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松山市
八幡浜市
愛媛県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
鍋割坂の石畳
(三坂峠の石畳1)
なべわり
松山市
<土佐街道・三坂峠>
石畳道
明暦年間(1655-58)
WEB
石畳はあまり残っていない
仰西渠を完成させた仰西の私財による救済事業の一つ/急坂のため、行商の金物屋が商売用の鍋を石畳に落として割ったことから付いた名との伝承
3
B
三坂峠の石畳2
みさか
松山市
<土佐街道・三坂峠>
石畳道
江戸期
歴史の道2p7/WEB
保存状態良好
三坂峠への途中に数ヶ所石畳が残る/上記「鍋割坂の石畳」より下った所に残る石畳
1
C
龍泰寺の太鼓橋
りゅうたい
松山市
御幸1丁目
石アーチ橋
(花崗岩)
長7.0m,S3.4m
(A)
江戸期
市教委(伊豫史談N.
265)/WEB(石橋)
上部をC改修して車の通行を可能にした→頂部の迫石が隠れてしまった
四国で唯一の江戸期の石アーチ橋/寺伝に元禄11(1698)頃の架設とある→硬質の花崗岩の石アーチは加工が難しく、長崎石工が施工した福岡県の秋月眼鏡橋(1810)も完成前に一度崩壊している→そのような困難な架橋を四国で17世紀末に成功したとは思えない
3
C
堀江町の里塚石(弐里)
ほりえ
松山市
<今治街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道1p18/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設→個人宅の庭
(正面)「松山札辻より 弐里」
4
C
久保の里塚石(三里)
くぼ
松山市
<今治街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道1p20/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設/下部折損→埋設
(正面)「松山札辻より 三里」
3
C
北条辻の里塚石(四里)
ほうじょうつじ
松山市
明星川のカルバート上
<今治街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道1p22/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設/上部補修/隣の道標と接触
(正面)「松山札辻より 四里」/下記「北条辻の道標」と並ぶ
3
C
余戸東の里塚石(壱里)
ようごひがし
松山市
松山市役所・余土支所、線路沿い<大洲街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道5p12/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設(もと、日招八幡大神社の参道南端と旧街道が交わる地点)/頂部正面欠損/下部埋設
(正面)「松山札辻より 壱…」
3
C
桑原の里塚石(壱里)
くわばら
松山市
桑原公民館<讃岐街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道3p18/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設/「札」より上の正面が大きく剥離/2ヶ所で折損→修復
(正面)「…札辻より 壱里」/松山藩が寛保元に石柱に替えるまで木製の里程木だったので、付近に「一里木」の地名が残る
4
C
南梅本町の里塚石(弐里)
みなみうめもと
松山市
<讃岐街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道3p19/WEB(四国の古道・里山を歩く)
3㎞ほど移設→個人宅の庭
(正面)「松山札辻より 弐里」/旧街道沿いにはレプリカが建っている
4
C
森松町の里塚石(弐里)
もりまつ
松山市
<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道・土佐街道p15/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設
(正面)「松山札辻より 弐里」
2
C
森松町の里塚石(五里)
もりまつ
松山市
須我神社<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
WEB(四国の古道・里山を歩く)
三坂峠から麓に遠方移設/最下部で水平に割裂→補修
(正面)「松山札辻より 五里」
3
C
中村の金毘羅常夜灯
なかむら
松山市
(4丁目)
石常夜灯
寛政10(1798)
WEB(塔MAP)
火袋(後補?)に修景木枠/設置環境やや悪い(ゴミ集積場横)
(竿正面)「讃州金毘羅常夜燈」、(笠正面)「(陰陽印)」/台石頂部が丸味を帯びて加工(松山地区の特徴)/基壇なし
2
C
土居田町の金毘羅常夜灯
どいだ
松山市
土居田公民館
石常夜灯(自然石)
寛政11(1799)
WEB
移設(C基盤)/竿石破損→修復/火袋上のC接合が無様
(竿正面)「金/八/石、奉燈」(=八坂寺)/笠に突起のある風化岩塊を使用、石材が部位ですべて異なる(松山地区の特徴)
3
B
南久米町の金毘羅常夜灯
みなみくめ
松山市
踏切脇<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
寛政12(1800)
歴史の道3p19/WEB
移設?
(竿正面)「讃/
州
、金毘羅常夜燈」(
緑字
は異体字)/自然石だが全体に整形されている/基壇なし
2
C
鷹子町の金毘羅常夜灯
たかのこ
松山市
石常夜灯(自然石)
寛政12(1800)
歴史の道3p63/WEB(塔MAP)
竿下部補修→近接移設?
(竿正面)「金毘羅/石
鉄
山、常夜燈」(
緑字
は異体字)/自然石だが全体に整形されている/基壇なし
1
C
港山町の金毘羅常夜灯
みなとやま
松山市
石常夜灯(自然石)
高2.50m
享和元(1801)
WEB(塔MAP)
移設→民家の玄関先/火袋後補?/電灯付き
(竿正面)「金毘羅常夜燈」/石材が部位ですべて異なる/基壇なし
2
C
浄瑠璃町の金毘羅常夜灯1
じょうるり
松山市
<土佐街道>
石常夜灯(自然石)
高2.16m
文化年間(1804-18)
歴史の道2p21
移設?(すべての石材をC接合)/火袋後補?
(竿正面)「奉、石/金/八、八坂組」(=八坂寺)
2
C
南斎院町の金毘羅常夜灯
みなみさや
松山市
石常夜灯
文化3(1806)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿正面)「金/山/八/石、常夜燈」(=八坂寺)、(台石正面)「村/中」/基壇は1層のみ
1
C
竹原の金毘羅常夜灯
たけわら
松山市
(2丁目)
石常夜灯(自然石)
文化4(1807)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿正面)「奉、金毘羅/太神宮/石鉄山、村/中」/笠に突起のある風化岩塊を使用、石材が部位ですべて異なる(松山地区の特徴)/火袋の中台が対比的に丸くて面白い/石基壇あり
1
B
北斎院町の常夜灯1
きたさや
松山市
石常夜灯
文化4(1807)
WEB(塔MAP)
原位置?/民家の玄関先に囲いを造って設置
台石頂部が丸味を帯びて加工/基壇なし
2
C
土居町の金毘羅常夜灯
どい
松山市
石常夜灯(自然石)
文化6(1809)
WEB(塔MAP)
基礎全面C版(移設?)/火袋に繊細な斜め格子(後補)
(竿正面)「奉、金毘羅大權現/三島大明神/石鉄山大權現」/竿がアンバランスに大きい/宝珠なし
2
B
余戸西の金毘羅常夜灯
ようごにし
松山市
中の孝集会所
石常夜灯(自然石)
高1.94m
文化6(1809)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿正面)「奉、石鉄山/金毘羅/太神宮/三島宮、組中」/笠に風化岩塊を使用(松山地区の特徴)
1
C
高岡町の金毘羅常夜灯
たかおか
松山市
石常夜灯
文化6(1809)
WEB(塔MAP)
原位置?/火袋後補
(竿正面)「金/大/石/八、常夜燈」(=大神宮,八坂寺)/笠と宝珠の間に角石を挿入/石基壇なし
1
C
久谷町の金毘羅常夜灯
くたに
松山市
<土佐街道>
石常夜灯(自然石)
文化6(1809)
歴史の道2p22
移設?
(竿正面)「石/金/氏」(=氏神)、(台石正面)「下組中」/大型の笠石
2
C
久保田町の金毘羅常夜灯
くぼた
松山市
履脱天満神社
石常夜灯(自然石)
文化7(1810)
WEB(塔MAP)
移設
(竿正面)「
奉
、太/石/金/八/天、村中」(=太神宮,八坂寺)(
緑字
は異体字)/笠に突起のある風化岩塊を使用、石材が部位ですべて異なる(松山地区の特徴)/石基壇あり
2
B
石手の金毘羅常夜灯
いして
松山市
石常夜灯(自然石)
文化10(1813)
WEB(塔MAP)/WEB
コンビニの駐車場化したことで防護補強
(竿正面)「三嶋宮/金毘羅/石鉄山/熊野宮、常夜燈」、(竿裏面)「村中安全」
2
C
恵原町の金毘羅常夜灯
えばら
松山市
恵原集会所
石常夜灯(自然石)
文化13(1816)
WEB(塔MAP)
移設
(竿正面)「金 常夜燈」/火袋開口部が上弦の月型
2
B
北井門の金毘羅常夜灯
きたいど
松山市
<土佐街道>
石常夜灯(自然石)
文化13(1816)
歴史の道2p15/WEB(塔MAP)
近接移設?
