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山形県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
狐越道の石畳
きつねごえ
山形市
<狐越道>
石畳道
江戸期
市教委
一部、掘り起こして修復されている部分がある
慶長5(1600)に米沢の上杉軍2万の本隊が最上軍を攻めるために通ったとして知られる街道
3
C
笹谷街道の石畳
ささや
山形市
<笹谷街道>
石畳道
江戸期以前
市教委
維持管理
江戸初期に参勤交代や、交易の道として利用/地蔵や薬師堂等の街道に関わる史跡と共に残されている
2
C
双月堰
そうつき
山形市
馬見ヶ崎川
用水路
長約19㎞
寛永元(1624)頃
市教委
C改修
施主:鳥居忠政/洪水対策として馬見ヶ崎川の流路変更をする工事を行った際、併せて城濠への水の供給、生活・農業用水の確保のため設けた5つの堰(山形五堰)の内の1つ
5
B
宮町堰
みやまち
山形市
馬見ヶ崎川
用水路
長約15㎞
寛永元(1624)頃
市教委
長0.7㎞石積水路を残しC改修
施主:鳥居忠政/洪水対策として馬見ヶ崎川の流路変更をする工事を行った際、併せて城濠への水の供給、生活・農業用水の確保のため設けた5つの堰(山形五堰)の内の1つ
4
B
八ヶ郷堰
はっかごう
山形市
馬見ヶ崎川
用水路
長約16㎞
寛永元(1624)頃
市教委
長3.1㎞石積水路を残しC改修
施主:鳥居忠政/洪水対策として馬見ヶ崎川の流路変更をする工事を行った際、併せて城濠への水の供給、生活・農業用水の確保のため設けた5つの堰(山形五堰)の内の1つ
3
B
御殿堰
ごてん
山形市
馬見ヶ崎川
用水路
長約17.5㎞
寛永元(1624)頃
市教委
長1.2㎞石積水路を残しC改修
施主:鳥居忠政/洪水対策として馬見ヶ崎川の流路変更をする工事を行った際、併せて城濠への水の供給、生活・農業用水の確保のため設けた5つの堰(山形五堰)の内の1つ
4
B
笹堰
ささ
山形市
馬見ヶ崎川
用水路
長約47.5㎞
(6堰分)
寛永元(1624)頃
市教委
長2.9㎞石積水路を残しC改修
施主:鳥居忠政/洪水対策として馬見ヶ崎川の流路変更をする工事を行った際、併せて城濠への水の供給、生活・農業用水の確保のため設けた5つの堰(山形五堰)の内の1つ/笹堰だけで、椹沢堰、飯塚堰、上町堰、南館堰、吉原堰、元木堰の6堰が存在(それぞれ独立した堰)
4
A
延沢銀山遺跡
のべさわ
尾花沢市
<延沢銀山>
坑道
(西山)慶長年間
→(東山)正保4(1647)
国史跡
市教委
当時のまま/観光坑道として一部開放
慶長期に篠田八郎右衛門が試掘/珍しい焼掘りの跡が残る/江戸半ばには衰退し、採掘が止まったため、当時の姿をそのまま残す/慶長年間の開発で、一時は佐渡や石見、生野に匹敵する産銀があったといわれる/間歩(坑道)、疎水等を含む東山地区の一部など3ヶ所が史跡指定
2
A
金山一里塚
かねやま
上山市
<羽州街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
放置
浸食されたのか、円錐状になっている
4
C
三本松の道標
さんぼんまつ
上山市
上山宿手前の三本松追分
<羽州街道・米沢街道>
石道標(自然石、石英粗面岩)
高170㎝,幅75㎝,厚35㎝
元禄4(1691)
→江戸期
市史跡
WEB
原位置?
