写真 |
名称 |
ふりがな |
区市町村 |
付帯情報 |
形式 |
諸元 |
建造年 |
文化財 |
出典 |
保存状態 |
価値判断に係る事項 |
保存 評価 |
価値 評価 |
 |
真金一里塚 |
まがね |
岡山市(北区) |
<山陽道> |
一里塚(2基) |
|
慶長9(1604)? |
国史跡 |
歴史の道1p29 |
塚木は枯れ(北塚:黒松;南塚:榎)、塚も低くなり、周辺環境の劣悪 |
山陽道に僅かに残る一里塚の1つ |
4 |
B |
 |
宮地一里塚 |
みやじ |
岡山市(北区) |
<津山往来> |
一里塚(1基) |
|
|
|
歴史の道2p14-15 |
西塚のみ残る/塚木なし |
津山往来に残る一里塚は僅か/大正初期の耕地整理によって東塚は崩され、勧農碑のある西塚が現存 |
3 |
C |
 |
元・京橋石柱橋脚 |
きょう |
岡山市(北区) |
旭川河畔<旭川> |
石橋脚(花崗岩)
(一部) |
|
延宝9(1681) |
|
|
移設・部分提示 |
江戸初期の京橋の巨大な石柱橋脚 |
4 |
C |
 |
岡山藩校跡の泮池橋 |
はんいけ |
岡山市(北区) |
人道/泮池 |
石桁橋(花崗岩) |
長10.6m(4G) |
寛文9(1669) |
国史跡 |
|
橋しか残っていないが、橋自体の保存状態は最良 |
津田永忠/良質の花崗岩を使用した細い梁と柱の造形は、九州に残る近世の2つの国史跡の石桁橋よりも繊細で華奢なイメージ |
1 |
B |
 |
後楽園・廉池の石橋 |
こうらくえん、れんち |
岡山市(北区) |
後楽園 |
石桁橋(花崗岩) |
長5.4m,5.5m(2G) |
享保元(1716)以前 |
国特別名勝 |
岡山の石橋p102 |
保存状態良好 |
2本の直線状石桁を、くの字型に配する |
1 |
C |
 |
牟佐の常夜灯(街道) |
むさ |
岡山市(北区) |
<倉敷往来?> |
石常夜灯(花崗岩) |
高2.25m |
寛政11(1799) |
|
歴史の道6p45 |
県道際の駐車場内に移設? |
倉敷往来の定型的な常夜灯 |
2 |
C |
 |
牟佐の常夜灯(渡し場) |
むさ |
岡山市(北区) |
<倉敷往来>/旭川 |
石常夜灯(花崗岩)
(渡し場) |
|
寛政11(1799) |
|
歴史の道6p45 |
移設/火袋は復元 |
牟佐の渡し場 |
2 |
C |
 |
庭瀬の観音堂常夜灯 |
にわせ |
岡山市(北区) |
<鴨方往来> |
石常夜灯(花崗岩) |
|
文化4(1807) |
|
歴史の道6
| 原位置 |
(竿正面)「妙見宮」、(竿左面)「正八幡宮」/街道と水路の角にある |
1 |
B |
 |
吉備津の金毘羅常夜灯 |
きびつ |
岡山市(北区) |
<山陽道(板倉宿)> |
常夜灯(自然石) |
高2.40m |
文化4(1807) |
|
島田裕介 |
火袋C改修/竿を台石にC固定 |
(竿正面)「金毘羅大権現」、(竿右面)「瑜伽大権現」、(竿左面)「吉備津宮」 |
2 |
C |
|
足守の金毘羅常夜灯 |
あしもり |
岡山市(北区) |
<足守城下> |
石常夜灯(花崗岩) |
高3.55m
(うち、基壇0.90m) |
文政4(1821) |
|
|
保存状態良好 |
「金毘羅宮」「兩社宮」/足守城下の入口に位置する/常夜灯と同時に造られた大平面の基壇上に建立(三河=蒲郡以外ではあまり見ない) |
1 |
B |
 |
庭瀬の旧撫川大橋常夜灯 |
にわせ、
なつかわ |
岡山市(北区) |
<鴨方往来> |
石常夜灯(花崗岩) |
|
慶応4(1868) |
|
|
移設 |
灯籠風の足台の付いた灯明台 |
3 |
C |
 |
庭瀬の道標1
(大橋東の道標) |
にわせ
(おおはし) |
岡山市(北区) |
<金毘羅往来> |
石道標(花崗岩) |
高87㎝ |
寛政9(1797) |
|
WEB |
原位置?/下部埋設 |
(正面)「右、た満しま/下津井、道」、(同左下隅)「瑜伽山 五里」、(右面)「左 於おかや満/みやうち、道」、(同左下隅)「吉備津宮 廿里」 |
1 |
C |
 |
庭瀬の道標2
(吉備津・真金十字路道標) |
にわせ
(きびつ、まがね) |
岡山市(北区) |
<山陽道> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高193㎝ |
文化3(1806)→復元 |
|
歴史の道1p30/WEB(的形道標クラブ) |
昭和60年復元(追刻あり) |
(正面)「右 松山江 八里 足守江 二里」、(右面)「西 井山寶福寺江 二里半」、(左面)「南 庭瀬江 三十丁」、(同最下部)「右 の本利道/左 くたり道」(=上り、下り)、(裏面上部)「牛の鼻ぐり塚」、(同中央下)「九字能庭/ふくでんかい境内にあり」 |
4 |
B |
 |
新庄下の道標 |
しんじょうしも |
岡山市(北区) |
<山陽道> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高約80㎝ |
嘉永3(1850) |
|
WEB(的形道標クラブ) |
原位置? |
(正面)「従是北 帝釋天江 十五丁」、(裏面)「従是 毘沙門天江 十三丁」 |
1 |
C |
 |
庭瀬の道標3
(本町道標) |
にわせ
(ほんまち) |
岡山市(北区) |
<鴨方往来> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高160㎝,幅37㎝ |
安政6(1859) |
|
現地解説板 |
移設 |
(正面)「(右指差し)お可山道」、(左面)「左 吉備津、まつ山/足毛り/板久ら」、(裏面)「右 古んひら、ゆが/倉しき/玉嶋」 |
2 |
C |
 |
庭瀬の道標4
(狭川の道標) |
にわせ
(はざかわ) |
岡山市(北区) |
<金毘羅往来> |
石道標(花崗岩) |
高189㎝,36㎝角 |
安政6(1859) |
|
WEB |
原位置? |
(正面)「(扇子を持った袖付き右指差し)金毘羅、ゆが/倉しき/玉島/かさ岡、道」、(右面)「(袖付き左指差し)吉備津、大阪/岡山」(江戸期で“大阪”と標記した数少ない事例) |
1 |
B |
 |
高松原古才の道標 |
たかまつ、
はらこさい |
岡山市(北区) |
<松山・新見往来> |
石道標(花崗岩) |
高136㎝,幅25㎝ |
文久2(1862) |
|
吉岡速人 |
原位置? |
(正面)「(左指差し)吉備津宮、にわせ/おか山、道」、(右面)「(右指差し)こうしん ひしゃもん道」、(左面)「(右指差し)いなり、足守/惣社、道」 |
1 |
C |
 |
西辛川の道標 |
にしからかわ |
岡山市(北区) |
<山陽道> |
石道標 |
高65㎝,幅20㎝,
厚16㎝ |
江戸期? |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「右みち、お可山/の本り」、(左面)「左ミち、か奈川/津山」(=金川)/「ミち」の標記は江戸期の可能性 |
2 |
- |
 |
吉備津・境目の備前国境石 |
きびつ、
さかいめ |
岡山市(北区) |
<山陽道> |
境界石(花崗岩) |
高1.74m,幅0.27m |
元禄12(1699) |
市史跡 |
歴史の道1p26 |
保存状態良好 |
(正面)「從是東備前國」 |
2 |
C |
 |
久米の境目川国境石 |
くめ、
さかいめ |
岡山市(北区) |
<備前~備中>
→<鴨方往来> |
境界石(花崗岩) |
|
宝永5(1708) |
|
WEB |
平成14、原位置に再設置/真中で折れている |
(正面)「従是東備前國久米村分」/備前備中の国境であった境目川に26本立てられた杭の1本(備前備中1対のうち久米村分の1つ)/元禄15(1702)年に起こった境界争いの名残り |
3 |
C |
|
大手ノ市の船着場 |
おおてのいち |
岡山市(北区) |
旭川 |
船着場(巻石?) |
|
慶安3(1650)以降 |
|
樋口輝久 |
保存状態悪い |
殿市より規模は大きい/御蔵米の積出し |
4 |
C |
 |
殿市の船着場 |
とのいち |
岡山市(北区) |
旭川 |
船着場(巻石) |
|
慶安3(1650)以降 |
|
樋口輝久 |
巻石が残る |
大手ノ市より規模は小さい/藩の船置場 |
2 |
C |
 |
金川の船着場 |
かながわ |
岡山市(北区) |
宇甘川 |
船着場(巻石?) |
|
江戸期? |
|
樋口輝久 |
保存状態悪い |
旭川との合流点近く |
4 |
C |
 |
(再現)庭瀬港常夜灯 |
にわせ |
岡山市(北区) |
<庭瀬港> |
木灯明台(海運) |
高6.5m,3m四方の石基壇 |
1700年代 |
|
現地解説版 |
昭和29撤去→平成19復元/石基壇はオリジナル |
庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えた庭瀬港の中核施設 |
3 |
B |
 |
庭瀬城跡常夜灯 |
にわせ |
岡山市(北区) |
<庭瀬城> |
石常夜灯(花崗岩) |
|
明和8(1771) |
|
|
保存状態良好 |
小さな港、雁木と一体化した常夜灯=歴史的景観として優れている |
2 |
B |
 |
小玉川の石の掛け樋・跡 |
|
岡山市(北区) |
大井手用水/小玉川 |
石桁橋(水路)
(花崗岩) |
|
江戸期 |
|
建部町史 |
昭和30年代撤去(石材一部保管) |
昭和30年代に撤去された割に写真1枚残ってないので、評価の下しようがないが、恐らく県内では2番目の規模 |
4 |
C |
 |
三野井堰(三挻樋堰) |
みの |
岡山市(北区) |
旭川→西川用水 |
取水堰(斜め堰) |
長約100m |
慶長6(1601)前後? |
|
WEB |
保存状態良好 |
小早川秀秋の築造(岡山藩第2代藩主・池田忠雄の築造説も)/西川用水の取水堰/美しいが小規模 |
1 |
B |
 |
カゴ井出堰 |
|
岡山市(北区) |
旭川→<管掛用水> |
取水堰(斜め堰) |
長618m→約90m |
寛文2(1663) |
|
|
旭川合同堰(1953)により代替後は放置/『備陽記』には長618mとあるが、現在は川幅のほとんどが砂洲化し当時の面影はない |
御野郡77ケ村の大庄屋金萬平次郎が私財を投じて開削 |
4 |
B |
 |
建部井堰(一ノ口井堰) |
たけべ |
岡山市(北区) |
旭川→大井手用水 |
取水堰
(片持ち斜め堰) |
長620~650m(捨石先端部~第二土砂吐右岸 or 導水隧道入口) |
享保6(1721)以前
⇒寛永5-7(1628-30)年前後の可能性大 |
世界かんがい施設遺産/市史跡/選奨土木遺産 |
建部井堰調査報告書 |
保存状態良好(上流のダム建設以来、越流が減り雑草が繁茂するようになった) |
現存する最大の斜め堰で、かつ、当初の姿をほぼ完全に残している/備前・美作国境のため、川の中間で堰が途切れる「片持ち」式の特異な構造⇒主要部分の交差角は0度と河川と完全に平行/建造時の記録が全く残っていない(あるいは、発見されていない)ため、建設年代は堰の存在を示した最古の絵図の年代(享保6)以前としか言えない→可能性としては、①岡山藩に公式記録を残す制度が始まる前で、②土木普請に熱心だった岡山藩(池田家)の2代藩主・池田忠雄(1602-32)の死亡直前で、③当該地区で石高が急増した「寛永5~7年前後」という推定が、現時点では最も蓋然性が高い |
1 |
 |
 |
草生堰 |
くそう |
岡山市(北区) |
旭川 |
取水堰(斜め堰) |
長307m |
江戸期? |
|
|
全長の半分はコンリート化 |
乱石積みの上を流れる水流が美しい/石積みの残る現役の旭川本流の斜め堰(建部井堰の下流) |
3 |
B |
 |
後楽園・排水樋管(吐口) |
こうらくえん |
岡山市(北区) |
後楽園 |
石樋門(木管) |
長18m |
元禄2(1689)
~享保元(1716)の間 |
国特別名勝 |
県教委 |
全体の4分の1を保存処理して展示予定 |
後楽園内の水を旭川に戻すための管路/取入部は改修されているため、吐口だけでも現存するのは貴重な存在 |
2 |
C |
 |
南方の樋門 |
みなみがた |
岡山市(北区) |
西川用水 |
<石樋門(花崗岩)> |
(1連) |
17世紀 |
|
岡山の石橋p46 |
本体はRC化/笠石等が再利用 |
西川用水に残る唯一の本格的石樋門 |
4 |
C |
 |
平田樋門 |
ひらた |
岡山市(北区) |
平田新田 |
石樋門(花崗岩) |
(2連) |
江戸期? |
|
樋口輝久 |
非現役 |
樋板が笠石上部の開口部を通して上下する形式(県下では数少ない) |
3 |
B |
 |
西川用水 |
にしがわ |
岡山市(北区) |
西川用水 |
用水路 |
|
慶長6(1601)前後? |
|
|
都心部は過度に修景 |
小早川秀秋の開削(岡山藩第2代藩主・池田忠雄の築造説も)/岡山市街地の中心を南北に縦断する代表的な用水/南方(みなかた)の付近は、雁木を含めて往時の雰囲気が残っている |
3 |
B |
 |
観音寺用水 |
かんのんじ |
岡山市(北区) |
観音寺用水 |
用水路 |
|
正保期(1644~47)以前 |
|
馬場研究室 |
水路のコンクリート化が進行 |
岡山市街地の北西部を横断する代表的な用水/端部に至るまで、随所に石構造が残る |
3 |
B |
 |
宿の堀抜 |
しゅく |
岡山市(北区) |
管掛用水 |
切通し(水路) |
長約250m |
寛文2(1663) |
|
|
岩を開削した部分はC擁壁化/江戸期と思われる石積が一部残る |
御野郡77ケ村の大庄屋金萬平次郎が私財を投じて開削 |
3 |
B |
 |
能登川用水 |
のと |
岡山市(北区) |
能登川 |
用水路 |
|
江戸期? |
|
|
護岸は改修済み |
都心部にある用水でありながら、美しい藻が繁殖している |
3 |
C |
 |
東一郷用水の雁木群 |
|
岡山市(北区) |
東一郷用水 |
用水路 |
|
江戸期? |
|
馬場研究室 |
雁木のほとんどが荒廃 |
一部に水路と雁木と織りなす美しい風景が残る |
3 |
C |
 |
津寺遺跡・野上田調査区護岸施設 |
つでら、
のがみだ |
岡山市(北区) |
岡山県古代吉備文化財センター |
土堤防の木杭(展示) |
全長約60m→1mを展示(幅2m),木杭径10-15㎝,木杭長1.2-2m |
飛鳥時代 |
|
吉備文化財センター |
昭和63の発掘/木杭(数10本)は特殊処理した本物 |
古代の土堤防の木杭による補強方法を示す数少ない現物展示/杉皮と砂を層状に積み上げ木杭で固定 |
2 |
B |
 |
横手堤(一宮) |
よこて |
岡山市(北区) |
一般道<砂川の堤防> |
石堤防
(巻石、花崗岩) |
|
文化7(1810)頃? |
|
樋口輝久 |
道路化/側面に石が残る |
岡山の特徴である「巻石」が堤防に使われた例 |
3 |
C |
 |
後楽園・鶴見橋下流の水制 |
こうらくえん、つるみ |
岡山市(北区) |
旭川(左岸) |
石水制(花崗岩) |
|
享保元(1716)~明和8(1771)の間 |
|
|
先端部は近代の修復 |
後楽園周辺に残る水制の中で、最も原形に近いもの/上部の石組みは恐らく江戸期のもの |
