ページの先頭へ
あ行
愛別町(上川郡)
赤井川村(余市郡)
赤平市
旭川市
芦別市
足寄町(足寄郡)
厚岸町(厚岸郡)
厚沢部町(檜山郡)
厚真町(勇払郡)
網走市
安平町(勇払郡)
池田町(中川郡)
石狩市
今金町(瀬棚郡)
岩内町(岩内郡)
岩見沢市
歌志内市
浦臼町(樺戸郡)
浦河町(浦河郡)
浦幌町(十勝郡)
雨竜町(雨竜郡)
江差町(檜山郡)
枝幸町(枝幸郡)
恵庭市
江別市
えりも町(幌泉郡)
遠軽町(紋別郡)
遠別町(天塩郡)
雄武町(紋別郡)
大空町(網走郡)
奥尻町(奥尻郡)
置戸町(常呂郡)
興部町(紋別郡)
長万部町(山越郡)
小樽市
音威子府村(中川郡)
音更町(河東郡)
乙部町(爾志郡)
帯広市
小平町(留萌郡)
か行
上川町(上川郡)
上士幌町(河東郡)
上砂川町(空知郡)
上ノ国町(檜山郡)
上富良野町(空知郡)
神恵内村(古宇郡)
木古内町(上磯郡)
北広島市
北見市
喜茂別町(虻田郡)
京極町(虻田郡)
共和町(岩内郡)
清里町(斜里郡)
釧路市
釧路町(釧路郡)
倶知安町(虻田郡)
栗山町(夕張郡)
黒松内町(寿都郡)
訓子府町(常呂郡)
剣淵町(上川郡)
小清水町(斜里郡)
さ行
札幌市
様似町(様似郡)
更別村(河西郡)
猿払村(宗谷郡)
佐呂間町(常呂郡)
鹿追町(河東郡)
鹿部町(茅部郡)
標茶町(川上郡)
士別市
標津町(標津郡)
士幌町(河東郡)
島牧村(島牧郡)
清水町(上川郡)
占冠村(勇払郡)
下川町(上川郡)
積丹町(積丹郡)
斜里町(斜里郡)
初山別村(苫前郡)
白老町(白老郡)
白糠町(白糠郡)
知内町(上磯郡)
新篠津村(石狩郡)
新得町(上川郡)
新十津川町(樺戸郡)
新ひだか町(日高郡)
寿都町(寿都郡)
砂川市
せたな町(久遠郡)
壮瞥町(有珠郡)
た行
大樹町(広尾郡)
鷹栖町(上川郡)
滝川市
滝上町(紋別郡)
伊達市
秩父別町(雨竜郡)
千歳市
月形町(樺戸郡)
津別町(網走郡)
鶴居村(阿寒郡)
天塩町(天塩郡)
弟子屈町(川上郡)
当別町(石狩郡)
当麻町(上川郡)
洞爺湖町(虻田郡)
苫小牧市
苫前町(苫前郡)
泊村(古宇郡)
豊浦町(虻田郡)
豊頃町(中川郡)
豊富町(天塩郡)
な行
奈井江町(空知郡)
中川町(中川郡)
中札内村(河西郡)
中標津町(標津郡)
中頓別町(枝幸郡)
長沼町(夕張郡)
中富良野町(空知郡)
七飯町(亀田郡)
名寄市
南幌町(空知郡)
新冠町(新冠郡)
仁木町(余市郡)
西興部村(紋別郡)
ニセコ町(虻田郡)
沼田町(雨竜郡)
根室市
登別市
は行
函館市
羽幌町(苫前郡)
浜頓別町(枝幸郡)
浜中町(厚岸郡)
美瑛町(上川郡)
東神楽町(上川郡)
東川町(上川郡)
日高町(沙流郡)
比布町(上川郡)
美唄市
美深町(中川郡)
美幌町(網走郡)
平取町(沙流郡)
広尾町(広尾郡)
深川市
福島町(松前郡)
富良野市
古平町(古平郡)
別海町(野付郡)
北斗市
北竜町(雨竜郡)
幌加内町(雨竜郡)
幌延町(天塩郡)
本別町(中川郡)
ま行
幕別町(中川郡)
増毛町(増毛郡)
真狩村(虻田郡)
松前町(松前郡)
三笠市
南富良野町(空知郡)
むかわ町(勇払郡)
室蘭市
芽室町(河西郡)
妹背牛町(雨竜郡)
森町(茅部郡)
紋別市
や行
八雲町(二海郡)
夕張市
湧別町(紋別郡)
由仁町(夕張郡)
余市町(余市郡)
ら行・わ行
羅臼町(目梨郡)
蘭越町(磯谷郡)
陸別町(足寄郡)
利尻町(利尻郡)
利尻富士町(利尻郡)
留寿都村(虻田郡)
留萌市
礼文町(礼文郡)
稚内市
和寒町(上川郡)
北海道
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
札幌市
赤平市
神居古潭チャシ
・跡
かむいこたん
旭川市
(神居古潭)
チャシ(面崖式):空壕1条
壕径20m,同幅1-3m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)/現地解説板
半円状の壕が明確に確認できる
砦としてではなく、他の目的(鮭漁の際の見張り場という説も)で使われたとされる/石狩川に面して半円状の壕で仕切る(小規模だが形態が明確)/神居古潭竪穴住居遺跡の最奥部に位置する
1
B
立岩山チャシ
・跡
たていわやま
旭川市
(神居町忠和)
北海道東海大学
チャシ(面崖式):空壕1条
幅約2m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
半円状の壕が明確に確認できる/大学のキャンパス内
石狩川に向かって突きだした台地の先端部分/半円状の壕
2
B
芦別市
桂ヶ岡チャシ
(イシメシナイチャシ)・跡
かつらがおか
網走市
(6条東4丁目)
チャシ(面崖式):空壕2条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
半円状の内壕と直線状の外壕が明確に確認できる
保存状態は最良だが小型
1
B
オショップチャシ
・跡
網走市
(鱒浦)
チャシ(丘先式):空壕
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
壕がかろうじて識別できる
漁の際の見張り台?
