうまでもなく、司馬遼太郎(1923-1996)は、戦後において最も影響力のある歴史小説家である。彼の小説は古今の各種の題材に渉って展開し、流麗、多彩な文筆と豊かな発想で国民の人気を集め、いま日本国内だけではなく、翻訳され国外でも広く読まれている。それがゆえに、小説を通じて現れた彼の歴史観は、アカデミーの学問よりいっそう一般の国民に親しみやすい性格があり、司馬文学の愛読、崇拝から歴史研究の畑に足を踏み入れた青年も多くいた。流行の大衆作家として、司馬は国民の趣味,嗜好に応える文筆に長けており、自ら活躍した戦後の復興と高度成長の時代において進取、向上、光明の時代精神に棹を差し、時代の進歩、人々の進取心を刺激する作品を書き続け、またそれなりに、人々に感銘と感動を与えた。一方、司馬自身も昭和前期の闇黒の戦争時代を耐え抜いてきたつらい体験があり、日本軍国主義と自ら経験した近代の侵略戦争を痛恨した。そのためか、近代における彼の創作題材は、ほとんど明治時代に集中し、闇黒の昭和時代に関して書こうとしなかった。このような司馬の歴史小説とその創作の意図、手法は、作品内容、文芸批評等を通じて拡がり、知らず識らず、ある誤った歴史認識を広めることになった。すなわち「明るい明治」と「暗い昭和」という歴史の対照法である。いわゆる司馬遼太郎史観は、つまりこうした対象法的歴史認識のことを指す[9]。
この史観が最も良く現れたのは、司馬の代表作の一つである『坂の上の雲』[10]であろう、司馬はこの長編の小説において、まるで坂を駆け上がるように、未来に向かって奮闘する明治青年の進取、向上の精神を描き、日露戦争における日本の勝利を明治国家の偉業として讃えた。小説を通じて、司馬は明治時代の日々向上、進歩の大国日本の姿を描きだしたのである。彼にとって、日露戦争の勝利は、明治以来日本上昇の頂点であり、その後下り坂に入り、次第に暗い昭和の戦争時代に突入した、という。
もちろん、司馬は歴史学者ではなく、本人も何々「史観」をつくり出して国民を説教する意図は毛頭ない。流行の作家として彼が意図したのは、高度成長期における国民の向上心に応えるような小説を書いて多くの読者を獲得するためであるが、しかし、このような明るい明治を讃える描写法は、敗戦後国民の誇りの回復、明るい近代国家のイメージの創出を目指す一部の政治家に、過去の侵略行為を矮小化し、歴史の構造を混乱させる道具として故意に利用されるようになる[11]。
こうした人物中心の描写、歴史の光明、向上面のみを強調する手法は、直接昭和の侵略戦争を讃美しないので、一般の国民には受け容れやすい。加えて司馬の完璧に近い文学的センスと筆の才能も、こうした間違った歴史認識を広める役割を果たし、特に実際に戦争を経験していない若い世代を中心に、大きな影響を及ぼす結果になった。
もともと、文部省管理下の学校教育にはすでに年表、事件、キーワード中心の詰め込み式教育の弱点があり、戦争の歴史構造の分析において不十分であった。日清、日露戦争について、その帝国主義戦争の性質を指摘するより、国内における個人主義思潮の流行、日本をめぐる国際環境の改善(不平等条約の廃除)、近代資本主義産業の急速的発展など、その積極面を強調する傾向があった。司馬史観の流布は、さらにこうした弱点を助長し、次第に日清、日露戦争の勝利は、日本の国家、国民としての誇りであり、「三国干渉」による遼東半島の返還は、日本が受けた外交面の「屈辱」であるという認識が一般化した。近代日本帝国主義によるアジア侵略の序曲であった日清、日露戦争は、こうして性質が曖昧にされ、大国、強国を破った「誇り高き戦争」として国民の歴史認識の中に浸透していったのである。
司馬遼太郎史観に代表される構造なき歴史認識はまたそれだけにとどまらず、変形して他の姿で現れることもあった。最近、読者に人気のある作家半藤一利が書いた『昭和史』がその一つの例である。半藤はこの本において、「四十年史観」という仮説を立て、近代の日本は四十年を周期に光明、闇黒の時代が繰り返して交替する、と主張する。この説によると、明治維新から日露戦争の四十年の間は輝く向上の時代であり、その後続く敗戦までの四十年は闇黒の時代であった。また、敗戦からの四十年間も復興、成長の向上期であり、その後、バブル経済を経て日本は再び停滞期に突入した[12]、と。実はこの四十年周期論の創出者は半藤ではなく、政治学者内田健三がそれより十年程前からすでに主張していた論であった[13]。しかも溯れば、その説の元祖も司馬遼太郎の発言に見られる。晩年司馬がその歴史評論集『この国のかたち』において、明確に成熟の四十年と、異胎児四十年の論[14]を打ち出しており、前述した明るい明治と暗い昭和の歴史観とも、脈絡は繋がっている。
こうした歴史循環論は、近代の政治、経済変動の客観的観察の結果として一定の説得力があるが、一種の史観として歴史を総括ないし未来を展望しようとしたら、とんでもない間違いを来すだろう。
歴史小説家の司馬遼太郎と同じように、半藤一利も昭和期の軍部の横暴を痛恨し、日本軍国主義が起こした昭和期の侵略戦争を批判する立場をとっていた。しかし、この四十年史観の呪縛であろう、半藤は歴史の構造をつかめず、一種の人為論・技術論の歴史解釈から脱出できなかった。半藤の軍部批判は、軍部の横暴、国家組織の腐敗、政治家の無能と、戦争指揮の不合理などの政治組織の面、人為の面に集中し、歴史の経緯、日本近代化の構造面から侵略戦争の必然性、連続性を指摘できていない。言い換えれば、日本の敗戦は、一種の歴史の必然結果ではなく、結局こうした体制内部の人為的理由、組織的理由によるものだと、半藤はみる。仮説を立てていうなら、もし昭和期の戦争において、日本の戦争指導部が、明治の政治家、軍人と同じように有能で一致団結して国家を指導できれば、日本は敗戦の憂き目に遭うことなく、昭和も暗黒ではなく、明るい明治と同じように国運向上の偉大なる時代になっただろう、と。