(正面右)「右ハ よ年さわ」、(同左)「左ハ 江とみち」/正面中央に「南無阿弥陀佛」と陰刻/
元禄4の供養碑に、追分としての道しるべを追刻したもの
/「江戸」の標記は江戸期
1
C
金山峠の道標
かねやま
上山市
<羽州街道>
石道標
WEB
保存状態良好
「左ハ 米さわ」「右ハ もがみ」
2
C
矢来の休石
やらい
上山市
<羽州街道>
休石
高60㎝
江戸期
WEB
保存状態良好
旅人が腰かけて休むための石
2
C
鶴脛温泉源泉地
つるはぎ
上山市
温泉
長禄2(1458)
市史跡
WEB
観光整備
僧・月秀が、脛に傷のある鶴が足をひたしているのを見て発見したと言う伝承の源泉/上山温泉郷最古の源泉
2
B
牛前河岸
(牛前の渡し)
うしまえ
寒河江市
<六十里越街道>/最上川
渡し場
江戸期
市教委
渡し場は解説板のみ
柴橋代官所の年貢米積出し港(河岸)として繁栄/周辺の建造物等も残存している
5
C
簗瀬橋下の綱手道
(船頭道)
やなせ
寒河江市
最上川
船頭道
長約500m→10m
程度,幅約1m
江戸期
市教委
放置(雑草に埋もれ、到達困難)
全国的にも、数少ない現存する船頭道/船を引くため、両岸の岸壁を削って造られた小道/領主からの手当で大正期まで毎年崩落場所を修復
4
C
寒河江川石堤
さがえがわ
寒河江市
寒河江川
石堤防
近世
市教委
河川改修で、一部残る
連続する石堤であったが、河川改修によってその一部だけが残る
3
C
高松堰
たかまつ
寒河江市
寒河江川
用水路
長8㎞(新堰)
16C中頃→慶長14(1609)
WEB
平成8に頭首工及び幹線用水路の改修
施主:豪族・高松左門/用水路を開削して農業生産の向上に寄与した/命名の由来/施主:武士の子孫・菊池藤五郎/慶長14までに全長8kmの新堰を完成
4
B
二の堰
寒河江市
寒河江川
用水路
14C
WEB
平成6に一部を親水公園として改修
施主:寒河江城主・大江時氏・元時父子/城の改修にあたり堀に大量の水が必要となり寒河江川の右岸から新水路を掘り造った堰
3
B
幸生銅山水抜き坑
さちゆうどうざん
寒河江市
<幸生銅山>
水抜き坑
天保年間(1830-44)
市教委
当時のまま
木村右内の設計によって坑内廃水坑を掘削
2
C
大町の道標
おおまち
酒田市
<松山街道>
石道標(自然石)
高117㎝
宝暦4(1754)
県史跡
市教委
放置保存
「右はぐろつるおか ひだりまつやまきよ川 宝暦四年甲戌初夏吉辰」/道標上部に種子「ジク(般若菩薩)」が刻まれている/現在、大町一里塚に立っている
2
C
南新町の常夜灯
みなみしんまち
酒田市
日和山公園
常夜灯(海運)
(御影石)
高3.4m
文化10(1813)
市史跡
市教委/WEB
日和山公園(指定名勝)内に保存
酒田に寄港する北国廻船の航海安全を祈願して建立(灯台の役目も担っていた)/高いテラス状の基礎の上に載る
2
B
南新町の方角石
みなみしんまち
酒田市
日和山公園
方角石(御影石)
直径36㎝
天保2(1831)?
船・地図・日和山
/市教委/WEB
日和山公園(指定名勝)内に保存/表面だけ残し、下部の大部分を切り取った乱暴な移設
船頭たちが日和や風の方向を確かめるときに使用したもの/表面には12支に東西南北の文字が刻まれている/寛政6(1794)の「酒田港風景図」に日和山の記載があることから地元では寛政6以前との見方もあるが、近くの金毘羅神社の鳥居(天保2寄進)と同一石材なので天保2の建立とする『船・地図・日和山』の説が正しいと思われる(その場合、絵図のものは先代」
4
C
日向川
にっこう
酒田市
日向川
付替え(開削)
長2.5㎞, 幅200m
文久2(1862)
岩屋隆夫/WEB
河口部に往時の雰囲気が残る
天保14年の印旛沼新川のお手伝い普請に駆り出された庄内藩が、この工事の経験を踏まえ、翌年、日向川の水害防止を目的にして庄内砂丘(高30m)を掘り割る新川を開削
2
B
庄内砂丘の松林
しょうない
酒田市
庄内砂丘
防砂林(黒松)
長33㎞,
幅1.5~3㎞
1700年代中頃
庄内海浜県立自然公園
市教委
保全整備/近代に入ってからの植林が大半
わが国でも最大級の海岸砂防林/砂地に強い草を植えて砂丘の表面を落ち着かせ、次にネムノキやグミなど、砂地に強く地力を肥やす潅木を植え、その後ろに「主役」たるクロマツを植える、という植林方法
1
羽州街道松並木
うしゅう
新庄市
<羽州街道>
松並木
3本
江戸期
WEB
落雷の被害あり
国道改修工事で伐採
4
C
鳥越一里塚
とりごえ
新庄市
<羽州街道>
一里塚(1基)
江戸期
市史跡
WEB
西塚が残る(盛土ほとんどなし)/塚木:ブナ(オリジナル)
樹高25mのブナの巨木は、塚木としても珍しい
2
A
大堀抜
おほのぎ
鶴岡市
<六十里越街道>
切通し
幅約2m,高約5m
嘉永6(1853)頃?