3
C
川下チャシ
・跡
かわしも
石狩市
(浜益区川下)
チャシ(面崖式):土塁、空壕
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
藪で覆われ現況確認困難
3
C
岡島チャシ
・跡
おかしま
石狩市
(浜益区川下)
チャシ(面崖式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
岩塊という形態が視認できるだけ
4
C
コタンチャシ
・跡
石狩市
(厚田区古潭)
チャシ(丘頂式):4段
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
牧草地化→恐らくチャシの形態も損壊
5
C
ハママシケ陣屋
・跡
石狩市
<荘内藩>
陣屋:土塁、空壕
土塁高約2m
万延元(1860) or
文久元(1861)
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/現地解説板
陣屋前面の土塁が短く残るだけ/冠木門までしか草刈されていない、門の左手の土塁も放置
荘内藩は、幕府に西蝦夷地警備を命じられ、秋田藩領の増毛を除く浜益から天塩までを領地として与えられ、ハママシケに陣屋を作って総奉行を置いた/施工: 酒井左衛門尉忠篤/浜益川を天然の濠とした
4
B
千両堀
・跡
せんりょう
石狩市
黄金川→陣屋
用水路
長435m
万延元(1860) or
文久元(1861)
WEB/現地解説板
昭和53にC三面張り排水路化/一部旧状(?)が残る
ハママシケ陣屋開設に伴って築造/費用が金千両を要したことから「千両堀」と呼称
4
C
岩見沢市
歌志内市
島松チャシ
・跡
しままつ
恵庭市
(西島松)
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕が2条あるとされるが視認困難→丘の形でチャシと確認できる程度
大幅な地形改変
〔写真は改変前の全景〕
4
C
江別チャシ
・跡
えべつ
江別市
(元江別)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
市教委/WEB(城とチャシの部屋)
壕が識別できる
小規模
2
C
フゴッペチャシ
・跡
小
樽市
(蘭島)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕があるとされるが、遠望でそれらしきものが視認できるが接近困難
小規模
3
C
桜チャシ
・跡
さくら
小
樽市
(桜4丁目)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
半円状の壕があったとされるが、公園化され消失
小規模
4
C
帯広市
中の沢チャシ
・跡
なかのさわ
北広島市
(中の沢)
チャシ(丘先式):空壕1条
壕長20m,同幅4m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕がかろうじて識別できる
小規模
3
C
島松川左岸チャシ
・跡
しままつ
北広島市
(島松)
チャシ(面崖式):
空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
C字状の壕があるとされるが接近困難→「お供山型」の丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
北見市
モシリヤチャシ
・跡
釧路市
(城山町)
チャシ(丘頂式):土塁、空壕
170m×70m
宝暦年間(1751-64)
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
保存整備良好
宝暦年間(1751-64)に実在のトミカラアヤノの築造/本砦(北東側)3段、副砦(南西側)2段をもつ特異な構造
〔写真は本砦〕
1
A
鶴ヶ岱チャランケチャシ
・跡
つるがだい
釧路市
(春湖台)
チャシ(孤島式):土塁、空壕2条
30m×18m
18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
2条の壕が識別できる
チャランケは「話合いの場」の意味だが、日本人による後付けなので実際の目的は不明だが、祭場だったとの説もある
2
C
士別市
砂川市
滝川市
館山チャシ
・跡
たてやま
伊達市
(館山町)
チャシ(丘先式):空壕2条
壕(2条平行)長約100m,同幅4-6m
16-18世紀
市史跡
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の2条の壕が良好に確認できる
壕が2条平行している例は少ない
1
B
ポンチャシ
・跡
伊達市
(向有珠町)
B&G海洋センター・裏
チャシ(丘頂式):段
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
保存整備やや良好
2
C
アッテウシチャシ
・跡
千歳市
(蘭越)
チャシ(面崖式):空壕3条
16世紀-元文4(1739)以前
市教委
自衛隊の敷地内
半円状の三重の壕が特徴/元文4に噴火した樽前山の火山灰で覆われている
4
C
フレドイヒチャシ
・跡
千歳市
千歳神社
チャシ(丘先式):空壕
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
千歳神社を建立する際、壕1条を破壊、もう1条の残りも悪い
砦というより漁に係る見張り場だった可能性も指摘
4
C
長都チャシ
・跡
おさつ
千歳市
(長都)
チャシ(平地式)
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度/壕は消滅
4
C
勇払の方角石
ゆうふつ
苫小牧市
恵比寿神社
方角石
(円形手水鉢形)
文久4(1864)
市史跡
船・地図・日和山/現地解説板
臨海部→神社と共に移設/上部に水道の蛇口が設置されている
円型手水鉢の特殊な方角石/八方位の特殊型で類例がない→普通は十二支が刻字されているが、「東 巽 南 坤 西 乾 北 艮」と刻字されている
2
B
名寄市
チャルコロフイナ1・2号チャシ
・跡
根室市
(温根沼)
チャシ(面崖式):空壕(各1条)
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
コの字状の壕1条(1号・2号とも)が識別できる/2号チャシには後世の土塁が混在
根室半島チャシ跡群
〔写真は1号チャシの空壕〕
2
B
アツケシエト1・2号チャシ
・跡
根室市
(穂香)
チャシ(面崖式):空壕(3条と2条)
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
コの字状の壕3条(1号)、半円状の壕1条(2号)が識別できる
根室半島チャシ跡群
〔写真は1号チャシの空壕〕
2
B
ノッカマフ1・2号チャシ
・跡
根室市
(牧の内)
チャシ(面崖式):空壕(2条と1条)
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