(竿正面)「奉、天/金/石/明、常夜燈」/笠に突起のある風化岩塊を使用、石材が部位ですべて異なる(松山地区の特徴)
1
B
北斎院町の常夜灯2
きたさや
松山市
石常夜灯(自然石)
文化14(1817)
WEB(塔MAP)
周辺C舗装→近接移設?
笠に突起のある風化岩塊を使用(松山地区の特徴)
2
C
元怒和の常夜灯
もとぬわ
松山市
石常夜灯(花崗岩)
文政2(1819)
WEB(塔MAP)
移設?
笠と宝珠の間に角石を挿入/石基壇なし
2
C
浄瑠璃町の金毘羅常夜灯2
じょうるり
松山市
<土佐街道>
石常夜灯(自然石)
高2.15m
天保9(1838)
歴史の道2p21
原位置?
(竿正面)「奉、八/金/石、上組中」(=八坂寺)
1
C
溝辺町の金毘羅常夜灯
みぞのべ
松山市
石常夜灯
天保9(1838)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿正面)「金 奉献」/猫脚/笠と宝珠の間に角石を挿入/石基壇なし/上部が大きくアンバランス
1
C
東方町の金毘羅常夜灯1
ひがしがた
松山市
石常夜灯(自然石)
弘化3(1846)
WEB(塔MAP)
原位置
(竿正面)「石/三/金、常夜燈」
1
C
平井町の金毘羅常夜灯1
ひらい
松山市
石常夜灯(自然石)
弘化3(1846)
歴史の道3p63/WEB
近接移設?/火袋を木材で補強
(竿正面)「金/石、常夜燈」
1
C
平井町の金毘羅常夜灯2
ひらい
松山市
石常夜灯(自然石)
弘化4(1847)
WEB(塔MAP)
移設
(竿正面)「石/三/金、奉寄進」
2
C
東方町の常夜灯
ひがしがた
松山市
六丁集会所<土佐街道>
石常夜灯(自然石)
嘉永2(1849)
WEB(塔MAP)
移設
石材が部位ですべて異なる
2
B
土居町の常夜灯
どい
松山市
石常夜灯
嘉永5(1852)
WEB(塔MAP)
石基壇の側面がC→移設?
竿が角柱
2
C
千舟町の金毘羅常夜灯
ちふね
松山市
(1丁目)
石常夜灯(自然石)
嘉永5(1852)
WEB(塔MAP)
移設/中台は木材?
(竿正面)「金/大/石、常夜燈」/笠と宝珠のみ自然石
2
C
来住町の金毘羅常夜灯
きし
松山市
石常夜灯(自然石)
嘉永6(1853)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿正面)「金/石、常夜燈」
1
B
平田町の常夜灯
ひらた
松山市
石常夜灯(自然石)
嘉永7(1854)
WEB(塔MAP)
原位置?
笠に突起のある風化岩塊を使用(松山地区の特徴)
1
B
東方町の金毘羅常夜灯2
ひがしがた
松山市
石常夜灯(自然石)
安政2(1855)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿正面)「金/三/石、奉燈」
1
B
小坂の常夜灯
こさか
松山市
石常夜灯(自然石)
安政3(1856)
WEB(塔MAP)
周辺C舗装→移設?
宝珠なし/竿石は角柱状の自然石
2
C
石風呂町の金毘羅常夜灯
いしふろ
松山市
石常夜灯(自然石)
高2.70m
安政5(1858)
WEB(塔MAP)
移設→民家の玄関先
(竿正面)「金毘羅大権現」、(竿右面右)「村中安全」/笠に突起のある風化岩塊を使用(松山地区の特徴)
3
B
谷町の金毘羅常夜灯
たに
松山市
石常夜灯(自然石)
安政6(1859)
WEB(塔MAP)
移設/竿石の刻字は再刻?
(竿正面)「奉、三島新宮/讃州金毘羅、村中安全 五穀…」/笠に突起のある風化岩塊を使用(松山地区の特徴)/宝珠なし
2
B
井門町の金毘羅常夜灯
いど
松山市
<土佐街道>
石常夜灯
慶応2(1866)
歴史の道2p15/WEB(塔MAP)
原位置?
(中台正面)「天/金」、(竿正面)「常燈」、(台石右面)「村/中/安/全」/猫脚/笠と宝珠の間に角石を挿入
1
B
恵原町の道標1
えばら
松山市
<土佐街道>
石道標(自然石)
高101㎝,幅54㎝,厚20㎝
貞享2(1685)
歴史の道2p21/WEB
原位置?
「(開いた右手差し)右 遍ん路道」/“開いた手”は他に例がない/17世紀の道標
1
B
御幸の道標
みゆき
松山市
(2丁目)<今治街道>
石道標(自然石)
高70㎝,幅60㎝,厚20㎝
元禄12(1699)
歴史の道1p16/WEB
裏側に刻字→標石が折損したため逆さまに据え、裏側に追刻
(正面)「右 遍んろみち」/17世紀の道標
3
C
浄瑠璃町の徳右衛門道標1
じょうるり
松山市
浄瑠璃寺
石道標(駒型)
高117㎝,幅25㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設
(正面像下)「これより/八坂寺迄、五丁」、(左面)「世話人 越智郡阿さくら 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
浄瑠璃町の徳右衛門道標2
じょうるり
松山市
八坂寺・門前<土佐街道>
石道標(駒型)
高140㎝,幅25㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道2p21/WEB
移設?
(正面像下)「これより/西林寺迄、三十五丁」、(左面)「世話人 越智郡朝倉村 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
南高井町の徳右衛門道標
みなみたかい
松山市
西林寺・南
石道標(駒型)
高118㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
近接移設?/左面下部の刻字不鮮明
(正面像下)「これより 浄土寺迄 廿五丁」、(左面)「世話人 越智郡朝くら 徳右ェ門」(?)/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
1
C
鷹子町の徳右衛門道標
たかのこ
松山市
浄土寺・門前
石道標(蒲鉾型)
高114㎝,幅25㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設?/左面ブロック塀で読めない/像容不鮮明/下部埋設
(正面像下)「是より/者んた寺迠、十八丁」(=繁多寺)、(左面)「世話人 越智郡朝倉村 徳右ェ門」(?)/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
石手の徳右衛門道標
いして
松山市
石手寺・参道口
石道標(蒲鉾型)
高144㎝,幅25㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
近接移設
(正面像下)「是より/大山寺迠、弐里」、(左面)「願主 越智郡朝倉上村 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
1
C
太山寺町の徳右衛門道標
たいさんじ
松山市
太山寺・三の門の石段下
石道標(蒲鉾型)
高129㎝,幅25㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設?/下部C舗装
(正面像下)「是より 圓明寺迠 十八丁」、(左面)「願主 越智郡朝倉上村 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
和田の徳右衛門道標
わだ
松山市
和田バス停<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高115㎝,幅29㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p19/WEB
移設?/像容を含め磨耗が進む
(正面像下)「是より/延命寺へ、七里七丁」、(左面)「願主 越智郡朝倉 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
鹿峰の徳右衛門道標
かのみね
松山市
<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高127㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p54/WEB
移設→塀の先端に利用
(正面像下)「御自作やくよけ大師/遍照院江 三里三十二丁」、(左面)「願主 越智郡阿さくら 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
辻町の徳右衛門道標
つじ
松山市
明星川のカルバート上
<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高80㎝,幅25㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p22/WEB
移設/下部欠損
(正面像下)「御自…/遍照…」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/「徳右衛門」の刻字はないが(欠損部)、形態と上記「浅海原の徳右衛門道標」との類似性から徳右衛門道標と推定/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
4
C
浅海原の徳右衛門道標
あさなみはら
松山市
原番所跡の地蔵堂
<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高133㎝,幅25㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p24/WEB
移設/下部1/5で折損→修復
(正面像下)「御自作やくよけ大師/遍照院江 一里廿二丁」、(左面)「願主 阿さくら 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
小川町の道標
おがわ
松山市
<今治街道>
石道標
(自然石、安山岩)
高78㎝,幅36㎝
享和3(1803)
歴史の道1p53/WEB
原位置?
