劇団ひびき「七人の部長」(16/3/12)の観劇メモ
1.なぜテレビで演劇を観てもおもしろくないのか。
小さな劇場だったからかもしれないが、演劇の醍醐味は、その世界にキャストと観客とがどっぷりと入り込む感じにあるのだとわかった。テレビで演劇を観ても、その世界に入り込めず、距離感をもったまま眺めてしまう。と、演劇特有の大げさ話し方や表情がリアリティに欠けると感じ、ますます感情移入できない。だからおもしろくないと思ってしまう。
映画などを観るとき、自分はどこか、少し距離を置いて、いろんなことを考えながら観てしまう。だから、演劇の「巻き込まれる」感じに、最初、すごく戸惑った。距離を置いて「観察」しようとしていると、どんどん「考えずにこの世界に入り込め」、という吸引力が迫ってくる。最初のうちは、それに抵抗しようとして、綱引きをしているような感覚だった。
たぶん、「観察者」という立場ではなく、「何も考えず、ただその世界に入り込んで楽しむ」というのが、演劇を観る姿勢なのだと思った。基本的に、演劇は「頭で考えるため」ではなく、「身体で感じるため」のもの。研究者/フィールドワーカーでありつづけたら、演劇は楽しめない。でも、観客にも考えたい人がいるだろうし、たぶん脚本家も少しは役者や観客に「考えてほしい」と思っているだろうところに、演劇の構造的矛盾がある(後述)。
2.「世界」のほつれ
舞台上の「世界」に観客が巻き込まれると、その演劇的な独特な話しぶりや「しぐさ」、テンポ、表情などに違和感を覚えなくなる。それは不思議。むしろあの押しつけがましい、ぐいぐいと主張してくる演劇的なコミュニケーションの作法が、冷静な観客を舞台上の異質な「世界」のなかに引き込むために必要なのかもしれない。
でも、そのキャストと観客が巻き込まれている「世界」が、ほつれる瞬間があった。台詞の言い間違いや言いよどみだ。観客がどっぷりと浸っていた「世界」の外側(役そのものではなくて、キャスト個人の生活とか、練習をして舞台に立って「演じている」こととか)がちらりと見えると、その完結した「世界」にすきま風が入る。
ドキュメンタリー映画では、「言い間違い」は起こりえない。劇映画やドラマでも、撮り直しできるので、「言い間違い」はない。この台詞という決められたプロットを「踏み外してしまう」こと自体が、演劇特有の現象かもしれない。でも、たぶんそれは舞台上の「世界」の一貫性を維持するためには、あってはならない。
もうひとつ、それに関連して、舞台上の台詞をあれだけすらすらと言えていたキャストが、開演前の注意事項や、終演後の挨拶で、たどたどしくしゃべっている感じが、印象的だった。あれは、むしろそうなってしまう、感じもする。舞台の「世界」は「まだ開いていない/もう閉じた」という印として。あそこを演劇的な技法ですらすらと台詞を間違わずに言ってしまうと、たぶん、逆に観客は少し戸惑う。「もう始まっているの?」「まだ終わっていないの?」といった感じで。
あの舞台上の「世界」は、つねに「一時的」であることが必要で、いつまでもその世界に入り込んだままでも、だめなんだと思う。舞台の幕が下りた後、役者がまた出てきて挨拶をするという演劇界の慣例(なぜそんなことするのか、じつは変かも)も、役者が役にとり憑かれた状態から降りて、「役」の人物ではなく、「役者」としての個人に戻ったことを、そして舞台上の架空の「世界」が閉じたことを、キャストと観客とで確認しあう儀式なのかもしれない。さあ、もうみんな「リアル」に戻っていいですよ、と(逆に、だからこそ、舞台上のコミュニケーションが「アンリアル」であることが必要なのかも)。
3.「七人の部長」について/教育としての演劇
「七人の部長」は、よくできた脚本だった。文化人類学の授業で、自分が学生たちに言っていることと、同じようなメッセージが込められた脚本だと思った。簡単に言えば、「あたりまえを疑え」というメッセージ。君たちが、ふつうだと思って過ごしている学校生活の日常が、いかに変な「ルール」や「手続き」にあふれているのか、立ち止まって問い直すべき事柄に満ちているのか、学生にあのストーリーを演じさせることで、考えさせようとしたことがよくわかる。
もう少し言えば、生徒会とか、部活とかの学校生活だけでなく、この社会のさまざまな「あたりまえ」の「仕組み/制度」をもう一度、根底から問い直させ、考えさせる。そこからしか、「あたりまえ」から距離を置いて「思考」することも、そうして自分の「考え」を自分で組み立てられる「大人」になることも、その結果として社会をよりよくしていくことも、できない。そんな教育者としての脚本家の思いが伝わってくる。