WEB
保存状態良好
出羽三山信仰の道/掘抜らしさが感じられる切通し
1
B
六十里越街道の石畳
ろく じゅう りごえ
鶴岡市・(西村山)西川町
<六十里越街道>
石畳道
幅約1.2m
江戸期?
WEB
志津口留番所付近に復元
和銅5(712)に開かれたと伝えられる/出羽三山参詣の道
2
C
羽黒山参道の石段
はぐろさん
鶴岡市
羽黒山参道
石階段
長1.7㎞(2446段)
寛永7(1630)前後
いでは記念館
保存状態良好
羽黒山中興の祖と言われる天祐別当が石階段と杉並木を一体的に整備/途中の石段に酒盃、徳利、瓢箪などが33個彫られている→石段の上面に線刻→階段が狭くて急なため足元に注意させるためだと言われている
1
羽黒山参道の杉並木
はぐろさん
鶴岡市
羽黒山参道
杉並木
586本
寛永7(1630)前後
国特別天然、緑ミシュラン3つ星
いでは記念館
保存状態良好
羽黒山中興の祖と言われる天祐別当が石階段と杉並木を一体的に整備/標高差約300m、2446段の石段の両側に樹齢300-600年の杉が立ち並ぶ(天祐別当の整備前から植えられていた杉もある)/「爺杉」は、樹齢1000年以上と推定されている
1
坂野下一里塚
さかのした
鶴岡市
一里塚(1基)
江戸期
市教委
塚木:杉(上部が折れて樹高は低いがオリジナルの可能性)
庄内地方としては、よく残されている数少ないものの一つである/藤のからまった杉、地蔵、庚申、馬頭観音、休石が残っている
3
B
志津口留番所の常夜灯
しづくちどめ
鶴岡市
<六十里越街道>
常夜灯
文化4(1807)
WEB
保存状態良好
奥州信夫郡飯坂の信者が寄進
1
C
下町の道標
鶴岡市
<松山街道>
石道標
高97㎝,幅50.5㎝
慶応3(1867)
市史跡
市教委
移設
「向 鶴岡、右 清川/左 松山、道」
3
C
一本木沢の道標
いっぽんぎざわ
鶴岡市
<六十里越街道>
石道標(自然石)
江戸期
WEB
保存状態良好
「右 庄内湯殿/左 大井沢」
2
-
添川の道標
そえがわ
鶴岡市
<羽黒街道>
石道標
高140.5㎝,幅73.5㎝
不詳
市史跡
市教委
移設
「向、右 羽黒街道/左 両所山 小物忌 神社」
2
C
駅前の道標
えきまえ
鶴岡市
<備中街道>
石道標
高78㎝,幅48.5㎝
不詳
市史跡
市教委
移設
「右 大川/向 きよ川/左 つるが岡」
3
-
大山の石敢當
おおやま
鶴岡市
石敢當(頁岩)
高63㎝,幅48㎝,厚15㎝
明治初以前
県民俗
日本の石敢當p35
風化がひどくC鞘堂中に収納
設置理由不明/県令・三嶋通庸が鴨から鶴岡に出る道路をまっすぐ延ばそうと考えたが、この石敢當のため設計変更したとされる
2
B
松根の渡し場
(弘法渡し)
まつね
鶴岡市
<六十里越街道>/赤川
渡し場
WEB
一本松が残る
出羽三山信仰の道
3
C
青龍寺川
(掃部川)
しょうりゅうじ
鶴岡市
赤川
用水路
長17.8㎞
慶長15(1610)
市教委
C改修が見られる
施主:工藤掃部/最上藩の農業政策の一環として新関因幡守や原美濃守らの手によって小路が遂行されたという説もある/京田地帯への安定した大量の用水供給の他、鶴ヶ岡城の壕の水の供給源としても利用
3
B
大山下池
おおやましも
鶴岡市
溜池(堰堤)
1043.6m×914.5m
堰堤
:長396.3m
元和8(1622)→宝暦13(1763)改修→天保6(1835)改修
市教委
C改修/ラムサール条約登録され保護されている
尾浦城の防備、水害対策、農業用水の貯水池として築造/宝暦13(1763)に「下堤土手増築立て」、天保元(1830)に「土手増築立て普請」を実施し、現形に至る
3
B
越中堰
えっちゅう
鶴岡市
梵字川
用水路
長11.3㎞
元禄15(1702)
市教委
ほぼ全てC改修(昭和期)/取水口の雰囲気は良く残っている