3 |
C |
 |
出石の水制 |
いずし |
岡山市(北区) |
旭川(右岸) |
石水制(花崗岩) |
|
不詳 |
|
|
基部を除いて補修大 |
石積みは江戸末期~明治期のもの=後世の補修か、その時代の新設か史料がないので不明 |
4 |
C |
 |
旧・庭瀬港の天秤石と雁木 |
にわせ、
てんびん |
岡山市(北区) |
<庭瀬港、庭瀬藩板倉家米蔵> |
石台(一対、花崗岩) |
|
江戸期 |
|
現地解説板 |
現地展示 |
米蔵の米を精製する際に使用された一対の石 |
3 |
C |
 |
池田藩お舟入り・跡 |
いけだ |
岡山市(北区) |
岡山製紙<旭川の船溜り> |
泊地 |
|
延宝元(1673) |
|
WEB |
旭川と遮断、企業敷地内 |
施主:池田綱政/旭川沿いに600mにわたり藪土手を築き、その内側(堤内地)を船溜りとしたもの/大小230隻余の船が係留されていたとされる |
3 |
B |
 |
横井上台場・跡 |
よこいかみ |
岡山市(北区) |
<津山往来> |
台場(土盛) |
直径40m |
幕末 |
市史跡 |
歴史の道2p7 |
公園化=すたれている |
岡山藩が津山往来の防備のため建設/5世紀頃と推定される直径40mの円墳の上に築かれた二重遺構 |
2 |
B |
 |
備中高松城水攻め・蛙が鼻築堤・跡 |
びっちゅうたかまつ、かわずがはな |
岡山市(北区) |
<備中高松城> |
土堤防(軍事遺産) |
基底部20~24m,上幅10~12m,高さ7~8m |
天正10(1582) |
国史跡 |
現地解説板/歴史の道8p4 |
延長は2.6kmあったが、往時の姿を留めるのは数か所(最良) |
発案:黒田官兵衛、設計:千原九右衛門勝則/5月7日から13日までの7日間で築堤/この技術が、後世の岡山藩の干拓堤防の築造に使われたとの有力な説がある/水田の下にあった基底部を発掘して、展示保存 |
3 |
A |
|
備中高松城水攻め・鳴谷川遺跡 |
びっちゅうたかまつ、
なるたに |
岡山市(北区) |
<備中高松城> |
土堤防(軍事遺産) |
|
天正10(1582) |
県史跡 |
WEB |
保存状態は悪い |
備中高松城水攻め時に,秀吉側が背後のこの地の谷川からも水を引こうとした施工現場.未完に終わる |
4 |
B |
|
 |
(再現)百間川米田遺跡の橋遺構 |
ひゃっけん、よねだ |
岡山市(中区) |
百間川(右岸<左岸>) |
<木桁橋>
木杭、敷石 |
長40m,幅2.3m |
鎌倉~室町期 |
|
現地解説板 |
発掘調査後、1㎞以上上流の河川敷内に、遺跡公園として部分的に再現 |
発掘結果は、室町~鎌倉期の木橋の構造を知る上で貴重なもの: 川底敷石に、先端の尖った木杭を打ち込んだ簡単な構造/展示の敷石と木杭は理想化された状態 |
4 |
B |
 |
曹源寺・放生池橋 |
そうげんじ、ほうじょう |
岡山市(中区) |
曹源寺参道 |
石桁橋(花崗岩) |
長4.6m(G) |
元禄11(1698) |
国史跡 |
WEB(石橋)
| 保存状態良好 |
参道の中間にある放生池に架かる美しい虹橋(高欄も虹型) |
1 |
C |
 |
八幡の渡しの道標 |
やはた |
岡山市(中区) |
<津山往来>/旭川 |
石道標(花崗岩) |
高130㎝,幅30㎝ |
江戸期? |
|
歴史の道2p15-16 |
正面上部表面が欠損→刻字が読めない/渡し場自体の雰囲気は全くない |
(正面)「此川□□□ 作州道/□□□ おく山道」/かつて渡船場であったことを示す唯一の記念碑/大井手用水路の石造樋門の笠石を利用 |
3 |
C |
 |
倉田の常夜灯 |
くらた |
岡山市(中区) |
|
石常夜灯(花崗岩) |
高約3m |
慶応3(1867) |
|
歴史の道7p5 |
|
舟通立川沿い |
2 |
B |
 |
倉安川 |
くらやす |
岡山市(中区) |
|
用水、運河 |
延長約17㎞(中区区間外も含む),幅3.6m |
延宝7(1679) |
|
百間川の歴史p36/富山学区連合町内会 |
護岸の99%が全面改修/特に岡山市街地の区間は歴史性を無視した修景的護岸改修が行われた |
施工:津田永忠/倉田三新田の用水確保のため吉井川から引いた用水路/従来の用水路や小川を利用して造られ、新掘区間は全体の15%程度しかなかったとされる/倉安川には当初から運河としての役割も考えられていたが、元禄5(1692)に江戸期全国最大の沖新田の干拓堤防が完成すると、大回りを強いられる舟運にとってショートカット運河として重要な存在となった |
3 |
A |
 |
祇園大樋・跡
/古田樋尻川の元・西樋 |
ぎおん |
岡山市(中区) |
<古田樋尻川> |
<石樋門(花崗岩)> |
長23.5m→一部,幅1.1m,高0.8m |
元禄5(1692) |
|
高島公民館 |
部分移設/C土台の上に、ごく一部のみ復元 |
施工:津田永忠/沖新田開発に伴う灌漑用水確保のために築造/祇園用水は、古田樋尻川用水・新田用水・後楽園用水の総称 |
4 |
B |
 |
中田の七ツ石 |
|
岡山市(中区) |
古田樋尻川→中田川 |
水量調整用の置き石 |
(3個の石と、その上の4個の梁) |
江戸期? |
|
高島公民館 |
固定されている以外、昔のまま |
石の配置で水量をコントロールしていた/石に「七」の字が刻まれている |
2 |
B |
 |
中田川用水の雁木群 |
|
岡山市(中区) |
中田川 |
用水路、
石雁木(花崗岩) |
|
一部江戸期? |
|
馬場研究室 |
石垣も残る |
岡山市内の用水路で最もよく雁木群が残る(開口部を板で斜めに覆う方式) |
2 |
B |
 |
森下町の水路石垣 |
もりした |
岡山市(中区) |
|
用水路(石垣) |
|
一部江戸期? |
|
都市計画課 |
時代の特定は困難 |
狭い水路に沿って、背の高い水路石垣がよく残っている(家ごとに石垣の様式が異なる) |
3 |
C |
|
賞田の猪塀 |
しょうだ |
岡山市(中区) |
|
猪垣(石塁) |
長約10m |
|
|
高島公民館 |
ごく一部のみ残存 |
大名の狩場近くで、耕地を荒らされ困窮した農民が築いた |
3 |
B |
 |
百間川一ノ荒手 |
ひゃっけん、いちのあらて |
岡山市(中区) |
旭川→遊水池 |
分水(洗堰) |
長127m |
貞享4(1687) |
県史跡 |
百間川の歴史p19-25 |
越流部:C被覆、前後の堤防の石積:基部は最近の調査で間知積であることが判明→明治期以降の改修の可能性/全面改修 |
施工:津田永忠/旭川の洪水から岡山城下を守るため、高水を旭川左岸の一の荒手(堤防より1尺低い)で越流させ、二の荒手、三の荒手を経て放水路「百間川」を開削・東流させ、変曲点で中川に合流させる洪水対策/一の荒手の越流部は長70間の土砂堤 |
3 |
A |
 |
百間川二ノ荒手 |
ひゃっけん、にのあらて |
岡山市(中区) |
遊水池→百間川 |
分水(洗堰) |
長112m |
貞享4(1687) |
県史跡 |
百間川の歴史p19-25 |
原型を留めるが(石積は各時代の改修が入る)/左岸側の導流堤は残る(ただし、流失し積み直し)/右岸側は消失/全面改修(目地セメントが目立つ) |
施工:津田永忠/一の荒手から河川敷の遊水地に石堰で一旦貯留、流速を落とし、左右の導流堤で人工の放水路「百間川」に落とす役割の洗い堰/一の荒手と違い石堤/左右の導流堤間の距離がちょうど百間だったことから「百間川」の名が付いた→下流側の「百間川」の川幅は変則的で人工の放水路というイメージからは遠かった |
3 |
A |
 |
百間川 |
ひゃっけん |
岡山市(中区) |
旭川→一ノ荒手
→遊水池→二ノ荒手
→百間川 |
分水(放水路) |
長5.7㎞(現在長) |
貞享4(1687) |
|
百間川の歴史p19-25 |
現在見られる堤防は昭和戦後のもの(明治30/大正14の測地図を見ても、江戸期の絵図と同じで堤防はない) |
施工:津田永忠/当初計画では、旭川の越流水を貯蔵する遊水地的な性格が強く、溢れた水で耕地が冠水することもあった/人工河川は途中で終わり、その先は小河川である中川と合流し、中川の流路を経て児島湾に流れていた(添付の江戸期の絵図参照) |
5 |
A |
 |
曹源寺池田家墓所の階段側石 |
そうげんじ、いけだ |
岡山市(中区) |
裏口(閉鎖)→池田家墓所 |
階段側石
(巻石、花崗岩) |
(3ヶ所) |
18世紀? |
国史跡 |
|
一部の石組みが緩んでいるが、全体としては保存状態良好 |
池田家墓所に登る階段の両脇に付けられた巻石状の美しい側石 |
1 |
B |
|
 |
西大寺観音院仁王門前橋 |
さいだいじ |
岡山市(東区) |
西大寺参道 |
石桁橋(花崗岩) |
長5.4m(G) |
享和元(1801) |
|
WEB(石橋)
| 保存状態良好 |
石桁13.枚を並べた広幅員の虹橋(高欄も虹型) |
1 |
C |
 |
西大寺南の吉井川常夜灯 |
さいだいじ、よしい |
岡山市(東区) |
<牛窓往来>/吉井川 |
石常夜灯(花崗岩)(渡し場) |
高約3.5m |
文化2(1805) |
|
歴史の道7p6 |
原位置? |
(竿右面)「金毘羅大權現」、(竿左面)「瑜伽大權現」/渡船場/付近に石段 |
1 |
B |
 |
一日市の吉井川常夜灯 |
ひといち、
よしい |
岡山市(東区) |
<山陽道>/吉井川 |
石常夜灯(花崗岩)(渡し場) |
|
文政4(1821) |
|
WEB |
原位置? |
福岡の吉井川常夜灯の、吉井川を挟んだ対岸/火袋が木製 |
1 |
C |
 |
君津の常夜灯 |
きみつ |
岡山市(東区) |
<牛窓往来>/吉井川 |
石常夜灯(花崗岩)
(渡し場) |
高約2.5m |
天保4(1833) |
|
歴史の道7p6 |
原位置 |
「沖田神社」「金毘羅大権現」 |
1 |
C |
 |
西大寺東の吉井川常夜灯 |
さいだいじ、よしい |
岡山市(東区) |
吉井川 |
石常夜灯(花崗岩)(河川舟運) |
高約3m |
天保7(1836) |
|
|
原位置?/火袋後補 |
|
2 |
B |
|
波戸巻石遺構 |
はと |
岡山市(東区) |
瓜生川 |
船着場?(巻石) |
|
江戸後期? |
|
瀬戸町教育委員会 |
巻石が残る |
船着場であったとの言い伝えあり/水辺と少し離れている(水没している部分も見えている) |
3 |
C |
 |
吉井水門 |
よしい |
岡山市(東区) |
<吉井川⇔倉安川> |
石閘門(花崗岩)
(ゲートは木製) |
第1:幅3.33m,石垣高(底から)5.15m,第2:幅3.33m,石垣高(同)5.50m,閘室:35m×20mの卵型 |
延宝7(1679) |
県史跡 |
吉井水門調査報告書 |
後世の水害等により、石垣の積み直しが多い(第2水門の周辺が最も保存状態が良い) |
国内現存最古の運河閘門(2門とも残る)/発想者不明:岡山藩(池田家宗家)の初代藩主・池田光政という説と、閘門建設の総責任者・津田永忠という説がある)/楕円形の舟たまりで、通行するの高瀬舟を検閲した/建造当初の精緻な石積み技術が残っている他、後世の多様な補修(すべて石造)も見られる/福岡県の中間の唐戸の建設に際し、堀川工事の役夫頭・一田久作が見分に訪れたことでも知られる(一田は、吉井水門の「閘門」としての2枚扉の機能を、「洪水防御」と誤解して中間の唐戸を2重扉にした) |
2 |
 |
 |
吉井堰 |
よしい |
岡山市(東区) |
吉井川→倉安川 |
<取水堰(斜め堰)> |
長約600m |
寛文期(1661~72)の間→延宝7(1679)改修? |
|
政田 孝 |
構造材料は近代化/形態のみ残る |
池田忠雄の時代の築造/倉安川の開削に合わせ、津田永忠が改修したとされる |
4 |
B |
|
森末の堀割 |
もりすえ |
岡山市(東区) |
田原用水 |
切通し(水路) |
長約400m,深約10m |
元禄9(1696) |
|
市教委 |
昭和59、コンクリート護岸 |
砂川と吉井川の分水嶺(森末岡の乢)を切り通す/昭和28の豪雨で崩壊し、原形は失われてた |
5 |
B |
 |
神崎分水樋門(仮称) |
かんざき |
岡山市(東区) |
千町派川(中洲) |
石樋門(花崗岩) |
(2連) |
貞享元(1684) |
|
|
樋門そのものは、かなり改修されている |
県下に残る建造当初の姿を残した最古の樋門(2連になった中央部が円形に突出している=絵に残る古い樋門の様子を唯一留めている)/見事な護岸石積み |
3 |
B |
 |
元・百間川唐樋の石材 |
ひゃっけん、から |
岡山市(東区) |
<百間川河口> |
<石樋門(花崗岩)> |
<(20連)> |
宝永元(1704) |
|
|
新河口堰の近くの海辺に並ぶ |
沖新田を百閒川の洪水から救うために設けられた大規模な石樋門の残石群 |
5 |
A |
 |
幸西東(柿原)水門 |
こうざい |
岡山市(東区) |
幸島新田 |
石樋門(花崗岩) |
(2連) |
文政12(1829) |
|
樋口輝久 |
放置 |
干拓堤防に設けられた排水樋門 |
3 |
C |
 |
幸西西(外波)水門 |
こうざい |
岡山市(東区) |
幸島新田 |
石樋門(花崗岩) |
(3連) |
天保7(1836) |
|
樋口輝久 |
修景整備 |
干拓堤防に設けられた排水樋門 |
2 |
B |
 |
松崎新田旧堤 |
まつざき |
岡山市(東区) |
松崎新田 |
土堤防 |
|
17世紀中頃
→延宝7(1679)改修 |
|
佐野 浩 |
江戸期の新田堤防が水路ともども良く残る |
初期の岡山藩で最も成功した藩営新田/津田永忠が砂川の流路を変えて倉安川を開削した際に堤防を改修 |
2 |
B |
 |
百間川旧堤防
(庄内樋門付近) |
ひゃっけん、しょうない |
岡山市(東区) |
<百間川(左岸)> |
土堤防 |
北:長約210m,南:長約300m |
寛文3(1663)? |
|
百間川の歴史p27 |
新堤防にほぼ沿って堤内地に残る |
松崎新田の西南の一角が「大角」の地名が示す中世館跡で、大多良庄の潮溜堤が造られた→その後、寛文3に松崎新田が新田が開かれた時、中世の堤防を再整備したと推測される/津田永忠による百間川放水路は旭川~早川までは開削されたが、それより下流は早川を利用したため、この部分の堤防はより古い時代のものと思われる |
2 |
B |
|
沖新田干拓堤防 |
おき |
岡山市(東区) |
<沖新田> |
土堤防 |
長11.8㎞,
高2.7-4.5m |
貞享4(1687) |
|
撮要録・上p548/百間川の歴史p36 |
改修・嵩上げ |
津田永忠/江戸期最大の沖新田の締干拓切り堤防 |
2 |
A |
 |
百間川大水尾旧堤 |
ひゃっけん、おおみお |
岡山市(東区) |
百間川(左岸)、沖新田 |
土堤防(一部に石積み) |
長約380m |
宝永2(1705)以前 |
|
岡山藩郡代津田永忠・下p94-96/百間川の歴史p37 |
石垣部の大半は後世の補修/唐樋は明治期に撤去→その一部が上記「元・百間川唐樋の石材」として残る |
津田永忠/旭川や中川の放水路である「百間川筋」が沖新田を貫通していることから、日本で初めて考案された「河口部遊水池+河口水門」の防災システム/最初は石樋だけで対応しようとしたが、元禄15(1702)の大水害(高潮も含む)を踏まえて中央に20門の巨大な唐樋を設けた |
