写真 |
名称 |
ふりがな |
区市町村 |
付帯情報 |
形式 |
諸元 |
建造年 |
文化財 |
出典 |
保存状態 |
価値判断に係る事項 |
保存 評価 |
価値 評価 |
 |
きんちぢみの清水前の石畳 |
|
山口市 |
<萩往還> |
石畳道 |
|
慶長9(1604)以降? |
|
|
再現(新設の可能性有)? |
下記の「きんちぢみの清水」周辺の観光用に整備された石畳道/道路幅いっぱいに敷石されており、明らかにオリジナルと異なる=文化財としては相応しくない修景/滑りやすく危ない |
4 |
C |
 |
一ノ坂四十二曲の石畳 |
いちのさか |
山口市 |
<萩往還> |
石畳道 |
|
慶長9(1604)以降? |
|
|
再現(新設の可能性有)? |
つづら折れの坂道の途中に、不連続的に新規整備された石畳/道路幅いっぱいに敷石されており、明らかにオリジナルと異なる=文化財としては相応しくない修景/滑りやすく危ない |
4 |
C |
|
蔵目喜の石畳 |
ぞうめき |
山口市 |
<山代街道> |
石畳道(石灰岩) |
長約100m |
江戸期? |
|
歴史の道4p156 |
土砂に埋もれて判別困難 |
|
3 |
- |
|
徳地柚木の石畳 |
とくぢゆのき |
山口市 |
<山代街道> |
石畳道 |
長約50m,幅1.5m |
江戸期? |
|
歴史の道4p167 |
土砂に埋もれて判別困難 |
|
3 |
- |
 |
陶峠下一里塚 |
すえだおした |
山口市 |
<秋穂街道> |
一里塚(1基)
(石積) |
高約1m,約2m四方 |
江戸初期 |
市史跡 |
市教委/WEB |
石組が当時のまま |
自然石を約1mの高さに積み重ねたもので、平面は一辺約2m余りあるが、角などは正しくなく自然に丸くなっている/山口から秋穂に通じる古道にあり、よく残っている/昭和52一里塚にいたる道路を整備 |
1 |
B |
 |
一の坂一里塚 |
いちのさか |
山口市 |
<萩往還> |
一里塚(1基)
(石積) |
|
江戸初期 |
|
萩往還保存整備報告書/WEB |
昭和57原位置付近に復元 |
石組みで覆った一里塚 |
3 |
C |
|
堂免一里塚 |
どうめん |
山口市 |
<石州街道(土床道)> |
一里塚(1基)
(石積) |
高約1.2m,径約3.3m |
江戸初期 |
|
歴史の道5p225 |
エゴの木が生えている(元々、木を植えないのが長州藩の一里塚) |
エゴの植わる土塚の周囲に貼石がされている |
3 |
C |
|
城平一里塚 |
|
山口市 |
<石州街道> |
一里塚(1基)
(石積) |
高1.00m,径2.50-3.20m |
江戸初期 |
|
歴史の道5p173,295 |
樫の木が生えている(元々、木を植えないのが長州藩の一里塚) |
山中の街道沿いに野面石を塚状に集積した箇所が残り、位置から一里塚の痕跡と思われる |
4 |
C |
 |
長浜らんかん橋 |
ながはま |
山口市 |
長浜塩田 |
石刎橋(花崗岩) |
長5.4m,幅1.55m |
文化3(1806)? |
|
ふるさとの橋/WEB(石橋) |
右岸の橋台石垣が一部崩落 |
防府市の枡築欄干橋とよく似た、典型的な瀬戸内塩田タイプの刎橋⇒両岸に斜めに打ち込まれた刎石先端上に、何の加工もなしに、重ねるように石桁を置いただけ(桁下のクリアランスを大きくとる必要のある塩田水路用) |
2 |
B |
 |
禅昌寺石橋 |
ぜんしょうじ |
山口市 |
禅昌寺 |
石桁橋(弓型) |
|
江戸期? |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
中間支柱をもつ反橋/支柱先端の細工/装飾的な高欄・高欄/橋面の石組が橋軸方向に直角=桁の上に橋面石が載る二重構造 |
1 |
B |
 |
仁壁神社参道橋 |
にかべ |
山口市 |
仁壁神社 |
石桁橋(弓型) |
長4.0m,幅2.6m |
元治2(1865) |
|
WEB(石橋) |
橋面中央にステンレス製の手すりを設置 |
橋面両サイドに設けられた反った石桁上に、橋軸直角方向の橋面石梁を並べた構造(両端2本のみの桁で支える構造は稀) |
2 |
C |
 |
阿東徳佐中の常夜灯 |
あとう、
とくさなか |
山口市 |
<石州街道> |
石常夜灯 |
高約4m |
文化5(1808) |
|
歴史の道5p337 |
移設 |
「永代常夜燈」 |
2 |
A |
|
吉田の常夜灯 |
よしだ |
山口市 |
(平清水八幡宮・前) |
石常夜灯 |
|
不詳 |
|
WEB(石橋) |
原位置 |
自然石を使った常夜灯だが、下部が灯明台のような形(角錐台)で造られている点がユニーク |
1 |
B |
 |
阿東蔵目喜の道標1 |
あとう、
ぞうめき |
山口市 |
(蔵目喜民俗資料室)
<石州街道> |
石道標 |
高約70㎝ |
安永7(1778) |
|
吉岡速人 |
保管/下部折損 |
「右ハ 石州道」「左ハ か祢道」 |
4 |
- |
 |
阿東蔵目喜の道標2 |
あとう、
ぞうめき |
山口市 |
(蔵目喜民俗資料室)
<山代街道> |
石道標 |
高64㎝,幅18㎝,厚18㎝ |
文化11(1814) |
|
歴史の道4p242 |
保管/上部折損 |
「…州道」「すさ道」「はぎ道」 |
4 |
- |
 |
鋳銭司の地蔵道標 |
すぜんじ |
山口市 |
<山陽道> |
石道標(舟形、花崗岩) |
高68㎝,幅31㎝,厚10㎝ |
文化14(1817) |
|
歴史の道2p188 |
移設/下段台石はC造 |
(台石正面)「顕孝院/道」/台石上に光背付きの地蔵立像(錫杖)を載せる |
2 |
C |
 |
阿東徳佐下の道標1 |
あとう、
とくさしも |
山口市 |
(神角) |
石道標(駒型) |
高約50㎝ |
文政7(1824) |
|
吉岡速人 |
移設? |
(正面)「右 かね/左 きべの、道」 |
2 |
- |
 |
阿東徳佐下の道標2 |
あとう、
とくさしも |
山口市 |
(鍛冶ヶ原) |
石道標(尖頭角柱) |
高約90㎝(塔身) |
文政13(1830) |
|
吉岡速人 |
原位置? |
(正面)「此方 とくさ市道」、(右面)「右ハ かうつの道」 |
1 |
C |
 |
小郡下郷の道標 |
おごおり、
しもごう |
山口市 |
(田町)<山陽道> |
石道標(尖頭角柱) |
高110㎝,幅18㎝ |
江戸期 |
|
WEB/歴史の道5p301 |
原物が破損したため近くの民家に保存し、原位置に複製を建立 |
(正面)「左 萩 山口 石見」、(右面)「右 京 江戸」、(裏面)「牛馬繋事無用」/「江戸」の標記は江戸期 |
4 |
C |
 |
阿東生雲東分の石橋供養塔(延命地蔵) |
あとう、いくも、ひがしぶん |
山口市 |
<石州街道> |
石碑(舟型) |
高152㎝,幅60㎝ |
文化3(1806) |
|
吉岡速人 |
移設〔天保7(1836)の大洪水で橋・地蔵とも流失→地蔵は川底から発見〕 |
(光背右)右此所昔ヨリ小橋而満水之節往來人々/及難渋不忍是見今般我等両人爲二世安樂」、(同左)「此橋爲造營此尊躰樂置者也」/光背中央に地蔵立像(錫杖、蓮台)の陽刻/生雲村庄屋・大谷勘左衛門と榎谷村庄屋・中村九郎衛門が人馬の通行できる橋を渡川に架け、安全を祈って建立 |
2 |
B |
 |
鯖山峠の郡境石 |
さばやま |
山口市・防府市 |
(鯖山峠)<萩往還> |
境界石(尖頭角柱、花崗岩) |
高222.5㎝ |
享和2(1802) |
|
市教委/歴史の道1p98/WEB |
移設/下部セメント補修 |
(正面)「從是南 佐波郡」、(右面)「從是北 吉敷郡」/佐波郡~吉敷郡 |
2 |
B |
 |
坂堂峠の国境石 |
さかどう |
山口市・萩市 |
(宮野上)<萩往還> |
境界石(尖頭角柱、花崗岩) |
高207㎝,31㎝角 |
文化5(1808) |
|
歴史の道1p81/WEB |
保存状態良好 |
(正面)「南 周防國 吉敷郡」、(右面)「北 長門國 阿武郡」、(左面)「北 長門國 阿武郡」/長門国~周防国/右面の刻字は消されたように削れ、右面と左面で同一の文面が刻まれているが詳細は不明 |
1 |
B |
 |
割小松の国境石 |
わりこまつ |
山口市・宇部市 |
<山陽道> |
境界石(尖頭角柱、花崗岩) |
高183㎝,22㎝角 |
江戸期 |
|
歴史の道2p130/WEB |
近接移設 |
(正面)「西 長門國 厚狭郡」、(右面)「東 周防國 吉敷郡」/周防国~長門国 |
2 |
B |
 |
滝町の石敢當 |
たき |
山口市 |
山口大神宮 |
石敢當(笠付) |
高140㎝,幅21㎝,厚21㎝ |
天明年間(1781-89) |
|
日本の石敢當/歴史の道3p215 |
移設 |
(正面)「石敢當」、(裏面)「常夜燈」/移設前は肥中街道の起点であった滝町・安部橋袂にあった/明治初年、コレラ流行の際に石敢當によって病気が村内に入るのが防がれたと言われる |
2 |
B |
 |
椎の木峠隧道 |
しいのき |
山口市 |
(仁保津下) |
素掘トンネル
(水路) |
長66m |
安政5(1858) |
市史跡 |
市教委 |
保存状態良好、現役 |
大庄屋・林勇蔵が築造した池8ヶ所、トンネル2ヶ所のうちの一つ/吐口は側面が石柱(少し内部は石積み)、頂部が石梁で長方形に整形され、呑口側は上下2段構造になっている |
1 |
B |
|
長沢池 |
ながさわ |
山口市・防府市 |
|
溜池 |
長約400m |
慶安4(1651) |
|
WEB |
|
施主:代官・東条九朗右衛門 |
2 |
C |
|
三谷の棚田 |
みたに |
山口市 |
三谷川 |
棚田石垣 |
約1000枚 |
奈良期-明治期 |
|
WEB |
石垣背面をC補修/三谷いしがき棚田オーナー制度により維持 |
奈良期から明治期の間築造が続けられた千枚棚田/石垣を主体とした棚田 |
2 |
B |
 |
名田島新開作南蛮樋・四挺樋 |
なだじま |
山口市 |
名田島新開作 |
石樋門 |
4門,長約6.5m,高1.80m,幅1.26m |
安永3(1774) |
国史跡 |
名田島新開作南蛮樋保存管理計画策定報告書p40-41 |
保存状態良好 |
干拓地の悪水用の池と、排水用の複数の樋門群が一体として残る貴重な存在/堤防に設けた幅6.44mの樋管を石壁で仕切り4門の樋門としていた/花崗岩を多用した独自の形態 |
1 |
A |
 |
名田島新開作南蛮樋・三挺樋 |
なだじま |
山口市 |
名田島新開作 |
石樋門 |
高約5m,東西幅4.3m |
安永3(1774) |
国史跡 |
名田島新開作南蛮樋保存管理計画策定報告書p42-43 |
側壁石垣以外は、数本の石梁を残すのみ |
干拓地の悪水用の池と、排水用の複数の樋門群が一体として残る貴重な存在/門柱の無い開水路に縦2枚、横3枚の戸板を用いて3門の樋門としていた/花崗岩を多用した独自の形態 |
3 |
B |
 |
佐波川関水 |
さばがわ |
山口市 |
佐波川 |
流材道(林業遺産) |
長約45m,幅約3m |
文治2(1186) |
国史跡 |
WEB/調査/市教委/図説山口県の歴史p107 |
現況からは、流材道であったという状況が全く読み取れない |