小説家の本職に忠実した司馬遼太郎と違い、半藤はみずから「歴史探偵」と自称し、この読者の興味をそそる、政界、軍界の密話等をふんだんに取り入れたベストセラーの書名も『昭和史』と冠したので余計に誤解を招きやすい。結局のところ、この書物は司馬の文学と同じように、あるいは司馬文学より以上に、国民の構造なき歴史観を助長させるマイナスな役割を果たしたと考えられる。
このほか注目すべきは、日本でもっとも進歩的とされる、反戦、反核、反帝国主義の平和運動の指導家達の中にも、ある程度こうした構造なき歴史観に影響された面がある。例えば、日本平和運動の代表的理論指導者加藤周一は、反戦、平和主義の立場で一切の戦争を否定し、徹底した平和主義を呼びかけるが、歴史認識に関して、司馬遼太郎と同じように明治指導者と明治国家の成功を肯定する立場である。彼は明治国家の強兵政策を「防禦、自衛」の政策と称し、日清戦後の政府が三国干渉を呑んだことも外交のリアリズムと称賛した。また日露戦争で大国ロシアを破ったことにも、誇りを感じている。加藤によると、日露戦争は一つの分水嶺で、日本は戦勝の驕りにより自制心を失い、膨張主義の道路に走り出した、という[15]。
この歴史認識はいうまでもなく、司馬、半藤と同じような構造なき歴史観の一種であり、加藤本人の主観的平和願望の如何に関わらず、客観的に、帝国主義と一部の帝国主義侵略を美化する結果につながると指摘しなければならない。
さらに指摘すべきは、構造なき歴史観の影は、戦後の進歩的歴史学をリードしてきた学者の中でさえ、その一斑を窺うことができることである。戦後一時流行したマルクス主義史学は、近代天皇制、日本帝国主義を批判し、科学的、構造的歴史の方法論を提唱した最初の主張者であるが、一方、それを主張した学者には、同時にヤマト民族の一員として、特に対外認識の面で、多かれ少なかれ民族的意識が潜んでおり、それが故に構造なき歴史観の呪縛から完全に自由になれない面もあった。その例として、ここでは「琉球」の問題を取りあげたい。
戦後、マルクス主義をはじめとする進歩的科学史観の普及によって、近代における帝国主義侵略の歴史構造についての認識が飛躍的に進歩し、日本の近代を帝国主義の生成、発展の時期とし、近代戦争の侵略性と連続性を指摘する認識も一般化した。一九五六年、鶴見俊輔の首唱によって「十五年戦争」の表記法が確立し[16]、満州事変以降の侵略戦争の連続性を強調する認識は、学界だけではなく、教育界においても次第に定着し、一部の学者はさらに同じ方法を用いて侵略戦争の始まりは日清、日露戦争にあると主張した。その中で、さらに明治国家初期の外交政策に注目し、明治政府の征韓論、台湾征伐、江華島事件に溯って近代軍国主義の形成を指摘する論も学界で現れた。
一方、すでに日本の領土の一部になった「琉球」のことになると、こうした進歩的学者もほとんど口をつぐむ。明治政府の琉球合併は、あくまでも内輪の「処分」であり、侵略ではなかった、という。例えば、日本マルクス主義史観の総帥格の学者井上清は、日本帝国主義侵略の原因を構造的に摘出し、明治以来の日本帝国主義の政治、外交路線を厳しく批判するが、琉球に関しては、あいまいな態度を示した。彼は日本に併合されるまでの琉球を独立した国家として認めるが、人種学、地理学の面、また経済、政治の面で日本と琉球の密接なる関係を強調し、日本資本主義の発展に従って、琉球は早晩にして日本と統一する運命だと主張した。井上は明治の軍国主義による「侵略式の統一法」を批判するが、このような方法によらない「統一」を問題視しなかった。琉球の「処分」は、結局方法には落ち度があるものの、合併自体には問題がなかった、と見る[17]。
本当に歴史の構造分析を重視する科学的方法論に徹すれば、いかなる地理上、歴史上の理由があったにせよ、当時他の国々と国際条約を締結している厳然たる主権国家である琉球を自国の領土に併合する行動は、侵略と見るべきであり、この意味で琉球の併合は、台湾征伐、江華島事件と同じように、近代日本帝国主義による侵略と同一性質のもので、日清、日露戦争、さらに昭和の戦争の前奏曲と見るべきであろう。琉球は、明治以降日本が手に入れた最初の領土であり、日本帝国主義の最初の植民地であるとの見方が、正当ではなかろうか。自民族のエゴイズムに隠れた琉球除外論は、決して学問上の小節ではなく、実質上司馬史観、四十年周期論と同じように、構造なき歴史観の現れだと指摘しなければならない。
以上は要するに、今日大多数の日本人、右翼的政治家から進歩的歴史家、平和主義者を含めて、多かれ少なかれこうした構造なき歴史観の影響を受けていると言えよう。これは、近代日本人の歴史認識の深層に潜んでいた方法論的誤りの一つで、自国中心主義、ナショナリズムに由来した思想的背景があったと考えられる。