2 |
A |
|
笄の井戸 |
こうがい |
岡山市(東区) |
|
石井戸(花崗岩、円形) |
直径2m |
16世紀後半 |
|
WEB |
|
正木城が、宇喜多直家に攻め込まれた時、城主・正木大膳康正んの内室玉尾が姫を抱きこの井戸に身を投げたという伝承がある。命日に最明寺の和尚が供養したところ水面に笄(女性の髪飾り)が浮かび上がったことから命名 |
3 |
C |
 |
犬島港の慶長期の捨石群 |
いぬじま |
岡山市(東区)
(犬島) |
<大坂城石垣> |
残石(花崗岩) |
|
17世紀を中心とする時代 |
|
|
海中に放置 |
大坂城の築城用に切り出した石材の残石 |
4 |
B |
|
 |
妹尾の道標 |
せのお |
岡山市(南区) |
|
石道標(尖頭角柱) |
高84㎝ |
嘉永5(1852) |
|
馬場俊介 |
移設 |
(正面)「左 お可山道」、(左面)「右、由可"/古んびら、みち」(=瑜伽) |
2 |
C |
 |
児島湾干拓地の備前・備中国境石群①大隅 |
こじま、
おおすみ |
岡山市(南区)、倉敷市、
(都窪)早島町 |
<妹尾村(備中)~興除新田(備前)> |
境界石(花崗岩) |
高約0.7m(一部埋没),10基(全体)→6基 |
文政4(1821) |
|
早島町 |
道路の拡幅により、埋没していたものを展示設置(解説板あり)
/下部埋没 |
(正面)「從是東南備前□」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ(最東端) |
3 |
C |
|
児島湾干拓地の備前・備中国境石群②興田 |
こじま、
こうだ |
岡山市(南区)、
倉敷市、
(都窪)早島町 |
<妹尾村(備中)
~興除新田(備前)> |
境界石(花崗岩) |
高約0.3m(ほとんど埋没),10基(全体)→6基 |
文政4(1821) |
|
早島町 |
JR瀬戸大橋線の道床の砂利の端に埋没するように、先端のみ見えている |
(正面)「從是□…」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ |
4 |
- |
 |
児島湾干拓地の備前・備中国境石群③妹尾 |
こじま、
せのお |
岡山市(南区)、
倉敷市、
(都窪)早島町 |
<妹尾村(備中)
~興除新田(備前)> |
境界石(花崗岩) |
高約1.0m,10基(全体)→6基 |
文政4(1821) |
|
早島町 |
保存されている/残存する5本の備前・備中国境石群の中で、唯一「従」の字を使用→近代の再設置の可能性大 |
(正面)「従是西南備前國」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ |
3 |
B |
 |
内尾大水門 |
うちお、おお |
岡山市(南区) |
妹尾川→興除新田 |
石樋門(花崗岩) |
幅約10m(3連) |
文政6(1823)頃 |
選奨土木遺産 |
馬場俊介 |
石桁の一部は破断してRCに変更(見えない部分)/上部は現役のトラックも通る道路(県道と市道の境界で、所有者不明のため管理が行き届かない) |
花崗岩の石梁を大胆に使用した典型的な岡山式の巨石樋門/下記の
「小水門」と倉敷市の「倉水門」の3基だけが現存(最古は倉水門)→非常に貴重な存在/長さ10mの花崗岩(60cm×70cm)を用いたダイナミックな構造は、高強度の花崗岩ならではのもの/3連のうち中央の橋下高が舟運のため高くなっている |
2 |
 |
 |
内尾小水門 |
うちお、こ |
岡山市(南区) |
妹尾川→興除新田 |
石樋門(花崗岩) |
幅約10m(3連) |
文政6(1823)頃 |
|
馬場俊介 |
上流側の石梁が欠如するなど、上記「大水門」に比べ保存状態が若干劣る/上部は車道だが、「大水門」と比べ大型車両は通行しない |
花崗岩の石梁を大胆に使用した典型的な岡山式の巨石樋門/上記「大水門」の170mほど上流に設置→干拓地の出口にあたるため潮止めの意味があったと思われる |
3 |
A |
 |
妹尾の四ツ樋 |
せのお |
岡山市(南区) |
興除新田 |
石樋門(花崗岩) |
(1連) |
文政6(1823)頃 |
|
馬場俊介 |
現役風に残る |
岡山の典型的な石樋門 |
2 |
C |
 |
内尾の樋門 |
うちお |
岡山市(南区) |
興除新田 |
石樋門(花崗岩) |
(1連) |
文政6(1823)頃 |
|
馬場俊介 |
|
岡山の典型的な石樋門 |
3 |
C |
 |
大曲ひのわ樋門 |
おおまがり |
岡山市(南区) |
興除新田 |
石樋門(花崗岩) |
(1連) |
文政6(1823)頃 |
|
馬場俊介 |
|
岡山の典型的な石樋門(小型) |
3 |
- |
 |
大樋樋門 |
おおひ |
岡山市(南区) |
米倉新田 |
石樋門(花崗岩) |
(2連) |
江戸期? |
|
歴史の道6p6 |
|
岡山の典型的な石樋門 |
3 |
B |
 |
大ヶ瀬一ノ口樋門 |
|
岡山市(南区) |
|
石樋門(花崗岩) |
(1連) |
江戸期? |
|
樋口輝久 |
現役 |
樋板が笠石上部の開口部を通して上下する形式(県下では数少ない) |
1 |
C |
 |
汗入の興除用水切通し |
あせり、
こうじょ |
岡山市(南区) |
興除用水→興除新田 |
切通し(水路) |
|
文政7(1824) |
|
|
明治42大改修 |
栗坂村(備中)の庄屋・八木次郎の説得で完成した興除新田(備前)に水を引くための用水の切通し区間 |
4 |
B |
 |
箕島用水の雁木群 |
みしま |
岡山市(南区) |
箕島用水 |
用水路(石雁木) |
|
江戸期 |
|
|
|
|
|
|
 |
妹尾戸川家陣屋跡の井戸 |
せのお、
とがわ |
岡山市(南区) |
|
石井戸(花崗岩、四角) |
122㎝四方 |
寛文9(1669) |
市有形民俗 |
歴史の道6p7-8 |
全体に、往時の姿を良好に留めている |
陣屋や家臣たちの町屋の水源確保のために設けられた井戸/入母屋造り瓦葺きの覆屋付き/井戸そのものは四角/井戸端も花崗岩切石敷 |
1 |
B |
 |
つちえの井戸 |
|
岡山市(南区) |
|
石井戸(花崗岩、八角) |
直径2.82m |
17世紀末以前 |
市有形民俗 |
市教委/WEB |
開口部が円形の金属蓋で覆われ、八角形のイメージがわかない/井戸端もコンクリート |
妹尾(漁村)地区で最も古い共同井戸/八角形の井戸は珍しい |
3 |
B |
|
 |
仁堀中の石橋 |
にぼりなか |
赤磐市 |
一般道/砂川 |
石刎橋(花崗岩) |
長5.2m,S3.3m(G),幅2.3m |
江戸期? |
|
岡山の石橋 |
石梁の代替に木材が相当量使われ、保存状態は良くない |
刎石を橋台から約60㎝出し、その上に長3.3m、幅38㎝、厚23㎝の延べ石が置かれている |
3 |
C |
 |
軽部橋たもとの常夜灯 |
かるべ |
赤磐市 |
<倉敷往来> |
石常夜灯(花崗岩) |
高1.94m |
文化7(1810) |
|
歴史の道6
| 原位置 |
倉敷往来の定型的な常夜灯 |
1 |
C |
 |
和田の常夜灯 |
わだ |
赤磐市 |
<倉敷往来> |
石常夜灯(花崗岩) |
高2.1m |
文化8(1811) |
|
歴史の道6
| 原位置/火袋に木枠 |
倉敷往来の定型的な常夜灯 |
1 |
C |
 |
出屋の常夜灯 |
いでや |
赤磐市 |
<倉敷往来> |
石常夜灯(花崗岩) |
高2.1m |
文化13(1816) |
|
歴史の道6
| 原位置 |
倉敷往来の定型的な常夜灯 |
1 |
C |
 |
鴨前の常夜灯 |
かもさき |
赤磐市 |
<倉敷往来> |
石常夜灯(花崗岩) |
高2.0m |
安政6(1859) |
|
歴史の道6
| 原位置 |
倉敷往来の定型的な常夜灯 |
1 |
C |
 |
田原用水の旧懸樋 |
たわら |
赤磐市 |
<田原用水/小野田川> |
石桁橋(水路)
(花崗岩) |
長12.97m(3G),
幅3.19m |
元禄10(1697)頃 |
県史跡 |
馬場俊介 |
移設・公園化/移設に当たり、石桁間の水漏れ対策は再現せず |
施工:津田永忠/全国的に見て、飛び抜けて大きい石桁水路橋/構造的には、橋脚部に各3本の石柱を用い、上部に横桁を置き、その上に直接石梁を載せただけの単純な構造/水路の水密性の保持は、底面と側面で方式が全く異なっているのが特徴→底面は粗加工の石梁を隙間を空けて並べ、隙間には貝殻混じりの特殊な漆喰を詰めた→側面は精緻に加工した石梁を3段に積み、石材同士は“ほぞ”で密着させた/側壁上部に4本の連結材を載せ、水圧による横倒れを防いでいる(石桁水路橋としては大断面なため) |
2 |
 |
 |
田原用水・百間の石樋 |
たわら、
ひゃっけん、いしのひ |
赤磐市 |
田原用水 |
切通し(水路) |
約180m |
元禄7(1694) |
県史跡 |
熊山町史 |
ほぼ当時のまま |
田原用水のシンボル的な工事が現在でも現役で残る唯一の場所 |
1 |
B |
 |
草生の高瀬舟通し |
くそう |
赤磐市 |
吉井川(右岸) |
舟通し,導流堤 |
|
江戸期 |
|
吉井町史1 |
恐らく旧状を保持 |
左岸側の急流を避けるため、設けられた |
3 |
C |
 |
上仁保の睨み石 |
かみにぼ |
赤磐市 |
|
傍示石(花崗岩) |
高95㎝,幅31㎝,厚19㎝ |
白鳳時代 |
|
聖徳太子の榜示石 |
道路端の法面の笹藪の中 |
条里制にもとづく土地測量にあたって用いられた測量基点/傾斜地ではうまく縄が引けないため目標の標柱を立て、またはこの位置を睨んで条里を定めた(伝承) |
2 |
B |
 |
西仁保の睨み石 |
にしにぼ |
赤磐市 |
|
傍示石(花崗岩) |
高40㎝,幅80㎝ |
白鳳時代 |
|
聖徳太子の榜示石 |
地蔵の前 |
同上 |
2 |
C |
 |
東窪田の縄目石 |
ひがしくぼた |
赤磐市 |
|
傍示石(花崗岩) |
高60㎝→20㎝,幅50㎝→20㎝ |
白鳳時代 |
市史跡 |
聖徳太子の榜示石 |
道路拡幅で移設、埋没 |
条里制にもとづく土地測量にあたって用いられた測量基点/石と石を結んで測量のために縄を張った(伝承) |
3 |
C |
 |
下仁保の睨み石 |
しもにぼ |
赤磐市 |
|
傍示石(花崗岩) |
高98㎝,幅55㎝,厚32㎝ |
白鳳時代 |
|
聖徳太子の榜示石 |
石割れ修復・移設/個人宅の外庭先 |
同上 |
3 |
C |
|
 |
鴨神社参道石橋 |
みや |
浅口市 |
鴨神社参道 |
石桁橋(花崗岩) |
(G) |
江戸期? |
|
歴史の道6p68 |
保存状態良好 |
太鼓橋 |
1 |
- |
|
 |
岩倉の石橋 |
いわくら |
井原市 |
人道/岩倉川 |
石刎橋(花崗岩) |
S2.5m(G),幅1.7m |
元禄13(1700)? |
|
岡山の石橋 |
橋面をコンクリート化 |
岩倉の太良右衛門が自費で造ったとされる/近くに「元禄十三…」「(梵字3)石橋施主…」と刻字された石碑が建つ/左岸側に石刎が見られることから国内最古の、試作的な石刎橋である |
3 |
B |
 |
神代町の供養塔道標 |
こうじろ |
井原市 |
(押延)<山陽道> |
石道標 |
高約50㎝ |
江戸期? |
|
吉岡速人 |
移設(基部露出) |
(右面)「南、やくし/玉し満、ミち」、(左面)「法泉寺道」/正面に「万人講供養」と陰刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 |
2 |
- |
|
 |
吉浜の石橋 |
よしはま |
笠岡市 |
人道/吉田川 |
石桁橋(花崗岩) |
長12m(5G) |
江戸期~明治初 |
|
岡山の石橋/WEB(石橋)
| 橋面をコンクリート舗装 |
2本柱橋脚の上に横桁を載せ、その上に石梁を載せているが、すべて空積み/橋台部分は江戸期の石積み |
3 |
B |
 |
大宜刎橋 |
おおげ |
笠岡市 |
人道 |
石刎橋(花崗岩) |
長3.3m(G),幅1.8m |
江戸期? |
|
WEB(石橋) |
橋面舗装 |
山口の塩田刎橋に似た本格的刎橋 |
2 |
C |
 |
笠岡の道標 |
かさおか |
笠岡市 |
市立郷土館<鴨方往来> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高111㎝,幅20㎝ |
天保4(1833) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「(左指差し)ふく山みち」、(左面)「右 たまし満道」 |
2 |
C |
 |
富岡の地蔵道標 |
とみおか |
笠岡市 |
<鴨方往来> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高1m以下 |
慶応元(1868) |
|
市教委 |
原位置? |
(正面)「右ハ、大しま/神の嶋」、(右面)「すく かさ岡 ふく山道」、(左面)「左ハ、玉しま/をか山」/正面頂部を光背型に削り込み、小さな地蔵立像を陽刻 |
1 |
C |
 |
用之江の地蔵道標 |
もちのえ |
笠岡市 |
<鴨方往来> |
石道標(駒型、花崗岩) |
高1m程度 |
江戸期? |
|
市教委 |
原位置? |
「右 さく道/左 ふく山」」「右 さく道/左 かさおか」/備中と備後の境界付近に立つ/正面頂部に地蔵立像を陽刻 |
1 |
C |
 |
吉浜の道路開通記念碑文 |
よしはま |
笠岡市 |
<鴨方往来> |
石碑文(花崗岩、巨大な自然岩) |
|
享保17(1732) |
|
市教委 |
保存状態良好 |
恵比寿様のお堂前の大岩に「享保十七壬子天此道成就」と刻む/享保年間に吉浜干拓の堤防が道となり、笠岡~福山往来が開けたことで、それまでの山道から下道が主要な道路となったことを示す碑 |
2 |
B |
 |
新山の分水石 |
にいやま |
笠岡市 |
七鍬山→竜王山谷川 |
石樋門(花崗岩) |
幅72㎝(新賀分),
幅34㎝(山口分) |
嘉永5(1852) |
|
市教委 |
水は流れていない |
谷川の水を新賀村68%、山口村32%に分ける分水用の水門の跡/石をくり抜いてコの字形 |
3 |
C |
|
白石島新開の排水樋門 |
しらいし |
笠岡市(白石島) |
白石島新開 |
石樋門 |
幅1m程度 |
元禄13(1700) |
|
市教委 |
雑草に覆われている |
白石島の干拓にともなう排水樋門 |
4 |
- |
 |
白石島新開の潮止め堤防 |
しらいし |
笠岡市(白石島) |
白石島新開 |
石堤防(海~遊水地)、土堤防(遊水地~干拓地) |
石堤防:長約200m,土堤防:長約250m |
元禄13(1700) |
|
市教委 |
非現役(海側が陸地化)/堤防自体は改変なし |
庄屋・小見山六郎左衛門/白石島の干拓堤防(干拓面積約10ha) |
2 |
B |
|
長浜台場・跡 |
ながはま |
笠岡市 |
<鴨方藩> |
台場(土塁) |
周囲約65m |
文久3(1863) |
|
市教委 |
原状喪失 |
|
5 |
- |
|
 |
天津神社の石橋 |
あまつ |
倉敷市 |
天津神社参道 |
石桁橋(花崗岩) |