治承4(1181)に焼失した東大寺の大勧進職に就いた重源が、再建用の巨大な木材(長さ39m、径1.6m)を佐波川の奥地から運び出す際、川を堰き止めて水位を上げ、その一部を開いて細長い水路を造り、川底に平石を敷きつめて材木が円滑に流れる流材道としたもの/佐波川は水深が浅く木材の輸送が困難なため118ヶ所の関水が設けられたが、現在は第一・第二の関水が残るのみ |
3 |
A |
|
桜郷銅山・跡 |
さくらごう |
山口市 |
桜郷銅山跡農村公園
<蔵目喜銅山> |
坑道、露天掘り |
坑道:1ヶ所
露天掘り:3ヶ所 |
古代~近代 |
|
WEB |
露天掘り跡、坑道(立入禁止)などを巡る遊歩道が整備 |
約1200年前より防府屈指の銅山として栄えてきた蔵目喜銅山のうち、中心的なヤマであった銅山/採掘・精錬された銅は、長門や周防にあった鋳銭所の原料や、東大寺大仏の建立にも使用されたと伝えられる/昭和38(1963)閉山 |
2 |
B |
|
一ノ坂銀山の間歩群 |
いちのさか |
山口市 |
一ノ坂銀山 |
坑道 |
22ヶ所 |
天正末 or 慶長初年 |
|
歴史の道1p81 |
一の坂銀山跡散策ルートとして一応の整備/坑口はすべて鉄柵で封鎖 |
大内氏の時代に開発され、4500人の鉱夫や技術者により200以上の間歩が掘られた鉱山/寛永期に廃鉱 |
3 |
B |
 |
きんちぢみの清水 |
|
山口市 |
<萩往還> |
水呑場 |
|
不詳 |
|
|
水量減少 |
石造の長方形の水呑み場 |
1 |
C |
 |
野谷の石風呂 |
のたに |
山口市 |
|
石風呂(土盛石室)
(林業遺産) |
|
文治2(1186)頃 |
国史跡 |
WEB/市教委 |
保存状態良好 |
下記の「岸見の石風呂」、防府市の「阿弥陀寺の石風呂」と並び、重源由来で現存する3基しかない石室型の風呂の1つ/佐波川関水の下流、中流左岸に造られ、3基中最もオリジナルの状態が保たれている/重源による東大寺用材の伐り出し人夫の疲労回復のために造られ(一種の林業遺産)、事業終了後は病気治療にも用いられた |
1 |
 |
 |
岸見の石風呂 |
きしみ |
山口市 |
|
石風呂(石室)
(林業遺産) |
幅4.4m,奥行3.6
m,高1.8m |
文治2(1186)頃 |
国重要民俗 |
WEB/市教委 |
現役だが構造改変/木造の覆屋は幕末~近代の築造(覆屋築造時に土盛も撤去された) |
上記の「野谷の石風呂」、防府市の「阿弥陀寺の石風呂」と並び、重源由来で現存する3基しかない石室型の風呂の1つ/佐波川関水の上流部に造られた。他の2基と異なり、石室上の土盛がなく木造覆屋内にある
→『防長風土注進案』の中の、弘化年間(1844-47)に岸見村庄屋から藩に提出された記述によれば、覆屋はなく、土盛りした上に草木を繁茂させ石風呂を保護したとある/重源による東大寺用材の伐り出し人夫の疲労回復のために造られ、事業終了後は病気治療にも用いられた |
3 |
A |
|
 |
星坂下の石畳 |
ほしざか |
岩国市 |
(錦町宇佐郷)<岩国往来・津和野廿日市街道> |
石畳道 |
約30m |
江戸期 |
|
吉岡速人 |
保存状態良好 |
津和野藩の参勤交代路 |
1 |
C |
 |
錦帯橋 |
きんたい |
岩国市 |
錦川 |
木アーチ橋
(石橋脚) |
長210m(橋面沿い),199.3m(直線距離),橋台高6.64m |
延宝元(1673)
→延宝6(1678)鞍木補強 |
国名勝 |
名勝錦帯橋修復に関する報告書
/歴史の道2p61 |
昭和25台風により流失→昭和28再建時に直線化、スパン割変更、石橋脚などの構造変更が行われた/最新の架替えは平成13-16、観光客減を恐れて順次架替え、架替え部分を間近に見られるよう工夫した |
岩国城と城下町を繋ぐ木橋/延宝元の創建だが、延宝6に橋桁裏面を鞍木で補強してから安定した構造物となり、木材腐食に伴う定期的な架替えはあるものの、原形通りの姿を今に留めている/世界の歴史的木造アーチは、①京の虹橋(11C中頃)に代表される北宋の多角形アーチ、②錦帯橋、③スイスのグルーベンマン兄弟によるトラスとアーチの混成した屋根付き橋(18世紀後半)に大別される→錦帯橋の構造は全く独自のもので、世界の橋梁史という観点からも高く評価される |
2 |
 |
 |
出合橋橋脚・跡 |
であい |
岩国市 |
錦川<山代街道> |
<石桁橋>(橋脚) |
|
安永3(1774) |
|
歴史の道4p184-185 |
橋台の石が残存 |
河原の巨石の天辺に2本の柱穴が残る |
3 |
- |
 |
早尾坂漆ヶ坪一里塚 |
はやおざかうるしがつぼ |
岩国市 |
(錦町)<山代街道> |
一里塚(1基)
(石積) |
|
江戸初期 |
市史跡 |
WEB/歴史の道4p186 |
旧道を合わせ保存状態良好 |
円筒状の形態をよく留めた典型的な長州藩の石張り一里塚 |
1 |
B |
|
中ノ川山一里塚 |
なかのかわやま |
岩国市 |
<山代街道> |
一里塚(1基)
(石積) |
前面高1.4m,後面高2m,径3.1-3.2m |
江戸初期 |
県史跡 |
WEB/歴史の道4p191 |
正面東側の石組が崩落 |
盛り土の周囲を野面石で覆った隅丸方形の塚 |
2 |
C |
|
目舞坂一里塚 |
めまいざか |
岩国市 |
(美和町)
<石州街道> |
一里塚(1基)
(石積) |
高1.8m,径2.0-2.2m |
江戸初期 |
|
歴史の道5p236,292/WEB |
石積が一部残存、塚上に樹木 |
塚後方に古い塚らしい円形の石組の基礎部分が残る→築造当時の塚の痕跡の可能性 |
3 |
C |
|
長谷一里塚 |
ながたに |
岩国市 |
<岩国往来> |
一里塚(1基)
(石積) |
|
江戸初期 |
|
WEB |
平成22に大雨で崩壊→同年中に復元→石積みが全く異なるが、塚上の木札を含め当初のイメージを彷彿とさせる |
|
3 |
C |
|
志谷一里塚 |
しったに |
岩国市 |
<岩国往来> |
一里塚(1基) |
高約1.3m,径約4.0m |
江戸初期 |
|
WEB/歴史の道5p238,292 |
石組がなく、塚上に檜が密生 |
|
3 |
- |
|
二本木原一里塚 |
|
岩国市 |
(錦町)<山代街道> |
一里塚(1基) |
|
江戸初期 |
|
歴史の道4p182 |
土台部の雰囲気が残る |
|
3 |
- |
|
千束の常夜灯 |
せんぞく |
岩国市 |
<山陽道> |
石常夜灯 |
高1.60m |
天保4(1833) |
|
歴史の道2p184/WEB |
点灯設備有り |
「献燈」/一対の常夜灯が道沿いに並ぶ |
1 |
C |
 |
玖珂町千束の道標
(千束の妙見道の道標) |
くが、
せんぞく |
岩国市 |
<山陽道> |
石道標(尖頭角柱) |
高106㎝,幅23㎝,厚23㎝ |
寛政9(1797) |
市有形 |
WEB/歴史の道1p184 |
移設、集約 |
(正面)「妙見道 從是二十一丁」 |
2 |
C |
 |
本郷町宇塚の地蔵道標 |
ほんごう、
うづか |
岩国市 |
|
石道標(丸彫) |
|
文化8(1811) |
|
歴史の道4p243 |
移設(台石の下はC基礎)/地蔵のみ小木祠内で台石は雨曝し |
(台石正面右)「右 成君寺」、(同左)「左 國穏寺」、(同中央最下部)「道」/台石に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる |
3 |
C |
 |
錦町府谷の地蔵道標 |
にしき、
ふのたに |
岩国市 |
(坂根) |
石道標(舟型) |
|
文政2(1819) |
|
歴史の道4p243 |
台石と地蔵が並べて置いてある |
(台石正面右)「右 本みち」、(同左)「左 出合ちかみち」/台石正面に「三界萬霊等」と陰刻/上に載る光背付きの地蔵坐像は、左横に置いてある |
4 |
C |
 |
本郷町本郷の道標 |
ほんごう、
ほんごう |
岩国市 |
(本郷村歴史民俗資料館)
<山代街道> |
石道標 |
高90㎝,幅19㎝ |
嘉永3(1850) |
|
歴史の道4p243 |
保管/下部折損 |
(正面)「右 ひろしま道」、(左面)「左 石刕道」 |
3 |
C |
 |
錦町宇佐郷の道標 |
にしき、
うさごう |
岩国市 |
向峠<芸石街道> |
石道標(自然石) |
高55㎝,幅20㎝ |
江戸期 |
|
吉岡速人 |
移設(C台石) |
(正面)「右 石州道」、(左面)「左 宇佐郷道 |
2 |
- |
 |
中山峠の郡境石 |
なかやま |
岩国市 |
(周東町差川)<山陽道> |
境界石(尖頭角柱) |
高180㎝,幅30㎝ |
江戸期 |
|
吉岡速人 |
原位置 |
(正面)「從是西 熊毛郡」、(右面)「從是東 玖珂郡」 |
1 |
B |
|
土休峠の駕籠立場・跡 |
|
岩国市 |
<山代街道> |
駕籠立場 |
高1.5m,幅4m |
江戸期以前 |
|
歴史の道4p234 |
石垣の一部が残存 |
地元で駕籠立場と呼ばれるが、『御国廻御行程記(1742)』に示される駕籠立場と位置が異なる |
2 |
C |
|
松尾峠の駕籠立場・跡 |
まつお |
岩国市 |
<岩国往来> |
駕籠立場 |
間口22.6m,
奥行9.5~4.8m |
江戸期 |
|
WEB |
石垣の一部が残存 |
|
2 |
C |
|
志谷の駕籠立場・跡 |
しったに |
岩国市 |
(美和町志谷)<岩国往来> |
駕籠立場 |
|
江戸期 |
|
WEB |
消滅→平成20に建屋を含め復元 |
萩市の悴ヶ坂の駕籠立場を参考にした想像再現 |
3 |
- |
|
阿賀の駕籠立場・跡 |
あか |
岩国市 |
(美和町阿賀)<岩国往来> |
駕籠立場 |
|
江戸期 |
|
WEB |
消滅→平成21に建屋を含め復元 |
萩市の悴ヶ坂の駕籠立場を参考にした想像再現 |
3 |
- |
 |
尾津開作南蛮樋1 |
おづ |
岩国市 |
尾津開作 |
石樋門 |
|
文化6(1809) |
|
WEB |
改修 |
|
2 |
B |
 |
尾津開作南蛮樋2 |
おづ |
岩国市 |
尾津開作 |
石樋門 |
|
文化6(1809) |
|
WEB |
改修 |
|
2 |
B |
|
玖珂の共同井戸 |
くが |
岩国市 |
(阿山) |
石井戸 |
4ヶ所→2ヶ所 |
享保2(1717)以前? |
|
歴史の道2p66/WEB |
Cで蓋→ポンプ化 |
(玖珂郡)玖珂町/この共同井戸がある玖珂町の本町、新町、阿山では江戸時代に大火が相次ぎ、共同井戸がその防火用水に用いられたと考えられている |
4 |
C |
|
欠口砲台・跡 |
|
岩国市 |
|
台場 |
|
文政9(1826)
→文政10(1827)改修 |
|
市教委 |
不明 |
文政9(1826)砲術家有坂長為が藩の許可を得て、砲6丁の台場を設置/文政10(1827)四角形の石垣造に改修 |
|
C |
|
|
どんだけ道
(殿様道、玉木坂) |
(たまき) |
宇部市 |
<山陽道> |
道路 |
長約800m |
享保11(1726)頃 |
|
歴史の道2p133/WEB |
地元住民により整備 |
船木宰判の代官・玉木太郎左衛門が改修して山陽道の本道とした峠道 |
2 |
- |
 |
千林尼の棚井山田石畳道 |
せんりんに、たないやまだ |
宇部市 |
<棚井小路> |
石畳道 |
5ヶ所,長585m→計約200m,幅1.4-2.2m |
慶応年間(1865-68) |
市史跡 |