半円状の壕1条(1号)、半円状の壕2条(2号)が識別できる
根室半島チャシ跡群
〔写真は2号チャシの空壕〕
2
B
ポンモイチャシ
・跡
根室市
(納沙布岬)
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
弧状の壕2条が識別できる
根室半島チャシ跡群
2
C
サツコタンチャシ
・跡
根室市
(豊里)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
L字状の壕1条が識別できる
根室半島チャシ跡群
2
C
ヲンネモトチャシ
・跡
根室市
(温根元)
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
方状、半円状の壕の一部が識別できる
根室半島チャシ跡群
2
C
ニランケウシ1-3号チャシ
・跡
根室市
(穂香)
チャシ(面崖式):空壕(各1条)
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
1・2号の壕は部分残存、3号の壕1条は識別できる/3号には後世の土塁が混在
根室半島チャシ跡群
〔写真は3号チャシの空壕〕
3
C
ウエンナイチャシ
・跡
根室市
(穂香)
チャシ(面崖式):空壕2条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
コの字状の壕1条がかろうじて識別できる
根室半島チャシ跡群
3
C
ヲーナイ1・2号チャシ
・跡
根室市
(穂香)
チャシ(面崖式):空壕2条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
接近困難
根室半島チャシ跡群
4
C
コタンケシ1・2号チャシ
・跡
根室市
(牧の内)
チャシ(丘先式):空壕(各1条)
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
接近困難
根室半島チャシ跡群
4
C
シエナハウシチャシ
・跡
根室市
(牧の内)
チャシ(面崖式):空壕
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
接近困難
根室半島チャシ跡群
4
C
コンブウシムイチャシ
・跡
根室市
(温根元)
チャシ(面崖式):空壕複数
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
民家の裏手
根室半島チャシ跡群/コの字状の堀が連結した複雑な構造
4
C
トウシヤム1・2号チャシ
・跡
根室市
(温根元)
チャシ(面崖式):空壕各2条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
接近困難
根室半島チャシ跡群
4
C
ヒリカヲタチャシ
・跡
根室市
(温根元)
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
接近困難
根室半島チャシ跡群
4
C
ニノウシチャシ
・跡
根室市
(落石)
チャシ(丘先式):空壕
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
接近困難
根室半島チャシ跡群
4
C
アフラモイチャシ
・跡
根室市
(落石)
チャシ(丘先式):空壕
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
接近困難
根室半島チャシ跡群
4
C
登別市
古武井溶鉱炉
・跡
こぶい
函館市
鋳造洋式高炉:石垣、水路(断続的)
安政4(1857)着工
道史跡
市教委
主要部分は喪失: 切り石で組まれた基壇、水車水路が残る程度
日本でも最初期に西洋式高炉を造ろうとした事例/箱館奉行の命で、蘭学者・武田斐三郎(後に、五稜郭を設計した人物)により計画・施工→
2272両をかけたが成功しなかった(砂鉄を原料にしたのが失敗の最大要因)→万延元(1860)に南部藩に依頼するが謝絶→文久3(1863)の暴風雨で大破・放棄
3
B
女那川煉瓦製造所
・跡
めながわ・れんが
函館市
煉瓦製造所
安政3(1856)
道史跡
WEB
凹地がわずかに残るだけ
煉瓦製造所跡/古武井溶鉱炉の建設のための耐火煉瓦を作るための施設
4
C
厳島神社の方角石
いつくしま
函館市
厳島神社
方角石(円柱)
高84㎝,径47㎝
天保14(1834)
船・地図・日和山
昭和32に移設/鳥居脇に立つ/文字は鮮明
2
C
函館実行寺の方角石
じつみょうじ
函館市
実行寺山門内
方角石(方柱形)
高69㎝,幅30.5㎝
天保14(1834)
船・地図・日和山
明治12、13頃に現在地に移設?/文字は鮮明
針形に特色
3
C
函館称名寺の方角石
しょうみょうじ
函館市
称名寺裏
方角石(円柱)
直径39㎝,高36㎝
江戸期?
船・地図・日和山
風化が進む/墓石群の中に埋没
4
C
大町第一物揚場
・跡
おおまち・ものあげば
函館市
函館港
物揚場
万延元(1860)
函館市港湾課
オリジナルの石を使い修景している部分と、一区画に全体的に残っている部分がある
函館開港150年の要となる優位津の港湾施設(旧居留地護岸)/石積み構造が老朽化していたため、景観条例を根拠とした補助事業により景観形成基準に基づき石積みの一部を残して前面を埋め立て
〔写真は、修景を受けなかったオリジナル部〕
1-3
A
五稜郭
・跡
ごりょうかく
函館市
<函館奉行>
台場:土塁(五角・星型)、濠(石垣)
各辺長約300m,土塁高7.5m
(247466㎡)
慶応2(1866)
国特別史跡
WEB/台場事典p47-48
保存修復事業により、石垣・濠が良好に残る/平成18五稜郭タワー完成(函館有数の観光地)
わが国で最も本格的なヴォーバン式星型稜堡式要塞=17世紀のオランダで一般的だった要塞の形態をそのまま取り入れた→1866年の段階ではアナクロニズム的存在/徳川幕府(徳川家定)の命により築造/設計: 蘭学者・武田斐三郎/石工:井上喜三郎(備前)/塁壁は、寒冷地のため凍結で水堀の土手が崩壊しないよう、堀の両面を石垣とした/明治維新の最後の戦いである箱館戦争の舞台としても著名
1
志苔館
・跡
しのりだて
函館市
城館跡
4100㎡
14世紀後半~末頃?
国史跡
WEB/現地解説板
昭和62に遺跡公園として整備
道南十二館の一つ/長禄元(1457)のコシャマインの戦いで陥落/その後再建→永正9(1512)のアイヌの攻撃で再び陥落
1
美唄市
神居岩チャシ
・跡
かむいいわ
深川市
(納内町)
チャシ(丘頂式):空壕2条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
富良野市
矢不来館
・跡
やふらい、
だて
北斗市
館:土塁、三重の空壕
康正3(1457)直後?
WEB
昭和54再発見→空壕が識別できる
築造者不明⇒東北地方で勢力争いに敗れ蝦夷地に逃れて来た下国安東氏の一族というのが最新の説(2011.5.28の北海道新聞)/茂別館跡に匹敵もしくはそれを凌ぐ広さ/3本の堀切は、道内の館で唯一
2
B
茂別館
・跡
もべつ、たて
北斗市
館:土塁、空壕
嘉吉3(1443)頃?