長4.7m(G) |
寛政11(1799) |
|
藤戸・美観地区の石造物p48,51 |
保存状態良好 |
緩やかな虹橋(高欄も虹型) |
2 |
C |
 |
塩生の常夜灯 |
しおなす |
倉敷市 |
|
石常夜灯
(自然石、花崗岩) |
|
天保12(1841) |
|
児島の石造物p145,151 |
原位置 |
(竿正面)「…□□」/峠を越えて味野方面へ抜ける街道/整形された石組台座の上に、自然石の常夜灯 |
1 |
B |
 |
連島の常夜灯 |
つらじま |
倉敷市 |
連島地区 |
石常夜灯
(自然石、花崗岩) |
高3.90m |
文政13(1830) |
|
連島・玉島港の石造物p65,68 |
原位置 |
(中台正面)「瑞/ハ/吉/祇/秋」/この地域で自然石の常夜灯は少ない/玉状の石の上に載っている |
1 |
B |
 |
柏崎の金毘羅常夜灯 |
かしわざき |
倉敷市 |
玉島地区 |
石常夜灯
(自然石、花崗岩) |
高2.82m |
江戸期? |
|
連島・玉島港の石造物p93,98 |
原位置/〆縄付き |
(竿正面)「金」/この地域で自然石の常夜灯は少ない |
1 |
C |
 |
真備町箭田の道標 |
まび、やた |
倉敷市 |
|
石道標(花崗岩) |
|
寛政2(1790) |
|
WEB(的形道標クラブ) |
移設/中央で水平に折損→修復 |
(正面)「吉備公墳」(=吉備真備の墓所)、(右面下部)「是より 三町」 |
2 |
C |
 |
東町の石道標 |
ひがしまち |
倉敷市 |
|
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
|
天保4(1833) |
|
藤戸・美観地区の石造物p10/WEB |
原位置? |
(正面)「右、由可"山 下津井 下村/あらわ春"観音寺、道」、(左面)「左、吉備津/い奈里、お可山道」 |
1 |
C |
 |
下の町の道標 |
しものまち |
倉敷市 |
<由加往来> |
石道標(花崗岩) |
高115㎝,幅55㎝,厚50㎝ |
天保6(1835) |
|
児島の石造物p39,46 |
台石とC接合→移設の可能性 |
(正面)「す・ぐ、如來堂」、(同右端に小さく)「由可□へ」、(同左端に小さく)「二十□丁」、(裏面)「春ぐ二十一者"ん札所道/是より奥院如來へ八丁」 |
1 |
C |
 |
田の口の道標1 |
たのくち |
倉敷市 |
田の口港<由加往来> |
石道標(花崗岩) |
高218㎝,45㎝角 |
弘化3(1846) |
|
児島の石造物p36・.37 |
原位置/背後の旧家がなくなったため空き地の中に立っている |
(正面)「左 由が」、(裏面)「右 ゆがさん」/由加往来の玄関・田の口港にある最初の大道標 |
2 |
B |
|
田の口の道標2 |
たのくち |
倉敷市 |
|
石道標(花崗岩) |
高168㎝,21㎝角 |
嘉永3(1850) |
|
児島の石造物p35 |
原位置 |
「二拾一番札所江七丁」 |
1 |
C |
 |
田の口の道標3 |
たのくち |
倉敷市 |
<由加往来> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高109㎝,幅30㎝,厚29㎝ |
江戸期 |
|
児島の石造物p38 |
原位置? |
「右 由可"山」 |
1 |
C |
 |
稗田町の道標 |
ひえだちょう |
倉敷市 |
<金毘羅往来> |
石道標(花崗岩) |
高102㎝,30㎝角 |
江戸期 |
|
児島の石造物p71,78 |
原位置?/下部埋没 |
(正面)「右 下津井」、(左面)「(金○) 左 下村湊」/金毘羅往来と下津井への道の分岐点 |
2 |
C |
 |
藤戸の道標 |
ふじと |
倉敷市 |
農道 |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高173㎝,25㎝角 |
江戸期 |
|
藤戸・美観地区の石造物p20 |
原位置? |
(正面)「浮洲岩江 行道」(浮洲岩=藤戸) |
1 |
C |
 |
粒江の道標 |
つぶえ |
倉敷市 |
|
石道標(花崗岩) |
高65㎝,25㎝角 |
江戸期? |
|
藤戸・美観地区の石造物p40,46 |
|
(正面)「(右指差し)遍んろ道」、(左面)「右 種松山 金毘羅道」 |
3 |
- |
 |
児島湾干拓地の備前・備中国境石群⑤早沖 |
こじま、
はやおき |
倉敷市、
岡山市(南区)、
(都窪)早島町 |
<早島沖新田(備中)
~興除新田(備前)> |
境界石(花崗岩) |
高約1.1m,10基(全体)→6基 |
文政4(1821) |
|
早島町 |
原形をよく留めている(解説版あり) |
(正面)「從是東備前國」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ |
1 |
B |
 |
児島湾干拓地の備前・備中国境石群⑥高沼 |
こじま、
たかぬま |
倉敷市、
岡山市(南区)、
(都窪)早島町 |
<高沼新田(備中)
~有城村?(備前)> |
境界石(花崗岩) |
高約0.7m(一部埋没),10基(全体)→6基 |
文政4(1821) |
|
早島町 |
「…備前」より下は埋没 |
(正面)「從是東南備前□」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ(最西端) |
3 |
B |
 |
玉島港の常夜灯1 |
たましま |
倉敷市 |
川崎みなと公園 |
石常夜灯(花崗岩)
(河川舟運) |
高3.45m |
明和5(1768) |
|
連島・玉島港の石造物p78,113 |
移設/火袋が木製 |
(竿正面)「金毘羅常夜燈」 |
3 |
B |
 |
倉敷川の常夜灯 |
くらしき |
倉敷市 |
阿智神社<倉敷川> |
石常夜灯(花崗岩)(河川舟運) |
高2.93m |
明和9(1772) |
|
藤戸・美観地区の石造物p60-61 |
明治43に神社境内に移設/移設先が「川灯台」と無関係で不適切 |
(竿正面)「廣止舟燈臺」/元は大原家の前にあり、倉敷川を遡ってきた船の終点の灯台 |
4 |
C |
 |
倉敷川の金毘羅常夜灯 |
くらしき |
倉敷市 |
倉敷川 |
石常夜灯(花崗岩)(河川舟運) |
高約3m |
寛政3(1791) |
|
藤戸・美観地区の石造物p60-61 |
昭和34頃近くに移設/伝建地区内の倉敷川に面し、環境は良好 |
(竿右面)「金毘羅大權現」/前神橋東詰にの船着場の川灯台/昭和29年新前神橋の改修に伴い解体されたが、昭和34年頃に現在地に移設 |
2 |
C |
 |
下津井漁港東波止の常夜灯 |
しもつい |
倉敷市 |
下津井漁港 |
石常夜灯(花崗岩)
(海運) |
高3.00m |
寛政4(1792) |
|
児島の石造物p135 |
防波堤がRC造なので再設置/火袋が木製 |
防波堤の先端に残る常夜灯 |
3 |
B |
 |
玉島港の常夜灯2 |
たましま |
倉敷市 |
川崎みなと公園 |
石常夜灯(花崗岩)
(海運) |
高3.25m |
文化14(1817) |
|
連島・玉島港の石造物113 |
移設/火袋が木製 |
(竿正面)「金毘羅常夜燈」、(竿右面)「金毘羅/大權現、永代夜燈」/火袋が木製 |
3 |
B |
 |
吹上港西波止の常夜灯 |
ふきあげ |
倉敷市 |
吹上港 |
石常夜灯(花崗岩)
(海運) |
|
文政8(1825) |
|
WEB |
防波堤がRC造なので再設置 |
(竿正面)「瑜伽大權現」/防波堤の先端に残る常夜灯/宝珠が立派 |
2 |
B |
 |
天城の倉敷川常夜灯 |
あまぎ |
倉敷市 |
藤戸地区、倉敷川 |
石常夜灯(花崗岩)
(河川舟運) |
|
文政10(1827) |
|
藤戸・美観地区の石造物p23 |
倉敷川の改修に伴い移設/火袋と竿を復元 |
(竿右面)「金毘羅大權現」、(竿左面)「瑜伽大權現」/倉敷川を往来する船の灯台/猫脚 |
3 |
B |
 |
田の口港西波止の常夜灯 |
たのくち |
倉敷市 |
田の口港 |
石常夜灯(花崗岩)(海運) |
高約4m |
天保7(1836) |
|
児島の石造物p31,36-37 |
保存状態良好 |
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿裏面)「瑜伽大權現」/由加往来の玄関にあたる重要な港/防波堤の先端に残る/東防波堤とペアで残る→全国的にも非常に珍しい |
1 |
A |
 |
田の口港東波止の常夜灯 |
たのくち |
倉敷市 |
田の口港 |
石常夜灯(花崗岩、六角形)(海運) |
高5.00m |
嘉永4(1851) |
|
児島の石造物p31,37 |
保存状態良好 |
(竿正面上部)「瑜○」/由加往来の玄関にあたる重要な港/防波堤の先端に残る/西防波堤とペアで残る→全国的にも非常に珍しい/灯籠型も港の常夜灯としては異例/火袋と中台に見事な彫刻/台座に120名以上の寄進者の名前 |
1 |
A |
 |
田の口港の常夜灯兼道標 |
たのくち |
倉敷市 |
<由加往来> |
石常夜灯(道標兼、花崗岩)(海運) |
高約2.5m |
文久3(1863) |
|
児島の石造物p54 |
火袋は復元 |
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿裏面)「瑜伽大權現」、(上段台石右面)
「右/由/□/山」、(上段台石裏面)「左/ふ/奈/ハ」(=船場)/道標を兼ねた常夜灯(県下では稀) |
2 |
C |
 |
野崎浜灯明台 |
のざきはま |
倉敷市 |
<野崎浜塩田> |
木灯明台(海運) |
高11.23m
(さらに基壇下に高約4mの石垣) |
文久3(1863) |
市建造物 |
WEB |
昭和50に半解体修理・復元(軸木を残し、表面の板張りは更新) |
全国でも最大級の木造灯明台(基壇は見事な石組み)/野崎浜への塩買船を導く燈台の役目と、塩釜明神宮への献灯を目的に建造 |
1 |
 |
 |
田の口港西波止の纜石 |
たのくち、
ともづな |
倉敷市 |
田の口港 |
舟繋石
(円柱、花崗岩) |
高60㎝,直径25㎝前後,17個 |
江戸期 |
|
児島の石造物p31,38 |
防波堤上/現役 |
由加往来の玄関にあたる重要な港/東波止3本、西波止14本、他に改修時にコンクリートで塞がれたもの10本あまり/西大寺の他、滋賀、京都、広島の寄進者の名前が刻まれている |
1 |
B |
 |
元・玉島港の纜石 |
たましま、
ともづな |
倉敷市 |
<玉島港> |
舟繋石
(円柱、花崗岩) |
高25㎝,8個 |
江戸期 |
|
連島・玉島港の石造物p16,82,129 |
周辺埋立て/ポツン、ポツンと放置されたように残っている |
円柱だが頭部は四角形(船からの綱がはずれないように) |
4 |
C |
 |
箆取神社の方角石 |
へらとり |
倉敷市 |
箆取神社 |
方角石(花崗岩) |
高100㎝ (台石を含む) |
文久元(1861) |
|
藤戸・美観地区の石造物p61 |
移設、加工 |
移設にあたり自然石(とっくり型)の上に方角石を載せた |
3 |
C |
 |
金刀比羅神社の方角石 |
こんぴら |
倉敷市 |
金刀比羅神社 |
方角石(砂岩、台座は花崗岩) |
高90㎝ (台座を含む) |
江戸期 |
|
連島・玉島港の石造物p16,129 |
移設、加工 |
(台石正面)「金毘羅大權現」/移設にあたり石材を組み合わせた台座の上に載せた |
3 |
C |
 |
倉敷川の雁木群 |
くらしき |
倉敷市 |
倉敷川 |
雁木(花崗岩) |
6ヶ所 |
江戸期 |
重伝建 |
藤戸・美観地区の石造物p61 |
昭和前半頃の川岸の改修で減少/1ヶ所は、破壊されたものを復元 |
かつては川岸の商家毎に設けられていた/倉敷美観地区の中核的存在 |
2 |
B |
 |
又串水門 |
またくし |
倉敷市 |
<高梁川・高瀬通し> |
石樋門(花崗岩) |
|
万治2(1659)説 |
|
間壁忠彦/馬場俊介 |
明治以降に全面改修 |
高瀬通しで最も古い水門だが、洋風の石積みで全面改修されており、往時の面影を推定することすら不可能 |
4 |
B |
 |
一の口水門 |
いちのくち |
倉敷市 |
<高梁川・高瀬通し> |
石閘門(花崗岩) |
高8.38m |
延宝2(1674)説 |
市史跡 |
間壁忠彦/馬場俊介 |
明治期に全面改修 |
このタイプの運河閘門としては全国最大だが、すべての石積みが明治期?に新材で再構築された可能性が高い |
4 |
A |
 |
二の口水門 |
にのくち |
倉敷市 |
<高梁川・高瀬通し> |
石閘門(花崗岩)? |
|
17世紀後半 |
|
間壁忠彦/馬場俊介 |
遺構 |
一の口水門とペアをなしていた(疑問あり)とされる水門/石桁数本が残存 |
3 |
C |
 |
亀島樋門 |
かめじま |
倉敷市 |
亀島新田 |
石樋門(花崗岩) |
|
元禄4(1691)頃? |
|
樋口輝久 |
一部機械化して利用 |
中央の石柱を両側から梁が2段に挟み、その上に木柱を立てた特異な門扉構造=閘門のように2枚式になっている/両岸の石組も見事 |
3 |
A |
 |
倉水門 |
くら |
倉敷市 |
六間川 |
石樋門(花崗岩) |
幅10m(2連) |
宝永4(1707) |
|
市教委/帯高の歴史 |
昭和20に一部改修/歩道橋併設/六間川改修に伴い撤去(九州各県と違い農業遺産を大切にしない県民意識の現われ)→残材あり |
花崗岩の石梁を大胆に使用した典型的な岡山式の巨石樋門(19世紀の「内尾大水門」より建造年が古く県下で最初の巨石樋門と位置付けられる)/前記「内尾大水門」、「同小水門」と合わせ3基だけが現存→非常に貴重な存在/水面からの高さも特徴/現役の道路橋として使用 |
5 |
A |
 |
板敷水門 |
いたじき |
倉敷市 |
福田新田 |
石樋門(花崗岩) |
幅10m,深6m
(1連) |
嘉永2(1849) |
市史跡 |
WEB |
コンピナートの一角に残る |
奉行・深井忠兵衛/干拓堤防に設けられた排水樋門 |
2 |
C |
 |
呼松水門 |
よびまつ |
倉敷市 |
福田新田 |
石樋門(花崗岩) |
(2連) |
安政5(1858) |
|
樋口輝久 |
|
奉行・深井忠兵衛/石工・輪島屋重吉/与島の石材を使用/用水吐けの水門 |
2 |
C |
 |
ひの輪樋門 |
ひのわ |
倉敷市 |
福田古新田 |
石樋門(花崗岩) |
|
江戸期? |
|
樋口輝久 |
|
岡山の典型的な石樋門 |
2 |
- |
 |
野崎浜塩田の大樋 |
のざきはま |
倉敷市 |
<野崎浜塩田> |
石樋(花崗岩) |
|
文政11(1828) |
|
市教委 |
周辺はコンクリート化 |
塩田に海水を出し入れするユニークな機構をもつ石樋(海面上にはどこにも塩水の入口がない) |
3 |
B |
|
深井の井戸 |
ふかい |
倉敷市 |
倉敷地区(羽島) |
石積み井戸(花崗岩、三角に近い不定形) |
|
古代 |
|
WEB |
水は白濁 |
神功皇后が九州からの帰途に大御食(おおみけ)に使用したとの伝承/自然石をきれいに積み上げた井戸 |
2 |
B |
|
吉備真備産湯の井戸 |
きびのまきび |
倉敷市 |
真備地区 |
井戸(四角) |
|
7世紀頃 |
|
WEB |