WEB/歴史の道2p136 |
断続的に残存→個々の保存状態は良好 |
幕末に千林尼が托鉢をして寄付金を集めて造成した石畳路/雨水や湧水によるぬかるみや表土の流出を防ぐよう、比較的平らな石の面を上にして道の中心部に敷き詰めている/山陽道に接続する道 |
1 |
B |
|
千林尼の逢坂石畳道 |
せんりんに、あいさか |
宇部市 |
<西国街道> |
石畳道 |
長650m→約5m |
江戸末期? |
|
WEB |
アスファルト舗装の道路にごく一部が残る |
幕末に千林尼が托鉢をして寄付金を集めて造成した石畳路 |
4 |
C |
 |
住吉神社参道橋 |
すみよし |
宇部市 |
住吉神社 |
石刎橋(ヒンジ式)
(花崗岩) |
長4.0m,幅3.96m |
嘉永5(1852) |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
防府市の山の口橋とよく似た山口県の石刎橋の進化タイプ⇒両岸に斜めに打ち込まれた刎石先端と、その上に載る石桁を“相じゃくり”風に継いで一体感を出した洗練された構造(写真参照、完成度では山の口橋に勝る)/火灯窓風の開口部を有する装飾的な高欄 |
1 |
A |
 |
渦橋 |
うず |
宇部市 |
(琴崎八幡宮御旅所前) |
石桁橋 |
長4.2m |
寛政6(1794) |
|
WEB/WEB(石橋) |
移設 |
「かつては西日本三名橋だった」という説明が袂の標柱にあるが、詳細は不明/橋袂に琴﨑橋の親柱が移設されている |
2 |
C |
 |
割小松の国境石 |
わりこまつ |
宇部市・山口市 |
<山陽道> |
境界石(尖頭角柱、花崗岩) |
高183㎝,22㎝角 |
江戸期 |
|
歴史の道2p130/WEB |
近接移設 |
(正面)「西 長門國 厚狭郡」、(右面)「東 周防國 吉敷郡」/長門国~周防国 |
2 |
B |
|
蛇瀬池 |
じゃぜ |
宇部市 |
|
溜池 |
|
元禄6(1693) |
|
WEB |
後年に嵩上げ拡張/余水吐付近C改修 |
施主:宇部領主・福原氏の家老・椋梨権左衛門俊平→鵜ノ島開作の灌漑用に造成 |
3 |
C |
|
常磐池(本土手) |
ときわ |
宇部市 |
|
溜池 |
堤長73m,高18-25m,幅15-36m |
元禄11(1698) |
|
WEB |
堰堤を道路整備/公園整備 |
施主:宇部領主・福原氏の家老・椋梨権左衛門俊平→渓谷の最も狭い部分を締め切ることで長州藩最大の溜池を誕生させた |
2 |
B |
|
真締川の付替え |
まじめ |
宇部市 |
真締川 |
付替え |
長約1㎞ |
寛政10(1798) |
|
WEB |
護岸改修、嵩上げ |
施主:領主・福原房純/砂州を掘り割って直線的に海に川水を流す工事を行い、現在の川筋とした |
3 |
B |
|
|
降松神社上宮の町石 |
くだまつ |
下松市 |
(降松神社中宮拝殿前) |
町石(尖頭角柱) |
|
寛政元(1789) |
|
市教委(下松史異読p201-202) |
|
「是ニテ十八丁 是ヨリ上宮三丁余」 |
|
C |
|
 |
千林尼の大休・指月石畳道 |
せんりんに、たいきゅう・しづき |
山陽小野田市 |
<指月道> |
石畳道 |
長260m,幅1.5m |
文久2(1862) |
市史跡 |
市教委 |
一部残存 |
船木逢坂の観音堂に住んでいた千林尼が険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、自ら托鉢をして浄財を集めて敷いた石畳道の1つ |
3 |
C |
|
刈屋の常夜灯 |
かりや |
山陽小野田市 |
刈谷漁港 |
石常夜灯 |
高3.58m |
文政元(1818) |
|
市教委/WEB |
擬宝珠後補 |
地元郷土史研究会の手により、なくなっていた最上部の擬宝珠が取り付けられた |
|
B |
 |
高泊開作浜五挺唐樋 |
たかどまり |
山陽小野田市 |
|
石樋門 |
高6.18m,幅10.81m |
寛文10-11(1670-71)
→安政4(1857)増設 |
国史跡 |
WEB/山口県の文化財長門部編p13/市教委 |
当時のまま |
高泊干拓(400ha)の潮止め排水門/岩盤を掘削してその上に築いた組石造りの樋門であることから、切貫唐樋とも言う/石柱の間の水門に招き戸があり、扉は潮の干満によって自然に開閉する/造成時は三挺樋だったが、安政4(1857)に排水効率を高めるために五挺樋に増設し、そのまま平成元(1989)まで使用した/招き戸や滑車は木製のため、約5年ごとに修理 |
1 |
 |
 |
後潟開作二挺唐樋 |
うしろがた |
山陽小野田市 |
|
石樋門 |
|
宝暦2(1752) |
|
市教委 |
当時のまま/両側とも残る |
後潟開作/招き戸や滑車は木製のため、何年かごとに修理/海側の見事な石積 |
2 |
B |
|
江汐ため池 |
えじお |
山陽小野田市 |
|
溜池 |
|
寛文12(1672) |
|
WEB |
公園整備 |
高泊開作による新田周辺に造られた灌漑溜池 |
2 |
C |
|
糸根の松原 |
いとね |
山陽小野田市 |
(埴生・赤子寝) |
防風林 |
90本 |
平安期? |
市天然 |
WEB |
最高で樹齢約200年の黒松が残る/干拓により海岸から離れたため防風林としての役目は消滅 |
前場川河口から西糸根までの海岸沿いに設けられた防風林/名称の由来として、和泉式部が娘の小式部内侍を丘上の松原で安産したので、この松原を「愛寝(いとしね)の松原」と呼ぶようになり、それが訛って現在の名称になったとされる |
2 |
B |
|
 |
小野一里塚 |
おの |
下関市 |
<御米道> |
一里塚(1基)
(石積) |
高2.5m,径5-6m |
江戸初期 |
市史跡 |
WEB |
石組の塚が残存(典型的な形状) |
下関から椋野・秋根を経て豊田町から長門市へと続く、年貢米などの輸送に利用されていた「御米道」の一里塚/小石積みで市内に残る唯一の一里塚 |
1 |
B |
 |
黒井一ノ瀬一里塚 |
くろいいちのせ |
下関市 |
<赤間関街道(北浦道筋)> |
一里塚(1基)
(石積) |
高2m,径2.5m |
江戸初期 |
県史跡 |
WEB/歴史の道3p204 |
石組の塚が残存(半球上で、山口の石積一里塚の典型性に欠ける)/本来あるべきでない塚木(ヤブツバキ)が自生 |
球状に土を盛り、周囲に比較的小振りの石を塚の半分程度の高さにまで積み上げたもの/築造当初は塚木として「赤間関より四里十二丁 石見境仏坂より三十弐里 萩より弐十里」と書かれた標柱を建てていた/道を挟んで対称に「塚田」と呼ばれる2畝足らずの田地があり、一里塚や道筋の維持管理の費に当てていた |
2 |
C |
 |
神上寺の石橋 |
じんじょう |
下関市 |
神上寺 |
石桁橋(弓型)
(花崗岩) |
長4.5m,幅2.4m |
文化元(1804) |
|
ふるさとの橋/WEB(石橋) |
保存状態良好 |
橋桁に即身成仏の一偈(いちげ)が刻まれている/やや弓型になった高欄の角材も見事 |
1 |
B |
 |
川中橋 |
かわなか |
下関市 |
壇具川 |
石桁橋・石刎橋
(花崗岩) |
長4.6m,幅1.5m |
江戸期? |
|
WEB(石橋) |
片面を鋼桁で拡幅 |
2本の梁の上に、橋軸直角方向の橋面石を並べた形式(下流側のみ刎石を使用)/橋面石の側面加工が荒いため、江戸期の可能性あり |
3 |
- |
 |
豊浦町川棚の常夜灯 |
とようら、
かわたな |
下関市 |
(堂ノ本)
<赤間関街道(北浦道筋)> |
石常夜灯(兼道標) |
高3.02m |
安政5(1858) |
|
歴史の道3資料編p294,308 |
原位置 |
(竿正面)「狗留孫山奉燈」、(竿左面)「左 くるそんさん道」(=狗留孫山の観音)、(竿裏面)「五穀成就」/猫脚 |
1 |
B |
 |
豊北町神田上の地蔵道標 |
ほうほく、
かんだかみ |
下関市 |
(直子) <赤間関街道(北浦道筋)> |
石道標(祠型) |
高93㎝,幅25㎝,厚25㎝ |
明和5(1768) |
|
WEB/歴史の道3p291,307 |
移設、集約 |
2本の前面円柱と背後の壁で屋根を支える祠型の道標で、内部に小さな地蔵坐像の丸彫を入れる/(右円柱)「この方 ひじゅうふだ所みち」、(左円柱)「この方 くるそんのふだ所みち」→確認できず/内部の地蔵の台石左面:「此方/せき道」 |
2 |
C |
 |
福江の役行者像道標 |
ふくえ |
下関市 |
(畑代) <赤間関街道(北浦道筋)> |
石道標(丸彫) |
|
天明3(1783) |
|
歴史の道3p205,207,296 |
役行者像の頭が地蔵の頭に置き換わっている |
(上段台石正面)「右 せき/左 長婦、道」/台石の上に役行者像の丸彫を載せる/役行者(えんのぎょうじゃ)は修験道の開祖 |
3 |
B |
 |
豊北町滝部の地蔵道標1 |
ほうほく、
たきべ |
下関市 |
(神田口)<肥中街道> |
石道標(丸彫) |
高150㎝,幅36㎝,厚34㎝ |
文化11(1814) |
|
歴史の道3p304,309 |
移設/木祠内 |
(台石正面右)「左 とよた道、(同左)「中 をだけ道」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる/台石正面中央に「三界万霊」と陰刻 |
2 |
B |
 |
豊北町北宇賀の地蔵道標 |
ほうほく、
きたうか |
下関市 |
(掛地)
<赤間関街道(北浦道筋)> |
石道標(丸彫) |
高116㎝,幅36㎝,厚33㎝ |
文政8(1825) |
|
歴史の道3p291,307 |
原位置/地蔵の首が欠損 |
(上段台石正面右)「右 二見浦道」、(同左)「左 下のせき道」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる/上段台石正面中央に「三界萬霊」と陰刻 |
2 |
B |
 |
豊北町滝部の地蔵道標2 |
ほうほく、
たきべ |
下関市 |
(神田口) <赤間関街道(北浦道筋)> |
石道標(丸彫) |
高155㎝,幅30㎝,厚31㎝ |
文政11(1828) |
|
WEB/歴史の道3p307 |
移設、集約 |
(台石右面)「右 やまた道」、(台石左面)「左 下のせき」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる |
2 |
C |
 |
阿弥陀寺町の道標 |
あみだいじ |
下関市 |
<赤間関街道(中道筋)> |
石道標 |
高156㎝,幅29.5
㎝,厚28.5㎝ |
天保8(1837) |
|
歴史の道3p279,306 |
移設/中央と下部の2ヶ所で折損→修復 |
(正面)「右 上方道」、(左面)「左 すみよし道」 |
2 |
C |
 |
小月本町の道標 |
おづきほん |
下関市 |
(1丁目)<山陽道> |
石道標(花崗岩) |
高約130㎝ |
江戸期 |
|
WEB/現地解説板 |
昭和49、原位置近くに再建立 |
(正面)「右 かみ可多道」(=上方)、(左面)「左 とよた道」 |
2 |
C |
|
小月西の台の道標 |
おづき、
にしのだい |
下関市 |
<萩街道> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
|
江戸期 |
|
WEB/現地解説板 |