国史跡
WEB
山林の中に点在
〔写真は土塁〕
嘉吉3、下国の安東盛季が南部義政に敗れ、海路矢不来に上陸し築いたとされる/道南に点在していた和人の十二館の一つ→コシャマインの戦いで陥落しなかった2館の一つ
3
B
矢不来第一・第二台場
・跡
やふらい
北斗市
<南部藩→幕府>
台場(2ヶ所):砲座土塁、火薬庫土塁
寛政-文政年間
(1799-1821)
市史跡
WEB
山林の中に点在
函館湾防備の重要な位置にあり、寛政-文政年間は南部藩が守備/安政元(1854)に幕府直轄領後に再構築
〔写真は第二台場の空壕〕
3
B
矢不来台場散兵壕
・跡
やふらい
北斗市
<南部藩>
土塁
20m×10m,幅1m弱
寛政-文政年間
(1799-1821)
WEB
山中(1ヶ所のみ現存)
矢不来台場の約1㎞北西/かつては星形土塁もあったとされる
3
C
戸切地陣屋
・跡
へきりち
北斗市
<松前藩>
陣屋:星形土塁、星形空壕、火薬庫、馬隠
227m×206m
(43400㎡)
安政2(1855)
国史跡
市教委/WEB/現地解説板
松前藩戸切地陣屋跡として、門の復元を含め、最良の状態に整備
現存する道内最大の陣屋跡/わが国で最初のヴォーバン式星型稜堡式要塞=東側の稜堡部のみ(そこだけで6つの砲座が置かれている)/幕府に命じられて松前藩が築造/設計:武田斐三郎(他に、藤原主馬説、竹田作郎説も)
1
A
三笠市
モロラン陣屋
・跡
室蘭市
<南部藩>
出張陣屋:土塁、空壕
120m×80m
(17520㎡),
土塁高最大3m
安政3(1856)
国史跡
市教委/WEB(城とチャシの部屋)/現地解説板
保存整備良好(昭和43-48に土塁と壕の修復)
南部藩が、幕府から恵山岬から幌別間の沿岸警備を命じられ、函館に元陣屋を、室蘭・長万部・砂原に出張陣屋を置いた/勘定奉行: 新渡部十次郎/全体の規模は出張陣屋なので小さいが、土塁は高く一部二重になり非常に立派
1
A
ポロシレト台場
・跡
室蘭市
崎守神社<南部藩>
台場:土塁(矩形)、空壕
安政3(1856)
国史跡
市教委/WEB(城とチャシの部屋)
土塁と空壕が識別できる/日差し除けに当時植えられた杉林がそのまま残る
ポロシレト=大きな岬の意味/この台場と、崎守・絵鞆の台場の3方向から異国船(ロシア)を打ち払う布陣/設置された大砲は、1090mの目標飛距離に対し最大で109m(最低は2-3m)しか飛ばなかった
3
C
奥東チャシ
・跡
おくとう
紋別市
(渚滑町奥東)
チャシ(丘先式):空壕
16-18世紀
市教委
壕がかろうじて識別できる
渚滑川と小沢に挟まれた舌状台地
3
C
オムサロチャシ
・跡
紋別市
(渚滑町川向)
チャシ(丘先式):空壕
72m×16m
16-18世紀
市教委
壕北部が破壊/丘の形でチャシと確認できる程度
コタン川に流れ込む2本の小沢間の舌状台地/二重の壕(幅4.5mと3.0m)
4
C
滝の上チャシ
・跡
たきのうえ
夕張市
滝の上公園の最奥部
チャシ(丘先式):空壕1条
100m×50m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕がかろうじて識別できる
3
C
佐賀家漁場の船着場
・跡
さが
留萌市
船着場
弘化元(1844)以降
国史跡
市教委/WEB
木杭で囲まれた部分がかつての船着場とされているが年代は不詳
弘化元に佐賀家八代・平之丞が留萌で初めて礼受にニシン漁場を開いた→以来佐賀家の中核的漁場となってきた
4
B
チャシウンナイチャシ
・跡
留萌市
(礼受町)
チャシ:空壕
16-18世紀
市教委
昭和58発見/丘の形でチャシと確認できる程度
比標高約50mの舌状の台地上
4
C
ピリカタイチャシ
・跡
稚内市
(清浜)
チャシ
16-18世紀
市史跡
WEB
丘の形でチャシと確認できる程度
ピルカ=美しい、タイ=森の意味
4
C
(阿寒)鶴居村
(足寄)足寄町
ユクエピラチャシ
・跡
(足寄)陸別町
(トマム)
チャシ(面崖式):土塁、空壕3条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
弧状の3条の壕が明瞭に残る
内陸部にあるチャシとしては最大級
1
A
トラリ第2チャシ
・跡
(足寄)陸別町
(上利別原野)
チャシ(面崖式):空壕2条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
弧状の2条の壕が識別できる
2
B
トラリ第3チャシ
・跡
(足寄)陸別町
(上利別原野)
チャシ(面崖式):空壕3条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
弧状の3条の壕が識別できる
2
B
ウェンシリチャシ
・跡
(足寄)陸別町
(上利別)
チャシ(面崖式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
壕らしきものが識別できるが、不明確
4
C
筑紫恋第1チャシ
・跡
ちくしこい
(厚岸)厚岸町
(筑紫恋)
チャシ(丘頂式):空壕(周壕)1条
40m×25m
17-18世紀頃
町史跡
町教委/WEB(城とチャシの部屋)
お供山型のチャシの周壕が識別できる
お供山チャシ
2
B
鹿落しのチャシ
・跡
しかおとし
(厚岸)厚岸町
(御供町)
チャシ(面崖式):空壕1条
17-18世紀頃
町史跡
町教委/WEB(城とチャシの部屋)
公園化→コの字状の壕はかろうじて識別できる程度
お供山チャシ/コの字状に壕が掘られ、狩りの時に崖に鹿を追い落としていたとの伝承がある
3
C
奔渡裏山チャシ
・跡
ぽんと、
うらやま
(厚岸)厚岸町
(御供町)
チャシ(先丘式):空壕1条
17-18世紀頃
町史跡
町教委/WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕がかろうじて識別できる
お供山チャシ
3
C
逆水松チャシ
・跡
さかさおんこ
(厚岸)厚岸町
(御供町)
チャシ(面崖式):空壕2条
17-18世紀頃
町史跡
町教委/WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕1条がかろうじて識別できる
お供山チャシ
3
C
松葉町裏山チャシ
・跡
まつば、
うらやま
(厚岸)厚岸町
(御供町)
チャシ(丘頂式・先丘式):空壕1条
17-18世紀頃
町史跡
町教委
立ち入り不可
お供山チャシ
4
C
神岩第1チャシ
・跡
かむいわ
(厚岸)厚岸町
(神岩)
チャシ(先丘式)
16-18世紀
道史跡
町教委
丘の形でチャシと確認できる程度
神岩チャシ群→竪穴住居跡に重きを置いた指定
4
C
リーチャシ
・跡
かむいわ
(厚岸)厚岸町
(神岩)
チャシ(面崖式・先丘式)
16-18世紀
道史跡
町教委
丘の形でチャシと確認できる程度
神岩チャシ群→竪穴住居跡に重きを置いた指定
4
C
チャカムカムイチャシ
・跡
かむいわ
(厚岸)厚岸町
(神岩)
チャシ(丘頂式・先丘式)
16-18世紀
道史跡
町教委
丘の形でチャシと確認できる程度
神岩チャシ群→竪穴住居跡に重きを置いた指定
4
C
浜中の方角石
(厚岸)浜中町
金比羅神社
方角石(円刑手水鉢形)
江戸期?
