<学生>のみなさんへ  


 3.「理解する」ということ

何かの意味がわかる、理解する、とはどういうことなのか?
結論から先に言えば、それはひとつのモノや現象の「位置づけ」を見定めること。

あるモノや現象に、最初から固有の意味や役割が決まっているわけではない。
同じモノであっても、時と場合によって、おかれた状況によって異なる意味をもつ。
それは、他のモノとの関係によって決まる。

たとえば(よく使われる例だが)、「唾液」は、それを口から吐きだせば「汚いもの」とされる。
いったん吐きだしたつばをもう一度呑み込むことには大きな抵抗を感じるだろう。

でも、それが口のなかにあるとき、「汚いもの」が自分の口のなかにあるとは誰も思っていないはずだ。
むしろ、唾液には雑菌の繁殖を抑えたり、虫歯を防ぐ効果があるとさえ言われる。
「唾液」の意味は、それがどこにおかれているのか、身体との位置関係によって決まっている。

言葉の「意味」の場合も同じだ。
たとえ同じフレーズであっても、文脈によって、状況によって、言葉の「意味」は変化する。

「とても優秀な学生さんたちですね・・・」。
他の先生から学生の印象を聞かれて答えた場合、この言葉は、文字どおりの意味になる(少しのお世辞も)。
でも、この同じ言葉を、授業中に騒がしいときに教員が学生に向かって言ったとしたら、
それは、「皮肉」として、まるで逆の意味になる(世間では「優秀だ」と言われているのにね・・・」)。
このとき、意味を理解するとは、言葉とその言葉が発せられた状況とを関係づけることになる。

ある物事と別の物事との位置づけや関係を明確にすること。
その関係づけ方には、ほとんど無数といってもよい選択肢がある。

唾液と身体という要素だけに注目すれば、唾液が口の中にあるか、外にあるか、という点が重要になる。
しかし、おいしそうな料理をまえに唾液がでると、そこでの意味は、身体・唾液・料理との関係に拡大する。
あるいは、以前その料理がとてもおいしかったときの記憶が関係しているのなら、身体・唾液・料理・記憶・・・となる。
状況に応じて、考慮すべき要素はいくらでも増えていく。

いま、ここで起きている事象は、直接その場で関わっている当事者や物事だけの問題なのか。
はたまた、その社会の構造に起因するのか。
グローバル化といった世界規模の動きのあらわれなのか。
いくらでも拡張しうる要素のなかで、ぼくらは「理解」に必要な要素の範囲を限定することで、ある「理解」を可能にしている。
もっといえば、要素を限定することで、とりあえず「理解したことに」している。

「理解する」には、つねに別の「理解」の可能性がつきまとう。
「理解した」と思って考えるのをやめてしまうと、その別の可能性に目をつぶることになる。

ややこしい言い方になるけども、「理解する」とは、「まだ理解しつくしていないこと」を知るということでもある。

2011.6.16

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