中国風の屋根/石張りのコンクリート井戸(上面に蓋)・駐車場を整備 |
吉備真備公(695-775年)の産湯に使われたことから付けられた名/矢掛にも同名の井戸 |
4 |
B |
 |
大悲水 |
だいひすい |
倉敷市 |
児島地区(通生)湯谷山 |
井戸(四角) |
193×185㎝,高42㎝ |
延暦年間(782-805) |
|
児島の石造物p143,144/小西宏和 |
大正2年銘の石材が使われているため、当時何らかの改修が行われた/機械化 |
屋根付き/坂上田村麻呂が由加の山奥で鬼と恐れられていた阿久良王討伐の勅命を受けて当地を訪れた際、①杖を突くと水が湯に変わった、②怪我を負い大悲水に入れると治った、という伝承がある/最大級の井戸枠/正面に「奉納」と陰刻 |
2 |
B |
 |
小野小町姿見の井戸 |
おののこまち |
倉敷市 |
倉敷地区、日間山法輪寺本堂の裏山 |
石積み井戸(花崗岩、円形に近い不定形) |
約95㎝ |
9世紀 |
|
藤戸・美観地区の石造物p78/小西宏和 |
湧水はあるが飲用には不適/羽島ヶ丘同好会が管理 |
小野小町が悪瘡を病み、日間山法輪寺の本尊正観音に願を立て、毎日この井戸を鏡として姿を見たとの伝承/石積みで囲まれた井戸 |
2 |
B |
 |
天満宮ゆかりの井戸 |
てんまぐう |
倉敷市 |
児島地区(唐琴) |
石井戸(花崗岩、四角) |
104×101㎝,高47㎝ |
昌泰4(901)? |
|
児島の石造物p28,29/小西宏和 |
道路建設の際、若干山側に移動/内部C化/井戸枠は明治29のもの |
菅原道真が大宰府へ権帥として左遷される途中で立ち寄った際、杖を地面に付いたら水が出たといわれる=菅原道真が天神様として祀られているため、ある程度信憑性も/正面に梅鉢紋、右脇に「天満宮井」と陰刻 |
4 |
B |
 |
泉谷の大井戸 |
いずみだに |
倉敷市 |
乙島地区 |
石井戸(花崗岩、四角) |
137×138㎝,高47㎝ |
寿永2(1183)以前? |
|
連島・玉島港の石造物p16,81-82,129/小西宏和 |
乙島文化財保存会により保存・整備 |
源平水島の戦い(1183)の際に、平家方が陣を敷いた場所とされる/乙島が島だった時代の8つの共同井戸の1つ/内部は円形の石積み→方形の井戸枠は後世のものの可能性大 |
2 |
A |
 |
天神川 |
てんじん |
倉敷市 |
柏島地区 |
石井戸(花崗岩、四角) |
122×138㎝,高51㎝ |
寿永2(1183)以前?→井戸枠は後世 |
|
連島・玉島港の石造物p16/小西宏和 |
花崗岩製の方行組合せは後世のもの |
源平水島の戦い(1183)の際に、平家方が陣を敷いた場所とされる/柏島が島だった時代の「五大川」の1つ/典型的な石組み井戸 |
2 |
C |
 |
不老川 |
ふろう |
倉敷市 |
柏島地区 |
石積井戸(花崗岩、円形に近い不定形) |
|
寿永2(1183)以前? |
|
連島・玉島港の石造物p95,98/小西宏和 |
危険なので、鉄柵で囲まれている/「五大川」の中で唯一現役 |
源平水島の戦い(1183)の際に、平家方が陣を敷いた場所とされる/柏島が島だった時代の「五大川」の1つ/雑な石積で囲まれた円形の水盤状の井戸(一部は新材) |
3 |
C |
 |
大井川 |
おおい |
倉敷市 |
柏島地区 |
石井戸(花崗岩・C、六角) |
高42㎝ |
寿永2(1183)以前?→江戸期 |
|
連島・玉島港の石造物p16/小西宏和 |
蓋が被せてある/井戸枠C造 |
源平水島の戦い(1183)の際に、平家方が陣を敷いた場所とされる/松山藩が干拓の際に使用したといわれている/柏島が島だった時代の「五大川」の1つ/六角井戸だが、六角の起源は不明 |
4 |
C |
 |
濱の川 |
はま |
倉敷市 |
柏島地区 |
石井戸(花崗岩・C、円形) |
径85㎝,高46㎝ |
寿永2(1183)以前? |
|
連島・玉島港の石造物p95/小西宏和 |
蓋が被せてある/井戸枠C造 |
源平水島の戦い(1183)の際に、平家方が陣を敷いた場所とされる/松山藩が干拓の際に使用したといわれている/柏島が島だった時代の「五大川」の1つ |
5 |
C |
 |
真川 |
ま |
倉敷市 |
柏島地区 |
石井戸(花崗岩・C、円形) |
径84㎝,高45㎝ |
寿永2(1183)以前? |
|
連島・玉島港の石造物p95/小西宏和 |
蓋が被せてある/井戸枠C造 |
源平水島の戦い(1183)の際に、平家方が陣を敷いた場所とされる/松山藩が干拓の際に使用したといわれている/柏島が島だった時代の「五大川」の1つ |
5 |
C |
 |
蘇良井戸 |
そら |
倉敷市 |
藤戸地区(有城) |
石井戸(豊島石、円筒形刳抜き) |
径87㎝,高42㎝ |
元暦元(1184)以前 |
|
小西宏和 |
現役/藤戸史跡保存会により保存・整備 |
源平藤戸の戦い(1184)の際に、御崎(おんざき)神社に布陣した源氏方兵士が飲み水として使用したとの伝承/豊島石を円筒形に刳抜いた井戸枠=倉敷に多い古い形式/井戸内部は花崗岩を「打ち込みはぎ」に積んでいる→非常に珍しい |
1 |
A |
|
誓紙の井戸 |
せいし |
倉敷市 |
藤戸地区 |
石積み井戸(花崗岩、円形) |
|
元暦元(1184)以前 |
|
WEB |
移設(水は出ない) |
源平藤戸の戦い(1184)の際に、源氏の武将・佐々木盛綱が土地の有力者に服従を求め誓紙を差し出させたが、誓紙を書く硯水を汲んだ井戸/大胆な石積みが特徴 |
4 |
B |
 |
観音寺の井戸 |
かんのん |
倉敷市 |
下津井地区(吹上)観音寺 |
石井戸(花崗岩、四角) |
100×103㎝,高41㎝ |
元応2(1320)頃 |
|
小西宏和 |
保存状態良好 |
屋根付き/丸味を帯びた4つの石材を組み合わせた井戸=兵庫県伊丹市の昆陽寺・閼伽井(天平9(737)起源)ほどではないが、角が若干丸味を帯びている→古い形式→寺の創建時の築造と見ても矛盾しない |
1 |
B |
 |
下津井吹上2丁目の井戸 |
しもつい、
ふきあげ |
倉敷市 |
下津井地区(吹上) |
石井戸(豊島石、円筒形刳抜き) |
径105㎝,高45㎝ |
江戸以前? |
|
児島の石造物p107/小西宏和 |
保存状態良好 |
吹上地区に3基残る豊島石を用いた円筒形刳抜き井戸の代表 |
1 |
B |
 |
渡里の大井戸 |
わたり |
倉敷市 |
乙島地区 |
石井戸(花崗岩、四角) |
95×97㎝,高44㎝ |
江戸以前? |
|
連島・玉島港の石造物p16,81-82,129/小西宏和 |
保存状態良好 |
乙島が島だった時代の8つの共同井戸の1つ/立派な屋根付き井戸(四方の柱の台も斜めに傾けた円柱石材 |
1 |
B |
 |
札場の井戸 |
さつば |
倉敷市 |
大畠地区 |
石井戸(花崗岩、四角) |
110×106㎝,高37㎝ |
江戸期(あるいは、それ以前) |
|
児島の石造物p117,120/小西宏和 |
補修の跡が大きい |
飲料用/ノミの跡が残る粗い石材 |
3 |
C |
 |
遠州井 |
えんしゅう |
倉敷市 |
船倉町・教善寺 |
石井戸(花崗岩、四角) |
90㎝角,高35㎝ |
江戸初期? |
|
WEB/小西宏和 |
現役の山清水(透明度の高い水)/屋根で覆ってある(水が見えない)/風情のある周辺環境 |
小堀遠江守(1579-1647年)が茶事に愛用していたとの故事/精緻な石組み/井戸端も花崗岩切石敷 |
1 |
B |
 |
旧・総井 |
そう |
倉敷市 |
藤戸地区(藤戸) |
石井戸(花崗岩、四角) |
152×150㎝,高55㎝ |
江戸初期? |
|
藤戸・美観地区の石造物p31/小西宏和 |
保存状態良好 |
かつては総井戸(共同井戸)と呼ばれ、地元で利用していた |
1 |
C |
 |
旭井戸 |
あさひ |
倉敷市 |
乙島地区(水溜・六宝荒神社近く) |
石積み井戸(花崗岩、円形) |
|
宝暦年間(1751-63)以前 |
|
小西宏和 |
昭和51改築=境内の大石を移して井の屋とした/〆縄が付けられている |
宝暦年間、荒神宮の造営にあたりご神水として用い、井の正面に三慧の像を祭って祠とした/石積みの上に大きな自然石が載る(改築時)/井戸内部は花崗岩を「打ち込みはぎ」に積んでいる→非常に珍しい |
3 |
B |
 |
鶴井戸 |
つる |
倉敷市 |
下津井地区(1丁目) |
石井戸(花崗岩、四角) |
177×164㎝,高54㎝ |
寛文10(1670) |
市史跡 |
児島の石造物p129,136/小西宏和 |
町内で所有・管理 |
屋根付き井戸/井戸端も花崗岩切石敷/飲料用、北前船への飲料水の供給用などに使用(亀井戸ができるまで→鶴井戸の水は亀井戸よりも塩分が濃い) |
2 |
B |
 |
寺井戸 |
てら |
倉敷市 |
下津井地区 |
石井戸(花崗岩、四角) |
155×157㎝,高51㎝ |
寛文10(1670) |
市史跡 |
児島の石造物p129,136/小西宏和 |
町内で所有・管理 |
屋根付き井戸/酒造り用などに使用=井戸枠に「酒屋七軒」と陰刻 |
2 |
B |
 |
おいど |
|
倉敷市 |
下津井地区 |
石井戸(花崗岩、六角) |
188×176㎝,高49㎝ |
17世紀?→明治6に井戸脇更新? |
|
児島の石造物p136/小西宏和 |
町内で所有・管理/井戸枠更新 |
おいどの水が最良だったため、御座船がおいど周辺に寄港し、そのため北前船はその周辺に寄港できずに亀井戸周辺に寄港したといわれる/井戸枠には「明治六年」と刻字されているが、上記の歴史的経緯から、井戸そのものは亀井戸とほぼ同時期からあったものと推測 |
3 |
B |
 |
赤穂井戸 |
あこう |
倉敷市 |
児島地区(阿津) |
石井戸(花崗岩、四角) |
137㎝角,高59㎝ |
元禄16(1703)以降 |
|
児島の石造物p105,112/小西宏和 |
周辺環境も維持されている |
赤穂の浪人達(1703年以降)がこの地に塩田を開いた時に掘り当てた/倉敷の他の方形井戸と比較し、表面の加工がきわめて平滑/井戸端も花崗岩切石敷 |
2 |
B |
 |
西浦の井戸 |
にしうら |
倉敷市 |
児島地区(田の口) |
石井戸(花崗岩、四角) |
125㎝角,高51㎝ |
天明5(1785)以前?→明治33に井戸脇更新? |
|
児島の石造物p37/小西宏和 |
井戸枠更新 |
酒造り用などに使用=酒造りを始めたのは天明5年、人はもっと昔からいたと考えられている/井戸枠には「明治三十三庚子年」と刻字されているが、上記の歴史的経緯から、井戸内部の円形石積は天明5以前の構築と推測 |
3 |
C |
 |
亀井戸 |
かめ |
倉敷市 |
下津井地区 |
石井戸(花崗岩、四角) |
184×184㎝,高60㎝ |
享保3(1803) |
市史跡 |
児島の石造物p129,136/小西宏和 |
町内で所有・管理 |
飲料用、北前船への飲料水の供給用、酒造り用などに使用/井戸枠に「亀井」と陰刻→非常に珍しい/内部の掘抜部が四角に掘り抜かれている(方形石組)→珍しい |
2 |
A |
 |
蓮台寺の井戸 |
れんだい |
倉敷市 |
児島地区(由加)蓮台寺 |
石井戸(花崗岩、四角) |
135×132㎝,高72㎝ |
文化10(1813) |
|
児島の石造物p68/小西宏和 |
現役(ただし、生活用水) |
花崗岩を刳り抜いた石を2つ使用して1つの井戸枠として用いる珍しい構造/正面に「奉寄進」と大きく陰刻/右面には世話人として丸亀の商人3名の名前が陰刻 |
1 |
B |
 |
松の井 |
まつ |
倉敷市 |
児島地区(由加) |
石井戸(花崗岩、四角) |
89㎝角,高22㎝ |
江戸期 |
|
児島の石造物p68,70/小西宏和 |
放置 |
池田の殿様(何代目か不明)が由加参拝の際に井水を飲んだところ、由加の霊水よりの湧水は天下随一とし、その後も愛飲したと伝えられる/井戸枠の石がそのまま井戸内部の壁となっている(方形石組)→珍しい |
2 |
B |
 |
本町の井戸 |
ほん |
倉敷市 |
本町 |
石井戸(円筒形刳抜き) |
径106㎝,高59㎝ |
|
|
小西宏和 |
保存状態良好 |
花崗岩でも豊島石でもない石材の円筒形刳抜き井戸 |
2 |
C |
 |
中井戸 |
なか |
倉敷市 |
玉島地区 |
石井戸(花崗岩、四角) |
164×162㎝,高45㎝ |
江戸期 |
|
小西宏和 |
周辺環境も維持されている |
丹波亀山藩の中心近くにあった井戸なので中井戸と呼称された、という説もある |
2 |
C |
 |
天神の井戸 |
てんじん |
倉敷市 |
児島地区(唐琴) |
石井戸(花崗岩、四角) |
122㎝角,高76㎝ |
江戸期 |
|
児島の石造物p28,29/小西宏和 |
井戸内部の円形石組→C化/昭和53に記念碑とするため梅鉢紋を刻んだ四角い枠(明治4)を設置 |
屋根付き井戸/江戸時代から共同井戸として使われていた |
4 |
C |
 |
西国井戸 |
せいこう |
倉敷市 |
玉島地区(阿賀崎) |
石井戸(花崗岩、四角) |
106×108㎝,高56㎝ |
江戸後期 |
|
連島・玉島港石造物p/小西宏和 |
蓋が被せてある/手動ポンプ設置 |
飲料用、酒造り用、北前船への飲料水として利用/所有者が昔船問屋をしており、その名前が西国屋だったことから付いた名称 |
3 |
C |
 |
祇園下台場・跡 |
ぎおんした |
倉敷市 |
下津井地区 |
台場(外周の石垣) |
<3種計6門の大砲> |
文久3(1863) |
|
市教委 |
布積み的な部分と谷積みとが混在し、後補の可能性あり |
石積みが残っているだけで、台場の施設のものは消滅 |
4 |
C |
|
 |
幸橋 |
さいわい |
瀬戸内市 |
シルバー人材センター |
石桁橋(花崗岩) |
長5.4m(G) |
文政11(1828) |
|
WEB(石橋)
| 移設保存/地面に置いてあるだけ |
|
4 |
- |
 |
備前福岡の吉井川常夜灯 |
びぜん、
ふくおか |
瀬戸内市 |
<山陽道>/吉井川 |
石常夜灯(花崗岩)(渡し場) |
高約2m |
天保5(1834) |
|
馬場俊介 |
移設?/火袋が木製 |
一日市の吉井川常夜灯の、吉井川を挟んだ対岸 |
2 |
C |
|
土師の道標1 |
はじ |
瀬戸内市 |
|
石道標 |
高84㎝ |
江戸末期? |
|
政田 孝 |
移設? |
(正面)「右 木鍋宮/左 虫明」/岡山藩の石の文化を支えた石工・河内屋治平(何代目かは不明)の銘が入っている |
2 |
C |
|
土師の道標2 |
はじ |
瀬戸内市 |
|
石道標 |
高84㎝ |
江戸末期? |
|
政田 孝 |
移設? |
(正面)「右 木鍋宮鹿忍/左 すぐ虫明道」/岡山藩の石の文化を支えた石工・河内屋治平(何代目かは不明)の銘が入っている |
2 |
C |
 |
牛窓・一文字の波止 |
うしまど、
いちもんじ |
瀬戸内市 |
牛窓港 |
石防波堤(花崗岩) |
長678m,高2.7m |
元禄8(1695) |
|
歴史の道7p9 |
2度にわたって大改修/旧石堤は新規構造物の下に埋没 |
津田永忠/江戸期の防波堤としては群を抜いて巨大(しかも離岸堤)/犬島産の花崗岩を使用 |
4 |
A |
 |
(再現)牛窓燈籠堂 |
うしまど |
瀬戸内市 |