(正面)「(左手差し袖付き)左 へんろ道」
1
C
森松町の道標
もりまつ
松山市
<土佐街道・金毘羅街道>
石道標
文化10(1813)
歴史の道2p16/ 歴史の道3p26
移設
(正面)「上 こん飛良道」
2
B
鷹子町の金毘羅里程道標
たかのこ
松山市
<讃岐街道>
石道標
文化10(1813)
歴史の道3p19/WEB
移設
(正面)「従 金毘羅大門 二十九里」
2
B
道後北代の大師道標
どうご、
きたしろ
松山市
石道標(蒲鉾型)
高111㎝,幅26㎝,厚18㎝
文化13(1816)
WEB(中予の遍路道)
原位置?
(正面像下)「(右指差し袖付き)此方遍路道、太山寺迄/六十七丁」/正面頂部を削り込み大師坐像を陽刻
1
C
浄瑠璃町の道標1
じょうるり
松山市
<土佐街道>
石道標(自然石)
高89㎝,幅44㎝,厚22㎝
文政2(1819)
歴史の道2p20/WEB
原位置
「(左斜め指差し袖付き)左 へんろう道/浄るり寺へ/壱丁」/46番札所・浄瑠璃寺の南約100m
1
C
道後姫塚の聖観音像道標
どうご、
ひめづか
松山市
義安寺・西参道口
石道標(蒲鉾型)
高113㎝,幅33㎝,厚19㎝
文政4(1821)
WEB
原位置?/周囲C舗装/中央で斜めに折損→修復
(正面像下)「(左手差し)此方 へんろ道」/頂部を光背型に削り込み小さな聖観音立像(蓮台)を陽刻
1
C
北梅本町の金毘羅里程道標
きたうめもと
松山市
<讃岐街道>
石道標(尖頭角柱)
文政4(1821)
歴史の道3p20/WEB
移設/下部埋設(「ゟ」以下埋設→肝心の数字が見えないのでは意味がない」
(正面)「金毘羅大門ゟ 二八里」
4
C
桑原の道標
くわばら
松山市
(3丁目)<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高105㎝,幅26㎝,厚16㎝
文政9(1826)
歴史の道3p18/WEB
移設(C台石)
(正面)「(右上手差し) 右 へんろ道」
2
C
浄瑠璃町の道標2
じょうるり
松山市
46番札所・浄瑠璃寺の北西約150m<土佐街道>
石道標(尖頭角柱)
高110㎝,幅17㎝,厚15㎝
文政12(1829)
歴史の道2p22/WEB
下部埋設
(正面)「(左指差し)此方 へん路道」
2
C
窪野町の道標
くぼの
松山市
出口出張所<土佐街道>
石道標(自然石)
高96㎝,幅20㎝,厚13㎝
天保2(1831)
歴史の道2p21/WEB
移設
(正面)「(右指差し)右 へんろ道」
2
C
南土居町の大師道標
みなみどい
松山市
石道標
高127㎝,幅20㎝,厚15㎝
天保13(1842)
WEB
移設/上半分はオリジナル、下半分は最近の後補
(正面像下)右 へんろみち」/正面頂部を削り込み大師坐像を陽刻
4
C
東方町の金毘羅里程道標
ひがしがた
松山市
国重文・渡部家住宅・敷地内<土佐街道・讃岐街道>
石道標
高155㎝,幅21㎝,厚19㎝
嘉永元(1848)
歴史の道2p18/歴史の道3p27/WEB
移設
(正面)「古ん飛ら大門ヨリ 二十九里」、(右面)「是ヨリ 西林寺江 十八丁」
2
C
鷹子町の道標1
たかのこ
松山市
<讃岐街道>
石道標
高128㎝,30㎝角
嘉永2(1849)
歴史の道3p19/WEB
アスファルト舗装/下部若干埋設
(正面)「(左指差し袖付き)左 へんろミち」、(左面)「すぐ 古んひらみ…」
2
C
北条辻の道標
ほうじょうつじ
松山市
明星川のカルバート上
<今治街道>
石道標
高220㎝,幅35㎝,厚23㎝
嘉永3(1850)
歴史の道1p22/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設/隣の道標と接触/裏面に「花へんろの町」と近年に刻字
(正面)「左、遍んろみち/金毘羅へ 三十二里」/上記「北条辻の里塚石」と並ぶ
3
B
太山寺町の道標1
たいさんじ
松山市
(大淵)<今治街道>
石道標(尖頭角柱)
高122㎝,29㎝角
嘉永5(1852)
WEB(中予の遍路道)
移設?
(正面)「(左指差し袖付き)遍路道」
2
C
太山寺町の道標2
たいさんじ
松山市
(片廻)
石道標
高125㎝,30㎝角
嘉永6(1853)
WEB(中予の遍路道)
原位置?
(正面)「(右指差し袖付き)へんろ道」、(左面)「(左指差し袖付き)逆遍路道」
1
C
鷹子町の道標2
たかのこ
松山市
<讃岐街道>
石道標(花崗岩)
高137㎝,30㎝角
嘉永7(1854)
歴史の道3p18-19/WEB/WEB(塔MAP)
原位置?/下部若干埋設
(正面)「(右指差し袖付き)右 遍ん路道」、(右面)「(左指差し袖付き)左 逆邊路道」
1
C
正円寺の道標
しょうえんじ
松山市
(3丁目)
石道標
高70㎝,幅32㎝,厚21㎝
嘉永7(1854)
WEB(中予の遍路道)
近接移設?
(正面)「(左指差し)へんろみち」
1
-
河中町の道標
かわなか
松山市
農協河中支所・東50m
石道標
万延元(1860)
WEB
原位置
(正面)「左、日浦 両新田社江 壹… /奈良原社江 二里三十…」、(右面)「右 福見觀音江 三
□
里三…」
1
C
鷹子町の道標3
たかのこ
松山市
<讃岐街道・へんろ道>
石道標
高150㎝,幅35㎝,厚34㎝
文久2(1862)
歴史の道3p19/WEB
原位置?
(正面頂部)「道/法」、(その下)「道法、松山札之辻 二里/三津浜 三里/道後湯之町 一里/九萬町 六里/來見 六里/郡中 三里」、(右面)「(右手差し袖付き)みき へんろ道」、(裏面)「(左指差し袖付き)きやく(=逆)へんろ道」
1
C
馬木町の道標
うまき
松山市
<今治街道>
石道標
高158㎝,幅37㎝,厚30㎝
文久3(1863)
WEB(中予の遍路道)/WEB
移設?
(正面)「(左手差し袖付き)(右指差し袖付き)へんろミち」、(右面左)「是ヨリあか多圓明寺へ九里六丁」
2
C
畑寺の道標
はたでら
松山市
繁多寺・山門前
<讃岐街道>
石道標(尖頭角柱)
高118㎝,幅33㎝,厚34㎝
慶応元(1865)
歴史の道3p55/WEB(中予の遍路道)
移設、集約
(左面)「(右手差し袖付き)へんろみち」、(同頂部)「石/手/寺」、(同左の袖部)「二十丁」、(裏面)「(左指差し袖付き)遍路
道
」(
緑字
は異体字)、(同頂部)「浄/土/寺」、(同左の袖部)「十五丁」/正面に「五拾番札所」と刻字
2
C
木屋町の道標
きや
松山市
(4丁目)
石道標(笠付き)
高216㎝,40㎝角
江戸期?
WEB/WEB(塔MAP)
中央で折損→Cも用いて修復
(正面)「(右指差し袖付き)(左手差し袖付き)へんろみち」、(左面)「南 御城下道」/「城下」の標記は江戸期
2
B
内宮町の道標1
うちみや
松山市
遍路橋<今治街道>
石道標(尖頭角柱)
高132㎝,36㎝角
江戸期?
WEB(中予の遍路道)
周辺で工事中(平成26)
(正面)「(左指差し袖付き)遍路道」、(右面)「宝寿院」、(左面)「(右手差し袖付き)ぎやく/へんろミち」(=逆)/「ミち」の標記は江戸期
2
C
恵原町の道標2
えばら
松山市
石道標(尖頭角柱)
高130㎝,31㎝角
江戸期?
WEB
原位置?
(正面)「(左指差し)左 へんろミち」、(左面)「(右手差し袖付き)きやく/へんろ道」(=逆)/「ミち」の標記は江戸期
1
C
祝谷の道標
いわいだに
松山市
天神橋・西
石道標
高102㎝,30㎝角
江戸期?