次に、満州事変以降の大陸侵略に対する日本人の歴史認識の問題点を見てみたい。戦前では、日本政府と軍部は柳条湖事変から始まった日本の大陸侵略をそれぞれ「満州事変」、「支那事変」、「大東亜聖戦」と呼称し、「事変」としての一時性、あるいは各事変間の偶然、無関連性を強調して世論を欺き、侵略戦争を起こした意図と事実の真相を隠蔽しようと努めた。太平洋戦争(「大東亜聖戦」)の場合、いちおうこれを「戦争」として認めたが、字面の通りアジアを解放する「聖戦」として正当化し、また開戦の原因についても、英米の経済封鎖、外交圧力によるものだとその自存・自衛の性格を強調した[18]。
敗戦後、連合国による戦犯裁判は日本軍の残虐行為を暴露し、その後、戦争責任の追究、軍国主義者の公職追放及びその他の一連の民主化改革を通じて、日本人の戦争認識には大きな変化をもたらした。戦争の侵略的性格や、アジアの隣国にもたらした多大な被害の事実について、国民の大多数は認識するようになり、戦争謀議人(A級戦犯)を裁いた東京裁判の結果も、軍国主義者公職追放の事実も、極めて冷静に受け容れていた。すくなくともサンフランシスコ条約の調印(一九五一年)によって日本が独立するまで、正面から昭和以来の侵略戦争の正義性を主張する論が見あたらなかったのである。また時の歴史学界において、戦前の天皇制国家、軍国主義による思想弾圧、対外侵略への反発、反動として、マルクス主義の進歩的歴史観を取り入れ、歴史構造の面より帝国主義侵略戦争の性質と必然性を指摘し、天皇制、軍国主義を含む近代日本の国家体制全体に対する批判も盛んであった。
このような背景下で、戦争に対して反省、責任追究の動きは主流であった。「満州事変」の用語が継承されたが、その起因、性質と発展に関して、関東軍の陰謀と日本帝国主義の満州侵略の野心が指摘された。「支那事変」の用語を「日中戦争」、あるいは「日中全面戦争」に改められ、これにより、中国の本土に対する大規模で、全面的侵略戦争の性質が強調された。また「大東亜聖戦」も「太平洋戦争」に表記が改められ、戦争の正義性は否定されたばかりでなく、近年において「アジア・太平洋戦争」の表記が使われているように、アジアの存在感、あるいはアジアに対する戦争の加害責任もより多く強調されるようになった。このような総合的反省の上に生まれ、広く使われた「十五年戦争」の呼称も、戦争の連続性と侵略的性格を捉える上に、大きな役割を果した。
しかし無視できないのは、こうした戦争反省の範囲は、学界の一部、進歩的研究者、教育者、知識人の一部に限られており、必ずしも国民全体の中に浸透したものではなかった。また反省する側の研究者、知識人の立場と国民一般の理解、政治家の理解との間に大きなギャップが存在するだけではなく、反省する側においても、程度と方法において被害者側からの理解を得られぬ、多くの問題点を抱えていた。
一方、日本政府と国民が、こうした不完全の反省に満足し、さらにこれを基礎に戦後の新しい国際関係を築こうとしたため、アジアの国々からの諒解を得られず、歴史認識の面で問題を醸成したと指摘される。以下では、この不徹底な反省の様相を、四つの面から見ていきたい。
大多数の日本人は、戦前日本が行ったアジア侵略の行為を批判し、戦争への荷担を反省するが、一方、戦争の起因に関して、よく自国の立場で、相手の責任を並べ、あるいは戦争勃発の偶然性を強調する。マスコミによる一般報道、政府の公式見解の中、あるいは検定を経た教科書の内容の中でこのような解釈がよく見られる。たとえば、満州事変(九・一八事変)の起因に関して、それは関東軍の陰謀によるものだと、歴史の事実を否定しないが、一方、遠因として蒋介石の北伐による日本の在満権益への脅威や、万宝山事件(一九三一年七月)における地元農民の入植した日本人(=植民地下の朝鮮人)への暴力、あるいはスパイ偵察中の中村大尉が殺された事件(一九三一年六月)などをあげ、以て関東軍を暴走に至らせた原因とする[19]。
日中戦争の原因に関しても、盧溝橋事件を引き起こした第一発の銃弾の責任を追究し、日本の大陸侵略を、この一発の銃声が誘発した偶然な出来事だと強弁する。よく言われる日中戦争の「勃発」は、つまりこの偶然性を強調することに意味がある。「勃発」の言葉は、もともと戦前の政府用語で「支那事変の勃発」という表現から来ているものだが、そのカラクリを追究せず、いまでもそのまま使われている。また一部の歴史学者は、実証研究といって大量の時間と精力を「第一発の銃声」の研究に費やし、事件における中国守備軍の責任を追究する[20]が、しかし、なぜ、北京地区に駐屯した四百名ほどの公使館守備の部隊(支那駐屯軍)の人数が、日中戦争前一気に一個旅団に膨らみ、また公使館守備と全く無関係の北京郊外の豊台鎮に駐屯できたか[21]、さらになぜ北京守備軍(宋哲元軍)の目の前で堂々と「軍事演習」が繰り返されたかなどの経緯について、触れようとしない。もし、盧溝橋事件からさかのぼって満州事変後日本軍が行った一連の挑発、蚕食の行動を見れば、誰もがそれらの行動に見え隠れた日本の華北侵略の軍事的意図等は簡単に分かるはずである。つまり、日中戦争は、決して盧溝橋における一発の銃声に引き起こされた偶然な事件ではなく、満州事変以降、中国の東北部を占領した日本軍がおこした山海関事件、熱河作戦、河北分離工作、傀儡の冀東防共政府の扶植、豊台事件など、一連の華北への進出の企図、行動から導き出された一つの必然的結果だったと言える。