もう一つは、その制度のなかで自分たちが「そういうもの」として何気なく受け入れているそれぞれの価値(スポーツ部と文化部とか)について、じつは自分たち自身もよくわかっていないということ。なぜ走るのか、なぜ編み物を編むのか、アニメのどこが楽しいのか、演劇って何をやっているのか・・・。それをやっている本人たちがじつはよくわかっていない、考えていない。それが劇の中で明らかにされる。
そして、そのたくさんの「あたりまえ」への無理解が互いに共有もされず、理解しようともされないまま、みんなが分断されたままだったことにも、気づかせてくれる。あの作品のクライマックスは、その分断され、自分自身も、お互いにも、無理解だったそれぞれの価値観の壁の向こう側が少しだけ見えて、共有できる可能性/希望が示されるところにある。
といったような点を、越智さんやコーチの人は、どれくらい明示的に学生に伝えたのだろうか、という点が気になった。最初に言った、演劇の「考えさせない」圧力は、たぶん観客だけでなく、役者たちにも最初に降りかかっている。むしろ観客以上に強く。だって役者自身が「世界」に入り込めていなかったら、演劇が創り出すはずの「世界」が成立するはずないのだから。
演劇の練習のなかで、そういう「考えさせる」ことの入り込む余地は、かなり限定的なはず。伝えたい、考えさせたいメッセージがあるのに、それを明示しないし、考えさせようともしない。それが演劇の「構造的矛盾」。
そのことを「身体で感じろ」「身体から変えろ」というのが演劇的な「理解」なのだろうけど、そこが「頭/言葉」での理解を求める「学問」との違い。もちろん、学問だって無力で、たとえこうやって言葉で「説明」しても、じつはあまり学生には伝わっていないし、学生の「理解」には届いていない。人に何かを「わからせる」こと自体が、きわめて困難な(ほとんど不可能な)作業で、演劇のアプローチのほうが有効なテーマ/対象もあるかもしれない。
4.何が指導され、何を練習しているのか?
だからこそ、(高校演劇についての卒論でも描かれていた)「指導」の場面は、とても重要だし、気になる。文化人類学が学生に伝えたいことと、あの作品のメッセージに共通性があるとしても、それを学生に届けるためのアプローチは、まったく違う。
高校演劇のなかでも、一般の劇団でもいいけど、生徒or役者たちは、あの作品のメッセージをどう解釈して、どう受け止めているのか? それをよく頭で「理解」することが、あの作品を「よく演じる」ために必要なのか?
いや、「頭」だけで理解しようとしていると、むしろあの世界はうまく創り出せないのか・・・。
たとえば、最後のシーン。生徒会長が部屋を出て行くとき、後ろを振り向いて、会議室を見渡す。あのシーンは、とびきり難しい演技だと思うけど、脚本家や演出家は、あの場面に対して、どんな指導をするのか? (今回の舞台での生徒会長の表情からは、ほのかにみえたはずの「希望」の困難な前途を暗示させるような印象を受けた)
文章でも、映像でも、演劇でも、たぶん一番難しいのは、最後のシメ。その最後の「余韻」で、その作品全体のよしあしや、作品のメッセージの方向性が決まってしまう(「おもしろくない」と思ってしまう映画は、たいてい最後がだめだと感じる)。
自分にはまだよくわからないのは、そもそも、ああいった演技で「うまい」「へた」が何によって決まるのか、という点。役者のみなさんは、十分に「うまい」と思ったけど、もしプロの役者があの作品を演じたら、「よりよい」舞台になったのか。あるいは、上演の回によって、うまくいったり、うまくいかなかったりするのか(たんに台詞を間違わない、といったレベルではなく)。役者たちは、その「うまくいく」ために何の練習をするのか。
たぶんキャストと観客とが同じ「世界」にちゃんと最後まで入り込めていれば、その作品は成功だし、「うまくいった」ことになるのだろう。役者がプロであるとか、技術がどうとか、ではなく。でも、そのために必要な「練習」とは何なのか。必要な要素とは何なのか。そのあたりは、まだ演劇素人の自分にはよくわからない。同じ作品を違う役者が演じるのを観れば、少しはわかるのかもしれないけれど・・・。
そんなこんなで、いろいろ(演劇の掟には反するけど)考えさせられたし、楽しみました。