WEB(中予の遍路道)
移設
(正面)「(左指差し袖付き)(右手差し袖付き)」、(右面)「すぐ へんろ道」、(左面)「すぐ へんろミち」/「ミち」の標記は江戸期
2
C
志津川町の道標
しつかわ
松山市
志津川池・西
石道標(自然石)
高95㎝,幅42㎝,厚40㎝
江戸期?
WEB(中予の遍路道)
移設(もと、安祥寺近くの田道の三叉路)
(正面)「(左指差し)へんろミち」、(右面上部)「(左手指し)」/「ミち」の標記は江戸期
C
内宮町の道標2
うちみや
松山市
<今治街道>
石道標(自然石)
江戸期?
WEB(中予の遍路道)
移設/4・5年前に旧村にあたる現地に据えた
(正面)「(左手差し)此方へんろミち」/「ミち」の標記は江戸期
2
C
樽味の金毘羅里程道標
たるみ
松山市
<讃岐街道>
石道標
江戸期?
WEB
近接移設?
(正面)「金毘羅道」、(同頂部右)「右」、(同下部左端)「三十三里」、(右面)「道後道」、(同下部左端)「拾一
□
」、(同頂部右)「右」、(左面)「城下道」、(同頂部右)「左」/讃岐街道に残る最も松山寄りの金毘羅里程標
1
C
神田町の金毘羅里程道標
かんだ
松山市
厳島神社<三津街道>
石道標
江戸期?
歴史の道4p30
原位置?
(正面)「讃州金毘羅江 是従三十五里」/「金毘羅」の標記は江戸期
1
C
小川の南和気・北風早郡境石
おがわ
松山市
<今治街道・粟井坂>
境界石(安山岩)
高180㎝,18.5㎝角
寛保元(1741)
歴史の道1p19/WEB
風化が進行
(正面)「郡境」、(右面)「
□□
南 和気郡」、(左面)「
□
□
北 風早郡」
2
B
浅海本谷の南風早・北野間郡境石
あさなみ、
ほんだに
松山市
<今治街道>
境界石(安山岩)
高176㎝,19㎝角
寛保元(1741)
市史跡
歴史の道1p24/WEB
移設
(正面)「郡境」、(右面)「従是南 風早郡」、(左面)「従是北 野間郡」
2
B
和泉北の南久米・北温泉郡境石
いずみきた
松山市
和泉公民館・前
<大洲街道>
境界石(尖頭角柱)
江戸期?
歴史の道5p23
移設(もと、雄郡神社の南約100m)
(正面)「郡境」、(右面)「従是南 久米郡」、(左面)「従是北 温泉郡」
2
B
一文字防波堤
いちもんじ
松山市
堀江港
防波堤(離岸堤)
長約180m
安政2(1855)
WEB
昭和21南海大地震後に大改修
"一文字防波堤"の両側に「ハ」の字を作るように2本の防波堤が付属→港への出入口が東西2ヶ所ある独自の形態は保持/村民の自普請→藩は、村民の工事代金返済を助けるため、10年間にわたって芝居・相撲興行を春季1週間以内、牛馬市を秋季5日以内許可した
4
B
興居島の金毘羅常夜灯
ごごしま
松山市
(興居島)
由良港
石常夜灯
(海運、自然石)
文政年間(1818-30)
WEB
C突堤脇の金毘羅宮(海上)
2
B
睦月の常夜灯1
むづき
松山市
(睦月島)
石常夜灯
(海運、花崗岩)
天保6(1835)
WEB(塔MAP)
火袋木製/移設集約?
港の常夜灯/基壇なし
2
C
睦月の秋葉山常夜灯1
むづき
松山市
(睦月島)
石常夜灯
(海運、花崗岩)
天保9(1838)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿)「秋葉大權現」/港の常夜灯/猫脚/基壇なし/下記、金毘羅常夜灯と並ぶ
1
C
睦月の金毘羅常夜灯2
むづき
松山市
(睦月島)
石常夜灯
(海運、花崗岩)
慶応3(1867)
WEB(塔MAP)
移設集約?
(竿)「金毘羅大權現」/港の常夜灯/猫脚/基壇なし/上記、秋葉山常夜灯と並ぶ
2
C
一ノ井出堰
いちのいで
松山市
石手川
取水堰
天正7(1579)
市教委/WEB
堰本体はC補強/左岸側に創建時の物と思われる石垣が残る
松末美濃守通為の家臣・井手若狭守が築造/石手川の3つの主要堰(他に寺井堰、斎院樋堰)の一つで、一番上流にあり、市之井手橋のやや上流に位置
4
B
縦淵堰
たてぶち
松山市
小野川
取水堰
慶長11(1606)
市教委
上流に段差工が追加/石積部分は当時のものか?
和泉村の庄屋・森太郎左衛門宗勘が築造→小野川縦淵堰和泉村70余町歩の良田化に成功
2
B
大池
おお
松山市
(鷹子町)
溜池
長約660m,高15m
弘治4(1558)?
WEB
池側に金網柵、内法面はC改修
皿池
3
B
枝朶下池
しだのした
松山市
内川
溜池
長172m,高19.3m
延宝5(1677)?
WEB
昭和9大規模改築
→かなり嵩上げ?
3
B
堀江新池
ほりえしん
松山市
溜池
長560m
天保6(1835)
ため池百選
WEB
平成21親水公園
庄屋・門屋一郎次が藩に働きかけて、村民が総力をあげて築造/皿池/池の中ほどに波止場(中土手)がある珍しい形=大雨の時に生じる波立ちで堤体が破壊されるのを防止するための土手とされている
2
B
道後温泉の湯釜
どうご、
ゆがま
松山市
<道後温泉の浴槽内・湧出口>
温泉の湧出口
(石造)
直径166.7㎝,
高157.6㎝
天平勝宝年間(749-57)?
県有形
県教委
/市教委(道後温泉・増補版)
移設
設置年代の古代は伝承(道後温泉には聖徳太子湯治伝承がある)/正応元(1288)、河野通有(伊予水軍の将)の依頼で一遍上人が湯釜の宝珠(湯釜最上部の湧水口)に「南無阿弥陀佛」の名号を書いたと伝えられる/享禄4(1531)、河野通直(伊予国の戦国大名)が湯釜に僧・徳応の撰した温泉の効用に関する文を、尾道の石工に命じて彫らせた→「此時一の湯に釜をすへ、面に薬師の尊像を彫付、蓋に六字、廻りに願文并享禄四辛卯年河野通直と記す」とあるので、「一遍上人の名号」伝承は間違いの可能性もある/撰文(像から右周りに):「夫吾朝伊豫國守/河野太郎通直有道/德行兼備詩禅
□□
/塾仁謂之
□□□□
/孝靈天皇
□
□□□
/伊豫親王
□□□□
/座側有一湯
□□□
/地也洗
□□□
□□
/成醫豈
□□□
□□
/宮□于時有
□□□
/如意寶珠
□□□□
/湯荘厳将謂
□□□
/
□□
局也盛哉
□□
/享禄四天辛卯小春如意珠日/備後國尾道芥河
□□□
/柳原左衛門尉
□
次
□□
」/すべてが享禄4(15
31)としても戦国期であり、全国最古の温泉遺産であることに変りはない
2
太政官道の道幅を示すクランク状屈折
たいせいかんどう
今治市
道路
古代
木下 良
クランク状の屈折を造っているので条里帯の幅が知れる(写真の2本の黄線が、かつての官道の両端を示すと考えられている)
4
B
大井八幡大神社の参道橋
今治市
大西町宮脇
石桁橋
長1.6m(G)
天保2(1831)
WEB(石橋)
保存状態良好
太鼓橋(弓形に削りだした石梁を10列並べる/擬宝珠付き高欄
1
C
菊間町長坂の里塚石
(六里)
きくま、
ながさか
今治市
<今治街道>
一里石
高125㎝,幅18㎝,厚16㎝
寛保元(1741)
市史跡
歴史の道1p25/WEB
(正面)「松山札辻より六里」
C
菊間町浜の里塚石(七里)
きくま、はま
今治市
菊間町民会館・裏
<今治街道>
一里石
寛保元(1741)
市史跡
歴史の道1p26/WEB
移設(破損して上部のみ設置)/近くの今治市役所菊間支所正面左に復元標石
(正面)「松山札…」
(七里)
4
C
菊間町種の里塚石(八里)
きくま、たね
今治市
亀岡小学校<今治街道>
一里石
寛保元(1741)
市史跡
歴史の道1p27/WEB
移設(正門の左の庭園内)
(正面)「松山札辻より八里」
3
C
大西町宮脇の里塚石
(九里)
おおにし、
みやわき
今治市
<今治街道>
一里石
寛保元(1741)
市史跡
歴史の道1p29/WEB
原位置?