移設 |
(正面)「右 者ぎ道」(=萩)、(左面)「左 くるそん道」(=狗留孫山の観音) |
2 |
C |
 |
吉田の道標 |
よしだ |
下関市 |
<山陽道> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高約130㎝ |
江戸期 |
|
WEB |
原位置/刻字部下で水平に折損→修復 |
(正面)「右 上方道」、(左面)「左 萩道」 |
2 |
C |
|
八本松峠の駕籠立場・跡 |
|
下関市 |
<赤間関街道(北浦道筋)> |
駕籠立場 |
|
江戸期 |
|
WEB |
駕籠立場の地形がよく分かる |
|
2 |
C |
|
室津湊遺跡 |
むろつ |
下関市 |
|
港 |
|
不詳 |
市史跡 |
WEB |
石材が集積して残る |
湊の遺跡として祭祀遺跡とされる石材の集積が見られる |
3 |
C |
|
阿川山砂鉄洗取場・跡 |
あがわ |
下関市 |
(阿川・野地) |
製鉄遺構 |
長約80m,幅約10.9m,深約3.6m |
文政12(1829)以前 |
|
歴史の道3資料編p291 |
掘割が残存 |
採取された砂鉄は舟運によって白須鉄山に持ち込まれ、加工された |
3 |
C |
 |
壇具川 |
だんぐ |
下関市 |
<長府城下> |
石護岸 |
|
江戸期? |
|
WEB |
観光地化に伴い修景 |
城下町・長府 |
3 |
C |
|
後浜台場・跡 |
うしろはま |
下関市 |
(阿川下市後浜) |
台場 |
幅約3.6m,深約3.6m,堤長約764m |
慶応3(1863) |
|
歴史の道3資料編p292 |
国道下になり築堤が浅くなっている |
旧・豊北町/施主:阿川毛利家臣の娘 |
4 |
|
|
前田御茶屋台場・跡
(長州藩下関前田台場跡) |
まえだおちゃや |
下関市 |
<萩藩> |
台場 |
低台場:高約10m
高台場:高約16m |
元治元(1864)頃 |
国史跡 |
WEB/台場事典p524 |
平成11-14発掘調査後、土塁・排水溝等を埋戻し/低台場の土塁・大砲接地面の一部、高台場の平坦面の一部が損壊/私有地→一部を除き立入禁止 |
長州藩が攘夷戦のために下関付近に設置した台場の一つ/元治元に米英仏蘭連合艦隊によって占領・陥落 |
4 |
C |
|
肥中台場・跡 |
ひじゅう |
下関市 |
(神田肥中) |
台場 |
長5.2m,高1.3-1.5m,幅1.9m |
江戸末期 |
市史跡 |
WEB/歴史の道3資料編p292 |
一部崩落 |
旧・豊北町指定史跡/肥中港を取り巻く岬の高台先端部に残る、花崗岩・砂岩の割り石による不等四角形の石積の台場跡 |
3 |
C |
 |
馬関砲台・跡 |
ばかん |
下関市 |
御裳川公園 |
台場 |
|
江戸末期 |
|
|
観光再現 |
長州藩が攘夷戦のために下関付近に設置した台場の一つ/元治元に米英仏蘭連合艦隊によって占領・陥落 |
4 |
C |
|
泊ケ鼻台場・跡 |
とまりがはな |
下関市 |
|
台場 |
|
|
市史跡 |
WEB |
遺構はほとんど残っていない |
|
4 |
- |
|
涌田青井台場・跡 |
わいた |
下関市 |
|
台場 |
|
|
市史跡 |
WEB |
|
|
|
|
|
|
やげん谷一里塚 |
やげんだに |
周南市 |
中須仏峠<中往還> |
一里塚(1基)
(石積) |
高0.70-0.85m,径3.0-3.3m,塚木:松 |
江戸初期 |
市史跡 |
市教委/WEB |
小規模な修復 |
円錐台形に盛土された塚の周囲を花崗岩の石積(4~5段)で覆ったもので、小郡と高森を結ぶ中往還に設けられた20ヶ所の一里塚のうちの1つ/『防長地下上申(1750)』に「壱里塚壱ヶ所やげん谷ニ有」の記載 |
1 |
B |
|
桧山一里塚 |
ひやま |
周南市 |
<山代街道> |
一里塚(1基) |
高1.2-1.9m,径6.6-7.0m,塚木:桧 |
江戸初期 |
|
市教委/WEB |
土盛のみ残存/塚上に樹齢約40年の檜が複数本 |
|
3 |
- |
|
耕ケ床一里塚 |
すげがどこ |
周南市 |
(大道理)<中往還> |
一里塚(1基) |
高0.9-1.4m,径4.9-5.1m,塚木:桧、松、雑木 |
江戸初期 |
|
市教委/WEB |
土盛のみ残存/塚上に樹齢約50年の檜、松、雑木の切り株 |
|
3 |
- |
|
垂門橋・跡 |
たれかど |
周南市 |
(鹿野)錦川 |
石積橋台 |
<長32.7m(A)> |
安政5(1858) |
|
市教委 |
左岸の橋台が一部残存 |
木造アーチ橋の石橋台/橋台はL形に残り、正面と側面の石積は自然石を使った谷積で、隅部は間知石の谷積 |
4 |
B |
|
福川の道標
(若山観音道標) |
ふくがわ |
周南市 |
<若山観音道> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高145㎝,幅23㎝,厚23.5㎝ |
文化6(1809) |
|
WEB/歴史の道2p99,186 |
原位置? |
(正面)「若/山、く王んをんミち/ここより八丁」 |
1 |
C |
 |
川崎の道標 |
かわさき |
周南市 |
(2丁目)旧山陽道の富田川橋の東70m<山陽道> |
石道標(頂部にくびれ、花崗岩) |
高約150㎝ |
文政11(1828) |
|
中司 健一 |
原位置? |
(正面)「景清護身観音」、(同頂部)「當國/十八番」、(同右下端部)「霊峯山」、(同左下端部)「萬福寺」/萬福寺(現・川崎観音)に至る参道の道標 |
1 |
C |
 |
政所の道標 |
まどころ |
周南市 |
(1丁目)華厳寺・南南西100m<山陽道> |
石道標(尖頭角柱) |
|
江戸期 |
|
中司 健一 |
原位置? |
(正面)「是より右 下せき道」、(左面)「是より左 上か多道」/建立年は記されていないが、隣接する市教委の解説板に「山陽道道標」と書かれている |
1 |
C |
 |
宮の前の道標 |
みやのまえ |
周南市 |
富田中学・北東角の交差点の北東角<山陽道> |
石道標 |
|
江戸期 |
|
中司 健一 |
移設(交差点改良に伴う修景)? |
(正面)「右 上加多みち」、(左面)「左 下のせきみち」/建立年は記されていないが、隣接する市教委の解説柱に「旧山陽道道標」と書かれている |
2 |
C |
 |
椿峠の郡境石 |
つばき |
周南市 |
<山陽道> |
境界石(尖頭角柱) |
高154㎝,
幅26.5
㎝,厚26.5㎝ |
享和2(1802)以前
→嘉永6(1853)再建 |
|
歴史の道2p101 |
台石C化/一部剥落 |
(正面)「從是西 佐波郡」、(右面)「從是東 都濃郡」/佐波郡~都濃郡/享和2(1802)にこの地を通った尾張の商人・菱屋平七の『筑紫紀行』に郡境石の存在が記されている→初代の建立はそれ以前 |
2 |
C |
 |
中山峠の郡境石 |
なかやま |
周南市 |
<山陽道> |
境界石(尖頭角柱) |
|
江戸期 |
|
WEB |
原位置 |
(正面)「從是東 玖珂郡」、(左面)「從是西 熊毛郡」/玖珂郡~熊毛郡 |
1 |
C |
|
浮野峠の駕籠立場・跡 |
うけの |
周南市 |
<山陽道> |
駕籠立場 |
|
江戸期 |
|
歴史の道2p104 |
道路沿いに石垣が残存 |
街道の両側に残る三角形の平坦地/江戸期の山陽道における富海宿-宮市宿間の馬継の遺構 |
4 |
- |
|
大溝水路 |
|
周南市 |
阿田川 |
用水路 |
長約4.5㎞ |
江戸期以前? |
|
WEB |
昭和62C改修 |
老婆が測量地点の松明のあかりで土地の高低を判断しながら、手作業で工事を進めて築いた、という伝承が残る用水路 |
4 |
C |
 |
潮音洞 |
ちょうおんどう |
周南市 |
漢陽寺 |
素掘トンネル
(水路) |
長89.4m,高1.3m,幅2.4m |
承応3(1654) |
県史跡 |
市教委/歴史の道4p227 |
保存状態良好/漢陽寺庭園の見学ルート内 |
岩崎惣左衛門が慶安4(1651)年に藩の許可を得て、自費で漢陽寺の裏山をくり抜いて、渋川の水を鹿野台地に引いた/重森三玲が作庭した漢陽寺曲水庭園の水源にもなる/吐口は側壁石積み、頂部石梁で長方形に整形されている→その上にあるのは、想左衛門の功績を称えた頌徳碑 |
2 |
B |
|
大坂城石垣残石 |
おおさか |
周南市(大津島) |
<大坂城石垣> |
残石(花崗岩) |
3個 |
寛永元(1624) |
|
WEB |
展示 |
加工度の高い残石/毛利家は大津島から98個の切石を大坂に運ぶ予定あったことが毛利家文書に記されている |
2 |
C |
|
 |
盤石橋 |
ばんじゃく |
長門市 |
大寧寺 |
石刎橋(玄武岩) |
長14.2m,幅2.4m |
宝暦14(1764) |
県史跡 |
ふるさとの橋/WEB(石橋) |
保存状態良好 |
県下で最も古い石刎橋、かつ、唯一の複数径間の石刎橋→2径間とするため、中央に大きな橋脚を築き刎石を埋め込む→石刎形式だと径間を広くとることができないため、洪水対策として巨大な橋脚が必要となった→九州の石アーチ技術が本州まで伝播していれば、こうした構造物は存在し得なかった |
1 |
 |
|
通の地蔵道標 |
かよい |
長門市 |
黒瀬峠 |
石道標 |
高67㎝(うち、台石20㎝) |
明和8(1771) |
|
WEB |
移設/簡易祠内/台石下部C→刻字の一部が見えない |
(台石正面)「右 大日比/左 山□□」/台石の上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる |
2 |
C |
 |
俵山の道標1 |
たわらやま |
長門市 |
(湯町野田) |
石道標(尖頭角柱) |
高66㎝,幅13㎝ |
安永9(1780) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「右 さき大つ」 |
2 |
- |
 |
日置上の題目塔道標 |
へきかみ |
長門市 |
椎の木峠 |
石道標(尖頭角柱) |
|
天明6(1786) |
|
吉岡速人 |
移設/簡易祠内/台石下部C→刻字の一部が見えない |
(最上段台石左面)「右 古市/左 新市」/正面に「妙經一字一石塔」と陰刻 |
2 |
B |
 |
俵山の道標2 |
たわらやま |
長門市 |
(下安田下ヶ原) |
石道標(自然石) |
高106㎝,幅50㎝ |
弘化2(1845) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「右 あんだ 古市 きわど道/左 七重 か王らみち」 |
2 |
C |
 |
俵山の道標3 |
たわらやま |
長門市 |
(福王子峠東登り口) |
石道標(自然石) |
高77㎝,幅46㎝,厚23㎝ |
弘化2(1845) |
|
歴史の道3p306 |
原位置 |
(正面)「右 湯町 くるそん道/左 西市 下の関道」 |
1 |
- |
 |
西深川の道標 |
にしふかわ |
長門市 |
(上川西林) |
石道標(尖頭角柱) |
高96㎝,幅16㎝ |
弘化3(1846) |
|
吉岡速人 |
移設? |
(正面)「右 さき大つ」 |
2 |
C |
|
国近久助(岩穴鬼右衛門)
の岩穴 |
くにちかきゅうすけ(いわあなおにえもん) |
長門市 |