船・地図・日和山
移設
2
C
(網走)大空町
(網走)津別町
(網走)美幌町
(虻田)喜茂別町
(虻田)京極町
(虻田)倶知安町
(虻田)洞爺湖町
カムイチャシ
・跡
(虻田)豊浦町
カムイチャシ史跡公園
チャシ(丘先式):空壕1条
壕長約15m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
公園整備/直線状の壕が識別できる
〔写真の橋は、壕に架かる〕
2
C
(虻田)ニセコ町
(虻田)真狩村
(虻田)留寿都村
(石狩)新篠津村
(石狩)当別町
(磯谷)蘭越町
(岩内)岩内町
(岩内)共和町
(有珠)壮瞥町
(浦河)浦河町
(雨竜)雨竜町
(雨竜)秩父別町
(雨竜)沼田町
(雨竜)北竜町
(雨竜)幌加内町
(雨竜)妹背牛町
幌別川川尻チャシ
・跡
ほろべつ・かわじり
(枝幸)枝幸町
(岡島)
チャシ(2ヶ所):空壕(北)
15-16世紀
町史跡
町教委
丘の形でチャシと確認できる程度
河口付近の湿原にある大小2ヶ所のチャシ/明の洪武通宝が出土→年代特定
(枝幸)中頓別町
(枝幸)浜頓別町
(奥尻)奥尻町
(河西)更別村
(河西)中札内町
国見山チャシ
・跡
くにみ
(河西)芽室町
(国見)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
公園化/弧状の壕が識別できる
2
C
(河東)音更町
(河東)上士幌町
(河東)鹿追町
(河東)士幌町
鶴沼チャシ
・跡
つるぬま
(樺戸)浦臼町
(黄臼内)
チャシ(丘先式):空壕1条
壕長40m,同幅6m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕が識別できる
浦臼町の4つのチャシの中では最大
2
B
晩生内1号チャシ
・跡
おそきない
(樺戸)浦臼町
(晩生内)
チャシ(丘先式):空壕2条
壕長5mと13m,同幅3mと5m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
直線状の壕を2条とも識別できる
二重の空壕が残る
2
C
晩生内2号チャシ
・跡
おそきない
(樺戸)浦臼町
(晩生内)
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
直線状の壕を2条とも識別できる
浦臼町の4つのチャシの中で最小
2
C
札的チャシ
・跡
さつてき
(樺戸)浦臼町
(札的)
チャシ(丘先式):空壕2条
壕長10数m
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕1条が識別できる
2
C
(樺戸)新十津川町
(樺戸)月形町
中野館
・跡
なかのたて
(上磯)木古内町
(中野)
館:堀切(?)
宝徳2-長禄元(1450-57)
WEB(城とチャシの部屋)
堀切らしきものが識別できる
道南十二館の一つ/佐藤季則が築造?/長禄元(1457)のコシャマインの戦いで陥落/中野館跡の想定地
3
C
建有川寨門
・跡
たてありがわ・さいもん
(上磯)知内町
<松前藩>
番所
安政3(1856)
WEB
冠木門のみ復元
通行人の手形や荷物の検査した場所
4
C
(上川)愛別町
(上川)上川町
(上川)剣淵町
(上川)清水町
(上川)下川町
(上川)新得町
(上川)鷹栖町
(上川)当麻町
(上川)東神楽町
(上川)東川町
(上川)美瑛町
(上川)比布町
(上川)和寒町
七飯の赤松街道
ななえ
(亀田)七飯町
国道5号<札幌本道>
並木(赤松)
安政5(1858)
→明治9(1872)
選奨土木遺産/日本の道百選
WEB
函館市桔梗町~七飯町字峠下までの14.3㎞の中で最も美しい区間
赤松街道そのものは明治9の天皇行幸に伴い札幌本道沿いに赤松が植えられて成立したものだが、それに使われた松は、箱館奉行組頭・栗本瀬兵衛が安政5に佐渡から赤松の種子を取り寄せて育てたもの
3
A
(茅部)鹿部町
茅部の鯡供養塔
かやべ、
にしん
(茅部)森町
蛯谷漁港
石碑(上部が膨らんだ円筒形)
宝暦7(1757)
道有形
WEB(動物のお墓)/町教委
移設/屋外設置のガラス・ケース内
(正面最下部)「鯡供/養塔」/正面を火灯窓型に浅く削り込み「(梵字)南無阿弥陀佛」と陰刻/茅部の沿岸一帯はニシンの豊漁地として有名で、地元漁民の外に、箱館・亀田・上磯等から多数の入稼出漁者が来て盛況を呈していた/宝暦7の春ニシンは大豊漁で浜辺にニシンの山をできた→当時は乾製食料以外、搾粕の行われない時代であった→大漁にあたり漁業者合議の上土中に埋めて鰊の供養塔を建て慰霊法要をした/江戸期のニシン漁を物語る貴重な遺産
2
B
砂原陣屋
・跡
すなはら
(茅部)森町
<南部藩>
出張陣屋:土塁
67m×59m,土塁高約2m
安政4(1857)
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
市街地の中心に位置
南部藩が、幕府から恵山岬から幌別間の沿岸警備を命じられ、函館に元陣屋を、長万部・室蘭・砂原に出張陣屋を置いた→明治元に撤兵・廃止
2
B
会所町台場
・跡
かいしょまち
(茅部)森町
稲荷神社
台場:土塁?
江戸末期
WEB
神社隣の丘
4
C
松屋崎台場
・跡
まつやさき
(茅部)森町
台場:土塁
土塁高1m
江戸末期
WEB
接近困難
4
C
(川上)標茶町
(川上)弟子屈町
(釧路)釧路町
(久遠)せたな町
様似山道
さまに
(様似)様似町
様似~ホロイヅミ間
人道
長6995m
寛政11(1799)
市史跡
町教委/WEB
明治24廃道→小規模な修復→様似山道フットパスコース
寛政11に幕府が資金を出し、最上徳内・中村小一郎らの指揮により切り開かれた最初の山道(猿留山道と同時)/蝦夷地第一の難所(日高山脈が太平洋に直接落ち込む部分)/寛政11年は、幕府が東蝦夷を直轄地した年→警備・産業上から道路を開削
2
B
アッペツチャシ
・跡
(沙流)日高町
(正和)
チャシ(丘頂式):空壕3条
寛文9(1669)
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
壕らしきものがかろうじて識別できる
メナシウンクルと対立抗争したハエの首長オニビシの姉が築造したとされる(寛文9年4月のオニビシ殺害後の築造で、同年6月のシャクシャインによる松前藩に対する一斉蜂起の前なので、年代が特定できる)/メナシウンクル側のシベチャリチャシ(下記、新ひだか町参照)に匹敵する規模
3
A
ピスンチャシ
・跡
(沙流)日高町
(富川西)
チャシ(丘先式):空壕
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
ポンカンカンチャシ
・跡
(沙流)平取町
(二風谷)
チャシ(丘先式):空壕4条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
直線状の壕4条を確認できる/アクセスが困難
先丘の基部に1条、先端部に3条の壕の配置は珍しく、かつ、川に面して長く延びる構造は典型的
2
B
ニオイチャシ
・跡
(沙流)平取町
(貫気別)
チャシ(丘頂式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
直線状の壕を明瞭に確認できる/アクセスが困難
シャチ南東部に弧状の壕/川に面して孤丘状にそびえる構造は典型的
2
C
モアシパケチャシ
・跡
(沙流)平取町
(荷負)
チャシ(丘頂式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕をかろうじて識別できる
先丘の基部に1条の壕
3
C
シウンコツチャシ
・跡
(沙流)平取町
(去場)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕をかろうじて識別できる
3
C
エサンピラチャシ
・跡
(沙流)平取町
(荷負)
チャシ(丘頂式):空壕?