太平洋戦争に関しても同様、大多数の日本人は、真珠湾襲撃の無謀、不義を認めるが、対米開戦の理由に関して、とかく、米国の鉄屑禁輸、対日経済封鎖等の客観の原因を取りあげたがる。あるいは、戦前の政府、軍部が反米宣伝に使った、根拠のない「ABCD包囲網」の陳套[22]を援用して戦争の正義を主張したり、外交史研究を通じて、日本政府の戦争を避けようとする外交努力を誇張したりして、開戦の責任をアメリカの対日強硬政策に押しつけようとする。いわば、一九四一年十一月アメリカが日本に押しつけたハル・ノートは談判拒否の最後通牒であり、そのため日本はやむを得ず戦争に踏み切った、という[23]。
このような解釈には、一面に事実としての客観性があり、多くの学者も外交史料などをもって立証するため、一般の人々には受け容れやすい。一方、この方法も、前述した「第一発の銃声」への拘りと同じように、きわめて片面、局地的な認識であり、日米交渉、米国の対日封鎖はいったいどのような背景の下で展開されたか、なぜ米英が日本に対して強圧的姿勢をとったかについて触れなければ、歴史に対する公平な解釈とはいえない。日本はその前に中国大陸に対する侵略を強化しつつあっただけではなく、アジア全体の制覇を目指して南進政策をとり、北、南仏印まで軍隊を進駐させていた。こうしたアジア制覇の野心と行動こそ、アメリカ対日封鎖の直接的な原因ではなかろうか。
以上のような戦争の原因分析における自国中心主義の解釈には、方法の面でいうと、前述した構造なき歴史観と同じように局部を見て全体を見ず、樹木を見て森林が見えないという致命的な弱点があると指摘されるが、立場の面からいうと、国益に従い、戦前日本帝国主義侵略の意図、責任をあやふやにする故意が含まれていたと、言わなければならない。このような歴史認識の方法は、国民に歴史の真相を伝えないだけではなく、戦争責任否定の理論的根拠になり、結果的に戦争の正義性を主張する一部の保守的政治家、右翼に利用されてしまう。
戦後の極東国際軍事法廷による戦犯裁判を通じて、日本軍の戦争期間に行った多くの残虐行為の実態が暴露された。一方、敗戦前後の混乱や軍および当事者自身が行った掩蔽工作により、残虐行為に関する確証となる資料が少なく、戦後の政府当局も教育担当部門もこうした戦争の暗い面を意図的に隠そうとしたので、一般の民衆は戦争犯罪の事実やその重大性について必ずしも十分に認識したとは言えなかった。加えて多くの専門家と学者も、学問の「厳正」と称して証拠の信憑性に拘り、わかりづらい具体数字の考証に没頭した結果、犯罪の性質に対する責任追究が疎かにされた。それだけではなく、被害国から指摘された多くの重大犯罪の事実(特に数字に関して)に対して、証拠が不十分として反発し、相手の国と応酬しているうちに対抗の感情が高ぶり、真実追究、実証研究と称したものも、終いには単なる国の利益、メンツを守る責任逃れの詭弁術に成り下がる。結局、この姿勢は戦争の正義性を主張し、戦争犯罪の重大性を否定しようとする一部の政治家、右翼に利用され、戦争犯罪の事実を矮小化するか、「まぼろし」、「狂言」として否定してしまう。
こうした加害責任に対して戦後の長い間、研究が進まず、検定教科書もあまり取りあげず、政府や政治家も努めてその事実の存在を隠そうとしたので、加害者と被害者の間に大きな溝をつくり、国民間の感情、国家間の関係を悪化させる要因にもなった。また時間が経つにつれて戦争体験の中から、この加害に関する部分がまっさきに風化し、知らぬ間に、侵略者、加害者だったはずの日本は、戦争の被害者としてイメージが作り替えられ、学校教育を通じて戦争を知らない若い世代に流布してゆく。今日の若者達は過去の加害責任に対して鈍感であるだけではなく、感情的に戦争責任、加害責任への指摘、追究に反発し[24]、あるいは、従軍慰安婦、南京大虐殺のような犯罪事実の存在自体を疑うも者もだんだん増えてきた。「俺たちは戦争も知らないし、犯罪もしてない、なぜ何時までも先人のために反省しなければならないか」というように。こうした若者には、日本人の「誇り」を呼び戻すためと称して戦争の正義性を主張する、いわゆる自由主義史観論者の主張、立場に共鳴する者が少なくない。
もう一つ指摘すべきことは、民衆自身の加害認識、戦争責任感の薄さである。戦後の極東軍事法廷の裁判(東京裁判)は、極一部の戦争謀議人(=いわゆるA級戦犯)の代表しか裁かない政治裁判の性質があり、各地で開かれたBC級戦犯法廷で裁かれたものも、併せて千人にすぎなかった[25]。あれだけの罪を犯した日本軍国主義者に対し、このような追究では極めて軽いと言わなければならないが、しかし、現在日本国内において裁判を「勝者の裁き」や「冤罪」などと称した反発論が多く聞こえるかわりに、その正当性を主張する世論がすくない[26]。
ナチス戦犯の責任を執拗に追究し続けるドイツと違って、日本では裁判後、軍国主義者、戦争犯罪人に対する責任追及は全くなく、今日むしろ功労者として扱われ、死んだものは「殉国の英霊」として祭り上げ、生き残ったものは政府から優越の軍人恩給が支払われる[27]。場合によっては、学校など教育現場で戦争の被害体験の語り部に乞われたものもいる。
一部良心からの譴責に堪えられずその後犯罪の事実を明かした者に対しても、周りから称賛されるのではなく、右翼から嫌がらせ、戦友・同僚から非難、社会全体から冷眼を受けて孤立し、中に名誉毀損の罪で訴えられるケースもある。