(正面)「松山札辻より九里」
1
C
波方町岡の里塚石(十里)
なみかた、
おか
今治市
波方支所・前
<今治街道(波止浜街道)>
一里石
寛保元(1741)
市史跡
歴史の道1p49/WEB
行方不明となったが、近隣他所で発見され、元の位置に戻された
(正面)「松山札辻より十里」
2
C
波止浜の里塚石
(十里二十九丁)
はしはま
今治市
<今治街道>
一里石
寛保元(1741)
市史跡
市教委
中央で2つに折れたまま保存
(正面)「松山札辻より十里二十九丁」/波止浜にあった代官所が今治街道の終点なので「一里塚」としては異例の端数里での設置
3
C
阿方の真念道標
あがた
今治市
延命寺<今治街道>
石道標
高70㎝,幅17㎝,厚14㎝
1680年代?
歴史の道1p30/WEB
移設
(正面)「左 遍ん路みち、願主/真念」/右面に「(梵字)南無大師遍照金剛」と陰刻/17世紀の道標
2
C
玉川町別所の真念道標
たまがわ、
べっしょ
今治市
仙遊寺・千体地蔵横
石道標
高65㎝,幅17㎝,厚11㎝
1680年代?
WEB
移設、集約/基部露出
(正面)「右 されいじみち 願主/左 こくぶんじみち 真念」/右面に「(梵字)南無大師遍照金剛」と陰刻/17世紀の道標
3
C
国分の真念道標
こくぶ
今治市
(6丁目)<今治街道>
石道標
高86㎝,幅16㎝,厚19㎝
1680年代?
歴史の道1p51/WEB
移設(基部露出)/「左」を「右」に改刻
(正面)「右 遍ん路みち」、(同下部右)「願主」、(同左)「真念」/右面に「南無大師遍照金剛」と陰刻/17世紀の道標
2
B
阿方の地蔵道標
あがた
今治市
石道標(舟型)
高79㎝,幅33㎝,厚15㎝
安永3(1774)
WEB
原位置?
(光背右上)「札所迄二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
菊間町佐方の徳右衛門道標
きくま、
さがた
今治市
(高城)高城集会所
<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高143㎝,幅24㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)→大正5再建立
歴史の道1p56/WEB
大正5、中務茂兵衛義教が裏面に刻字
(正面像下右)「(左指差し)延命寺へ/壹里半」、(同左)「(右指差し)圓明寺へ/七里半」、(右面最下部右)「世話人 朝倉村 徳右衛門」、(左面頂部の追刻)「右、新/道」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
大西町宮脇の徳右衛門道標
おおにし、
みやわき
今治市
宮脇橋<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高138㎝,幅25㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p29/WEB
移設
(正面像下)「是より/延命寺迄、一里」、(左面下部)「施主 越智郡上朝倉村 御料弥蔵/願主 同所 徳右ヱ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)/松山札辻より九里標石と並立
2
C
阿方の徳右衛門道標
あがた
今治市
延命寺<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高147㎝,幅24㎝,厚31㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p57/WEB
移設
(正面像下)「是より/別宮迄、一里」、(右面最下部)「願主/德右衛門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
宮浦の徳右衛門
(?)
道標
みやうら
今治市
大三島宮浦港の大鳥居・左
石道標(蒲鉾型)
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB(空海の里)
移設
(正面像下)「是より /別宮迄、七里」、(左面)「朝倉上村
□
次郎左衛門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/「徳右衛門」の刻字はないが、朝倉上村と形態から徳右衛門道標と推定/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)?
2
C
小泉の徳右衛門道標
こいずみ
今治市
泰山寺
石道標(蒲鉾型)
高137㎝,幅26㎝,厚17㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
横転
(正面像下)「(左手差し)」、(右面頂部)「五十五番へ(右指差し)願主 徳右ェ門」(草書体)、(左面頂部)「五十七番へ(右指差し)」/正面頂部に大師坐像を浮彫り/徳右衛門道標としては異例の構成/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
玉川町八幡の徳右衛門道標
たまがわ、
やわた
今治市
栄福寺
石道標(蒲鉾型)
高150㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設
(正面像下)「是よ里 佐禮山未天 二十丁」(草書体)、(左面下部)「願主 徳右衛門」(草書体)/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/村名がないが、形態から徳右衛門道標と推定/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
玉川町別所の徳右衛門道標
たまがわ、
べっしょ
今治市
仙遊寺
石道標(蒲鉾型)
高145㎝,幅25㎝,厚23㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設
(正面像下)「是より/國分寺迠、一里」、(左面最下部)「願主/徳右衛門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
国分の徳右衛門道標
こくぶ
今治市
国分寺<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高127㎝,幅24㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p61/WEB
移設、集約(墓地内)/下部埋没
(正面像下)「是より/横峯迄、六里廿八丁」、(左面最下部)「願主/徳…」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
長沢の徳右衛門道標
ながさわ
今治市
道の駅<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高108㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道1p36/WEB
移設
(正面像下)「是より/横峯迄、五里」、(左面最下部)「願主/徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
国分の道標1
こくぶ
今治市
国分寺集会所
<今治街道(南街道)>
石道標(蒲鉾型)
高50㎝,幅16㎝,厚14㎝
文化2(1805)
歴史の道1p61/WEB
移設
(正面)「(梵字)右 へんろみち」
2
-
大西町新町の道標
おおにし、
しん
今治市
波止浜街道分岐点
<今治街道>
石道標(蒲鉾型)
高130㎝,幅25㎝,厚22㎝
文政5(1822)
歴史の道1p29/WEB
原位置?/下部埋没
(正面)「(梵字)(右手差し)右 へんろ…」
1
C
波止浜の道標
はしはま
今治市
(本町)龍神社北西玉垣<今治街道(波止浜街道)>
石道標
高151㎝,幅23㎝,厚16㎝
文政13(1830)
歴史の道1p50/WEB
ゴミの集積場の杭替わり⇒あまりに惨め
(正面)「右、遍ん路道」、(右面)「阿可多むら 延命寺江 壹里」
3
C
阿方の大師道標
あがた
今治市
延命寺一の門の外<今治街道>
石道標
高182㎝,幅27㎝,厚26㎝
天保12(1841)
歴史の道1p57/WEB
原位置?/中央で斜めに折損→修復/「延命寺」は彫り直し
(正面像下)「(左指差し)遍ん路道」、(右面)「五十四番 延命寺」/正面頂部に大師坐像を浮彫り
1
B
国分の地蔵道標
こくぶ
今治市
(6丁目)
<今治街道(南街道)>
石道標(舟型)
高153㎝,幅60㎝,厚50㎝
天保15(1844)
歴史の道1p50/WEB
原位置?
(光背右)「左 遍んろミち」/光背中央に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻
1
C
小泉の地蔵道標
こいずみ
今治市
(2丁目)
石道標(蒲鉾型)
高184㎝,幅39㎝,厚19㎝
天保15(1844)
WEB
原位置?
(正面像下)「(左指差し)遍ん路道」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻
1
B
国分の道標2
こくぶ
今治市
(4丁目)
<今治街道(南街道)>
石道標
高125㎝,幅27㎝,厚10㎝
弘化3(1846)
歴史の道1p61/WEB
移設?/中央下部で折損→修復
(正面)「(右指差し)遍んろ
ミ
ち」
2
C
小泉の道標1
こいずみ
今治市
(4丁目)
石道標
高227㎝,幅33㎝,厚31㎝
弘化4(1847)
WEB
原位置?