施主:大館藤兵衛元忠/旧朝日村、旧櫛引町、旧羽黒町の二町一村を灌漑する水路
3
B
大山上池
おおやまかみ
鶴岡市
溜池(石積堰堤)
554.5m×492.9m
堰堤
:長272.7m
17C→文化8(1811)石積化
市教委
C改修/ラムサール条約登録され保護されている
尾浦城の防備、水害対策、農業用水の貯水池として築造/風や波が激しかった為、文化8(1858)に大山・砂押・友江・馬町の四ヶ村の自普請により石積化
4
C
天保堰
てんぽう
鶴岡市
金剛山川→田沢川
用水路
長約10㎞→3.2㎞
天保3(1832)
市教委
C管を埋設
施主:越中山村大館藤兵衛元貞/月山山麓の黒川地区の新田開発のため、田沢川の水量不足を補うために、金剛山川の水を田沢川に落とす方法を発見
藤九郎清水
とうくろう
鶴岡市
羽黒山
湧水
鎌倉期
町史跡
市教委
保存状態良好
平坦な巨石と、小型の立石の組み合わせ/松尾芭蕉も訪れた
1
B
水晶山道標
すいしょうざん
天童市
水晶山
石道標(自然石)
文化14(1817)
WEB
当時のまま
「(南無阿弥陀仏) 右ハたつみ山道の道/左ハすい志ようさん道」
2
-
北目の追分道標
きため
天童市
<旧山寺街道>
石道標
高約60㎝,幅約30㎝
江戸中期?
市教委/WEB
放置保存
「右 若木公(若松)道/左 湯殿山道」
3
-
寺津河岸
てらづ
天童市
須川
船着場
長約300m,最大幅約50m
享保8(1723)
市教委
現在は公園として整備され、当時の面影はほとんど残されていない
施主:甲斐守藤原秀敏/「河船差配制(1723)」の成立に伴い、河岸として認可
5
C
おけさ堀
(桶佐堀)
長井市
用水路
長約2㎞(嘉永6の新堰)
寛文10(1670)→嘉永6(1853
WEB
昭和60装工整備
水不足の草岡村の為におけさと勘三郎夫婦が掘ったと言い伝えられている穴堰
3
C
平山の締切堤防遺構
ひらやま
長井市
野川
土堤防
長300m→48m
明和8(1771)
市史跡
市教委/WEB
一部残存
野川の洪水対策として国役で築かれた締切堤防/明治36(1903)に洪水により締め切り堤防の大部分が決壊し、翌年復旧するも旧締切堤防は一部を残すのみ
4
C
神町一里塚
じんまち
東根市
<佐竹街道>
一里塚
江戸期
早坂
塚は消滅したが、江戸期由来と思われる松が5・6本残存(オリジナルの塚木ではない)
4
-
葉山の道標
はやま
村山市
石道標(自然石)
安政3(1856)
市有形
WEB
保存状態良好
山岳信仰の山として東北地方一円の尊敬を受けていた葉山に、参拝者の道しるべとして建てられた
2
C
板谷街道の石畳
いたや
米沢市
<板谷街道>
石畳道
長約200m
慶長3(1598)
市教委
当時のまま
2
C
遠山町の常夜灯
とおやままち
米沢市
石常夜灯
天保19(1839)
市教委
放置保存
灯明台型
1
B
直江石堤
なおえ
米沢市
最上川(松川)
石堤防
長3㎞→1.2㎞,
天端幅5m,基部幅9m,高2m
慶長6(1601)頃→文化9(1812)大改修
市史跡
市教委/現地解説板
各時代に修復を受けている/保存整備
家康の会津征伐(1600)の結果として上杉景勝が会津120万石から米沢30万石に減封されたのを受け、家老・直江兼続は新たな土地の開墾を進めるため治水事業に力を入れた/米沢城下を洪水から守るために築かれた大規模な石堤防(築造者の名をとって「直江石堤」と呼称)/石堤の一部を切り崩したところ、堤の中心部から直径1ートルを越す巨石が次々と出た
1
蛇堤
へび
米沢市
最上川(松川)
石堤防
長130m,高約1.5m,幅約3.8~7.8m
慶長6(1601)着工
市教委/現地解説板
歴史遺産として散策路が整備
上杉景勝の家老・直江兼続により築造(時代背景は上記「直江石堤」参照)/松川右岸に築かれた多くの霞堤の1つ(旧名称:古川除)
