<学生>のみなさんへ  


 2.「知識」と「知恵」〜大学で何を学ぶのか?〜

小学校で6年、中学で3年、高校で3年。
12年も「学校」という場で学んできて、さらにまた4年もかけて大学で何を学ぶ必要があるのか?

大学の「先生」には、教員免許のような国家資格はない。
多くは大学で教職課程を履修したわけでも、教育実習をした経験もない。
そんな人間から、何を学ぶのか。

大学に入るために、教科書や参考書の内容を覚えたり、問題を解いたりして、受験勉強をしてきたと思う。
なんでこんなことをやっているのか、と疑問に思った人も多いだろう。
疑問に思ったところで仕方がないので、ひとまずそれはわきにおいて、きっと何かに役に立つはずだ、
と自分に言い聞かせて勉強してきたかもしれない。
自分もそうだった。

でも、その教科書に書かれてある「知識」は、最初から「そういうもの」として決まっていたわけではない。
多くの人が、いろんな「情報」をもとに、ひとつの「知識」として創り出してきたものだ。
その知識は、つねにまた他の誰かによって否定され、別の新たな知識と置き換えられる可能性がある。

固定したようにみえる知識も、じつはいろんな議論や論争のなかでつねに揺れ動いている。

大学の教壇に立つ人間は、その知識を創り出す現場にいる人間だと言える。

大学に入ると、よく「あたりまえを疑え」と言われると思う。
それは知識の創出に関わっている者は、それがつねに一時的で不完全なものであることを身にしみてわかっているからだ。

大学に「教科書」はない。
唯一の正しい答えが書かれてあるという意味での「教科書」はない。
授業で用いる本は、あくまでひとつの参照すべき「テキスト」に過ぎない。
この違いは大きい。

「テキスト」に書かれてあることは、そのまま覚える必要はない。
書かれていることに対して、自分はどういう意見をもつのか、他の本や資料から別のことが言えるのではないかと、
つねに批判的に検討するための材料なのだから。

大学教員が話すことも、そうだ。
もしその話に違和感を覚えるなら、違う意見を表明してもいい。
でも、その主張の根拠を説得的に示せないといけない。
自分なりに情報を集め、それをもとに自分の意見の正当性を言葉にする必要がある。
この「対話」は知識の創出に欠かせないプロセスだ。

そこで必要となる能力を「知恵」と呼んでおこう。
「知恵」は、「知識」のようにある定まった情報を「知っていること」ではない。
いくつかの情報から自分なりの「知識」や「考え」を導くことのできる力だ。

その力があれば、また別のあらたな情報に出会ったとき、自分で「知識」を改変していくことができる。
自分の人生を切り拓くことができる。

固定した「知識」をいくら知っていても、つねに新しい情報に遭遇する世の中を生き抜くことはできない。
一歩、先に進めば、そこにはあらたな地平があらわれる。
かつて使った知識はもう使えないかもしれないし、もっと古い知識のなかに状況を打開する鍵があるかもしれない。
いずれにしても、どの知識を使うべきなのか、それを選び、判断するための「知恵」が不可欠なのだ。

大学の学びは、生きる力をつけるためにある。
社会に出れば、それまで覚えてきた「知識」は役に立たないかもしれない。
でも、自分で知識を創り出す「知恵」さえあれば、怖いことはない。

ぼくらはみなまったく違う人生を歩む。
すべての人がいかなる場面でも利用できるような「知識」などない。
それぞれが自分の力で情報を収集し、判断していく「知恵」が必要になる。
大学での学びは、その大切な予行練習だと思う。

2011.6.14

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