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
鮭漁と関係?
4
C
シラッチセチャシ
・跡
(沙流)平取町
(二風谷)
チャシ(丘先式):空壕2条?
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
スケレペチャシ
・跡
(沙流)平取町
(荷負)
チャシ(丘先式):空壕2条?
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
ユオイチャシ
・跡
(沙流)平取町
二風谷ダム左岸
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
沙流川歴史館/WEB(城とチャシの部屋)
ダム建設に伴い公園化→壕はアスファルト改修/先丘部も復元というよりは再現に近い
5
C
タブ山チャシ
・跡
(標津)標津町
(茶志骨)
チャシ(面崖式):空壕複数
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
多くの壕を識別できる
道東のチャシの中で最大級/コの字型の壕が4-5条並び、二重の壕になっている所も
2
B
ホニコイチャシ
・跡
(標津)標津町
(標津)
チャシ(面崖式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
コの字状の壕を識別できる
2
C
古道チャシ
・跡
ふるどう
(標津)標津町
(標津)
チャシ(面崖式):空壕1条
16-18世紀
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
コの字状の壕をかろうじて識別できる
国指定史跡・古道遺跡内にあるが、チャシとしての価値は低い
3
C
(標津)中標津町
(島牧)島牧村
(積丹)積丹町
(斜里)清里町
(斜里)小清水町
(斜里)斜里町
カムイエカシチャシ
・跡
(白老)白老町
(虎杖浜)
チャシ(丘先式):土塁、空壕1条
壕長100m,同幅最大5m
寛文3(1663)以前
WEB(城とチャシの部屋)
頂部に灯台ができて一部破壊
壕に堆積していた火山灰の年代から、寛文3の有珠山噴火の少し前と推定されている→年代が考古学的に特定できる稀なチャシ/漁や航海の安全を見守るための見張り台の可能性
3
C
カムイミンタルチャシ
・跡
(白老)白老町
(虎杖浜)
チャシ(面崖式):空壕?
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
白老チャシ
・跡
しらおい
(白老)白老町
(白老)
チャシ(丘頂式)
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
白老陣屋
・跡
しらおい
(白老)白老町
<仙台藩>
陣屋:曲輪、
壕
、土塁、井戸
66000㎡、外曲輪の門から内曲輪の門までの距離約210m、内曲輪は長径125m,短径100m、土塁高最大約3m
安政3(1856)
国史跡
町教委/WEB(城とチャシの部屋)/WEB/現地解説板
史跡公園として保存整備→昭和59に仙台藩白老元陣屋資料館/井戸は表面だけ再現
仙台藩は、幕府に白老から知床岬までと国後・択捉両島を持ち場に警備を命じられ、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・国後の泊・択捉の振別に出張陣屋を置いた(幕府からは勇払に元陣屋を置くよう指示されたが、出入司・三好監物の現地調査で白老に変更)/施主: 伊達慶邦/広大な敷地に外、内の二重の曲輪を配置した堅固な構造/外曲輪入口は弧状の枡形、馬出し付き/外曲輪~内曲輪の間は東を土塁、西を川で仕切る
1
サシウシチャシ
・跡
(白糠)白糠町
(刺牛)
チャシ(面崖式):空壕3条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
接近困難
3つの郭からなる珍しい構成のチャシ
3
B
(寿都)黒松内町
「南美谷」前の船揚場
・跡
みなみびや
(寿都)寿都町
船揚場
江戸期?
(石の積み方から)
現地
放置
北海道のにしん漁の関連施設
3
C
「鰊御殿」前の船揚場
・跡
にしんごてん
(寿都)寿都町
船揚場
江戸期?
(石の積み方から)
町教委
全体の雰囲気がよく残っている
北海道のにしん漁の関連施設
2
B
(瀬棚)今金町
(宗谷)猿払村
(空知)上砂川町
(空知)上富良野町
(空知)奈井江町
(空知)中富良野町
(空知)南幌町
(空知)南富良野町
(天塩)遠別町
(天塩)
天塩町
(天塩)豊富町
(天塩)幌延町
オタフンベチャシ
・跡
(十勝)浦幌町
(直別)
チャシ(丘頂式):空壕(周壕)1条,縦溝1条
21m×7m
16-18世紀
国史跡
WEB/WEB(城とチャシの部屋)
空壕、縦溝ともに識別できる
〔写真は縦溝〕
オタ=砂、フンベ=クジラの意味(白糠アイヌの難攻不落のチャシだったが、籠城した白糠アイヌの食料が尽きたことを知った厚岸アイヌが、海岸におとりの鯨を作って白糠アイヌをおびき出し勝利した、という伝承がある)/上部に周壕があり、壕から麓に向けて縦溝がある特異な構成
2
A
(常呂)置戸町
(常呂)訓子府町
(常呂)佐呂間町
(苫前)初山別村
(苫前)苫前町
(苫前)羽幌町
(中川)池田町
(中川)音威子府村
礼文内第2チャシ
・跡
れぶんない
(中川)豊頃町
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕、コの字状の壕ともにかろうじて識別できる/有刺鉄線
3
C
(中川)中川町
(中川)美深町
シンコチャシ
・跡
(中川)本別町
チャシ公園(西美里町)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕が良好に残る
1
C
八幡チャシ
・跡
やはた
(中川)本別町
(八幡神社)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕が良好に残る
1
C
(中川)幕別町
(新冠)新冠町
(爾志)乙部町
野付半島通行屋
・跡
のつけ
(野付)別海町
(野付)
通行屋:土塁
寛政11(1799)
町教委
空壕が識別できる→海水に浸食の恐れ
寛政11年は、幕府が東蝦夷を直轄地した年/絵図面との対比が可能
4
C
ショップチャシ
・跡
(日高)新ひだか町
(三石旭町)
チャシ(丘先式):空壕1条
壕長22m,同幅2m
15-17世紀
WEB(城とチャシの部屋)
直線状の壕がかろうじて識別できる
シャクシャイン以前のチャシ
3
B
メナチャシ
・跡
(日高)新ひだか町
(静内目名)
チャシ(丘先式):空壕3条
壕長約40m,同幅最大4m
寛文9(1669)以前
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
保存整備良好/入口のCレリーフと橋は邪魔(橋は壕を破損)
シベチャリ川流域チャシ跡群/このシャチで、ハエの首長オニビシが殺害されたと伝えられる(→それ以前の築造)/直線状の長い壕と、入口部の短い壕が連続し「ヲ」の字状になっている
2
A
シベチャリチャシ
・跡
(日高)新ひだか町
(静内真歌)
チャシ(丘先式):空壕3条
寛文9(1669)以前
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
公園化(昭和30年代にブルドーザーも入れて整備、壕3条→1条、岩肌も改修)/展望台やシャクシャイン像に重点を置いた古い整備方針
シベチャリ川流域チャシ跡群/メナシウンクルの首長カモクタイン(上記、日高町の「アッペツチャシ」を築いたハエと、漁労権を巡り抗争)による築造(メナシウンクル側の主城)/寛文9に一斉蜂起したシャクシャインの一世代前の首長の築造なので、時期は寛文9より少し前だと思われる
4
A
オチリシチャシ
・跡
(日高)新ひだか町
(静内農屋)
チャシ(丘先式):空壕2条
寛文9(1669)以前
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
共同墓地となり、空壕の一部がかろうじて残る
シベチャリ川流域チャシ跡群/ハエの首長オニビシの築造
5
C
ホイナシリ
(入舟の)
チャシ
・跡
(日高)新ひだか町
(静内入舟)
チャシ(丘先式):空壕3条
寛文9(1669)頃?