2
A
猿尾堰
さるお
米沢市
最上川<松川>→掘立川
用水路
慶長年間(1596-1615)
市教委/WEB
路肩部分が残る
直江兼続が指揮した米沢城下造営の一環で整備された堰/木材を菱形に組んだ中に芝で包んだ石を入れて堰き止める「猿尾留め」の工法を取り入れた→「猿尾堰」と呼称
3
C
御入水堰
おいりみず
米沢市
最上川<松川>→天神清水・大清水
用水路
長10㎞
慶長7(1602)頃着工
市教委/WEB
路肩部分が残る
直江兼続が指揮した米沢城下造営の一環で整備された堰/米沢城内および城下東側の生活用水/冬季は雪が入らないよう、町人町の負担で蓋をした
4
C
帯刀堰(木場川)
たいとう
(きば)
米沢市
鬼面川
用水路
慶長16(1611)
WEB
路肩部分が残る
直江兼続が松本助兵衛高次に命じ、士族を労役に従事させて開削したことから、命名/米沢藩の薪の供給手段として木流しによる薪の運搬集積に利用されたことから、木場川とも呼ばれた
4
C
黒井堰
くろい
米沢市
最上川<松川>
用水路
長32㎞(上堰、下堰)
(上堰)寛政6(1794)、(下堰)寛政9(1797)
市教委/WEB
路肩部分が残る
施工:御中之間年寄・黒井半四郎忠寄/功績を称えて黒井堰と命名
2
B
大台堰
おおだい
(飽海)八幡町
草津川
用水路
長3.00㎞,幅1.5m,深0.9m
慶応元(1865)
疎水百選
日向川土地改良区
路肩部分が残る
施主:下黒川村の農民・佐藤弥五郎の独学/工費がかさみ、やむなく藩庁にお蔵米の貸し下げを願った
1
B
西通川
(船通川)
にしどおり
(飽海)遊佐町
月光川~日向川
運河
長約7㎞
最上氏時代〔慶長7-元和8(1602-22)〕
岩屋隆夫
路肩部分が残る
月光川と日向川を結ぶために開削された、庄内砂丘と並行する運河/遊佐郷の年貢米を酒田蔵に運搬するのに使用
2
B
(北村山)大石田町
飯豊山の穴堰
いいでざん
(西置賜)飯豊町・小国町
置賜白川
素掘トンネル
(水路)
長約143m,幅0.7-0.9m,高1.3-1.5m
文政元(1818)
県史跡
WEB
昭和42(1967)羽越水害で隋道内に多くの土砂が流入し、通水不能
施工:御中之間年寄・黒井半四郎忠寄(着工の年に死亡したが、計算通りに施工された)/米沢藩主・上杉鷹山の命により、新潟県で日本海に注ぐ飯豊山の融雪水を、標高約1500mの山中(豪雪地帯)に隧道を通して最上川水系置賜白川に注ぐよう流域変更を行なったもの
2
B
佐野原の舟通し
さのはら
(西置賜)白鷹町
最上川(五百川峡谷)
舟通し
長約500m,幅10-11m,深1.5m
元禄7(1694)
佐藤五郎
保存状態良好(全貌が見える季節が短い)
施主:米沢藩御用商人(京都の豪商)・西村久左衛門(私財17000両)/施工:保津川開削の技術者集団(元禄元に呼び寄せて現場準見と測量を開始)/開削には鉄槌(重約340㎏、楔形、鋳物製)を約6mの高さから落下させて岩を砕いた(鉄槌を吊り下げるロープには「青苧(あおそ)」を利用)/近世における河川の開削区間としては国内最長級
1
黒滝の開削跡
くろたき
(西置賜)白鷹町
最上川
舟通し
数10m
江戸初期
佐藤五郎
江戸期に川の流れが変わり痕跡程度
最上川最大の難所だった黒滝を、崩す形で舟通しとした
3
C
烏帽子岩
えぼし
(西置賜)白鷹町
最上川
標識(舟通し)
江戸初期
佐藤五郎
保存状態良好
川の中央に自然にある岩=これより下流の舟通しが航行可能かどうかを判断する目安として使われた
1
C
諏訪堰
すわ
(西置賜)白鷹町
最上川
用水路
長約15㎞
慶長11(1606)頃
WEB
C改修/現役
施主:郷士・沼沢伊勢、新野和泉/最上川本川に建設された唯一の井堰
4
B
鮎貝堰
あゆかい
(西置賜)白鷹町
実淵川
用水路
長約6㎞
江戸期?