一九三七年の南京攻略戦およびその後の虐殺を体験した旧陸軍第六師団の一等兵東史郎もその受難者の一人である。事件後五〇年経った一九八七年、彼は軍隊手帳の内容を公開し[28]、南京大虐殺の事実を暴露して反省の意を示したが、この勇気ある行動が得られたのは右翼を初め各方面から浴びせられた非難の声であった。挙句に東は、かつての戦友、同僚から名誉毀損の罪名で訴えられ、一九九六年四月東京地裁で、同十二月東京高裁で誣告罪の判決を受け、五十万円の名誉毀損の賠償が確定される[29]。東事件の場合、確かに公表した記録、事実(証拠)が法廷の検証に耐えうるような完璧さに欠け、記録、記憶には曖昧の点があるが、私がここで問題視したいのは裁判の結果ではなく、この事件の全過程に現れる、犯罪の事実を暴く勇気に対する社会全体からの拒否反応である。今日における加害責任問題の核心は決して法廷が求めた記録、数字など具体的な証拠ではなく、犯罪の性質と事実に対する認識である。日本軍による南京大虐殺や七三一部隊の人体実験、バターン半島死の行進などの残酷な行為は紛れもない事実であり、死者の数の多寡に拘わらず、まず許すことのできない軍の犯罪、国家の犯罪であると認識しなければならない。今日、過去の戦争犯罪に関わる多くの裁判は、ほとんど国の犯罪を訴える原告の敗訴で終わっており、その判決も、司法の時効性、証拠重視の立場から考えると必ずしも落ち度があると言えない。しかし、それはあくまでも現在における個別の事例に対する法律判断の結果に過ぎず、過去の戦争責任の全般を抹消するものではない。良識ある日本人は、こうした今日の司法判断の問題点、あるいは数字などの確証を求めて戦争犯罪の重大性を軽くしようとする行為の危険性を認識すべきだろう。
そのほか提起すべき問題の一つは、帝国主義による植民地支配を文明化、近代化とリンクさせて、それの文化普及、後進地域開発の効果を強調する論の存在である。とくに歴代の政府閣僚による「問題発言」はこうした理論を根拠とするものが多い。この類の発言は戦前、政府の大陸侵略と植民地支配を正当化するプロパガンダとして使われてきたが、敗戦後の反省ムードの下で、一時政治の表から姿を消した。しかしその精神が継承され独立後、政府の隠れた本音として機能するようになった。戦後、最初に公にされ議論を呼んだのは、一九五三年十月におこなわれた、第三次日韓会談における日本側代表久保田貫一郎の発言である。いわば、日本は植民時代の朝鮮で鉄道、港湾を作り、米田をつくり、大蔵省から毎年二〇〇〇万円もの資金を持ち出していた。このような恩恵は韓国側が求めた賠償要求と相殺すべきだ、という論である[30]。その後、とくに高度成長における日本経済の成功を背景に、こうした暴言が相次いだ。一九六五年一月七日、第七回日韓会談の日本側首席代表に就任した高杉晋一の記者会見における植民地支配の恩恵発言[31]、一九九五年十一月八日村山富市内閣の総務省長官江藤隆美の「植民地時代には日本が韓国によいこともした」との発言[32]、二〇〇三年十月二八日東京都知事石原慎太郎の日韓併合が「人間的だった」との発言[33]もその氷山の一角である。また自由主義史観グループの歴史論[34]や「新しい教科書を作る会」が書いた歴史教科書にも、こうした見解が取り入れられている。
一方、学界においても、日本による戦前の植民地支配の実態を研究し、台湾と朝鮮支配を比べて台湾における植民地支配政策の成功を論じるものや、あるいは日本の満州における経済活動が中国東北部の開発と産業発展を促進し、その後の新中国の産業基地を形成した植民地経営の評価論も見られる[35]。
もし、単純に経済、経営学の視野から見れば、こうした侵略、植民地支配イコール開発、文明化の理屈は、それなりの根拠があり、すべて事実無根の強弁とはいえない。日本の満州支配時代に残された南満鉄道、本渓鉄鉱、撫順炭坑および昭和製鉄所などの産業は、戦後、中国政府に接収され新中国の重工業基地になったのは確かな事実であった。しかし、こうした経済効果の分析は侵略という政治的目的と一緒に総合的に行うべきものであり、かつ、学問的領域を越えて政治の場、教育の場で意図的に宣伝するべきものではない。このような心得がなければ、せっかくの学問も政治に利用され、植民地支配、帝国主義の侵略拡張政策のための弁護に使われる可能性があるからである。またたとえこのような経済効果の研究が行われるとしても、加害の歴史を持つ国の学者によって先に問題提起される場合、極めて慎重、周到な説明がないと、誤解を招く可能性が大きい。
一九七二年日中の国交が回復してから、多くの日本人が懐旧の思いで、かつて生まれ育った満州の大地を踏んだ。戦後三〇年近い平和の日々と豊かな物質生活は、戦争、植民地支配時代の民族的差別、戦争による殺戮、流血などの悲惨、残酷な記憶を薄め、いわゆる、「赤い夕日の満州」、「黒い土の大地」のようなノスタルジア、ロマンチシズムの心象風景を生成する。それを受けて近年、いわゆる「満州文化、文学」に対する再評価の気運も高まりつつある。こうした戦後の平和環境の下で育った懐旧意識と、「植民地」の時代[36]の生活、文化に対する再評価自身は、けっして罪のあるものではないが、無反省に、或は過大に強調してしまう場合、客観的に、侵略と植民地時代を美化する役割を果たし、同じく国民の戦争への責任感を鈍化する役割を果たすと指摘しなければならない。