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/現地解説板
昭和34以降発掘/保存整備良好
シベチャリ川流域チャシ跡群/メナシウンクルのシャクシャインの築造(副首長時か首長時か不明)?/先丘の基部に2条の壕、先端部に1条の壕が明瞭に残り、海との関連もよく分かる
1
B
ルイオピラチャシ
・跡
(日高)新ひだか町
(静内豊畑)
チャシ(丘先式):空壕
寛文9(1669)頃?
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
シベチャリ川流域チャシ跡群
4
C
鳧舞チャシ
・跡
けりまい
(日高)新ひだか町
(三石鳧舞)
チャシ(丘先式):空壕3条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
鳧舞望洋チャシ
・跡
けりまいぼうよう
(日高)新ひだか町
(三石鳧舞)
チャシ(丘先式):空壕
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
丘の形でチャシと確認できる程度
4
C
(檜山)厚沢部町
鴎島の係船柱
・跡
かもめじま
(檜山)江差町
(鴎島)
鴎島周辺
繋船柱の穴
25ヶ所以上
江戸期
町史跡
町教委/WEB
崖沿いに付けられた遊歩道から繋船柱や穴がよく見える
江差の百選/江差商人の手よって設置/江差側よりも波の静かな鴎島の崖沿いの岩
〔写真参照〕
に穴を開け木杭を立て、北前船を係留した
2
B
江差の方角石
えさし
(檜山)江差町
(鴎島)
歐島厳島神社
方角石
(手水鉢兼用)
高74㎝,幅144㎝,奥行62.5㎝
安政6(1859)
船・地・日和山
最良/文字は鮮明
針形に特色/神社内にあるため、手水用の水盤と一体化した珍しい構造
2
B
井越堀
いごし
(檜山)江差町
用水路
元治元(1864)
町史跡
WEB
一部を残しC化
松前藩の招きで越後国から入植した井越勝右衛門の築造(水田開発のため)
4
C
折居さんの井戸
おりい
(檜山)江差町
姥神町旧社地
井戸
江戸期
WEB
折居様とは江差の人々にニシン漁を伝えたとされる神
3
C
鴎島砲台
(弁天島南台場)
かもめ
(べんてん)
(檜山)江差町
(鴎島)
<幕府>
台場(くの字形)
嘉永5(1852)
町史跡
台場事典p63
整備されている
松前藩が幕府の命を受け設置した砲台跡/外国船に対する沿岸警備/きわめて小規模
2
C
正覚院の寛保津波碑
しょうがくいん
(檜山)江差町
正覚院
津波記念碑
(大島噴火)
寛保元(1741)
道有形
WEB
移設ではないが、現在は江差小学校敷地
寛保元年7月19日の大島噴火に伴う大津波の犠牲者(溺死者1236名)の供養塔/(正面)「淪没弧魂両縁塔」、(側面)「江指庄今秋七月仲旬
□
鳥破暁大虚雲晴星斗明滄海風扠水面平忽鳴動震地怪光飛天時
□□□
堆嶮浪如 瀝轟其勢揚海底劫石砕陸地崎厳如斯数回」
1
B
法華寺の寛保津波碑
ほっけじ
(檜山)江差町
法華寺<碇町岬>
津波記念碑
(大島噴火)
寛保元(1741)
道有形
WEB
昭和10移設/碑面剥落のため判読不能
寛保元年7月19日の大島噴火に伴う大津波の犠牲者(溺死者1236名)の供養塔/(正面)「淪没弧魂両縁塔」、」(側面)「
□□□
□□□
□□□
」
1
B
花沢館
・跡
はなざわ、
だて
(檜山)上ノ国町
(勝山)
館:土塁、空壕
嘉吉3(1443)頃?
国史跡
WEB
山中だが、土塁や壕は確認できる
上の国守護・蛎崎が築造/道南に点在していた和人の十二館の一つ→コシャマインの戦いで陥落しなかった2館の一つ→その後、下記の勝山館が築かれ廃止
2
A
勝山館
・跡
かつやま、
たて
(檜山)上ノ国町
(勝山)
館:土塁、空壕、水場
15世紀後半
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
保存整備良好
〔写真は、大手口の二重堀切り〕
松前氏の祖・武田信広が築造→16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・北方交易の一大拠点
1
A
(広尾)大樹町
トカチ陣屋
・跡
(広尾)広尾町
<仙台藩>
出張陣屋:土塁
安政3(1856)
町史跡
WEB(城とチャシの部屋)
広尾小学校敷地内
仙台藩は、幕府に白老から知床岬までと国後・択捉両島を持ち場に警備を命じられ、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・国後の泊・択捉の振別に出張陣屋を置いた/施主: 伊達慶邦
2
B
熊石根崎町の鳥獣供養塔
くまいし、
ねさき
(二海)八雲町
法蔵寺
石碑(蒲鉾型)
高115㎝,幅34.3
㎝,厚19.5㎝
享保6(1721)
道有形
WEB(動物のお墓)
移設/祠内
(正面)「(梵字3)山海漁獵群萌下種結縁爲菩提也」/魚や獣が食と生活を与えてくれることへの感謝を込めて供養したもの
2
C
(古宇)神恵内村
(古宇)泊村
(古平)古平町
猿留山道
さるる
(幌泉)えりも町
幌泉~鐚田貫間
人道
全長約27㎞→9.3㎞
寛政11(1799)
町教委
平成8一部残存が確認→平成14残存区間の確認
寛政11に幕府が資金を出し、最上徳内・中村小一郎らの指揮により切り開かれた最初の山道(様似山道と同時)/蝦夷地第一の難所(日高山脈が太平洋に直接落ち込む部分)/寛政11年は、幕府が東蝦夷を直轄地した年→警備・産業上から道路を開削
3
A
油駒チャシ
・跡
あぶらこま
(幌泉)えりも町
(東洋)
チャシ(平地式):空壕:1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
長方形の壕がかろうじて識別できる
長方形の壕の内側に土塁を巡らす珍しい構造
3
C
武好橋の石組
・跡
ぶよし
(増毛)増毛町
<増毛山道>
橋台跡の石垣
安政4(1857)?