牛窓港 |
木灯明台(海運) |
全高7.45m,石基壇(上部4.3m四方,基部4.9m四方,高2.2m) |
延宝年間(1673-81) |
市史跡(石基壇のみ) |
教育委員会/歴史の道7p4,10 |
明治期に撤去、昭和63石基壇の上に燈籠堂を復元 |
大型の木造灯明台(石基壇のみ文化財)/夜間航行の標識として、池田綱政の命により建設/鯨油を使用 |
3 |
B |
 |
上笠加の常夜灯 |
かみがさか |
瀬戸内市 |
|
石常夜灯(花崗岩)(用水路舟運) |
高2.33m |
文化10(1813) |
|
都市計画課 |
原位置/火袋コンクリート改修 |
用水用の常夜灯 |
3 |
C |
 |
樋口の常夜灯 |
ひぐち |
瀬戸内市 |
|
石常夜灯(花崗岩)
(用水路舟運) |
高3.25m |
文政9(1826) |
|
都市計画課 |
原位置/景観も含め、保存状態良好 |
用水用の常夜灯/すぐ脇に雁木/非常に細い火袋の柱 |
1 |
B |
 |
香登川の旧懸樋
(石の懸樋) |
かがと |
瀬戸内市 |
<大用水/香登川> |
石桁水路橋
(花崗岩) |
長9.5m,幅0.79m,高0.65m(有効断面) |
江戸中期 |
|
樋口輝久 |
平成8の河川改修で撤去、桁部のみ展示 |
県内では田原用水の旧懸樋に次ぐ規模の石桁水路橋だが、かなり小規模 |
4 |
B |
 |
前島の大坂城石垣石切丁場・跡 |
まえじま、
おおさか |
瀬戸内市(前島) |
<大坂城石垣石切丁場> |
石丁場(花崗岩) |
|
17世紀を中心とする時代 |
|
都市計画課 |
|
県下では、最大の大坂城残石群(小豆島のものと比較すると規模は小さい) |
2 |
B |
 |
備前福岡の七つ井戸 |
びぜん、
ふくおか、
ななつ |
瀬戸内市 |
|
|
|
江戸中期以前 |
|
都市計画課 |
|
鎌倉時代、西国一と言われた福岡市(ふくおかのいち、福岡県福岡市の命名の由来)の生活用水や防火用水に利用された共同井戸/現在、7つのうち4基の井戸が残っている |
2 |
C |
|
|
備中国分尼寺前面の道路遺構 |
|
総社市 |
<山陽道> |
道路 |
幅約6m |
古代 |
|
木下 良 |
|
古代山陽道の直線性をよく残している |
|
B |
 |
保木(歩危)の松山往来
(種井の旧道) |
ほき、たねい |
総社市 |
<松山往来> |
道路 |
幅50㎝~1m |
江戸期 |
|
歴史の道9p13 |
|
県下の往来の中でも、古い形態を残す(非常に細い道) |
2 |
C |
 |
久代の石橋 |
くしろ |
総社市 |
人道/新本川 |
石桁橋(花崗岩) |
長25m(6G) |
江戸期? |
|
WEB(石橋) |
橋面舗装/橋脚のうち2本は改修 |
6径間の石桁橋は数少ない/3本柱の橋脚 |
3 |
B |
 |
宿の道標 |
しゅく |
総社市 |
<山陽道> |
石道標(花崗岩) |
|
文化3(1806) |
|
WEB(的形道標クラブ) |
昭和63移設 |
(正面)「國分寺詣道」 |
2 |
C |
 |
上林の道標 |
かんばやし |
総社市 |
備中国分寺・前<山陽道> |
石道標(花崗岩) |
|
文政9(1826) |
|
WEB(的形道標クラブ) |
原位置? |
(正面頂部)「當國順禮/二十八番」、(正面)「日照山國分寺」、(左面)
「従是 倉敷觀龍寺江 一里半」 |
1 |
B |
 |
総社の道標 |
そうじゃ |
総社市 |
(3丁目)松山藩八田部村高札場跡 <松山往来> |
石道標(花崗岩) |
高155㎝ |
江戸期? |
|
歴史の道9p6 |
移設 |
(正面)「西 まつ屋ま や可け道」、(右面)「南 くらしき □□…」、(裏面)「東 みやうち をかやま道」/擬宝珠形 |
2 |
C |
 |
千引カナクロ谷製鉄遺跡 |
せんびき |
総社市 |
埋蔵文化財学習の館 |
製鉄炉(2号炉)
(1基) |
縦4.15m,横2.88m
(9分割構成) |
6世紀後半~末 |
|
市教委 |
レプリカ (上の写真は館内展示のレプリカ/下の写真は遺跡発掘時の様子) |
大陸の渡来人により導入された製鉄炉の可能性が指摘されている/底に石が敷いてある土製の正方形炉→特異な形式/原料はたたら製鉄で使われる砂鉄ではなく鉄鉱石だったとされる/土器が出ていないので年代特定ができない |
3 |
A |
 |
水内橋下流の猿尾 |
みのち |
総社市 |
高梁川(右岸) |
石水制 |
長77m |
江戸後期? |
|
山本 均 |
修復の度合いは不明 |
2018年7月の西日本豪雨の際、高梁川の該当箇所の堤防の防御に効果があった(撮影は、2018年7月10日) |
2 |
C |
|
菊水の井戸 |
きくすい |
総社市 |
神護寺 |
石井戸(花崗岩、方形) |
|
正応元(1288)以前 |
|
歴史の道9p5/WEB |
平成元に修景整備(現存施設は後世のもの) |
総社三名水の一つ/正応元年の嘗会歌に因む/備中巡礼略記では「清水の井」 |
4 |
B |
|
福山城の井戸・跡 |
ふくやま |
総社市 |
<備中福山城> |
石組み井戸 |
|
元徳3(1331) |
国史跡 |
WEB |
浅い窪みになっているだけ |
石が環状になっている |
4 |
C |
|
|
吹屋の大塚道の石階段 |
ふきや、
おおつか |
高梁市 |
<吹屋往来> |
石階段 |
|
|
|
歴史の道9p15 |
|
下谷地区から中町(吹屋)へ |
|
|
 |
水迫橋 |
みさこ |
高梁市 |
楢井ダム公園 |
石刎橋(花崗岩) |
長5.1m(G) |
宝永6(1709) |
|
市教委 |
楢井ダムの建設に伴い公園内に移設 |
賀陽町上竹の大地主であった水迫長兵衛が寄進/山口県に多い瀬戸内塩田タイプ、萩周辺の刎石の短いタイプの何れとも異なる→山口県以外でも西日本各地で時折見られる刎橋の何れとも似ていない→国内で唯一の独自の構造(※)⇒石刎の上に横梁を載せる独自の構造(構造的には安定しない)/年代的に見ても山口県で最古の「盤石橋」(1764)より半世紀近く古く、そうした意味でも重要な存在である/※ 群馬県安中市の板鼻鷹巣神社の石橋(嘉永6)が同一構造であると確認された(2015.
11.12)。同じような奇抜な発想が孤立的に出現したものと思われる。 |
2 |
A |
|
田井の常夜灯 |
たい |
高梁市 |
<新見往来>/高梁川 |
石常夜灯(渡し場) |
高1.53m |
文久3(1863) |
|
歴史の道9p22 |
|
田井の渡し/「文久三年正月吉日」 |
|
|
 |
笠神の文字岩 |
かさがみ |
高梁市 |
成羽川
(ダム湖底、
ダム湖畔の公園) |
石碑
(自然岩、レプリカ) |
高最大6m,
周囲19m
(レプリカは余分な部分を削り取って小型化) |
徳治2(1307) |
国史跡 |
市教委/県教委/図説岡山県の歴史p107 |
昭和43、田原ダム完成により水没→渇水期には見ることが可能/平成3にダム湖畔の公園にレプリカ(刻字の配置は正しいが、岩の形は湖底のオリジナルとは相当異なる)を設置
→写真(上)がオリジナル(赤枠がレプリカの範囲)、写真(下)がレプリカ |
(正面右側)「笠神船路造通事/徳治二年、丁・未、七月廿日始之八月一日平之己其時□□/右笠神龍頭上下瀬十余ケ所者為日□川無雙難所之間/薩埵慈悲大士□懐不可奉不可不□依之/相勧諸方十余ケ日月平之功己畢/當圀成羽善養寺/大勧進沙門尊海/南都西大寺實行/奉行代沙門實専/根本発起四郎兵衛□□/石切大工伊行経/主□藤原□□」(緑字は異体字)/碑の建立年不明(上記「石切大工伊行経」が刻んだとされている)/わが国最古の河川開削記念碑/鎌倉時代には備中北部の砂鉄は山道を2日がかりで成羽まで運ばれていた→笠神の瀬を船が通れるようにすれば半日に短縮/工事の中心となったのは、成羽善養寺の僧・尊海、工事奉行は奈良西大寺の実専、石切大工の伊行経は奈良の東大寺の再建にあたった宋の伊一族の石工と言われる/正面中央に寛政9(1797)に作州久世天領代官・早川八郎左衛門政紀が巡察の途中に訪れた際、銘文を読み所感を歌に託した歌 |
3 |
A |
 |
成羽川・古町堤防の常夜灯 |
なりわ、
ふるまち |
高梁市 |
成羽川 |
石常夜灯(花崗岩)(河川舟運) |
|
享和元(1801) |
|
歴史の道9p11,13 |
|
高瀬舟の船着場(継舟制のため荷の積み替え) |
|
|
 |
落合橋下の猿尾 |
おちあい |
高梁市 |
高梁川 |
石水制
(巻石、花崗岩) |
長約100m,幅7~10m |
17世紀中頃? |
|
市教委/現地解説板 |
先端部を近代の谷積流に改修(平成18)→雰囲気が破壊 |
現存する県内最大級の石水制/高梁川と成羽川の合流点に設けられた突堤/高瀬舟の船着場/備中松山藩主水谷氏が高瀬舟の水路開削に伴い、整備した護岸石垣を利用して築かれた(伝承) |
4 |
B |
|
吉岡銅山 |
よしおか |
高梁市 |
|
銅鉱山 |
|
江戸期? |
|
歴史の道9p15 |
|
|
|
|
|
 |
秀天橋 |
しゅうてん |
玉野市 |
人道/鴨川 |
石桁橋(花崗岩) |
長約36m(9G) |
18世紀 |
県史跡 |
馬場俊介 |
右岸側に橋の価値を喪失させるような河川改修が行われた→石橋脚もかなり埋没し、一部の石材は更新された |
実用橋として国内に現存する原位置・現役の最長の石桁橋/建造年に関しては諸説ある/3本の背の高い石柱の上に横梁を載せ、その上に直接石梁を載せる最も単純な形式/金毘羅往来や由加往来との関連性も指摘されている |
3 |
 |
|
|
松ヶ乢越 |
まつがたわ |
津山市 |
<因幡道> |
道路 |
|
江戸期 |
|
歴史の道5p33 |
|
明治中頃に加茂川沿いの道ができるまでは、標高270mの峠を越えていた |
|
|
 |
城東の大曲り |
じょうとう、おおまがり |
津山市 |
中之町・西新町の境
<出雲往来> |
鈎型道路 |
|
慶長8(1603)以降 |
|
WEB(津山) |
形態がよく残る |
津山城の防衛のためとされている/下記の「荒神曲り」との距離は、大名行列がすっぽりと入る長さ、と言われている |
1 |
B |
 |
城東の荒神曲り |
じょうとう、こうじんまがり |
津山市 |
東新町・東端<出雲往来> |
鈎型道路 |
|
慶長8(1603)以降 |
|
WEB(津山) |
形態がよく残る |
同上 |
1 |
B |
 |
河辺上之町の東の枡形 |
かわべうえ、ますがた |
津山市 |
<出雲往来> |
石塁 |
|
寛文4(1664) |
市史跡 |
市教委/WEB |
街道の両側に良好に残る→全国的に見ても両口・左右の4ヶ所が原形のまま残っているケースは稀少 |
堅固な石積を用いた枡形(構口)/津山城の外郭防備のための「出雲街道の関」としての役割もあったと推定されている/津山藩第2代藩主・森長継の耕地拡張政策によって河辺村の57戸が丘陵への移転を命じられた地域 |
1 |
A |
 |
河辺上之町の西の枡形 |
かわべうえ、ますがた |
津山市 |
<出雲往来> |
石塁 |
|
寛文4(1664) |
市史跡 |
市教委/WEB |
同上 |
同上 |
1 |
A |
 |
坪井の金毘羅常夜灯群 |
つぼい |
津山市 |
<出雲街道> |
石常夜灯 |
高3.1m |
文政2(1819),
文政9(1826),
天保8(1837),
嘉永5(1852) |
|
市教委 |
|
坪井の用水路沿い/計4基/3基は移設(2基は亀山城の稲荷宮入口へ、1基は七森神社の入口へ) |
2 |
B |
 |
茶屋の金毘羅常夜灯 |
ちゃや |
津山市 |
<出雲街道> |
石常夜灯 |
|
江戸期? |
|
WEB |
原位置/木製の火袋 |
(竿正面)「金」 |
2 |
C |
 |
押入の道標 |
おしいれ |
津山市 |
<因幡道> |
石道標 |
高117㎝,幅19㎝,厚18㎝ |
元禄2(1689) |
|
市教委/歴史の道5p22,24 |
蟹子川沿いから移設 |
(正面)「西 是より左北 のかも道」、(右面)「南 是より右 因幡道」、(左面)「北」、(裏面)「東」/17世紀の道標 |
2 |
B |
 |
山下の道標1
(玉琳の道標) |
さんげ |
津山市 |
津山郷土博物館 |
石道標 |
高103㎝ |
元禄2(1689) |
|
市教委(出雲街道9p242) |
移設(もと、玉琳三叉路)→保管庫内/上下2つに割れる |
(正面)「西 是より左 因幡道」/17世紀の道標 |
4 |
B |
 |
杉宮の道標
(茶屋林道標) |
すぎのみや
|
津山市 |
<因幡街道> |
石道標(蒲鉾型) |
高85㎝,幅18㎝ |
宝暦4(1754) |
市重文 |
歴史の道5p25-26 |
原位置? |
(正面)「右 金森山新善光寺道」、(左面)「左 い奈者"ミち」 |
1 |
C |
 |
河辺の道標 |
かわなべ
|
津山市 |
<出雲街道> |
石道標 |
高約110㎝ |
安永10(1781) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「右 國分寺道」/頂部に繰形風飾り |
2 |
C |
 |
田熊の地蔵道標1(東向き) |
たのくま |
津山市 |
<真加部街道> |
石道標(自然石) |
高87㎝(塔身のみ),幅47㎝,厚27㎝ |
文政13(1830) |
|
市教委 |
原位置 |
(正面右枠)「右 かもみち」、(同左枠)「左 つ山みち」/正面を光背型に削り込み地蔵立像を陽刻/東向きと西向きの地蔵が背中合わせに並ぶ |
1 |
B |
 |
田熊の地蔵道標2(西向き) |
たのくま |
津山市 |
<真加部街道> |
石道標(自然石) |
高90㎝(塔身のみ),幅40㎝,厚23㎝ |
文政13(1830)? |
|
市教委 |
原位置?/上部が2ヶ所で折損→修復 |
(正面右枠)「右 長尾山みち」、(同左枠)「左 やたひ」/正面を光背型に削り込み地蔵立像を陽刻/東向きと西向きの地蔵が背中合わせに並ぶ/紀年銘はないが、上記の「田熊の地蔵道標1」とペアで造られたもの |
2 |
B |
 |
山下の道標2 |
さんげ |
津山市 |
津山郷土博物館 |
石道標(尖頭角柱) |
高63㎝,幅18㎝,
厚19㎝ |
文政13(1830) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「右、一の宮/久良与し」(=倉吉)、(左面)「左 惣社」 |
2 |
- |
|
田熊の道標 |
たのくま |
津山市 |
|
石道標(自然石) |
高93㎝,幅34㎝,
厚25㎝ |
弘化3(1846) |
|
市教委 |
原位置? |
(正面)「(梵字)右 たぐま/中 なら かうも ふくい/左 津山、道」 |
1 |
C |
 |
院庄の備後三郎旧跡道標 |
いんのしょう |
津山市 |
<出雲往来> |
石道標(花崗岩) |
高160㎝ |
江戸期? |
|
歴史の道4p24 |
|
(正面)「従是 備後三郎舊跡江之道」/院庄館跡・作楽神社への道標 |
2 |
C |
 |
楢船着場の常夜灯 |
なら |
津山市 |
加茂川 |
石常夜灯
(河川舟運) |
高5.87m(うち、基壇2.75m) |
天保9(1837) |
市史跡 |
市教委 |
保存状態良好 |
「天照皇大神宮、金比羅大権現、中山大神宮、木山午頭大王」 |