(正面)「(左手差し袖付き)遍んろ道」、(同最下部)「八幡へ/十三丁」、
(右面)「右、和靈大明神 三十丁/奈良原本社 五里半」
1
B
北日吉町の道標
きたひよし
今治市
(2丁目)茶道橋たもと
<今治街道>
石道標(尖頭角柱)
高176㎝,幅30㎝,厚30㎝
弘化4(1847)
歴史の道1p31/WEB
移設/「延命寺」は彫り直し
(正面)「(右指差し)遍ん路道」、(同最下部)「別宮江/八丁」/(左面)
「延命寺江 二十八丁」
2
C
南大門町の道標
みなみだいもん
今治市
(3丁目)
石道標
高122㎝,25㎝角
弘化4(1847)
WEB
移設→個人宅
(正面)「遍ん路道」、(右面頂部)「(右指差し)」
4
C
別宮町の道標
べっく
今治市
南光坊<今治街道>
石道標
嘉永2(1849)
歴史の道1p58
移設
(正面)「阿古奈し地蔵堂、従是/三丁」
2
B
小泉の道標2
こいずみ
今治市
(5丁目)蒼社川土手
石道標
高134㎝,幅27㎝,厚24㎝
嘉永3(1850)
WEB
近接移設?
(正面)「(左指差し)遍ん路道」/左面に「遠山に 眼のとどきけり 秋の月」の句を刻字
1
C
玉川町別所の道標1
たまがわ、
べっしょ
今治市
仙遊寺
石道標
高172㎝,幅26㎝,厚24㎝
嘉永4(1851)
WEB
移設
(正面最下部)「國分寺へ/五十丁」/正面上部に大きく「龍燈桜」、右面に「入相能 可年/惜まるゝ/桜可南」〔入相の かね惜まるる 桜かな〕の句を刻字
2
C
玉川町別所の道標2
たまがわ、
べっしょ
今治市
佐礼山への登山道の左側
石道標
嘉永4(1851)
WEB
移設、集約
(正面)「従是 本堂江 五丁」/左面に「おの川可羅/古ゝ路とゞ具や/花の山」〔おのつから 心とどくや 花の山〕の句を刻字
2
C
新谷の道標1
にや
今治市
民家の畑の端
石道標
高175㎝,幅26㎝,厚29㎝
嘉永4(1851)
WEB
移設
(正面)「(右指差し)遍ん路道」、(同最下部右)「國分寺江/二十丁」/右面に「雪とけて 元能/山家と 成尓介り」〔雪とけて 元の山家と 成にけり〕の句を刻字
3
C
国分の道標3
こくぶ
今治市
国分橋・東方
<今治街道(南街道)>
石道標
高181㎝,幅26㎝,厚24㎝
嘉永5(1852)
歴史の道1p50/WEB
移設
(正面)「(左指差し)遍ん路道]、(同下部右)「國分寺江/八丁」/左面に
「竹尓宿る 雀も/見え亭 秋乃月」〔竹に宿る 雀も見えて 秋の月〕の句を刻字
2
B
新谷の道標2
にや
今治市
(谷)山道から集落への出口
石道標
高133㎝,幅24㎝,厚23㎝
嘉永5(1852)
WEB
原位置
(正面)「(右指差し)遍んろ道」、(右面)「(左指差し)され以山道」
1
C
新谷の道標3
にや
今治市
大野墓地の下の道
石道標(尖頭角柱)
高102㎝,幅20㎝,厚18㎝
嘉永5(1852)
WEB
原位置
(正面)「(右手差し)へんろみち」
1
C
新谷の道標4
にや
今治市
石道標
高96㎝,幅20㎝,厚18㎝
嘉永5(1852)
WEB
原位置?
(正面)「(右手差し)へんろみち」、(同最下部)「國分寺へ/二十五丁」
1
C
新谷の道標5
にや
今治市
石道標
高80㎝,幅22㎝,厚18㎝
嘉永5(1852)
WEB
原位置?
(正面)「(左指差し)遍んろみち」
1
C
新谷の道標6
にや
今治市
吉祥禅寺前の池の前
石道標(尖頭角柱)
高83㎝,幅23㎝,厚18㎝
嘉永5(1852)
WEB
移設
(正面)「(左指差し)遍んろ道」、(同最下部)「國分寺江へ/三十丁」、
(右面)「(右指差し)是より 佐禮山へ 二十丁」
2
C
新谷の地蔵道標
にや
今治市
石道標(蒲鉾型)
高132㎝,幅27㎝,厚20㎝
安政7(1860)
WEB
原位置?
(正面像下)「上 佐禮山道/下 國分寺道」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻
1
C
山路の松山藩境石
やまじ
今治市
厳島神社・階段下
<今治街道>
境界石
寛保年間(1741-44)?
歴史の道1p31/WEB
移設(もと、山路交差点)/最下部で水平に折損→修復の上、鉄枠で4隅を補強
(正面)「従是西 松山領」
2
B
馬越町の今治藩境石
うまごえ
今治市
三島神社<今治街道>
境界石
江戸期
歴史の道1p31/WEB
移設(もと、山路三叉路)
(正面)「従是南 今治領」
2
C
国分の今治藩境石
こくぶ
今治市
<今治街道>
境界石
江戸期
歴史の道1p33
移設(もと、約100m東の遍路道沿い)
(正面)「従是西 今治領」
2
C
長沢の常夜灯
ながさわ
今治市
石常夜灯(水運)
弘化2(1845)
歴史の道1p35
田んぼの真ん中に立っている(周辺の用水路のための常夜灯)
波止浜港の灯明台
はしはま
今治市
波止浜港
<今治街道(南街道)>
石灯明台(海運)
高約6m
嘉永2(1849)
歴史の道1p50/WEB
御番所の前に建てられたが、その後塩田の廃止に伴い現在地に移設
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿左面)「海上安全」/石工・木村忠右衛門/移設年月・移設者の名が彫られている
2
A
鹿ノ子池
かのこ
今治市
溜池
長約200m,
高16.0m
寛政11(1799)
WEB
堤体改修/湿地ビオトープ・遊歩道が整備
今治藩7代藩主・松平定剛による築造/多岐川からの水を引き込む導水路溜池
2
C
犬塚池
いぬづか
今治市
小鴨部川
溜池
長207m,高18.5m
文化4(1817)
WEB
昭和10大改修
今治藩5代藩主・松平定郷による築造
2
C
井口四番浜南丸樋
・跡
いのくち
今治市
(大三島)
<井口の塩田と海を仕切る堤防外側>
石樋(花崗岩)
円弧長12m,上幅0.9m
天保年間以降(1830~)
国有形登録
WEB
保存状態やや良好
大三島・東岸の塩田用の石樋門/塩田の余水排出が主目的とされるが、同様の構造の岡山の野崎浜の石樋が海水取水用なので、なぜ排水用が必要なのか不明/円弧状の形態は風波による樋の損傷を防ぐため
2
A
井口三番浜丸樋
・跡
いのくち
今治市
(大三島)
<井口の塩田と海を仕切る堤防外側>
石樋(花崗岩)
円弧長8.5m
天保年間以降(1830~)
国有形登録
WEB
保存状態やや良好
同上/現存する3樋門中の中程度
2
B
井口四番浜北丸樋
・跡
いのくち
今治市
(大三島)
<井口の塩田と海を仕切る堤防外側>
石樋(花崗岩)
円弧長7.8m
天保年間以降(1830~)
国有形登録
WEB
改造
同上/現存する3樋門中の最小
3
C
桜井台場
・跡
さくらい
今治市
<松山藩>
台場(土塁)
長約20m,高約2m
安政2(1855)
台場事典p553/WEB
3つあった土塁のうち1ヶ所残存→ほとんど平坦
松山藩が安政2に築造した2ヶ所の台場の1つ
4
C
菊間台場
・跡
きくま
今治市
浜本町海岸<今治藩>
台場(土塁)
文久3(1863)
台場事典p552
土塁の一部が残る
今治藩が文久3に築造した4ヶ所の台場の1つ
3
C
中山町佐礼谷の旧街道
なかやま、
されだに
伊予市
(犬寄)<大洲街道>
道路
江戸期
歴史の道5p9
雰囲気がよく残る
2
C
犬寄峠の石畳
いぬよせ
伊予市
犬寄峠<大洲街道>
石畳道
長約100m,
幅約1.8m
江戸期
歴史の道5p23
保存状態はやや放置に近い
2
C
上吾川の太神宮常夜灯
かみあがわ
伊予市
<大洲街道>
石常夜灯
文政2(1819)
歴史の道5p39
移設 or 修復
(石基壇の石積み分厚いC)
(竿右面)「天照太神宮/金毘羅大權現」、(笠左面)「正一位稲荷社/石鉄大
□□
」/猫脚
2
B
稲荷の太神宮常夜灯
いなり
伊予市
<大洲街道>
石常夜灯
天保2(1831)
歴史の道5p39/WEB
移設(最下段にC台石)
(竿正面)「太神宮」、(竿右面)「石鉄山」、(竿裏面)「金毘羅」、(竿裏面中央)「稲荷社」/(上段台石正面)「本/組/中/安/全」/石基壇なし
2
C
下三谷の太神宮常夜灯
しもみたに
伊予市
<大洲街道>
石常夜灯
天保4(1833)
歴史の道5p39/WEB
原位置?