増毛山道保存会
石垣がわずかに残る
5
-
増毛山道
ましけ
(増毛)増毛町
別苅~岩尾分岐
<別苅(増毛)~幌(浜益)>
人道
全長27.8㎞,
幅2.7m
安政4(1857)
町史跡
増毛山道保存会
明治39頃に拡幅/昭和初期まで利用→廃道化/別苅~岩尾分岐~岩尾(16㎞)を歩行できるように整備(分岐~岩尾間は明治期)→平成26に21㎞に伸延
2代目・伊達林右衛門(アイヌと交易を行なう権利を持つ商人)が函館奉行所の命を受け私費1500両で開削した日本海沿いの難所を迂回する尾根ルート/江戸末期に蝦夷各地で開かれた人道の中で最も良く当時の姿を留めるだけでなく、その後に設置された明治期の水準点・電柱も残り、近世~近代を通じた北海道らしい道路遺産といえる
2
A
増毛陣屋 第二台場
・跡
ましけ
(増毛)増毛町
<秋田藩>
陣屋付属の台場:和製大砲2門
安政4(1857)
町史跡
現地解説板/WEB
元陣屋・台場とも遺構なし→大砲のレプリカのみ
秋田藩は、幕府に蝦夷地警護を命じられ、増毛に元陣屋を、樺太・宗谷に出張陣屋を置いた/増毛に元陣屋が設置されたことを示す唯一の残留物
5
C
千軒の砂金堀り
・跡
せんげん
(松前)福島町
大千軒岳山麓(奥二股沢)
樋流しの遺構、番所の石垣
慶長9(1604)発見
→寛永17(1640)廃絶
町教委/WEB
川の流れを変えた跡などが残る
禁教令後、日本本土にいられなくなったキリシタンが砂金掘りの群れに紛れて蝦夷地へ→松前藩が蝦夷キリシタンに砂金を掘らせた→寛永14(1637)の島原の乱と、寛永17(1640)の駒ヶ岳噴火後に廃絶
3
B
船隠しの澗
(松前)福島町
(矢越岬)
海沿いの天然洞窟
江戸初期
町教委
海上から識別できる
津軽・秋田の砂金掘が、ここに船を隠して千間金山に行ったという伝承がある
3
C
吉岡台場
・跡
よしおか
(松前)福島町
<松前藩>
台場:大砲2門
40m×50m,土塁高1.7m(北方と西方)
寛政年間(1789-1800)
町教委/WEB
丘の形で台場跡と確認できる程度
蝦夷地のなかでは古い台場の一つ/外国の捕鯨船対策
4
C
松前の方角石
まつまえ
(松前)松前町
法華寺山門前
方角石(円柱組立式)
径42㎝,高56㎝
(台座含む)
嘉永7(1854)
船・地図・日和山
C
松前大館
・跡
まつまえ、
おおだて
(松前)松前町
(神明)
館:土塁、空壕
応永7(1400)頃?
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)
土塁らしきものが、かろうじて識別できる
〔写真は、大館・小館の間の堀切り〕
道南十二館の一つ/津軽を本拠として蝦夷地を領有下としていた安東氏の築造?/長禄元(1457)のコシャマインの戦いで陥落→その後復旧し、慶長11(1606)に福山館に移るまで蠣崎氏政権の拠点
3
B
光明寺の寛保津波碑
こうみょうじ
(松前)松前町
光明寺
津波記念碑
(大島噴火)
寛保元(1741)
道有形
WEB
保存状態良好
寛保元年7月19日の大島噴火に伴う大津波の犠牲者(溺死者1236名)の供養塔/(正面)「洪波溺死諸霊菩堤」、(側面)「願主 御城下自他諸寺院中」/津波記録は記されていない
1
C
(目梨)羅臼町
(紋別)遠軽町
(紋別)雄武町
(紋別)興部町
(紋別)滝上町
(紋別)西興部村
(紋別)湧別町
ヲシャマンベ陣屋
・跡
(山越)長万部町
<南部藩>
出張陣屋:土塁、空壕
144m×95m,土塁高2.4m,壕深1.5m
安政3(1856)
国史跡
WEB(城とチャシの部屋)/WEB
史跡公園として整備
南部藩が、幕府から恵山岬から幌別間の沿岸警備を命じられ、函館に元陣屋を、長万部・室蘭・砂原に出張陣屋を置いた→長万部の海岸は砂浜で異国船が近づけないため、翌安政4(1857)に撤兵・廃止
2
B
(夕張)栗山町
(夕張)長沼町
(夕張)由仁町
桜丘チャシ
・跡
さくらおか
(勇払)厚真町
(桜丘)
チャシ(丘先式):空壕2条
15世紀後半-16世紀前半
町教委/WEB(城とチャシの部屋)
保存状態良好
樽前火山の灰降下物(寛文7=1667)の上に、数㎝の黒色土が堆積していることから創建年代が推定可能→年代が考古学的に特定できる稀なチャシ/シャクシャインより古く、コシャマインより新しいが戦闘用のチャシ/大型の先丘式/壕は基部に1条、先端に1条だが、先端部は埋設後も監視用のテラスとして使われていた
1
B
(勇払)安平町
(勇払)占冠村
イナエップ
・跡
(勇払)むかわ町
(穂別豊田)
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
直線状の壕2条が識別できる
2
C
オソウシチャシ
・跡
(勇払)むかわ町
(穂別)
チャシ(丘先式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕が識別できる
2
C
ペップッチャシ
・跡
(勇払)むかわ町
(穂別)
チャシ(丘先式):空壕2条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
弧状の壕がかろうじて識別できる
3
C
ノットカチャシ
・跡
(勇払)むかわ町
チャシ(面崖式):空壕1条
16-18世紀
WEB(城とチャシの部屋)
くの字状の壕がかろうじて識別できる
3
C
(余市)赤井川村
(余市)仁木町
旧・下ヨイチ運上家
しも・うんじうや
(余市)余市町
(入舟町)
木造切妻屋根(石置)
間口40m,奥行16m
嘉永6(1853)改築
国史跡・国重文
WEB
復元
現存する唯一の運上家/松前藩とアイヌの交易を代行した商人が建てた取引所/切妻平入の長大な石置屋根、格子窓、紙障子戸は北陸の漁家建築と同じ系統のデザイン
2
A
(利尻)利尻町
(利尻)利尻富士町
(留萌)小平町
(礼文)礼文町