1 |
A |
 |
中須賀船着場の常夜灯 |
なかすか |
津山市 |
吉井川 |
石常夜灯(花崗岩)(河川舟運) |
|
嘉永7(1854) |
市史跡 |
WEB |
河川改修により移設 |
中須賀は、吉井川の水運と陸上交通の要所(東西へは出雲街道、北に中谷街道、南に備前街道)で、高瀬船による水運盛行/明治のものも含め3基の常夜灯が並ぶ |
2 |
C |
 |
船頭町の船着場跡の水制 |
せんどう |
津山市 |
吉井川 |
石水制(舟運) |
|
江戸初期? |
|
WEB |
河岸上に水制のみ残る |
津山の高瀬船舟運の拠点 |
4 |
B |
 |
小田中の水制 |
おたなか |
津山市 |
吉井川 |
石水制(治水) |
|
江戸期 |
|
WEB |
現役/良好な保存状態 |
吉井川に残る最大の水制(とは言っても、小型)/津山より上流 |
2 |
C |
|
 |
哲西町上神代の道標1 |
てっせい、
かみこうじろ |
新見市 |
(市岡) |
石道標(自然石) |
高80㎝,幅57㎝,
厚20㎝ |
元禄6(1693) |
|
吉岡速人 |
移設/刻字の詳細判読困難 |
(正面)「是より左 大山道/是より右 みまさか道」/17世紀の道標 |
3 |
B |
 |
哲西町上神代の道標2 |
てっせい、
かみこうじろ |
新見市 |
(下タ組) |
石道標(自然石) |
高99㎝,幅55㎝,
厚20㎝ |
寛保元(1741) |
|
吉岡速人 |
原位置?/半分以上埋設 |
(正面)「従是、右ハ み(まさか道)/左ハ (大せん道)」〔青字は埋設→資料による〕 |
2 |
C |
 |
正田の道標 |
しょうでん |
新見市 |
<松山・新見往来> |
石道標(自然石) |
高67㎝(塔身),
幅37㎝,厚27㎝ |
文化15(1815) |
|
吉岡速人 |
原位置? |
(正面)「右ハ 松山/左ハ 山通」 |
1 |
- |
 |
哲西町畑木の地蔵道標 |
てっせい、
はたき |
新見市 |
(住吉) |
石道標(舟型) |
高64㎝(塔身のみ),幅33㎝,厚16㎝ |
文政1(1828) |
|
吉岡速人 |
原位置? |
(光背右)「左 新見道」、(同左)「右 松山道」/光背中央に地蔵坐像の浮彫 |
1 |
C |
 |
哲西町大野部の馬頭観音像道標 |
てっせい、
おおのべ |
新見市 |
(川東) |
石道標(自然石) |
高104㎝,幅50㎝,
厚33㎝ |
元治2(1865) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面最下部右)「右 山道」、(同左)「左 ふきや道」/正面頂部に梵字、その下を光背型に削り込み小さな馬頭観音坐像(三面六臂〔馬頭冠〕)を陽刻、その下に「爲牛馬安全」と陰刻 |
2 |
B |
 |
哲西町上神代の馬頭観音像道標 |
てっせい、
かみこうじろ |
新見市 |
(大茅) |
石道標(自然石) |
高76㎝,幅67㎝,
厚20㎝ |
元治2(1865) |
|
吉岡速人 |
移設、集約(放置に近い)/像容不鮮明、刻字は判読困難 |
(正面右上)「右、をくし/ちとり」、(正面左下)「左 あハた」/正面全面に馬頭観音坐像(三面○臂)を陽刻 |
3 |
B |
 |
長屋の題目塔道標 |
ながや |
新見市 |
(下長屋)
<松山・新見往来> |
石道標(自然石) |
高約50㎝ |
江戸期? |
|
吉岡速人 |
原位置 |
(正面右下)「右ハ 山ミち」、(同左下)「左ハ まつ山ミち」/正面中央に「南無阿弥陀佛」と陰刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 |
1 |
- |
 |
石蟹の地蔵道標 |
いしが |
新見市 |
<松山・新見往来> |
石道標(舟型) |
高約40㎝(塔身のみ) |
江戸期? |
|
吉岡速人 |
移設? |
(光背右)「左 □□ミち」、(同左)「右 まつ山ミち」/光背中央に地蔵立像の陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 |
2 |
- |
 |
二本松峠の国境石1 |
にほんまつ |
新見市 |
二本松峠<備中新見路> |
境界石(尖頭角柱、花崗岩) |
高180㎝,幅23.5㎝,厚20㎝ |
江戸期 |
|
WEB(国境石散歩) |
原位置/再現された二本松峠の御境杭木の備中側に立つ |
(正面)「從是東 備中國」(緑字は異体字)/備後側はレプリカ |
1 |
B |
 |
三日市船着場 |
みっかいち |
新見市 |
高梁川 |
船着場
(護岸、水制) |
|
承応元(1652)頃 |
|
WEB |
護岸の一部がコンクリート化 |
備中松山藩が高梁川の舟運を高梁から新見まで延長した際の、高瀬舟の発着場(昭和初期まで続く)/巻石状の船着場が延々と残る/水制も1基残る |
2 |
A |
|
 |
香登一里塚 |
かがと |
備前市 |
<山陽道> |
一里塚(1基)(野面・乱積の石積) |
北塚:南北7m,東西5m,高1.8m |
江戸期 |
市史跡 |
市教委/歴史の道1p16 |
平成14に石積修理 |
少なくとも明治期から石積みの変形一里塚(当時の写真による→江戸期の姿は不明だが、何らかの改修があった可能性が高い) |
2 |
C |
 |
閑谷学校の泮池橋 |
しずたに、
はんいけ |
備前市 |
<閑谷学校> |
石桁橋(花崗岩) |
長3.9m(G) |
元禄14(1701) |
国重文 |
WEB(石橋)
| 保存状態良好 |
閑谷学校の入口に架かる格式高い橋/一切の装飾を排しながら重厚感がある/橋台の石組みも見事 |
1 |
C |
 |
福生寺霊供養塔前橋 |
ふくせいじ |
備前市 |
福生寺 |
石桁橋(花崗岩) |
長4.2m(G) |
天保5(1834) |
|
WEB(石橋)
| 保存状態良好 |
緩やかな弓型/大規模な橋台石組み |
1 |
C |
 |
鶴海の石橋 |
つるみ |
備前市 |
人道 |
石桁橋(花崗岩) |
長10.8m(3G) |
江戸期? |
|
WEB(石橋)
|
橋両側面をC舗装 |
2.3mと幅のある割に2本脚の石柱(矢穴跡が多く見られる) |
3 |
C |
 |
香登西の金毘羅常夜灯 |
かがとにし |
備前市 |
<山陽道> |
石常夜灯
(自然石、花崗岩) |
高約3m |
天保10(1839) |
|
WEB(的形道標クラブ) |
原位置?/火袋後補 |
(竿正面)「奉燈、金毘羅大權現/瑜伽大權現」 |
2 |
B |
 |
坂根の道標 |
さかね |
備前市 |
熊山登山口<山陽道> |
石道標(尖頭角柱) |
高90㎝,幅26㎝,
厚22㎝ |
元文2(1737) |
|
WEB(的形道標クラブ) |
原位置? |
(正面)「從是 熊山道」、(右面)「宮ま天 四十五丁」 |
1 |
C |
 |
西片上の道標 |
にしかたかみ |
備前市 |
<山陽道・片上宿> |
石道標 |
|
天保6(1835) |
|
WEB(的形道標クラブ) |
移設 |
(正面)「左 渡海場」、(右面)「右 ゑ飛す道」(=恵美須神社) |
2 |
C |
 |
三石の備前国境石 |
みついし |
備前市 |
<山陽道> |
境界石(花崗岩) |
高約1.8m,幅0.27m |
元禄16(1703) |
市史跡 |
市教委/歴史の道1p6 |
「旧山陽道沿い」という雰囲気に欠ける |
(正面)「從是西備前國」/『撮要録』に建立年の記載あり |
3 |
B |
 |
大多府港の元禄防波堤 |
おおたぶ |
備前市(大多府島) |
大多府港 |
石防波堤
(巻石、花崗岩) |
延長129.7m |
元禄11(1698) |
国登録 |
馬場俊介 |
先端部を二重巻石に改造 |
施工:津田永忠/国内現存・現役最古級の保存状態の良い大型防波堤/典型的な巻石タイプの防波堤で、形態としての曲面、構造としての空積の相乗効果で波のエネルギーを巧みに消している(これ以降にヨーロッパで造られるようになる垂直タイプの防波堤=「波力に対抗する」とは正反対の発想)/瀬戸内海航路の港としてではなく、荒天時の避難港して整備された |
2 |
 |
 |
(再現)大多府港・燈籠堂 |
おおたぶ |
備前市(大多府島) |
大多府港 |
木灯明台(海運) |
全高10.91m,石基壇(上部4.68m四方,基部5.28m四方,高3.1m) |
元禄11(1698)? |
市史跡 |
|
昭和61に復元 |
木造灯明台(石基壇のみ文化財指定)/上部がアンバランスに大きい |
3 |
B |
 |
友延新田の井田・跡 |
とものぶ、
せいでん |
備前市 |
友延新田 |
井田 |
3×3の9区画(1区画約1ha)が2つ |
寛文11(1671) |
市史跡(碑のみ) |
馬場俊介 |
全体に見れば区画割りは当時の形を保っているが、特に、「九ノ町」に残る中央水路の周辺は往時の姿を留めている/JR赤穂線が斜めに横断している |
施工:津田永忠/孟子が理想とした中国古代の租税法を再現するため造成された3×3の碁盤目状区画の井田/孟子の思想の影響を受けた池田光政が、理想の租税法を試行的に実現させた/国内で唯一現存するオリジナルの井田/宝永7(1710)、閑谷学校田になり学校の財政基盤の向上に役立った |
3 |
 |
 |
閑谷学校の市ヶ谷池樋門 |
|
備前市 |
<閑谷学校> |
石樋門(花崗岩) |
|
元禄14(1701)? |
|
閑谷学校 |
半壊 |
閑谷学校の上流部にある池の樋門/閑谷学校の洪水防御用との説もあるが、実態は不明 |
4 |
C |
|
中田池左岸側荒手の導流堤 |
なかた |
備前市 |
<閑谷新田> |
石導流堤
(巻石、花崗岩) |
長約35m,高約1.5m |
元禄14(1701)以前 |
|
閑谷学校 |
ほぼ当時のままと推測される |
閑谷学校の下流部にある溜池の導流堤/かまぼこ型の断面 |
2 |
C |
 |
大多府港の大井戸 |
おおたぶ |
備前市(大多府島) |
大多府港 |
石井戸
(六角、花崗岩) |
直径2m |
元禄11(1698) |
市史跡 |
|
修景整備 |
規模はそれほど大きくないが、きれいな六角井戸/井戸端も花崗岩切石敷 |
3 |
B |
 |
閑谷学校の石塀 |
しずたに |
備前市 |
<閑谷学校> |
石塀
(巻石、水成岩) |
高約2m,幅約1.9m,延長505.17m |
元禄14(1701) |
国重文 |
図説岡山県の歴史p177 |
一部で石に緩みが出ている |
施工:津田永忠/閑谷学校を囲む丸味を帯びた独特の美しい石塀→いわゆる「巻石」タイプ: 巻石とした背景として、機能的には、①排水のため(土塀だと瓦屋根を付けるが石塀なので天端を丸くして内部に水が浸透しにくくした)、形態的には、②沖縄県那覇市の「孔子廟・石牆」と同型(閑谷学校は儒学の殿堂のため儒教様式にした)などの説があるが定かではない/石塀として評価すれば全国一のスケールと存在感がある/南側と東西は、不整形に切った水成岩を組み合わせたかまぼこ形/北側は石積のみ |
1 |
 |
|
|
八反の崖道 |
はったん |
真庭市 |
<出雲往来> |
道路 |
幅50㎝~1m |
|
|
歴史の道4p33 |
|
新庄川から50~100m上の崖縁/「美甘三里は五里ござる」と言われるほど険しい道/度々、牛が転落した難所 |
|
|
 |
上河内の追分道標1 |
かみごうち |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標(尖頭角柱) |
高85㎝,幅18㎝ |
元禄2(1689) |
|
歴史の道4p26/出雲街道3p82 |
文久の道標を建て直した際に発掘/刻字が摩耗して判読困難 |
(正面)「東 是より左 備中みち」/森長成が往来筋に整備/17世紀の道標 |
3 |
B |
 |
勝山の道標 |
かつやま |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標(尖頭角柱) |
高約60㎝ |
元禄2(1689) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「南 是より右 ゆ者ら」(=湯原)、他面頂部に、「東」「西」「北」の表示あり/17世紀の道標 |
2 |
C |
 |
久世の道標 |
くせ |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高約90㎝ |
寛政4(1751) |
|
吉岡速人 |
原位置? |
(正面)「右 由者ら道」(=湯原)、(左面)「左 ま加みち」 |
1 |
C |
 |
蒜山上徳山の題目塔道標 |
ひるぜん、
かみとくやま |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標(尖頭角柱) |
高約120㎝ |
明和5(1768) |
|
吉岡速人 |
移設?/下部で折損→修復 |
(右面)「右 いせ道」、(左面)「左 くらよし道」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻/頂部に小さな宝珠を一体加工 |
2 |
C |
 |
藤森の地蔵道標 |
ふじもり |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標(自然石、花崗岩) |
高約50㎝ |
文化10(1813) |
|
歴史の道5p26/
吉岡速人 |
原位置? |
(正面像右)「右 くらよし」、(同左)「左 大せん」/正面中央を火灯窓形に削り込み地蔵立像を陽刻 |
1 |
C |
 |
蒜山上徳山の道標 |
ひるぜん、
かみとくやま |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標(尖頭角柱) |
高87㎝(塔身のみ),幅29㎝ |
天保3(1832) |
|
吉岡速人 |
原位置?/周辺アスファルト舗装 |
(正面)「右 大セん 米子/左 志ん庄 根雨、道」 |
1 |
C |
 |
本郷の道標 |
ほんごう |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高144㎝,幅26㎝ |
嘉永5(1852) |
|
歴史の道4p31-32 |
移設(元は上高田橋の対岸) |
(正面)「南 左 雲伯往来」、(右面)「東 (右指差し) 大仙 倉吉道」、(左面)「西 右 京 大坂道」 |
2 |
C |
 |
上河内の追分道標2 |
かみごうち |
真庭市 |
<出雲往来> |
石道標
(六角、花崗岩) |
高270㎝,各辺25㎝ |
文久3(1863) |
|
歴史の道4p27/歴史の道8p2/WEB |
上から1/3は修復 |
「西 出雲大社 江 三十七里」「伯州大仙 江 拾七里」「伊勢大神宮 江 八十五里」「東 木山宮、従是左江 三里/五ヶ村日詣」「讃州金毘羅 江 三十三里」「能勢妙見、江 四十五里」/「石寄進発起願主坪井宿」として24人の名が石柱の一番下の周囲に刻まれている/六角でかつ大型のの道標は稀 |
2 |
A |
 |
大山神門 |
だいせん |
真庭市 |
<大山道> |
石柱
(花崗岩、2本) |
|
文政4(1821)→昭和50発見→昭和57設置 |
|
歴史の道5p27 |
鳥居の柱のみ残ったもの |