太平洋戦争の敗北と六年間に渡るアメリカの占領は、日本人に恐米の意識を植え付けた。その上、占領下アメリカの進んだ経済文化と豊かな物質的生活の見聞も日本人の崇米意識を養わせた。一九四七年からの東西冷戦対立の中、占領下の日本は否応なく西側陣営に組み入れられ、アジアとの関係が疎遠となったが、再びアジアに姿を顕したのは、大国アメリカのパートナーとして、または高度成長後の経済大国として君臨であった。この近代における日本の二度目のアジア進出は、しかし、過去の戦争への不完全な賠償・反省・謝罪の下で行われたのである。おりから、日本をアジア近代化における成功の手本と位置づけさせた、親日派アメリカ駐日大使ライシャワーの近代化論[37]が流行し、このプラスの評価もいっそう戦後の日本人の自尊心をかきたてる結果となった。このような歴史条件の下で、日本人のアジア軽視の意識が増大した。「過去の戦争において、確かに我々はアメリカの物量に負けたが、しかし、アジアにおいて勝ったのではないか」との認識が現れる。
アジア軽視の意識は、まず占領下からの固有名詞に現れた。アジアを含む多く国々と戦われた太平洋戦争は「日米戦争」と呼ばわれ、一九五一年五〇余か国を相手に行われた講和交渉も、「日米講和」と呼称された。まるで太平洋戦争の中には、アジアの戦場と日本人以外のアジア人が存在しなかったかのようである。
また、この不敗の認識とともに、日本人のアジア侵略、アジアで行った暴行、犯罪に対する麻痺感覚や、戦争賠償、戦後補償に対する拒否反応も増大した。日本政府は戦後、五〇年代から六〇年代にかけて、韓国、インドネシア、ビルマ、南ベトナムなど一部の戦争被害国との間で賠償交渉を行ったが、この場合、日本の大国、強国としての経済的地位を利用して、金銭で戦争責任のもみ消しを計った。朝鮮において三六年間の植民地支配は「合法」とされ、戦争賠償の名義で支払われるはずの賠償金も、無償経済援助の名義にすり替えられた[38]。「侵略」は「進出」に置き換えられ、無条件降伏の「敗戦」も、いつの間にか「終戦」の用語に変貌した[39]。こうした政治的操作は、一見して日本の国際的イメージの向上、名誉の回復に有利のようであるが、実際上、日本人の過去への反省、戦争責任認識の感覚を麻痺させ、アジアの国々との過去を巡る歴史認識の溝をますます広げる結果になったのである。
以上を通じて分かるように、日本人の歴史認識の問題点、戦争責任認識の足りなさは、決して一部の政治家、右翼だけに限られるものではなく、幅広い政治的、社会的および思想的背景があった。もちろん、大多数の日本国民が主観的には平和を愛し、戦争に反対するに違いないが、これも必ずしも自国の戦争責任への認識や、加害責任への反省から生まれたものではなかったことを認識してもらいたい。自分たちの被害体験から生まれた平和意識はたとえ純真であっても、自己評価と自己満足にすぎず、アジアからの理解と諒解を得られるはずはない。当今日本人の歴史認識が問題化される中、こうした国民意識の深層に存在する盲点こそ、真っ先に提起すべきではなかろうか。
最後に、以上と関連して現在大多数の日本人の歴史認識を形成させた歴史教育の背景を見てみよう。
戦後日本の政治界と思想界において、民主化への反動、改憲、再軍備を唱える親米反共の保守勢力への対抗として、社会、共産党などの野党勢力、労働組合、日教組、進歩的知識人を中心に革新陣営を形成した。この勢力は反戦、反核、世界の平和を訴え、護憲の立場で政府の再軍備を牽制し、日米安保体制依存の政府外交路線を批判した。この勢力の存在は、日本政治の右傾化を防ぎ、戦後民主主義と平和憲法を守る上で重要な役割を果たしたと言える。
しかしこうした進歩勢力、平和勢力の中でも、過去への反省が十分とはいえない弱点があった。というのは、この勢力の中心をなした多くは、かつて国家主義、軍国主義によって弾圧されたり、戦場に駆り出されたりした戦争の被害者であり、その進歩、平和思想の原点はおおかた自らの被害体験に基づくものであった。忘れてはいけないのは、強迫されたにせよ、彼等の大多数は同時に軍国主義国家日本の一員として戦争に加わった加害者でもあり、他の国、他の民族に与えた加害責任をどれほど認識できたかに、大きな問題点がある[40]。
前も触れたように、戦後日本に進駐したGHQは、占領支配を円滑に進めるため、直接軍政の方法を採らず、間接占領の方法を採用し天皇制を温存させ支配の円滑化を図った。このため、天皇、重臣を始め、国民全体の戦争責任に対する追及がきわめて不徹底になり、陸軍軍人だけをつるし上げ、天皇、海軍、重臣等を戦争を抑止する平和勢力、抵抗勢力に仕立てあげた。この政治意図によってお膳立てした政治裁判(東京裁判)を通じて、多くの戦争指導者が責任追究から逃れただけではなく、占領軍が演出した善玉(天皇、重臣)対悪玉(陸軍)の政治劇[41]を観賞しているうちに、戦争に荷担した多くの国民も自分は軍国主義の被害者にすぎないという錯覚が生まれ、みずからの反省の機会を逃してしまった。結局多くの前線で残虐行為を行った軍人も、戦争に協力した民衆も反省せず、「軍部に騙された」、「東条のヤツに騙された」との免罪符をもらって被害者の立場に居直る。こうした国民全体に普遍的に存在した騙された意識、被害者意識は、向後、彼らの一部をして進歩的平和主義者に変身させたと同時に、日本帝国主義の対外侵略に対する責任認識の面、あるいは他国、他民族に対する加害責任の認識面に不感症、鈍感症の痼を残すことにもなった。彼らの多くは、日本国内の政治運動、あるいは未来志向の国際的平和運動の連帯に熱心であるが、日本の過去、自分の過去の誤りに対して無痛痒であった。