(竿正面)「太神宮」、(竿右面)「象頭山」、(竿左面)「石鐵山」、(竿裏面)「両氏神」/石基壇なし
1
C
下三谷の常夜灯
しもみたに
伊予市
<大洲街道>
石常夜灯
天保6(1835)
歴史の道5p39
移設?/笠一部欠損、宝珠紛失
(中段台石正面)「組/中/安/全」/石基壇なし
3
C
下吾川の太神宮常夜灯
しもあがわ
伊予市
<大洲街道>
石常夜灯
高2.93m
天保14(1843)
歴史の道5p39/WEB
移設?/火袋後補/笠、中台一部欠損
(竿正面)「太神宮」、(竿右面)」「金毘羅」、(竿左面)「石鉄山」、(台石正面)「村/中/安/全」/猫足
2
B
市場の太神宮常夜灯
いちば
伊予市
(本村)<大洲街道>
石常夜灯
弘化2(1845)
歴史の道5p21-2/WEB
原位置
(竿正面)「太神宮」、(同右)「金」、(同左)「石」、(竿右面)「天満宮」、(竿左面)「厳島社」、(竿裏面)「稲荷社」、(上段台石正面)「本/村/安/全」/見事な石基壇
1
A
下三谷の金毘羅里程道標
しもみたに
伊予市
<大洲街道>
石道標(尖頭角柱)
文化10(1813)
歴史の道5p20
移設
(正面)「従 金毘羅大門 三十一里」/上記の「下三谷の太神宮常夜灯」と並ぶ
2
C
中山町佐礼谷の金毘羅里程道標1
なかやま、
されだに
伊予市
榎峠集会所・前
<大洲街道>
石道標
天保5(1835)
歴史の道5p26
再移設(原位置付近)
(正面)「右 金毘羅大門より 三十四里半」
2
C
中山町佐礼谷の金毘羅里程道標2
なかやま、
されだに
伊予市
影浦橋たもとに
<大洲街道>
石道標(駒型)
弘化2(1845)
歴史の道5p25
移設
(正面)「(左指差し)金毘羅大門ヨリ/三十四里」/道標建立にあたって、金毘羅宮へ届出をした記録が残る
2
C
稲荷の道標
いなり
伊予市
<大洲街道>
石道標
弘化5(1848)
歴史の道5p21-22
近接位置?
(正面)「左 金毘羅道」、(左面)「右 谷上山道」
1
C
双海町上灘の金毘羅里程道標
ふたみ、
かみなだ
伊予市
(柆野)<大洲街道>
石道標
嘉永3(1850)
歴史の道5p24
原位置?
(正面)「金毘羅大門ゟ 三十四里」/5角ないし6角(もともと整形された角柱ではなく、5面はある程度加工、6面目は未加工)
1
C
上三谷の道標
かみみたに
伊予市
正圓寺・門前<大洲街道>
石道標
文久2(1862)
歴史の道5p20
近接移設?
(正面)「(右指差し)右 さぬき道」、(左面)「(左手指し)左 宇和嶌道」
1
C
上吾川の金毘羅里程道標
かみあがわ
伊予市
(支道)<大洲街道>
石道標
元治2(1865)
歴史の道5p20
移設(基部C)
(正面)「(左指差し)金毘羅道 三十一里半」、(左面)「(右指差し)谷上山道 二十三丁」
2
-
稲荷の題目塔道標
いなり
伊予市
稲荷神社参道、
稲荷西集会所・前
<大洲街道(支道)>
石道標
慶応2(1866)
歴史の道5p20
近接位置?
(右面)「右 こんひら道」/正面に「正一位稲荷神社」と陰刻
1
C
上三谷の金毘羅里程道標
かみみたに
伊予市
<大洲街道>
石道標
慶応3(1867)
歴史の道5p37
近接位置?
(正面)「左 (左指差し) こんひら道 三十一里」
1
C
下吾川の大洲藩境石
しもあがわ
伊予市
豊圓寺・前<大洲街道>
境界石(尖頭角柱)
高180㎝
寛永12(1635)?
歴史の道5p5
再移設(原位置付近)
(正面)「従是南 大洲領」/現地解説版には「松山藩の郡中地方と大洲藩の風早地方の替地が行われた時の建立」と書かれてあるが、恐らく最初は木碑で、後年に石碑に変更されたものと思われる
2
B
三秋大池
みあき
伊予市
森川
溜池
長115m,高16.3m
正保4(1647)嵩上
→寛文3(1663)嵩上
→享保9(1724)嵩上
→安永元(1772)嵩上
WEB
昭和8大規模改築
正保4の嵩上は、御普請奉行・国領太郎右衛門
3
C
さざえ堀
なだ
伊予市
彩浜館
掘下げ井
(渦巻き状)
(非飲用)
直径5.44m、
内径4.22m
文化9(1812)
WEB
保存状態良好
萬安港を築いたとき螺旋状に石を積んで造り上げた堀/砂浜の上に石垣を組んで、潮の満干をわかるようにした/目的は異なるが、東京のまいまいず井戸と構造が似ていて興味深い
2
A
三間町戸雁の常夜灯
みま、とがり
宇和島市
龍光寺
石常夜灯(道標兼)
高2.11m
文政7(1824)
WEB
移設/裏面に「文政七年先住専良建立/明治十二年現住瑞雅修之」と陰刻→竿石全体が明治期の再建立の可能性
(竿正面)「四十一番/札所/保んそん、(左手指し袖付き)」→保存状態で記した理由により、道標も明治期の追刻の可能性大/竿が角柱
3
C
津島町山財の徳右衛門道標
つしま、
さんざい
宇和島市
大師堂・脇<宿毛街道>
石道標(蒲鉾型)
高124㎝,幅21㎝,厚24㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道7p40/WEB
移設?
(正面像下)「 これより /いなりへ 六り」、(左面)「願主 住右ェ門」(徳右衛門の刻字ミス)
〔確認できず〕
/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
津島町岩渕の徳右衛門道標
つしま、
いわぶち
宇和島市
(野井)<宿毛街道>
石道標(蒲鉾型)
高160㎝,幅25㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道7p17/WEB
近接移設?/中央で水平に折損→修復
(正面像下)「これより /いなりへ 五り」、(左面)「願主 徳右ェ門」
〔確認できず〕
/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
津島町上畑地の徳右衛門道標
つしま、
かみはたじ
宇和島市
小祝
石道標(蒲鉾型)
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
下部折損?→そのまま再建立?
(正面像下)「これより/ いなりへ、…」、(左面)「願主 …」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
和霊中町の徳右衛門道標
われいなか
宇和島市
道連橋たもと
石道標(蒲鉾型)
高96㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
C基礎→移設
(正面像下)「これより/いなりへ 二り」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
光満の徳右衛門道標
みつま
宇和島市
(中組)清水大師堂
石道標(蒲鉾型)
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
大師堂ごと移設
(正面像下)「是より いなりへ 一里二丁、施主/光満村中」→正面に施主名のある唯一の徳右衛門道標、(左面)「願主 徳右衛門」→「衛」の字を略さずに使っている稀な事例/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
B
三間町戸雁の徳右衛門道標
みま、とがり
宇和島市
龍光寺・参道階段下
<宇和島街道>
石道標(尖頭角柱)
文化5(1808)
歴史の道6p36/県教委
原位置?