深川川 |
素掘トンネル
(水路) |
長11m,径約1m |
安永年間-寛政年間
(1772-1801) |
市史跡 |
WEB |
保存状態良好、現役 |
施主:江良村・国近久助/深川川から引水する用水路で障害となっていた岩山(箱桶を掛けて対処していた)を、国近久助がゲンノウとノミだけで5年間かけて掘り抜いたもの/この功績から国近久助は岩穴鬼右衛門と呼ばれ讃えられた |
1 |
- |
|
深田溜池(山谷大堤) |
ふかた |
長門市 |
|
溜池 |
|
戦国期-江戸中期 |
ため池百選 |
WEB |
|
下記の「東後畑棚田」の唯一の水源となっている丘陵地の溜池 |
|
C |
|
東後畑の棚田 |
ひがしうしろばた |
長門市 |
|
棚田石垣 |
210枚 |
戦国期-江戸中期 |
棚田百選 |
WEB |
|
上記の「深田溜池」と一体化 |
1 |
C |
 |
通の鯨供養塔(くじら墓) |
かよい |
長門市 |
向岸寺 |
石碑 |
|
元禄5(1692) |
|
WEB(動物のお墓) |
くじら墓のすぐそばに「くじら資料館」がある |
(正面上部)「南無阿弥陀佛」、(正面下部)「業盡有情雖放不生/故宿人天同證佛果」/刻字の意味は「我々の目的は本来おまえたち胎児を捕るつもりではなく、むしろ海中に逃がしてやりたいのだ。しかしおまえ独りを海へ放ってやっても、とても生き得ないだろう。どうか憐れな子等よ念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを聞いてくれるように」/古代捕鯨がさかんであった場所 |
|
B |
 |
赤崎神社の楽桟敷 |
あかさき、
がく |
長門市 |
<赤崎神社> |
石桟敷 |
12段 |
16世紀末 |
国有形民俗 |
WEB |
保存状態良好 |
牛馬の悪病平癒を赤崎神社に祈願して叶えられたのを感謝して奉納された楽踊を眺めるための観覧席/小豆島の池田の棧敷と同規模だが、池田の棧敷の秋の収穫に感謝する例大祭を眺めるための観覧席で、農業との関連がより深い |
1 |
 |
|
泊台場・跡 |
とまり |
長門市 |
|
台場 |
2ヶ所,長5m,高1.6-2m,幅2m |
江戸末期 |
市史跡 |
WEB |
積石現存 |
異国船来襲に備え、萩藩が黒岬らんとうの鼻の台場とともに築いた台場/油谷湾に面して築かれた4ヶ所の台場のうち唯一現存するもの |
2 |
C |
|
|
悴ヶ坂の石畳 |
かせがさか |
萩市 |
<萩往還・赤間関街道(中道筋)> |
石畳道 |
長85m,幅1m |
江戸期以前 |
|
歴史の道3p117,270 |
明治17(1884)新道開発により100年程度放置→昭和58復元 |
萩往還の残存石畳は、規模に関係なく萩市側から順に並べてある/明治17(1884)まで悴坂峠を越える主要な道として利用されていたが、 |
2 |
C |
 |
一升谷の石畳 |
いっしょうだに |
萩市 |
<萩往還> |
石畳道 |
長38m,幅1m |
慶長9(1604)以降 |
国史跡 |
WEB/歴史の道1p68-69/市教委 |
一部復元 |
一升谷は、炒り豆を食べながら歩くと坂を上りきるまでちょうど一升食べてしまうほど長くて急な坂であることから由来する/往時の石畳が敷き詰められており、往還の面影をよく止めている/一部復元区間を除き萩往還として国指定史跡に指定 |
2 |
- |
|
五文蔵の石畳 |
ごもんぞう |
萩市 |
<萩往還> |
石畳道 |
長44m(うち、上方40m,下方4m),幅1m |
慶長9(1604)以降 |
国史跡 |
WEB/歴史の道1p68-69/市教委 |
一部復元 |
上方と下方の2ヶ所に分断されている/萩往還として国指定史跡に指定/釿切の石畳と峠越しに隣接している |
2 |
- |
|
釿切の石畳 |
ちょうのぎり |
萩市 |
<萩往還> |
石畳道 |
長32m,幅1m |
慶長9(1604)以降 |
国史跡 |
歴史の道1p68-69/市教委 |
一部復元 |
五文蔵の石畳と峠越しに隣接している/萩往還として国指定史跡に指定 |
2 |
- |
|
須佐の石畳 |
すさ |
萩市 |
<仏坂道> |
石畳道 |
長58m,幅2m |
文政5(1822)以前? |
|
歴史の道5p196 |
オリジナルの石畳が残る |
げんのうと呼ばれる急な坂に残る石畳/石畳道の脇に文政5(1822)建立の廻国塔が現存しており、石畳道がその関連性から当時より存在していた可能性がある |
1 |
- |
 |
平安橋 |
へいあん |
萩市 |
新堀川(萩城外堀) |
石刎橋(玄武岩) |
長6.04m,幅3.95m |
明和年間(1764-72) |
市建造物 |
WEB/ふるさとの橋/WEB(石橋)/歴史の道1p50 |
保存状態良好 |
建造年に幅があるが、明和年間の初期の場合、県下最古の長門市の盤石橋と並ぶ最古級の石刎橋/瀬戸内海沿岸の塩田用石刎橋のような華奢な浮揚感はないが、構造的には刎石上に石桁を置いた典型的な山口の石刎橋/装飾的な(梅花をモチーフにした)石の高欄が見事 |
1 |
A |
 |
落合橋 |
おちあい |
萩市 |
<萩往還> |
石刎橋
(花崗岩、玄武岩) |
長2.35m,幅1.65m |
江戸期 |
国登録 |
歴史の道1p71/WEB(石橋) |
保存状態良好 |
街道用の石刎橋/瀬戸内海沿岸の塩田用石刎橋のような華奢な浮揚感はないが、構造的には刎石上に石桁を置いた典型的な山口の石刎橋/桁石は2本が花崗岩、1本が玄武岩→後世の拡幅か? |
1 |
C |
 |
旧湯川家屋敷の石橋 |
ゆかわ |
萩市 |
藍場川 |
石刎橋・石桁橋
(花崗岩) |
桁:長2.2m,幅0.94m |
江戸期 |
|
ふるさとの橋/WEB(石橋) |
観光拠点のため安全対策として石をC固定 |
市街地を流れる水路に架かる、旧湯川家屋(市指定)の橋/正面は桁橋だが、その隣は刎橋で、いかにも、山口らしい |
2 |
C |
 |
大照院門前橋 |
だいしょういん |
萩市 |
大照院(毛利家墓所前) |
石桁橋(玄武岩)
〔部分的に刎石〕 |
長4.5m,幅3.0m |
明暦2(1656)頃? |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
山口の「装飾石橋」の代表格/橋面石(写真参照)は5列、うち第2列と第4列の石材が数箇所で切れており、さらに、手前の石材(第4列)は切れて2つに分かれている⇒中央部の複数の切れ目は第1・3・5列の石桁側面に第2・4列の石材が“ほぞ”で固定されることで実現(裏面の写真参照)、第4列手前の切れ目は刎石で支持(部分的な使用なので刎橋ではない)/架橋年不明→墓所の開設時期と同じと推定 |
1 |
 |
 |
大照院墓所前橋 |
だいしょういん |
萩市 |
大照院(毛利家墓所前) |
石桁橋(玄武岩)
〔部分的に刎石〕 |
長5.0m,幅3.0m |
明暦2(1656)頃? |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
山口の「装飾石橋」/橋面石(写真参照)は5列、うち中央の石材が途中で切れており、さらに、手前が複雑な組石となっている⇒中央の切れ目は第2列と第4列の石桁側面に中央の第3列の石材が“ほぞ”で固定されることで実現、手前の組み石は刎石で支持(同上)/架橋年不明→墓所の開設時期と同じと推定 |
1 |
A |
 |
大照院初代墓所前橋 |
だいしょういん |
萩市 |
大照院(毛利家墓所前) |
石桁橋(玄武岩)
〔部分的に刎石〕 |
長4.2m,幅3.0m |
明暦2(1656)頃? |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
山口の「装飾石橋」/橋面石(写真参照)は5列、うち第2列と第4列の石材が数箇所で切れており、さらに、手前の石材(第2列)も切れている⇒中央部の複数の切れ目は第1・3・5列の石桁側面に第2・4列の石材が“ほぞ”で固定されることで実現、第2列手前の切れ目は刎石で支持(同上)/架橋年不明→墓所の開設時期と同じと推定 |
1 |
A |
 |
東光寺の瑞雲橋 |
とうこうじ、ずいうん |
萩市 |
東光寺(毛利家墓所前) |
石桁橋(玄武岩)
〔部分的に刎石〕 |
長5.1m,幅3.4m
(2G) |
元禄7(1694)以降? |
|
WEB(石橋) |
右記のようにかなり無理をした構造(墓所に向かって右側の側面は2径間の桁橋、左側の側面は刎橋(写真参照)という変則的な構造のため、恐らく無理がかかって木材で数ヶ所補強支持→木材が腐食 |
山口の「装飾石橋」/同じ毛利家墓所前の「装飾石橋」でも、大照院の3橋とは異なり2径間で、かつ、石刎を本格的に使用→3列ある橋面石のうち、墓所に向かって左から2列と3列目が中央で切れ、1列目だけが貫通している(中央の写真参照)→そのため3列目の下だけに中間支柱がある(右側の写真参照)、一方、1列目は両端部に多くの切れ目があるため長い刎石で支持(左側の写真参照)/左側面については外観上は完全な石刎橋だが、目的が「装飾」にあるため石桁橋として分類する/このような刎石の使用が磐石橋の発想につながった可能性は大きい/架橋年不明→墓所の最初の埋葬者・毛利吉就の没年以降と推定 |
1 |
B |
 |
金谷天満宮の桁橋 |
かなや |
萩市 |
金谷天満宮 |
石桁橋(玄武岩) |
長6.9m,幅1.4m
(3G) |
享保5(1720)以降? |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
高欄も何もない唯の3連の石桁橋だが、中央径間が虹型、両側径間に上記「大照院」の3橋に見られた巧みな組み石がさり気なく用いられており、技術的には高度(写真参照)/架橋年不明→天満宮の現在地での再興時期と同じと推定 |
1 |
B |
 |
色雲寺参道橋 |
しきうん |
萩市 |
色雲寺 |
石桁橋 |
長1.4m,幅2.4m |
文化8(1811) |
|
WEB(石橋) |
橋面一部をアスファルト埋設 |
ごく小規模 |
2 |
- |
|
三方月(三寶突)の橋 |
さんほうづき |
萩市 |
<萩往還> |
石桁橋 |
長1.46m,幅2.55m |
天保13(1842)以前 |
|
歴史の道1p68 |
保存状態良好 |
3枚の野面石による橋桁/『防長地下上申(1750)』と『防長風土注進案(1842)』の記載より、寛保元(1741)には土橋が架かっていたが、天保13(1842)までの間に石橋に変わったとされる |
1 |
- |
|
根の迫の橋 |
|
萩市 |
<萩往還> |
石桁橋 |
長2.5m,幅1.20m |
天保13(1842)以降 |
|
歴史の道1p68 |
拡幅(桁石数が増加) |
3個の切石/『防長風土注進案(1842)』にこの橋が土橋として記載されている |
2 |
- |
 |
万歳橋 |
ばんせい |
萩市 |
志都岐山神社 |
石桁橋(弓型)
(花崗岩) |
長4.05m,幅3.15m |
嘉永2(1849) |
市建造物 |
WEB/ふるさとの橋/WEB(石橋) |
もと明倫館→明治11(1878)萩城本丸跡内に志都岐山神社の前身である山口の豊栄・野田神社の遙拝所ができた際、庭池が造られ現在地に移設 |
両岸の石垣橋台に2本の虹型に加工した石桁を渡し、その上に10枚の橋面石を並べた構造→単純だが、虹型が美しい/高欄の橋柱は左右5本ずつで、中国風のデザインが施されている |