WEB
C改修/一部鉄板で補強改修/現役
5
C
黒沢峠の敷石道
くろさわ
(西置賜)小国町
<越後街道>
敷石道
残存石畳総数約3600枚,長約1.8㎞
天保10(1839)
歴史の道百選
WEB
埋もれていたものを掘り起こし復元された/昭和55年に「黒沢峠敷石道保存会」を発足し、多くの協力のもとに敷石道を復元
越後米沢街道13峠の1つ/幕末の天保10(1839)、安政5(1858)、慶応3(1867)の3回の改修工事/角石を一列に並べる(二列の部分もある)/イザベラ・バードが明治11に苦心して通ったことでも知られる
1
萱野峠の敷石道
かやの
(西置賜)小国町
<米沢街道>
敷石道
長約800m(掘り起し)
天保10(1839)?
歴史の道百選
WEB
旧街道の姿を再現/地元住民が平成19(2007)から復興作業を進めている
越後米沢街道13峠の1つ/角石を一列に並べた部分、石畳状の部分が混在/イザベラ・バードが明治11に苦心して通ったことでも知られる
2
B
朴ノ木峠の敷石道
ほうのき
(西置賜)小国町
健康の森の遊歩道
<米沢街道>
敷石道
長数10m
天保10(1839)?
WEB
越後米沢街道13峠の1つ/角石を一列に並べる/イザベラ・バードが明治11に苦心して通ったことでも知られる
3
C
飯豊山の穴堰
いいでざん
(西置賜)小国町・飯豊町
置賜白川
素掘トンネル
(水路)
長約143m,幅0.7-0.9m,高1.3-1.5m
文政元(1818)
県史跡
WEB
昭和42(1967)羽越水害で隋道内に多くの土砂が流入し、通水不能
施工:御中之間年寄・黒井半四郎忠寄(着工の年に死亡したが、計算通りに施工された)/米沢藩主・上杉鷹山の命により、新潟県で日本海に注ぐ飯豊山の融雪水を、標高約1500mの山中(豪雪地帯)に隧道を通して最上川水系置賜白川に注ぐよう流域変更を行なったもの
2
B
増岡堰堀
(井下堰)
(西置賜)小国町
金目川
用水路
寛文5(1665)
町教委
水害で決壊後にC修復
施主:代官・笹生広秀
5
C
朝日軍道
・跡
あさひ
(西村山)朝日町
置賜~庄内直結ルート
土道
全長約60㎞→西朝日岳周辺に数ヶ所残る
慶長4(1599)頃
→同6(1601)廃道
政策推進課
西朝日岳登山道(直線状)の脇に、つづら折の道跡として視認可能(笹薮で覆われているが、道跡は分かる)
施工:上杉家家老・直江兼続/秀吉により会津に国替えされた上杉景勝が、飛び地所領の庄内三郡(会津との間に、徳川寄りの最上義光がいた)との緊急連絡用に造った1800m級の山岳尾根沿いの抜け道/関ヶ原の戦いで豊臣方が敗けたため廃道化
4
A
明鏡橋下の舟通し
めいきょうばし
(西村山)朝日町
最上川(五百川峡谷)
舟通し
約20m
江戸期
WEB
近代に入り、岩盤の石材が切り出され、あちこち穴が開いている
旧明鏡橋の右岸側に直線状に残る(人為的であることは確か)/舟通しの跡かどうかについて、史料上の証拠はない
2
B
宮宿の船着場
みやじゅく
(西村山)朝日町
最上川(左岸)
船着場
江戸期
佐藤五郎
船着場だった岩盤がよく残る
最上川上流の重要な船着場の1つで、今でも存在が確認できる数少ない事例
2
C
中郷本田堰
なかごう
(西村山)朝日町
送橋川
用水路
長約4.6㎞
天正15(1587)
町教委
C改修
施主:柴田家/水田開発による水不足解消のための大修繕を元禄10から行っている/現在も水路として利用されている
5
C
大谷大堰
おおや
(西村山)朝日町
大暮山村・大沼村の渓流
用水路
長約1.5㎞,幅1-1.6m,深0.6-1.0m
延宝3(1675)
町教委
C改修
施主:白田内記則安、大谷五郎兵衛本秀、白田外記安美/現在も水路として利用されている
5
C
沼ノ平大堰
ぬまのたいら
(西村山)朝日町
暖日山
(中の沢・北の沢・南の沢)
用水路
長約4㎞
延宝3(1675)
町教委
施主:布施五郎左衛門家
C
四ノ沢堰
しのさわ
(西村山)朝日町
沢上川
用水路
延宝6(1678)