一例を挙げよう。一九六五年戦後処理を進める日本と韓国の間、政府間の日韓基本条約の調印をめぐる激しい折衝の中、日本国内の進歩勢力が韓国国内の反政府勢力と呼応・連携して、両国の国内で大規模な条約阻止国民運動を引き起こした。しかし、同じ条約調印の反対者たる両国の進歩勢力の中で、その目的と主張が微妙にずれていた。韓国国内の民衆が、主として日帝統治時代の植民地支配における責任の追及に注意力を集中し、交渉中における日本政府の強硬な政治姿勢――植民地支配を合法化し、日本の戦争賠償を否定する――を激しく糾弾し、また、政治的原則を堅持せず、日本の金だけ手に入れたい韓国政府の弱腰外交を批判した[42]。これとは違い、日本国内の進歩勢力は、過去の植民地支配に対する関心は薄く、条約反対の理由は、主として、調印による南北の朝鮮の分断化にあり、あるいは日本政府の安保体制の追随の姿勢、アメリカに従って北朝鮮を孤立させる意図に集中した[43]。
つまり、日本の革新陣営内部の多くの人々も、イデオロギーの立場から社会主義(北朝鮮)への連帯感を示し、韓国民衆が求めた、日帝による三六年間の植民地支配に対する謝罪、反省の要求を理解せず、無関心であった。戦争責任と歴史認識の点において、日本の革新勢力は無意識のうちに日本政府と同じ立場をとったのである。
最後に指摘したいのは、こうした構造なき歴史認識および肥大化した被害者意識を普及、定着させ、さらに後代にも影響を及ぼした根元は、戦後の政府文部省(現文部科学省)が遂行してきた教育方針の指導と教科書検定の制度にある。検定に合格した歴史教科書の多くは、歴史構造の分析、解釈の部分が弱く、近代に関しては歴史事実の叙述か、固有名詞、事件、事項の羅列が多かった。生徒たちも、過去を知る、反省するために歴史を勉強したのではなく、受験ため年表、事件、事項を暗記するにすぎなかった。また、教科書には日本がアジア侵略戦争において行った残虐行為に関する記述が控えめに押さえられ、南京大虐殺、「三光作戦」、従軍慰安婦などの記述を採用しないか目に触れにくい脚注扱いが多かった[44]。教科書では、確かに戦争の悲惨さを指摘し、今日の平和の尊さを訴えるが、その悲惨の内容を構成したのは、例外なく自国民衆の戦争における被害体験であった。アメリカ軍による無差別の絨毯爆撃、東京大空襲、沖縄戦、広島と長崎の原爆被害など。日本人が受けた被害惨状がリアルに伝えられる反面、アジアの国と民衆にもたらした被害には余り触れようとしない。このような広島・長崎発の平和教育は、結局、戦争を知らない若い世代に、先次の大戦において日本は可憐な被害者に過ぎないという誤った認識を与える。
このほか多くの課外の平和教育も同じような効果をもたらす。政府指導の下、学校側が課外教育、記念行事、修学旅行等を通じて自国の犠牲者に対する追悼、慰霊を続け、各種戦争の悲惨さを記録した音声、映像などのメディアも、臨場感をもって被害惨状を生徒の脳底に焼き付ける[45]。このような自国、自民族中心主義の平和教育は、無原則な、感情的な、戦い・戦争を憎悪する若者を量産するが、理知的に、構造的に戦争の歴史的原因を分析し、日本の加害責任と戦争犯罪を認識する後代を育てない。
「戦争、戦いそのものが罪悪である、侵略戦争にしても、反侵略の抗戦にしてもどちらも正義にする理由がない」。これは歴史教育者の私がほとんどすべての高校卒業生から聞いた異口同音の回答である。このように、侵略戦争による加害の責任は、歪んだ平和教育を通じて自民族の被害の惨状にすり替えられ、異常に肥大化した被害者意識は日本の大多数民衆の戦争責任感を麻痺させてしまう。
六〇年前の戦争は、たしかに日本を焦土化し、三一〇万軍民の尊い命を失わせた。しかし、日本帝国主義の侵略が周辺のアジア国々にもたらした物質的人的被害はこれよりはるかに大きい。八月十五日、日本人が各地で三一〇万の自国犠牲者に黙祷を捧げる時、もし二〇〇〇万というアジアの戦争犠牲者の数字を心に銘記しなければ、永遠に国際的理解を得られないだろう。(姜克實 岡山大学大学院社会文化研究科教員)
[1] 二〇〇四年十一月二七日、中山成彬文相が別府市で開かれたタウンミーティングの席上、歴史教科書について「極めて自虐的で、やっと最近、いわゆる従軍慰安婦とか強制連行とかいった言葉が減ってきたのは本当に良かった」。「日本の教科書は、政治家が悪いんだと思うが、極めて自虐的な『日本は悪いことばっかしてきた』というもので満ち満ちていた時があった。これは何とか直さないといかんということでやってきた」と発言し、中国、韓国側の反感を呼んだ(『朝日』二〇〇四年十一月二七日)。また、二〇〇五年四月「新しい教科書を作る会」『改訂版新しい歴史教科書』と『改訂版新しい公民教科書』が検定に合格し、八月、東京都杉並区教育委員会がその採用を決定した。
[2] たとえば、中国の反日デモが進行した二〇〇五年四月二二日、小泉首相の靖国参拝を支持するため結成された「みんなで靖国神社に参拝する国民の会」(二〇〇一年七月結成)が八〇人の超党派議員の集団参拝を組織し(『毎日新聞』四月二三日)、小泉首相が靖国神社を参拝した翌日の同十月一八日、さらに一〇一人の集団参拝を組織した。
[3] 靖国神社境内に併設された博物館。幕末維新期から「支那事変」(日中戦争)、「大東亜戦争」(太平洋戦争)に至るまでの戦没者関係の資料及び旧日本軍の兵器類が展示されている。同館の展示では、「大東亜戦争」を日本の生存自衛の戦争と位置付けている。
[4] 一九九〇年代東大教授時代の藤岡信勝が提唱した歴史検証法。今までの近代戦争への反省の歴史観を「自虐史観」とし、国民の誇りを呼び戻すため、新しい歴史教科書を作ることを呼びかけている。
[5] 清瀬一郎『秘録東京裁判』読売新聞社、一九六七年、九八~一〇五頁、参照.