2 |
A |
 |
金谷天満宮の太鼓橋 |
かなや |
萩市 |
金谷天満宮 |
石桁橋(弓型)
(花崗岩) |
長9.4m,幅3.8m
(2G) |
文久2(1862) |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
反橋の中央を石柱で支持する構造/装飾的な高欄・親柱 |
1 |
C |
 |
南明寺参道橋 |
なんみょう |
萩市 |
南明寺・放生池 |
石桁橋(弓型)
(玄武岩) |
長6.7m,幅1.4m
(3G) |
江戸期? |
|
WEB(石橋) |
廃道に近い |
3径間だが、全体で一つの虹型になっている/上記「平安橋」を思わせる高欄 |
2 |
C |
 |
忰ヶ坂一里塚 |
かせがさか |
萩市 |
<萩往還・赤間関街道(中道筋)> |
一里塚(1基)
(石積) |
高1.20m,4.05m×3.60m |
江戸初期 |
国史跡 |
歴史の道1p60/歴史の道3p114 |
往還脇に残存 |
周囲を玄武岩製の石垣で囲み土を盛った小さな丘/塚上に昭和14に立てられた「一里塚」と記された石碑が立つ |
2 |
B |
 |
上長瀬一里塚 |
かみながせ |
萩市 |
<萩往還> |
一里塚(1基)
(石積) |
高約2m,径約5m |
江戸初期 |
国史跡 |
歴史の道1p74/WEB |
往還脇に残存 |
不整形な大小の岩石を集めて墳丘状とする一里塚 |
2 |
B |
|
中ノ峠一里塚 |
なかの |
萩市 |
(釿切)<萩往還> |
一里塚(1基)
(石積) |
|
江戸初期 |
|
WEB |
再現→石の積み方に疑問 |
不整形な大小の岩石を集めて墳丘状とする一里塚 |
4 |
C |
 |
明木の道標 |
あきらぎ |
萩市 |
<赤間関街道(中道筋)> |
石道標(尖頭角柱、玄武岩) |
高110㎝,
幅24.5㎝,厚23㎝ |
慶応3(1867) |
|
歴史の道3
p118,271,305 |
近接移設 |
(右面)「右 せき道」、(左面)「左 山口道」 |
2 |
C |
|
悴ヶ坂の駕籠立場・跡 |
かせがさか |
萩市 |
<萩往還・赤間関街道(中道筋)> |
駕籠立場 |
|
江戸期 |
国史跡 |
歴史の道3p115/WEB |
消滅→建屋を含め復元 |
藩主が休息のため駕籠を降ろした場所/図面を元に柴垣に囲まれた駕籠を置く台2基や覆屋を復元 |
3 |
C |
 |
坂堂峠の国境石 |
さかどう |
萩市・山口市 |
(佐々並)<萩往還> |
境界石(尖頭角柱、花崗岩) |
高207㎝,31㎝角 |
文化5(1808) |
|
歴史の道1p81/WEB |
保存状態良好 |
(正面)「南 周防國 吉敷郡」、(右面)「北 長門國 阿武郡」、(左面)「北 長門國 阿武郡」/長門国~周防国/右面の刻字は消されたように削れ、右面と左面で同一の文面が刻まれているが詳細は不明 |
1 |
B |
 |
萩城下街割原標石 |
はぎ |
萩市 |
|
原標石(玄武岩) |
高約60㎝,周囲約80㎝ |
慶長13(1608)頃 |
市史跡 |
WEB/歴史の道1p51 |
昭和42近接移設 |
萩城下の中心点を標示するため、慶長13(1608)頃に藩士長富佐兵衛が命を受けて立てた石標/城下町萩の建設記念物として貴重 |
3 |
C |
 |
大照院の境界盛土端石 |
だいしょういん |
萩市 |
大照院 |
端石 |
|
江戸初期? |
|
市教委 |
盛土は低くなっているが端石を含め雰囲気は残る |
半円形の特徴的な花崗岩の薄板が通路の石畳の両側に設置 |
1 |
C |
 |
東光寺の境界盛土端石 |
とうこうじ |
萩市 |
東光寺 |
端石 |
|
江戸初期? |
|
市教委 |
盛土は低くなっているが端石を含め雰囲気は残る |
半円形の特徴的な花崗岩の薄板が石階段の両側に設置 |
1 |
C |
 |
藍場川 |
あいば |
萩市 |
阿武川~新堀 |
用水路、運河、放水路 |
長2.6㎞ |
延享元(1744) |
市指定歴史的景観保全地区 |
現地解説板 |
歴史的景観保存地区として保全/全体として江戸時代の雰囲気が良好に保たれている/観光客の周遊コースに組み入れられている |
農業用水、川上から薪炭等などを運ぶための運河、城下の防火用水、松本川増水時の排水路として利用された人工河川/水路沿いには多くの石橋(高さ確保するため石刎橋)、「ハトバ」と呼ばれる小型の石雁木、屋敷の庭園水として循環取水するための開口部などが設けられている |
1 |
A |
|
姥倉運河 |
うばくら |
萩市 |
阿武川-日本海 |
運河 |
長約200m,幅約約8m→20-30m |
安政2(1855) |
|
WEB/調査 |
ほぼC改修/北東部に玄武岩の石積護岸(おそらく戦後)/拡幅 |
台地を開削し日本海に抜ける分水路をつくるというものであり、/松本川の最下流に架かる雁島橋の少し下手に運河への分流点があり、鶴江台の南麓から萩漁港に至る約900mの区間が姥倉運河の名で呼ばれている/護岸は一部を除きC化 |
4 |
C |
 |
恵美須ヶ鼻波止 |
えびすがはな |
萩市 |
|
石防波堤 |
長51m |
安政3(1856)以前 |
世界遺産 |
山口県の近代化遺産p139 |
基底部の一部が海岸埋め立てにより埋没、北側の付け根の石積み後年の補修か? |
萩の外港の1つ小畑浦の防波堤として築造されたと推定/遅くとも、萩藩が西洋式帆船・丙辰丸・庚申丸を建造した恵美須ヶ鼻造船所が開所した安政3には存在していた/萩の黒石で造られた「黒い防波堤」→地域性 |
2 |
A |
 |
旧萩藩御船倉 |
はぎ |
萩市 |
浜崎重伝建地区内 <松本川> |
船倉〔石壁、木製切妻屋根(瓦葺)〕 |
桁行26.9m,梁間8.8m,高8.8m,石壁厚6m |
慶長13(1608)以降 |
国史跡 |
WEB/市教委 |
明治以降の埋め立てのため、現在は河岸から離れたところに位置する(往時は松本川に面して船が自由に出入り出来る場所であった)/昭和40に屋根を修復 |
藩主の御座船や軍船を格納した船倉/玄武岩の石垣でできた巨大な側壁が特徴/天保年間(1830-43)の「八江萩名所図画」に描かれていた4棟の船倉の中で、最も大きかったものが現存 |
2 |
B |
 |
大井の碇石
(元寇の碇石) |
おおい |
萩市 |
|
碇石(凝灰質砂岩) |
長230㎝(露出部)全長280㎝(推測) |
10-13世紀 |
市考古資料 |
WEB/市教委 |
個人宅に「神様」として垂直に立ててある |
出土地:不明/中央部と先端の太さがそれほど変わらない/中央部両横に帯状の溝、裏面にも2本の並行する陰刻線/元寇時のものである証拠はない |
4 |
C |
|
指月山の石切場・跡 |
しづき |
萩市 |
指月山 |
石切場 |
|
江戸初期 |
|
WEB |
石材切出跡が残存 |
萩城築城に利用していたとされる石切場 |
2 |
C |
 |
大板山たたら製鉄遺跡 |
おおいた |
萩市 |
(紫福) |
製鉄遺構 |
|
宝暦年間(1751-64),
文化・文政期(1812-22),安政2(1855)以降 |
世界遺産/国史跡 |
市教委/WEB |
当時の施設を分かりやすく、かつ、遺跡に極力加工せず、工夫 して展示されている |
宝暦年間(1751-64)に大板山で林業を営む阿川六郎兵衛が津和野の技術者を迎えて操業/文化・文政期の10年間(1812-22)に津和野の原田勘四郎が操業/安政2(1855)、東石見の鉄山師・高原竹五郎が操業開始/幕末期に操業された在来の製鉄技術である「たたら」遺構で、製鉄用の炉跡、天秤ふいご跡などが残る/安政3(1856)に恵美須ヶ鼻造船所で建造された洋式軍艦(帆船)「丙辰丸」に使用された→日本古来の製鉄技法と、西洋の近代船舶との混合がきわめてユニークであり、幕末期の技術のあり方を示す好例/中国山地のたたら場と異なり、砂鉄は全量を石見から持ち込み、豊富な木材を使って製鉄を行ったため、鉄穴流し等の砂鉄採取遺構は存在しない→砂鉄は奈古の港から牛で運び、完成した鉄製品も逆方向に運んだとされているが、港から遠い標高260mの山ノ口川の最上流域にあり、牛が通れるような道路遺構も発見されておらず、運搬の実態は不明 |
1 |
 |
 |
萩反射炉・跡 |
はぎ |
萩市 |
(椿東) |
反射炉の煙突(玄武岩、一部煉瓦) |
高10.8m |
安政3(1856) |
世界遺産/国史跡 |
道迫真吾(萩博物館調査研究報告7) |
公園整備 |
旧来の青銅製大砲に代わる強力な鉄製大砲を鋳造するために導入した反射炉/萩藩は安政2(1855)、鉄製大砲の鋳造法習得のため佐賀藩に藩士・山田宇右衛門、萩藩の考案した「旋風台雛形」を持たせた大工棟梁・小沢忠右衛門を派遣→反射炉の技術伝授は謝絶→小沢が反射炉の現物を見学して図面を作成→翌安政3、反射炉を試験的に築くが、同年11月、経済的事情や製鉄技術がまだ未成熟であることから本式の反射炉築造を中止する |
2 |
A |
 |
郡司鋳造所遺構 |
ぐんじ |
萩市 |
郡司鋳造所遺構広場 |
大砲鋳造施設 |
高4.5m |
文久3(1863)以前 |
|
WEB/市教委 |
道路新設工事の際に発見→移設して100mほど離れた道路脇に向きを変えて保存(Cは使用せず)→遺跡公園として整備 |
萩藩の代表的な鋳物師であった松本郡司家の鋳造工房の遺構/青銅製の大砲の砲身を立てた状態で鋳造するための盛土を支えるための左右の石積擁壁が残る(高さ4.5mは最大級)/長州藩が下関海峡を通過する外国船を3度にわたり砲撃(文久3)した際に使用した大砲を鋳造 |
3 |
B |
|
亀ヶ瀬製鉄場・跡 |
かめがせ |
萩市 |
|
高炉 |
不明 |
元治元(1864) |
|
道迫真吾(萩博物館調査研究報告7) |
遺構ゼロ |
萩藩は文久2(1862)、長嶺豊之助に南部藩の高炉を見学させる→元治元に藩士・平田宗兵衛を製鉄場御用掛りに任じる/炉の実態は不明だが、反射炉が試験炉に終わったのと違い、高炉には本気で取り組んだ |
5 |
B |
 |
大照院の井戸 |
だいしょういん |
萩市 |
大照院 |
石井戸 |
|
明暦2(1656)? |
|
|
保存状態良好 |
井戸脇には外観は平滑だが、外側から見えないよう内壁側に“ほぞ”が設けられている(美的感覚)/四角の井戸枠の周囲に敷かれた円形の井戸端が特徴(放射状に敷石が並べられている)/明暦2(1656)は大照院が再建された年 |
1 |
B |
 |
明倫館水練池 |
めいりん |
萩市 |
新明倫館 |
石護岸(玄武岩) |
東西39.5m,南北15.5m,深1.5m |
嘉永2(1849)? |
国史跡 |
歴史の道1p51/図説山口県の歴史p162 |
保存状態良好 |
周囲を玄武岩の石垣で築いた池で、遊泳術・水中騎馬の練習を行っていた→全国に現存する唯一のもの/古図では東側の中央から騎馬で池に駆け降りやすいように斜面になっているが、現在は池に下りる石段になっている |
1 |
B |
 |
菊ヶ浜台場(女台場) |
きくがはま(おんな、おなご) |
萩市 |
|
台場(土塁) |
長約50m,高約5m,下部幅約18m,上部幅約9m |
元治元(1864) |
市史跡 |
WEB/台場事典p526 |
西側の土塁が一部残存 |