町教委
C改修
元は送橋川から取水していたが、後に水不足になり、沢上川から四ノ沢堰へ導水している/現在も水路として利用されている
5
C
和合堰
わごう
(西村山)朝日町
送橋川
用水路
長約4㎞
元禄元(1688
町教委
C改修
天保8菅井喜兵衛等により堰路の整備・拡充/4㎞の堰の維持管理は困難で、災害のため補修工事を度々行っていた
5
C
松程堰
まつほど
(西村山)朝日町
朝日川
用水路
長約4㎞
安政2(1855)
町教委
C改修
現在も水路として利用されている
5
C
三中堰
みなか
(西村山)朝日町
常盤堰
<水口村堰>
用水路
安政年間(1854-1859)
町教委
C改修
現在も水路として利用されている
5
C
馬神堰
うまがみ
(西村山)朝日町
用水路
町教委
C改修
現在も水路として利用されている
5
C
常磐堰
ときわ
(西村山)朝日町
朝日川
用水路
町教委
C改修
現在も水路として利用されている
5
C
へぐりのまんぼ
(西村山)朝日町
大鳥川
素掘トンネル
(水路)
長約60m
享保15(1730)頃
WEB
放置(内部の保存状態はよい)
施主:商人・科革屋仁兵衛/下流一帯の庄内平野を灌漑するため造られた隧道水路/掘削後に河床が下がり、満足に通水できなかった
2
C
左沢船着場
あてらざわ
(西村山)大江町
最上川
船着場
江戸期
WEB/町教委
観光的に修景整備
佐野原の舟通しができるまで、最上川水運の終着地として栄えた/民謡「最上川船唄」の発祥の地
4
B
天満一里塚
てんまん
(西村山)河北町
一里塚(1基)
直径5m
江戸期
町教委
平成18に伐採された切り株が残る/一里塚らしさなし
嘉永2(1849)の「馬頭観世音」の石碑と「山神」と刻まれた石碑が建つ
4
-
六十里越街道の石畳
ろくじゅうりごえ
(西村山)西川町
<六十里越街道>
敷石道
長30m(発掘部),
幅1~1.2m
文政7(1824)→平成16発掘
町教委/WEB
発掘された石畳/前後に修復区間
出羽三山信仰の道/五丁石が敷石に混ざる
2
B
志津の常夜灯
しづ
(西村山)西川町
<六十里越街道>
石常夜灯
文化4(1807)
町教委/WEB
傘が落下
奥州信夫郡飯坂(現・福島市)の信者が養蚕繁昌を願って湯殿山に寄進した/隙間を開けた2枚の桁石の上に載る変わった構造/志津御番所跡
4
C
洲島の舟繋石
すのしま
(東置賜)川西町
<最上川>
繋舟石
高約1.5m,幅54㎝,厚94㎝
江戸期
WEB
耕作地の中に残る
最上川(松川)と鬼面川、和田川、吉野川が合流する地点/イザベラ・バードがここから舟で川を渡った
2
B
堀金堰
ほりがね
(東置賜)川西町
鬼面川
用水路
長12㎞
慶長9(1604)以降
WEB
昭和54-56C改修(三面張)
施主:堀金の実相坊
C
大塚堰
おおつか
(東置賜)川西町
長井白川
用水路
長5.7㎞
慶長18(1613)
WEB
C改修
施主:寒河江源兵衛
5
C
長堀堰
ながぼり
(東置賜)川西町
置賜白川
用水路
長3.4㎞
正保元(1644)→寛政6(1794)延長
WEB
C改修
施主:代官・渡部久右衛門用人・小守甚右衛門、下小松の島貫源兵衛/文政元(1818)の穴堰の完成で増水
5
C
竹森の石番小屋
たけのもり、いしば
(東置賜)高畠町
石小屋(大笹生石)
傘石(屋根):3m×1.8m,厚0.9m,胴石(壁):一枚岩を半円形にくり抜く
嘉永5(1852)
市民俗資料
WEB/町教委
保存状態良好
火の用心見廻りの詰所/きわめて珍しい
1
B
古関の道標
ふるせき
(東田川)庄内町
石道標
高125㎝,幅95㎝
嘉永3(1850)
町史跡
町教委
当時のまま
「嘉永三年・右つ溜可岡・道・左ま津山・戌五月日/右加里川・左さ可田道・川井氏・奥山氏/遊岐万与ふ人を憐み・玉矛能道乃志る辨爾・立類石布日・七十六贔叟 玄齋」
3
C
清川下の堰台
きよかわ
(東田川)庄内町
北楯大堰/最上川(左岸)
盛土区間
約500-600m
慶長17(1612)