鳥居ヶ乢/大山遙拝所/蒜山高原とその背後に大山がそびえる/明治期に道路工事で取り除かれ、しばらく忘れ去られる |
3 |
C |
 |
勝山船着場の水制 |
かつやま |
真庭市 |
旭川 |
石水制(舟運) |
複数 |
(室町末起源)→江戸期 |
|
WEB |
江戸期の水制が、近代の護岸と一体化 |
旭川の水運として北の発着点 |
2 |
 |
|
|
鎌坂峠 |
かまさか |
美作市 |
<因幡道> |
道路 |
|
江戸期 |
|
WEB |
|
昔から有名な鎌坂/因幡街道で因州鳥取から播州へ通ずる江戸住返の国道 |
|
|
 |
古町の道標 |
ふるまち |
美作市 |
<因幡往来> |
石道標 |
|
元禄2(1689) |
|
市教委/
歴史の道5p10 |
近接移設 |
(正面)「北 是より左 播磨 ひらふく道」、(右面)「西 是より右 津山道」/17世紀の道標 |
1 |
B |
|
林野の道標 |
はやしの |
美作市 |
<倉敷往来> |
石道標 |
高137㎝ |
江戸期 |
|
歴史の道6p60 |
美作市歴史民俗資料館に保存(元は、ときわ橋を入田側に渡った地点) |
「右 津山道」「左 たん生寺道」/建立が「大坂講中」→「大坂」の標記は江戸期 |
3 |
C |
|
 |
志戸坂峠道 |
しとさか |
(英田)西粟倉村 |
<智頭往来> |
道路 |
|
平安時代→江戸期 |
国史跡 |
吉岡速人/現地解説板 |
現存しているのは江戸期の峠道 |
参勤交代の要道としてよく利用された/つづら折れの道 |
1 |
B |
|
|
元・浜中の干拓堤防 |
はまなか |
(浅口)里庄町 |
<干拓堤防→鴨方往来> |
土堤防 |
|
元禄年間(1688-1703) |
|
歴史の道6p70 |
干拓堤防が鴨方往来 |
藩医・平井祐仙が、私財を投げ打ち、土手を築いて干拓を行ない23haの新田を開いた |
|
|
|
 |
西川面の金毘羅常夜灯 |
にしかわも |
(小田)矢掛町 |
県道・水砂~矢掛線 |
石常夜灯 |
高7m弱 |
弘化4(1847) |
町重文 |
妹尾英樹 |
全高の約半分を占める石基壇に11段の石階段がそのまま残る(全国でも稀) |
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿右面)「天照皇太神宮」、(竿左面)「吉備津宮」/中国地方より西で最大の常夜灯 |
1 |
A |
 |
川面の道標 |
かわも |
(小田)矢掛町 |
<山陽道> |
石道標(尖頭角柱) |
高160㎝,幅35㎝ |
文化7(1810) |
|
吉岡速人 |
原位置?/下部で水平に折損→修復 |
(正面)「貴布祢宮道」、(左面)「是より南 十丁」 |
1 |
C |
 |
東三成の道標1 |
ひがしみなり |
(小田)矢掛町 |
(行部)<山陽道> |
石道標(尖頭角柱) |
高126㎝ |
安政5(1858) |
|
歴史の道1p40/WEB(的形道標クラブ) |
移設 |
(正面)「左 大坂道」、(右面)「右 玉しま道」 |
2 |
C |
 |
東三成の道標2 |
ひがしみなり |
(小田)矢掛町 |
<山陽道> |
石道標(尖頭角柱) |
高144㎝,幅28㎝ |
江戸後期 |
|
歴史の道1p39-40
/吉岡速人 |
原位置?/下部埋設 |
(正面)「福頼宮江 拾…」 |
|
|
|
吉備真備産湯の井戸 |
きびのまきび |
(小田)矢掛町 |
吉備真備公園 |
石井戸(花崗岩) |
|
7世紀頃? |
|
WEB |
|
吉備真備公(695-775年)の産湯に使われたことから付けられた名/普通の石組み井戸/倉敷にも同名の井戸 |
2 |
C |
|
 |
藤田の石橋 |
ふじた |
(加賀)吉備中央町 |
人道/加茂川 |
石刎橋 |
長3.6m(2G),幅1.8m |
嘉永4(1851) |
町史跡 |
岡山の石橋
/WEB(石橋) |
保存状態良好 |
2本の柱で支え、中央部が高くなり傘状をしている/2径間の刎橋でありながら、中間の橋脚が2本の石柱だけという特異な事例 |
1 |
B |
 |
小森の郷蔵(育麦倉) |
こもり
(せむぎ) |
(加賀)吉備中央町 |
|
郷倉
(土蔵造切妻瓦葺) |
|
元文3(1738) |
町重文 |
WEB |
原位置?/屋根は改変 |
岡山藩で唯一現存する郷倉 |
1 |
C |
|
|
旧・轟池の地蔵道標 |
|
(勝田)勝央町 |
<出雲往来> |
石道標 |
|
江戸期? |
|
歴史の道4p8-9 |
移設/轟池は現在は田/倉敷道と播磨道を示しているが現状と合わない |
|
2 |
|
|
 |
柿の道標(元禄道標) |
かき |
(勝田)奈義町 |
<因幡道> |
石道標(尖頭角柱) |
高約70㎝ |
元禄2(1689) |
町有形民俗 |
吉岡速人 |
原位置? |
(正面)「西 是より右 備前道」/17世紀の道標 |
1 |
B |
 |
高円の道標(元禄道標) |
こうえん |
(勝田)奈義町 |
<因幡道・備前道> |
石道標(尖頭角柱) |
高約70㎝ |
元禄2(1689) |
町有形民俗 |
WEB/吉岡速人 |
移設? |
(正面)「東 是より左 備前道」/17世紀の道標 |
2 |
B |
 |
豊沢の道標 |
とよさわ |
(勝田)奈義町 |
<因幡道> |
石道標(尖頭角柱) |
高約60㎝ |
天保8(1837) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「南 びゼん道」、(右面)「東 やわた道」、(左面)「西 つやま道」、(裏面)「北 いなば道」 |
2 |
- |
|
 |
念佛橋 |
ねんぶつ |
(久米)久米南町 |
県道・上籾~誕生寺停車場線 |
<石桁橋> |
(G) |
建久4(1193)以前 |
|
町教委/歴史の道2p24/WEB(石橋)
|
親柱(江戸期?)のみ残る/隣接する中国鉄道(現・JR津山線)の建設に伴い移設・拡幅されてRC桁橋に |
橋の4隅に宝珠を載せた石柱の親柱(簡易化した常夜灯を思わせる)/法然上人の弟子・熊谷次郎直実が、法然上人自作の木像(誕生寺の本尊)を背負って上人の生誕地に到着し、喜びに号泣し念仏を唱えたことに由来 |
4 |
C |
 |
里方の道標
(誕生寺之道道標) |
さとがた |
(久米)久米南町 |
|
石道標
(駒型、安山岩) |
高120㎝,幅36㎝,
厚25㎝ |
貞享5(1688) |
町史跡 |
町教委/
吉岡速人 |
移設? |
(正面)「誕生寺之道」/17世紀の道標 |
2 |
B |
 |
下二ケの題目塔道標 |
しもにか |
(久米)久米南町 |
<津山往来・片上往来> |
石道標(自然石) |
|
江戸期? |
|
歴史の道2p20 |
原位置? |
(正面右)「右 おかやま」、(同左)「左 さいだいじ」、(同中央下部)「みち」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻 |
1 |
C |
|
 |
打穴中の道標1 |
うたの、なか |
(久米)美咲町 |
<津山往来> |
石道標(尖頭角柱) |
高96㎝,幅17㎝,
厚18㎝ |
元禄2(1689) |
町石造美術 |
歴史の道2p28/吉岡速人 |
原位置? |
(正面)「東 是より左 備前道」/森藩時代に立てられ、統一した規格で文字表現も揃う/17世紀の道標 |
1 |
B |
 |
吉ヶ原の道標 |
きちがはら |
(久米)美咲町 |
<倉敷往来> |
石道標(花崗岩) |
高95㎝,19㎝角 |
元禄2(1689) |
町石造美術 |
歴史の道6p55 |
170m移設/保存状態良好 |
(正面)「東 是よ里北 くら志き道」/森藩時代に立てられ、統一した規格で文字表現も揃う/17世紀の道標 |
2 |
B |
 |
打穴中の道標2 |
うたの、なか |
(久米)美咲町 |
<津山往来> |
石道標(尖頭角柱) |
高67㎝,幅25㎝,厚15㎝ |
江戸期? |
|
吉岡速人 |
原位置? |
(正面)「これより、右 つやまミち/左 つ本いみち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性 |
1 |
- |
|
 |
大川川港跡の道標 |
|
(都窪)早島町 |
|
石道標(花崗岩) |
高115㎝,20.5㎝角 |
江戸期 |
|
都市計画課 |
原位置? |
(正面)「左 金毘羅、下つい/志もむら、道」、(左面)「右 吉備津宮、お可山/に王せ、道」 |
1 |
C |
 |
舟本津出場の金毘羅常夜灯 |
ふなもとつだば |
(都窪)早島町 |
<舟本津出場(船着場)> |
石常夜灯(花崗岩) |
高約3.5m |
文化2(1805) |
|
|
火袋もオリジナル |
早島の重要な船着場の常夜灯 |
1 |
B |
|
市場の金毘羅灯篭 |
|
(都窪)早島町 |
|
石常夜灯(花崗岩) |
|
文化14(1817) |
|
都市計画課 |
火袋は復元 |
すぐ横に小型の道標が立つ(年代不詳) |
2 |
C |
 |
児島湾干拓地の備前・備中国境石群④早島 |
こじま、
はやしま |
(都窪)早島町 |
<前潟(備中)
~興除新田(備前)> |
境界石(花崗岩) |
高93.5㎝,幅18.5㎝,10基(全体)→6基 |
文政4(1821) |
町史跡 |
現地解説板 |
盗難→発見・移設/墓地内に保存されている(解説版あり) |
(正面)「從是東南備前國」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ |
2 |
B |
|
宇喜多堤・跡 |
うきた |
(都窪)早島町 |
県道・倉敷~妹尾線
(1本北側との説あり) |
<土堤防> |
|
天正13(1585) |
|
歴史の道6p9 |
かつて堤防であった面影はない/町のシンボルとして宣伝 |
宇喜多秀家が高松城水攻めの堤防築造の指揮者であった岡豊前守勝利と千原民部九右衛門に命じて造らせる/児島湾の干潟に築かれた最初の汐止め堤防 |
5 |
B |
 |
早島戸川家陣屋の井戸 |
はやしま、
とがわ |
(都窪)早島町 |
|
石井戸(花崗岩) |
1.2m×1.2m,高55㎝ |
宝永6(1709)? |
町史跡 |
町教委 |
周辺の環境は良くない |
水を汲む側の面が14㎝低くなっている=珍しい構造(普通は4面とも同じ高さ)/井戸の屋根瓦に戸川の家紋 |
2 |
B |
|
 |
百谷の道標(元禄の道標) |
ももだに |
(苫田)鏡野町 |
<倉吉往来> |
石道標 |
高90㎝ |
元禄2(1689) |
町有形民俗 |
町教委(鏡野町の文化財p94) |
近接移設(原位置もしくは道路整備時に若干の移動)? |
(正面)「南 是より左 伯耆 くらよし道」/他の面の頂部にも(右面)「東」、(左面)「西」、(裏面)「北」の刻字/17世紀の道標 |
1 |
B |
 |
西竹田の道標 |
にしたけだ |
(苫田)鏡野町 |
<木山道> |
石道標(尖頭角柱) |
高108㎝ |
天保11(1840) |
|
町教委(鏡野町の石造物p134・136) |
近接移設(原位置もしくは道路整備時に若干の移動)? |
(正面)「東 従是 ノ宮道」、(右面)「北 小田草/一ノ谷、四十丁」、(左面)「南、津山/誕生寺、道」、(裏面)「西、木山/勝山、道」 |
1 |
C |
 |
山城の新道記念文字岩 |
やましろ |
(苫田)鏡野町 |
吉井川(右岸) |
石碑(岩盤) |
高125㎝ |
享保8(1723) |
|
町教委(鏡野町の石造物p143・146) |
川沿いの崖面の岩盤に直接文字を彫り込まれている→崖面はC補強され刻字部分のみ岩肌を残す |
(正面)「癸享保八年 建立主 山城村/此新道百五十間/卯三月日 木村吉右衛門 氏重」 |
2 |
C |
|
大栄山タタラ・跡 |
だいえいざん |
(苫田)鏡野町 |
<大栄山鉄山> |
高殿 |
|
江戸期 |
町史跡 |
町教委(鏡野町の文化財p5) |
高殿跡、作業場跡、住居跡ほか関連施設らしきものが一括して残るが雑草と雑木の繁茂が著しい |
|
4 |
B |
 |
鍛冶屋谷たたら遺跡 |
かじやだに |
(苫田)鏡野町 |
<大倉山鉄山> |
高殿、砂鉄置場 |
|
幕末頃 |
県史跡 |
町教委(鏡野町の文化財p11) |
明治20代まで操業/山林中に一連の施設が残る(写真は高殿跡の窪み〔緑の矢印の先〕) |
津山藩営鉄山であった大倉山鉄山の一部とされる |
3 |
B |
 |
人形仙山大谷鉄穴遺跡 |
にんぎょうせんやま、おおだに |
(苫田)鏡野町 |
<国一山鉄山>? |
鉄穴流し、石堰堤 |
長550m |
幕末頃? |
町史跡 |
町教委(鏡野町の文化財p63) |
堰堤・溜池・樋などが全体的に残る |
特に最上流に石堰堤(写真)による溜池が設けられている点が珍しい |
2 |
B |
|
 |
新庄村の杉並木 |
しんじょう |
(真庭)新庄村 |
<出雲往来> |
杉並木 |
|
江戸期? |
|
歴史の道4p40-41 |
大半は近代? |
嵐が峠から戸島までの道は舗装されているが、両側に杉並木があり面影を残す |
4 |
C |
|
 |
河本の舟波止
(大舟着川市)・跡 |
こうもと |
(和気)和気町 |
吉井川(左岸) |
石護岸 |
|
江戸期? |
|
政田 孝 |
石護岸のみ残る |
大舟着川市のための船着場 |
3 |
C |
 |
田原井堰・跡 |
たわら |
(和気)和気町 |
田原井堰資料館 <吉井川→田原用水> |
<取水堰(斜め堰)> |
長488m(15,000㎡の石組み) |
寛永元(1624)→元禄期に改修 |
県史跡 |
政田 孝 |
250㎡(全体の1/60)を移築復元 |
津田永忠による元禄期の改修/新河口堰ができる前は、岡山を代表する斜め堰だった |
3 |
B |
 |
田原井堰・舟廻し石垣 |
たわら |
(和気)和気町 |
吉井川(右岸) |
石垣 |
|
寛永元(1624) |
県史跡 |
政田 孝 |
石垣の一部が残るのみ。用水路、水門、余水吐すべて改修済み |
津田永忠/田原井堰からの導水が、余水吐と田原用水に分かれる所に設けられた舟廻し/精緻な石垣 |
3 |
C |
 |
奴久谷大滝 |
ぬくだに |
(和気)和気町 |
|
人工滝(灌漑流路) |
長約70m |
宝永元-4(1704-07) |
|
政田 孝 |
現役/年数回イベント的に流す |
津田永忠/灌漑が必要な時期になると、滝上部の「栓」を抜くことで、用水が「滝」のように、流れ落ちる(非常に風雅な発想) |
1 |
B |
 |
十谷奥池の石堰堤 |
とたにおく |
(和気)和気町 |
十谷 |
石堰堤 |
|
寛永6(1629)以前 |
|
政田 孝 |
保存状態良好 |
元は藤野への水供給のため造られたが、その後、奴久谷大滝の水源となった/見事な石積み |
1 |
B |
 |
鏡の州用水湧水池 |
かがみのす |
(和気)和気町 |
|
地下の集水堤防
(はがね土) |
長130m,
高約4.5m弱,
幅3(上部)~5(基部)m |
文化2(1805) |
町史跡 |
|
保存良好だが、すべて地下にあり、湧水池しか見えない |
近世・近代を通じて、恐らく国内唯一の地下ダムによる農業用水の水源地/両側を山に挟まれた和意谷川沿いの谷を地下で遮断して集水し、灌漑用に用いた。地下堤防の上流側に礫を敷いて流水をしやすくした |
2 |
A |