文久・元治の頃萩の沖合にも黒船が出没した際、海防のために菊ヶ浜の南側に6ヶ所にわたって築造した砲塁/女台場という通称は郷土を守る老人や婦人によって築塁されたことに由来 |
2 |
B |
 |
嫁泣台場 |
よめなき |
萩市 |
|
台場(石塁) |
|
弘化2(1845) |
|
台場事典p525
/WEB(城めぐ) |
住宅の防風壁として石垣の一部を積み足し/当時の石垣が一部残る |
現在の石垣は2m以上の高さを有しているが、これは近年、風除けのために台場の石垣を利用して積み足した石垣で、当時の石垣はその一部のみ |
3 |
C |
|
 |
普賢堂の石橋 |
ふげん |
光市 |
普賢堂 |
石桁橋(弓型) |
長9.5m,幅3m
(2G) |
寛政元(1789) |
|
ふるさとの橋/WEB |
保存状態良好 |
施主:石工浜田屋平左衛門/反橋の中央を石柱で支持する構造/装飾的な高欄 |
1 |
C |
 |
須賀社参道橋 |
すが |
光市 |
須賀社 |
石桁橋 |
長6.0m,幅1.9m
(2G) |
江戸期? |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
2径間の桁橋で、全体としてやや中央が高くなっている |
1 |
C |
 |
浅江の円柱道標 |
あさえ |
光市 |
虎ヶ岳・茶臼山縦走路
<三井村妙見道> |
石道標
(円柱、花崗岩) |
高97㎝,径22㎝ |
江戸期 |
|
WEB(こちら山勘研究所2) |
原位置 |
(正面)「西 妙見社中宮 是ヨリ廿八丁」 |
1 |
C |
 |
みたらい燈籠堂
(室積燈籠堂) |
(むろづみ) |
光市 |
(室積5丁目) |
木灯明台(海運) |
高5.5m |
元禄15(1702) |
|
WEB |
平成3復元 |
百姓・松村屋亀松が、病死した父の「夜中にも廻船が出入りできるようにしたい」という遺志を継ぎ、御手洗州先(象鼻岬)に銀800目の自費で建設した灯台 |
2 |
B |
|
牛島漁港西崎の波止 |
うしま・にしざき |
光市(牛島) |
|
石防波堤 |
延長32m(江戸期) |
安政3(1856)
→明治20(1887)大改修 |
|
WEB |
ほぼ改修 |
100年以上の歴史を持たれた石垣防波堤と護岸が、当時の姿のまま現在でも利用されている/個人所有/未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選 |
4 |
C |
 |
イロハ井戸 |
|
光市 |
(室積8丁目) |
石井戸 |
|
享保18(1733)以降 |
|
WEB |
1ヶ所のみ現存/石の蓋が被せてある |
享保18(1733)の大火を契機に、「山城屋」という廻船問屋が火災予防と飲料水を兼ねて、宮の脇から江の浦にいたる道路沿いに掘った共同井戸10ヶ所程度のうちの1つ |
3 |
- |
 |
象眼水井戸 |
ぞうがんすい |
光市 |
(室積村) |
石井戸 |
|
明和年間(1764-72) |
|
WEB |
屋根付き/修景 |
室積半島を象の頭部に、そこから海に長く突きだした砂噛を象の鼻に見立て、その象の目に当たる位置に湧き出た井戸 |
2 |
C |
 |
普賢堂の井戸 |
ふげん |
光市 |
普賢堂 |
石井戸(花崗岩) |
|
天保8(1837) |
|
|
保存状態良好 |
寄進年、氏名が側面に刻まれる |
1 |
- |
 |
室積台場(女台場) |
むろづみ
(め) |
光市 |
(象鼻ヶ岬) |
台場(石塁) |
2基,底面7×3m,高1.8m |
弘化3(1846)以前 |
市史跡 |
市教委/WEB |
3基中2基現存/平成15小規模な修復 |
台場の芯礎を赤土で盛り固め、外周を付近の海岸から採集した円礫の積石で覆っている四角錐台形の台場/女台場という通称は郷土を守る老人や婦人によって築塁されたことに由来→萩市の菊ヶ浜台場も同由来で女台場と呼ばれており、室積台場が後からあやかったものとされる |
2 |
B |
|
 |
枡築欄干橋1 |
ますつき |
防府市 |
大浜塩田/入川 |
石刎橋(花崗岩) |
長8.2m,幅1.85m |
明和年間(1764-72) |
|
ふるさとの橋/WEB(石橋) |
保存状態良好 |
塩田開設当時9基あったが、現存するのは3基のみ/往時は木製の欄干があったが、現在は欠損/山口市の長浜らんかん橋とよく似た、典型的な瀬戸内塩田タイプの刎橋⇒両岸に斜めに打ち込まれた刎石先端上に、何の加工もなしに、重ねるように石桁を置いただけ(桁下のクリアランスを大きくとる必要のある塩田水路用) |
1 |
 |
 |
枡築欄干橋2 |
ますつき |
防府市 |
(塩田記念産業公園)<大浜塩田/入川> |
石刎橋(花崗岩) |
長12.0m,幅1.6m |
明和年間(1764-72) |
|
WEB(石橋) |
移設 |
塩田開設当時9基あったが、現存するのは3基のみ/典型的な瀬戸内塩田タイプの刎橋⇒同上 |
2 |
A |
 |
枡築欄干橋3 |
ますつき |
防府市 |
(佐波川SA下り線)<江泊塩田/入川> |
石刎橋(花崗岩) |
S3.3m,幅1.8m |
明和年間(1764-72) |
|
WEB(石橋) |
移設 |
塩田開設当時9基あったが、現存するのは1基のみ/典型的な瀬戸内塩田タイプの刎橋⇒同上 |
2 |
B |
 |
防府天満宮の放生橋 |
ほうふ、ほうじょう |
防府市 |
防府天満宮 |
石桁橋(弓型)(花崗岩) |
長4.8m(2G),幅1.3m
|
明和8(1771) |
|
WEB(石橋)/WEB(石橋巡礼) |
保存状態良好 |
2径間の反橋で、全体として1つの太鼓型になっている/装飾的な高欄/石桁の配置が面白い |
1 |
C |
 |
山の口橋 |
やまのくち |
防府市 |
剣神社 |
石刎橋(ヒンジ式)(花崗岩) |
長6m,幅2.5m |
江戸期 |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
宇部市の住吉神社参道橋とよく似た山口の石刎橋の進化タイプ⇒両岸に斜めに打ち込まれた刎石先端と、その上に載る石桁を“相じゃくり”風に継いで一体感を出した洗練された構造(写真参照、完成度では住吉神社参道橋に負ける) |
1 |
B |
 |
山の口太鼓橋 |
やまのくちたいこ |
防府市 |
剣神社 |
石桁橋(半円型)
(花崗岩) |
長2.4m(G),
幅1.0m
|
安政2(1855) |
|
WEB(石橋) |
保存状態良好 |
半円に近い円弧状に切り出した1本の石材でできた橋⇒形状はアーチだが、1つの石材で出来ているため、構造的には桁橋/立派な親柱 |
1 |
B |
 |
三田尻本町の道標 |
みたじりほん |
防府市 |
<萩往還> |
石道標(尖頭角柱) |
高187㎝,幅27㎝ |
文化15(1818) |
|
市教委(歴史の道1)/WEB |
移設(C舗装上)?/下部でやや斜めに折損→修復(交通事故による損傷か?) |
(正面)「左、宮市天満宮/志ものせき、道」、(右面)「右 かみか多/左 中のせき、道」 |
2 |
B |
|
国衙の道標 |
こくが |
防府市 |
(吉末邸)<山陽道> |
石道標(尖頭角柱、花崗岩) |
高101.4㎝,幅24.4
㎝,厚23㎝ |
文政5(1822) |
|
歴史の道2p187 |
移設 |
(正面)「左、三田尻/中ノ関、道」、(左面)「右 九州道」 |
2 |
C |
 |
鯖山峠の郡境石 |
さばやま |
防府市・山口市 |
(鯖山峠)<萩往還> |
境界石(尖頭角柱、花崗岩) |
高222.5㎝ |
享和2(1802) |
|
市教委/歴史の道1p98/WEB |
移設/下部セメント補修 |
(正面)「從是南 佐波郡」、(右面)「從是北 吉敷郡」/佐波郡~吉敷郡 |
2 |
B |
 |
三田尻御船倉・跡 |
みたじり |
防府市 |
|
船倉 |
|
慶長16(1611)→貞享年間(1684-87)拡張 |
国史跡 |
WEB/図説山口県の歴史/歴史の道1p118-119 |
中土手の一部と水路が残存 |
毛利水軍の本拠地であった所で、藩主の参勤交代や平時の交通、不慮の水戦に備え、三田尻港の最奥部に築かれた船蔵/堀の北側に舟具蔵や作業場、鍛冶屋などが、南側には御座船などを入れるドックがあった/萩往還の一部として国指定史跡に指定 |
2 |
B |
|
三田尻御船倉の通堀 |
みたじり |
防府市 |
|
運河 |
|
貞享年間(1684-87) |
国史跡 |
歴史の道1p118-119/WEB |
一部を残し埋立 |
長州藩の水軍根拠地で、かつての大造船施設/元禄元(1688)以降、御船倉付近の開作が次々に完成すると次第に陸地に囲まれ、文久3(1863)には1本の水路が海に通じるのみとなった/明治維新以降、御船倉が廃止になり、それ以降に大部分が埋め立てられた/萩往還の一部として国指定史跡に指定 |
4 |
C |
 |
住吉神社の石灯台 |
すみよし |
防府市 |
住吉神社 |
石灯明台(海運) |
高7.27m |
文久3(1863) |
国史跡 |
市教委/歴史の道1資料編p78/WEB |
保存状態良好 |
三田尻宗像久三郎外39名の拠金をもって文久3(1863)正月に建設された海上交通用の灯台 |
1 |
A |
|
長沢池 |
ながさわ |
防府市・山口市 |
|
溜池 |
長約400m |
慶安4(1651) |
|
WEB |
|
施主:代官・東条九朗右衛門 |
2 |
C |
 |
三田尻塩田旧越中屋釜屋煙突 |
みたじり |
防府市 |
三田尻塩田記念産業公園 |
煙突<塩田石釜> |
高12.5m |
明治末期-大正初期
(材料は江戸期) |
国登録 |
WEB |
平成4に公園化された際に保存修理 |
塩田釜屋内(江戸中期起源)で使用された石釜の石を再利用して造られた煙突/かつて瀬戸内沿岸で盛んに行われていた製塩に関わる希少な遺産 |
1 |
B |
 |
阿弥陀寺の石風呂 |
あみだ |
防府市 |
東大寺別院・周防阿弥陀寺 |
石風呂(土盛石室) |
|
文治2(1186)頃 |
|
WEB/市教委 |
保存状態良好/入口閉鎖/近くに観光用の入浴可能な石風呂も造られている |
山口市の「野谷の石風呂」「岸見の石風呂」と並び、重源由来で現存する3基しかない石室型の風呂の1つ/重源が東大寺用材の伐り出しのため周防に滞在した折、寺の施湯のため造立したと推定される |
1 |
A |
 |
阿弥陀寺の湯屋 |
あみだ |
防府市 |
東大寺別院・周防阿弥陀寺 |
湯屋(木造) |
桁行10.53m,
梁間4.5m |
延宝年間(1673-80) |
国重要民俗 |
WEB/市教委 |
丁寧な修復 |
重源が東大寺用材の伐り出しのため周防に滞在した折、寺の施湯のため造立/焚口・鉄湯釜・湯船(石材)・洗い場(石畳)・脱衣場からなる入浴場→現在の施設は江戸初期のものだが、構成は重源による中世の施欲形式を受け継いでいる/時代を経るにつれ、庶民に開放されていったと推定される |
1 |
A |
|
勝坂砲台・跡 |
かっさか |
防府市 |
|
台場(石塁) |
|
文久3(1863)頃 |
|
市教委/歴史の道1p106 |
西側台場撤去/東側台場法面下部C改修/上部畑地化 |
藩主・毛利敬親による山口防備のための勝坂への関門の設置に併せて、関門の東西両側に設けた台場/当初2基があったが明治維新後、西側の台場は徹去され、現在は東側台場の石垣・土塁の一部が残る |
2 |
B |
|