WEB
C改修/顕彰碑が立つ
施主:狩川3千石の城主・北館大学助利長(山形城主・最上義光の家臣)/北楯大堰の最難関工事区間/「青鞍の淵」の伝承で有名
4
B
北楯大堰
きただて
(東田川)庄内町
立谷沢川
用水路
長34㎞
慶長17(1612)
WEB
C改修/一部石積護岸
施主:狩川3千石の城主・北館大学助利長(山形城主・最上義光の家臣)/最上川沿いの庄内平野に給水する大規模な堰(最上川の水位が低かったため、最上川から引水できず)
4
B
清川関所の井戸
きよかわ
(東田川)庄内町
井戸
元禄2(1689年)以前
町史跡
町教委
番所はなくなり、井戸のみが残る
芭蕉が「五月雨を阿ツめて早し最上川」の句を詠んだ場所の近く
2
C
(東田川)三川町
棹燈籠
さお
(東村山)中山町
天性寺
石常夜灯
高1.9m,直径26㎝
不詳
町教委
移設
棒状の常夜灯/上部に装飾が施されている
2
B
長崎の題目塔道標
ながさき
(東村山)中山町
天性寺<六十里越街道>
石道標(自然石)
高110㎝,幅74㎝,厚39㎝
宝暦2(1752)
町史跡
町教委
移設
(正面右)「右 本道寺」、(同左)「左 大井沢」/正面に「南無地蔵大士」と陰刻
2
C
柳沢の供養塔道標
やなぎさわ
(東村山)中山町
御嶽神社
石道標(自然石)
不詳
町教委
移設
(正面最下部右)「右 長崎」、(同左)「左 大井沢」/正面中央に「(梵字)湯殿山三十三度
参詣
供羪塔」(緑字は
異体
字)と陰刻
2
C
(東村山)山辺町
(最上)大蔵村
日当の松並木
ひあたり
(最上)金山町
<羽州街道>
松並木
文化11(1814)以前
町史跡
町教委/WEB
個人管理のため、整備状況が把握されていない
新庄藩によって管理されていた、降雪時にも判別の付くような往来のための目印になる松並木
C
金山大堰
かねやま
(最上)金山町
用水路
長4.5㎞
天正8(1580)頃以降順次整備
疎水百選
町教委/WEB
昭和52-58農村総合整備モデル事業で修景的改修(2.5㎞区間)
城主・丹与惣左衛門の時代以降、城下集落の農業用として、次いで近世の宿場集落の農業及び生活用水として開発
3
B
谷口銀山大切鋪
・跡
たにぐち、
おおぎりしき
(最上)金山町
<谷口銀山>
坑道
66ヶ所→長約90m(現在通行可能)
元和9(1622)→寛永-慶安(1624-51)最盛期→弘化2(1845)廃鉱
町指定
町教委
谷口銀山史跡保存会のより修復
源義経ゆかりの金売り吉次が発見したとの伝承/戦国末期,最上義光時代に試掘/本格化は戸沢氏が入部してから/廃鉱の理由は、水抜きが困難であったため
3
B
(最上)鮭川村
(最上)戸沢村
猿羽根峠一里塚
さばね
(最上)舟形町
<羽州街道>
一里塚(2基)
慶長9(1604)以降
町史跡
WEB
山林内/雑草に覆われる/塚木:なし
4
B
紫山一里塚
むらさきやま
(最上)舟形町
<羽州街道>
一里塚(1基)
江戸期
町史跡
WEB
小型で分かりにくい/塚木:なし
線路際
3
C
猿羽根峠の戸沢藩境石
さばね
(最上)舟形町
境界石
高69㎝,幅25㎝,厚23㎝
江戸期
WEB
上半分が欠落
「
□□□
(従是北)新荘領」/新庄藩と天領であった尾花沢との藩境を示す石標/元の高さは約150㎝と思われる
4
C
(最上)真室川町
出羽仙台街道・中山越
でわせんだい、なかやま
(最上)最上町
道路
正保2(1645)以前
国史跡
町教委/WEB
大規模な修復、一部に保存整備
中山越における新庄領と伊達領の境目について、しばしば領地争いが生じた。最終的に、幕府の仲裁により、正保2(1645)、境界を大谷川とする約定が取り交わされ、大谷川の端に「境分杭」が立てられた
3
C
山刀伐峠
なたぎり
(最上)最上町
道路
元禄2(1689)以前
町教委
観光整備
芭蕉の通った歴史の道を遊歩道として整備
4
C
背坂峠の切通し
せなざか
(最上)最上町
廃道
切通し
江戸期
WEB
密林化
仙台領と最上領を繋ぐ峠道として栄えた
4
C