[6] 赤沢史朗『東京裁判』岩波ブックレット、一九八九年、四八~四九頁。
[7] 木坂順一郎「保守政治家の一五年戦争観」『年報日本現代史』一九九五年、十一~二四頁、参照。
[8] 『大東亜戦争肯定論』番町書房、一九六四年初版。
[9] 司馬史観についての研究は、中村政則『近代史をどう見るか――司馬史観を問う』(岩波ブックレット、一九九七年)を参照。
[10] 文藝春秋社から刊行、全六巻、一九六九年初版。
[11] 「自由主義史観」グループの代表者藤岡信勝も自ら、自分の歴史観は司馬遼太郎の作品に刺激され形成したと認めている(『汚辱の近代史』徳間書店、一九九六年、五二頁)。
[12] 半藤一利『昭和史・一九二六~一九四五』平凡社、二〇〇四年、十~十一頁。
[13] 政治学者の内田健三は、政局変動の面を中心に四十年周期論を主張していた(内田健三『政治烈々・転形期をどう変えるか』NHK出版、一九九五年、二~六頁、参照)。
[14] 司馬遼太郎「雑貨屋の帝国主義」(『この国のかたち』Ⅰ、文藝春秋社、一九九〇年)二七頁。
[15] 『NHKスペシャル明治Ⅰ、変革を導いた人間力』日本放送出版協会、二〇〇五年、一八〇~一九〇頁。
[16] この表記方法の提唱意図について鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』(岩波書店、一九八二年、四頁)を参照。
[17] 井上清、鈴木正四著『日本近代史』合同出版、一九五七年、一二頁。
[18] 由井正臣「十五年戦争と現代」(『近代日本の軌跡・太平洋戦争』吉川弘文館、一九九五年)、五~六頁。
[19] 現在中国側の研究者はこの二事件が侵略の口実を作るための日本軍の謀略だとしているが、対して日本側は、この二つの偶発事件は満州事変を誘発した直接の原因と見ている。
[20] 代表的研究は秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、一九九六年)である。秦は第一声の銃を放したのは中国軍と見ている(第四章、参照)。
[21] 北清事変の後結ばれた北京議定書により、日本は公使館と居留民保護の目的で清国国内に軍隊を駐屯する権利が得られた(清国駐屯軍のち支那駐屯軍の由来)。その数は列国の協議により千五百名ほどと決められたが、実際常駐したのはずっと千人程であり、北京地区において公使館の守備隊四百人に過ぎなかった。しかし、事件前の一九三六年六月、政府の決定でその数が一気に三倍の五七七四名に増強され、しかも兵力の中心は、司令部を置く天津より北京に近い豊台鎮にまで拡大した(古屋哲夫『日中戦争』岩波書店、一九八五年、一五~一六頁参照)。
[22] すなわち、日本は太平洋戦争に突入する前、政府の外交発言および統制下のマスコミを動員してこのABCD包囲網論を喧伝し、開戦のための口実を作った。現在、この理論は一種の根拠に乏しい政治宣伝、口実にすぎないと、多くの研究者が指摘している(江口圭一『日本の侵略と日本人の戦争観』岩波ブックレット、一九九五年、二六頁、参照)。
[23] このような観点を代表する研究は日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編『太平洋戦争への道』(全七巻、朝日新聞社、一九六三年)、である。
[24]田口裕史『戦後世代の戦争責任』(樹花舎、一九九六年、二六~三五頁)を参照。なお、この種の認識を代表するものには、一九六一年生まれの保守派衆議院議員高市早苗が一九九五年三月一六日、衆議院外務委員会での発言がある。いわば、「「(大使は、こんな風に)日本国民全体の反省があると決めつけられておられるのですけれども、少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」(『衆議院外務委員会議録』第九号、平成七年三月十六日)。
[25] 林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、二〇〇五年、三頁。
[26] 毎日新聞社政治部編『新聞資料にみるBC級裁判・戦犯裁判一般』東出版、二〇〇〇年、参照。
[27] 日本政府は平成一七(二〇〇五)年度において、一一八万の旧軍人およびその遺族に対して総額九六八〇億円の恩給を支給していた。一人の平均支給額は六八〇〇〇円(二〇〇四年八月現在)で、国民年金の平均支給額より三割ほど高い(「戦前引きずる軍人恩給」『東京新聞』二〇〇五年八月二九日)。
[28] 東史郎著『東史郎日記・皇軍一兵士の「中国戦線」記』熊本出版文化会館、二〇〇一年。『わが南京プラトーン』青木書店、一九八七年、参照。
[29] 山内小夜子「東史郎の南京裁判」(『増刊・人権と教育』三二号、二〇〇〇年六月)、参照。
[30]『朝日新聞』一九五三年十月六日、参照。この暴言によって、第三次日韓会談が決裂した。
[31]いわば、「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ。いま韓国の山には木が一本もないというが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからで、もう二十年日本とつきあっていたら、こんなことにはならなかっただろう。……日本は朝鮮に工場や家屋、山林など、みなおいてきた。創氏改名もよかった。それは朝鮮人を同化し、日本人と同等に扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいったものではない」と(日本ジャーナリスト会議『ジャーナリスト』一九六五年一月二五日号、参照)。
[32] 記者クラブにおけるオフレコの発言である(『朝日新聞』一九九五年十一月九日)。
[33] 石原は都内の集会において、「私たちは決して武力で侵犯したんじゃない。日韓合併を百%正当化するつもりはないが、どちらかといえば彼ら(朝鮮人)の先祖の責任であって、植民地主義といっても、もっとも進んでいて人間的だった」と日本は過去の朝鮮植民地支配の時代の功績を肯定した(『朝日新聞』二〇〇三年十月二九日)。
[34] 西尾幹二『国民の歴史』扶桑社、一九九九年、七〇五~七〇九頁、参照。
[35] 松本俊郎『侵略と開発』御茶の水書房、一九九二年、四八~五〇頁、参照。
[36] 法律的、厳密な意味でいえば、満州国は植民地ではないが、現状として植民地と異ならない面が多い。
[37] 一九六〇年代頃流行った、アメリカ研究者によるもので、欧米と違うアジア後発国の中、日本をアジア的近代化を成功させた例と位置づける論である。
[38]柴垣和夫『講和から高度成長へ』小学館、一九八三年、一二二~一二四頁。
[39] 「敗戦」と「終戦」の語彙の含みについて、君島和彦「敗戦と終戦」(『歴史評論』、一九八五年五月号、六一~六五頁)参照。
[40] 吉田裕『現代歴史学と戦争責任』青木書店、一九九七年、一八三~一八八頁、参照。
[41] 吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波書店、一九九二年、二〇六頁、参照。
[42] 山田昭次「日韓条約の今日の問題点」『世界』岩波書店、一九九二年四月。中村政則『戦後史』岩波新書、二〇〇五年、一三〇頁。
[43] 松尾尊兊『国際国家への出発』集英社、一九九三年、二九二~二九四頁。
[44] 徳武敏夫『教科書の戦後史』新日本出版社、一九九五年、参照。
[45] 平和教育研究所「平和教育実態調査まとめ」『広島平和教育研究所年報』三二号、二〇〇四年、参照。