|
大久保台の石畳道 |
|
美祢市 |
(美東町大田)
<赤間関街道(中道筋)> |
石畳道(石灰岩) |
長約10m(往時は100mと推測),幅約1.8m |
江戸末期 |
|
歴史の道3p125/WEB |
放置につき判別困難 |
平成3に発掘された石畳 |
4 |
C |
|
大田往還道松 |
おおだ |
美祢市 |
(美東町大田)<船木街道> |
松並木(黒松) |
1本 |
江戸期? |
市史跡 |
WEB |
松枯れにより1本のみ残る/先端を伐採 |
旧美東町/土地ヶ垰から大田・船木を経由して厚狭・刈屋浦(小野田)へ至る船木街道における街道松 |
4 |
C |
 |
秋芳町秋吉の常夜灯
(文久の石灯籠) |
しゅうほう、
あきよし |
美祢市 |
(秋吉八幡宮)<赤間関街道(中道筋)> |
石常夜灯 |
高3.92m(基壇を除く) |
文久元(1861) |
市有形(建造物) |
WEB |
昭和43移設/基壇部が移設時の築造と思われるため、本来の高さは不明 |
(竿正面)「獻」/石工:萩・中村熊蔵重幸/創設当時は秋吉八幡宮の御旅所の下宿にあり、秋吉宿の常夜灯の役割を果たし、通行人に親しまれていた/割り石を丁寧に組み上げた上部に入母屋の屋根を張り出させた灯籠 |
2 |
A |
 |
大嶺町奥分の地蔵道標 |
おおみね、
おくぶん |
美祢市 |
(三ッ杉)<肥中街道> |
石道標(自然石) |
高67㎝,幅40㎝,厚31㎝ |
文政6(1823) |
|
WEB/歴史の道3p228,231,302,309 |
移設 |
自然石の正面を光背型に削り込み→(光背右)「右 た王良やまみち」、(同左)「左 くるそんみち」/光背の中央に地蔵立像(蓮台)を陽刻 |
2 |
C |
|
浜の宮山銅山・跡 |
|
美祢市 |
長登銅山 |
坑道、露天掘り |
|
古代-大正期 |
|
歴史の道3p273/WEB |
大規模な露天掘り跡が残存 |
銅、鉄、錫、亜鉛を産出した鉱山で、特に泥銅の産出では世界に比類なき鉱山であった |
1 |
B |
|
榧ヶ葉山一号坑 |
かやがば |
美祢市 |
長登銅山 |
露天掘り、坑道 |
露天掘り:深7m,辺長約15m |
8世紀前半 |
国史跡 |
WEB |
|
長登銅山に残る古代の大規模な露天掘り跡と、その底から続いている坑道/一号坑入口から約15mの地点から8世紀前半の須恵器が検出されたことから、8世紀前半の奈良時代前期に採掘が行われたことが明らかとなっている/坑道の太さは不規則 |
|
A |
|
大切四号坑 |
おおぎり |
美祢市 |
長登銅山 |
坑道 |
|
奈良期
→大正期(入口付近のみ) |
国史跡 |
WEB |
20m入坑可能/入口付近は大正期の採掘により拡張 |
長登銅山で唯一入坑可能な坑道 |
3 |
C |
|
大切十一号坑 |
おおぎり |
美祢市 |
長登銅山 |
坑道 |
|
9世紀-中世 |
国史跡 |
解説長登銅山跡p7 |
|
弘法大師が伝えたと言われるつるし掘り技法が用いられている坑道 |
4 |
B |
|
大切山九号坑 |
おおぎり |
美祢市 |
長登銅山 |
坑道 |
|
江戸期? |
国史跡 |
WEB |
|
江戸期の試掘坑とされている坑道 |
4 |
C |
|
 |
天津橋(幽霊橋) |
あまつ |
柳井市 |
<柳井浜塩田> |
石刎橋(花崗岩) |
長6.45m,S3.85m,幅2m
(上載梁の寸法4.25×0.30×0.20) |
慶応元(1865) |
|
馬場 |
水路埋没 |
瀬戸内塩田タイプの刎橋/日立製作所・柳井工場の敷地内にフェンスに囲まれて保存/下部は半分地中に埋まっている(移転ではなく、原位置で、塩田水路が埋められただけという話もある) |
3 |
C |
 |
柳井の大師道標 |
やない |
柳井市 |
(上田) |
石道標(蒲鉾型) |
高113㎝,幅21㎝ |
天保4(1833) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面像下)「(左指差し袖付き)四國道」/頂部に小さな大師坐像を陽刻 |
2 |
B |
 |
姫田の道標 |
ひめだ |
柳井市 |
|
石道標(尖頭角柱) |
高168㎝,幅20㎝ |
安政2(1855) |
|
吉岡速人 |
移設 |
(正面)「(左指差し)是より四國ミち」 |
2 |
C |
|
新庄の長溝 |
しんじょう |
柳井市 |
黒杭川 |
用水路 |
長約7㎞ |
元禄2(1689) |
|
市教委 |
C改修/一部付け替え |
岩政次郎右衛門が身命を投げ打ち、3年の歳月を要して完成させた、黒杭ハゼヶ谷より余田堀に至る灌漑用水路/昭和20台風により一部放棄(新隧道に付け替え)/黒杭川ダムの建設に伴い一部移設 |
4 |
B |
|
 |
福田下の庚申塔道標 |
ふくだしも |
(阿武)阿武町 |
|
石道標 |
高55㎝,幅18㎝ |
天保10(1839) |
|
吉岡速人 |
原位置/正面左の道標部が損傷 |
(正面左端)「まゑは はぎ道〕、(右面)「左ハ たかつ道」、(左面)「右ハ うた道」/正面中央に「猿田彦大神」と陰刻 |
2 |
- |
 |
長沢溜池 |
ながさわ |
(阿武)阿武町 |
|
溜池 |
長約130m |
慶長7(1602) |
ため池百選 |
WEB/中司健一 |
平成16改修/公園整備//絶滅危惧種の生息地として保全 |
施主:石見国の七尾城主(益田氏の第20代当主)・益田元祥 |
3 |
C |
|
 |
沖家室洲崎防波堤 |
おきかむろ、すさき |
(大島)周防大島町 |
|
石防波堤 |
長120m |
文化14(1817) |
|
山口県の近代化遺産p138 |
先端部に石積防波堤を追加/現役 |
地元住民が協力して築造/多くの廻船・漁船の係留地として繁栄をもたらした/久賀の石工の技術を駆使して築造→激しい潮流・波浪の衝撃を巧妙に分散・緩和する構造/典型的な子持波止(内港側に一段低い犬走りを有する) |
2 |
B |
 |
久賀の古波止 |
くか |
(大島)周防大島町 |
|
石防波堤 |
長90m,高5.2m |
文政9(1826) |
|
山口県の近代化遺産p136-137 |
古波止を護岸替わりにして港内の埋め立てが進んだため半分は埋没、天端C補修、先端部追加 |
庄屋・伊藤惣左衛門が自費で半年の歳月をかけて築造(海運業と漁業の発展のため)/久賀の石工の技術を駆使して築造→激しい潮流・波浪の衝撃を巧妙に分散・緩和する構造/典型的な子持波止(内港側に一段低い犬走りを有する) |
3 |
B |
|
庄地のスイドウ |
しょうち |
(大島)周防大島町 |
|
素掘トンネル
(水路) |
長160m |
鎌倉末期-室町期? |
県有形 |
WEB |
現役 |
棚田を潤すために造られた地下水路のトンネル/棚田の石垣に水路トンネルに接続する横穴が開かれており、取水するときは横穴に竹樋を差し込んで取水した/久賀の石工による構造物と言われるが久賀の石工の発祥は江戸中期からと言われており関係は不明/江戸中期に集落の人口が大幅な増加を見せている事からその時期に大規模な開墾があり、江戸中期に久賀の石工が発祥したことも併せて、このトンネルが江戸中期の開墾時に築造されたという説がある |
1 |
B |
|
|
|
|
(玖珂)和木町 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
皇座山狼煙場・跡 |
おうざ |
(熊毛)上関町 |
<毛利藩> |
狼煙場 |
幅約3m,奥行約2m |
江戸中期-後期 |
|
WEB/台場事典p495 |
コの字型の石組や番小屋跡の礎石が残存 |
毛利藩が朝鮮通信使の来航などを伝えるのに用いた狼煙場 |
2 |
B |
|
 |
文島竜神社の太鼓橋 |
ふみしまりゅう |
(熊毛)平生町 |
文島竜神社 |
石刎橋(ヒンジ式?)
(花崗岩) |
長5.76m,S3.52m,幅2.1m |
江戸期 |
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ふるさとの橋 |
移設 |
山口の石刎橋の進化タイプ(宇部市の住吉神社参道橋参照)と普通の石刎橋の中間的存在⇒側経間(片持ち)と中央経間を“相じゃくり”風に継いでいるが、その下に1本刎石があり、構造上はこの下段刎石の上に石桁が載り、段差を埋めるため刎石上に側経間の石桁(?)を置いたとも受け取れる(写真参照)/大野毛利氏の屋敷にあったものを移設してと伝えられる |
2 |
B |
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土手町南蛮樋 |
どて |
(熊毛)平生町 |
平生開作 |
石樋門 |
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万治元(1658)? |
県有形 |
町教委/WEB |
保存状態良好 |
大野毛利就頼が慶安4(1651)から万治元(1658)に行った平生開削の際に築造されたと推測/平生開作の開設当初より南蛮樋として築造されたと推測されており、正しければ県内最古の南蛮樋(土手町南蛮樋の南蛮樋としての記録上の初見は明和2(1765))/ロクロの心棒部分と板戸を縄で結び、鉄製ハンドルを手動で回転させることにより板戸を上下させて、海水の防御を図る仕組み/ロクロ(南蛮)を使用する点で唐樋とは構造が異なりより精巧な装置/昭和62年に大内川排水機場が完成により使命を終える |
1 |
B |
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二階川 |
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(熊毛)平生町 |
平生開作 |
排水用暗渠 |
長約15m |
万治元(1658) |
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町教委 |
若干荒れているが当時のまま |
大野地区の排水を行うため、大内川の流れる干拓堤防の下に暗渠を設け平地の排水路である堀川へ流す構造が造られ、川の下に水を流すため二階川と呼ばれるようになった |
2 |
C |
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天池(雨池) |
あま |
(熊毛)平生町 |
平生開作 |
溜池 |
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万治元(1658)頃 |
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WEB |
一部C改修 |
平生開作の開作地における灌漑溜池として築造された池 |
2 |
C |
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菅原神社参道橋 |
すがわら |
(熊毛)田布施町 |
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石桁橋(弓型) |
長1.9m,幅4.1m |
江戸期? |
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WEB |
保存状態良好 |
擬宝珠のある親柱/装飾的な高欄 |
1 |
C |