(正面)「從是 佛木寺 二十五丁」、(右面)「四十一番 稲荷山」、(左面)
「(右指差し)勸進、現住 恒應上人/越智郡 徳右衛門」/大師像、梵字、蒲鉾型でない上、刻字のスタイルも異なり、文化5という建立年の刻字も異例→きわめて例外的/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱
1
B
祝森の大師道標
いわいのもり
宇和島市
(柿ノ木)<宿毛街道>
石道標(駒型)
高130㎝,幅23㎝,厚20㎝
嘉永5(1852)
歴史の道7p16/WEB
移設(もと、柿本氏宅裏の庚申堂の西400mに転倒)/5つ以上の破片に割れたものを修復(読めなくなった字は彫り直してある)
(正面像下)「是ゟ 御城下御番所迠 一里半」、(右面)「四拾壹番いなり様江 四里二丁/道後湯の町江四拾里/
□
…くみ… 二十五里」、(左面)「是ゟ 篠山権現様迠 五里半/是ゟ右お徒き通 観自在寺迠 八里」/正面頂部を光背型に削り込み大師坐像を陽刻〔温泉遺産〕
3
B
津島町槇川の道標
つしま、
まきがわ
宇和島市
(篠山)<宿毛街道>
石道標(尖頭角柱)
高120㎝,幅25㎝,厚24㎝
安政7(1860)
市教委/歴史の道7p37-38
原位置?
(正面)「右 本社」、(左面)「左 寺道」
1
C
音地の茶堂
おんぢ
宇和島市
萬泉寺に通じる旧道
茶堂
1.98mの方形
宝暦6(1756)
市有形民俗
市教委/WEB
昭和54に隅木及び柱を鉄材にて補強/平成10頃、茅葺屋根の葺き替え/平成22再建、瓦屋根に変更
創建年が確定している数少ない茶堂→安置仏の地蔵菩薩立像の台座に「一堂を建立、弘法大師尊像を安置。施主兵頭兵衛門記之宝暦六年七月廿一日」とある/縁日には行き交う人々の安全を祈願し、湯茶の接待、休憩所として利用されてきた
2
A
東横堀の雁木
よこぼり
宇和島市
吉田
雁木
長3.7m,11段
江戸期
市教委
保存状態やや良好
宇和島藩が陣屋町を造成する際、立間川の流れを変えて横堀を開削し、町を侍屋敷と町人町に二分した
2
C
中山池
なかやま
宇和島市
溜池
堤長約120m
寛永7(1630)
WEB
堤体改修/中山池自然公園
黒井地村の庄屋・太宰喜左衛門定義(太宰遊淵)が築造(宇和島藩の庇護があった)→難工事となったため、現在墓地のある所に静座し、鐘を打ちならしつつ弥陀の名号を唱えて完成を念じ、遂に鐘の音次第に弱まり、竣工日鐘の音の止むと同時にそのまま入定したとの伝承
2
C
遊子水荷浦の段畑
ゆすみずがうら、
だんばた
宇和島市
水荷浦
棚畑(石垣)
石積の平均高は1m以上
江戸後期~明治期
国重要文化的景観/日本農村百景
WEB
NPO法人「段畑を守ろう会」を中心に多様なイベント
急勾配の斜面を石垣が多い尽くす光景は圧巻/棚田ではなく棚畑→米でなくじゃがいもを栽培
1
大島集落の石垣
おおしま
宇和島市
石垣
長約100m,高約4m
寛文9(1669)
市教委
安政大地震の後補修→数ヶ所残る(写真はそのうちの1ヶ所)
北灘の庄屋・清家氏が、宇和海の南側斜面に石垣を築いて土地を造成し漁村集落をつくり、寛文11(1671)から鰯網の操業を開始した/石垣は、海底が砂のため巨石で基部を構築し、その上に2・3段の石垣を重ねる
1
B
吉田藩御船手の御用井戸
よしだ、おふなて、おんよう
宇和島市
吉田町御舟手
井戸
直径約2m,
水深約10m
明暦4(1658)
市史跡
市教委/歴史の道7p33
保存状態良好
吉田藩初代藩主・宗純が築いた御船手( 藩の水軍基地)の井戸た/汐濡れした船道具の洗い場に当てられていたといわれる/空石積(打込ハギ)の石組みが見事(井戸枠はない)
1
B
樺崎台場
・跡
かばさき
宇和島市
宇和島歴史資料館
<宇和島藩>
台場(石塁)
安政2(1855)
市史跡
市教委/台場事典p555/WEB
石組みは当時のまま/横に砲台の復元あり
宇和島藩が家老・桜田佐渡を頭取、宇都宮九太夫綱敏・松田源五左衛門常愛を用掛りとして築いた台場
3
B
封事ヶ峠の切通し
ほうじがとう
大洲市
<檮原街道>
切通し
江戸期
歴史の道8p29
自動車が通行できるように改造
坂本竜馬脱藩の道として有名
4
C
東大洲の常夜灯
ひがしおおず
大洲市
十夜ヶ橋横<大洲街道>
石常夜灯
高1.60m
宝暦5(1755)
市教委/歴史の道5p33
移設、集約(C覆屋内)/信仰の対象
(竿正面)「弘法大師燈臺」/竿石は角柱
3
-
新谷町の常夜灯
にいや
大洲市
(田合)<大洲街道>
石常夜灯
高1.68m
明和3(1766)
市教委/歴史の道5p39
移設/笠石一部破損
(竿正面)「奉寄進」/石基壇なし
2
-
三本松の地蔵道標1
さんぽんまつ
大洲市
札掛大師堂に向かう市道
<宇和島街道>
石道標(舟型)
高55㎝,幅27㎝,厚14㎝
天明4(1784)
市教委/歴史の道6p22
移設/台石なし
(光背右)「是より十丁下り常せつたい所」/光背中央に地蔵立像の陽刻/下記「三本松の地蔵道標2」と並ぶ
2
-
三本松の地蔵道標2
さんぽんまつ
大洲市
札掛大師堂に向かう市道
<宇和島街道>
石道標(舟型)
高60㎝,幅29㎝,厚15㎝
天明4(1784)
市教委/歴史の道6p22
移設/首の辺りで水平に折損→修復/台石あり
(光背右)「是より十丁下り常せつたい所」/光背中央に地蔵立像の陽刻/上記「三本松の地蔵道標1」と並ぶ
3
-
三本松の徳右衛門道標
さんぽんまつ
大洲市
札掛大師堂に向かう市道
<宇和島街道>
石道標(蒲鉾型)
高147㎝,幅27㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
市教委
移設、基部露出
(正面像下)「是ゟ 菅生山迠 拾七里」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)/上記「三本松の地蔵道標1・2」と並ぶ
2
C
徳森の徳右衛門道標
とくのもり
大洲市
十夜ヶ橋の大師堂
石道標(蒲鉾型)
高144㎝,幅25㎝,厚23㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
市教委/歴史の道5p34/WEB
移設、集約
(正面像下)「是ゟ 菅生山迄 拾弐里」、(右面)「願主 越智郡/朝倉上村/徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
新谷甲の徳右衛門道標
にいや、こう
大洲市
帝京第五高校<大洲街道>
石道標(蒲鉾型)
高145㎝,幅32㎝,厚29㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
市教委/歴史の道5p32/WEB
高柳橋辺の旧道沿い→移設/C台石
(正面像下)「これより/菅生山へ、十り」、(左面)「越智郡上村 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
戒川の道標
(戒川道しるべ)
かいかわ
大洲市
(樫谷)
石道標(自然石)
文政10(1827)
市有形民俗
市教委
C覆屋内
(正面)「左 大ず」
2
C
中津の道標
なかつ
大洲市
峰峠
石道標(自然石)
高100㎝,幅38㎝,厚24㎝
天保8(1837)
市教委
移設、集約
(正面中央)「(左上指差し)」、(同下部右)「遍路道 是ゟ 菅生山へ/十里十丁」、(同下部左)「讃刕金毘羅へ/四十里半」
2
C
青島漁港の防波堤
あおしま
大洲市
(青島)
石防波堤
長48.5m
(西3号防波堤)
元治2・慶応元(1865)頃
WEB
2
C
五郎の境木
ごろう、
さかいぎ
大洲市
肱川、五郎若宮地区
田畑の境界木
高1m~2.5m
江戸期
WEB
現在の木々は江戸期のものではないが、景観としては再現
洪水が起きる度に田畑に土砂が流入し境界が不明瞭となり土地争いの原因となった→洪水後に土地の境界が明らかになるようにマサキ、ヤナギ、ボケなどの樹木を一定の間隔で植えた/洪水後の境界を明確にする目的で2次元的に木を植栽した例は、本データベース内には他にない
3
A
柚木の榎樹叢
ゆのき
大洲市
肱川
水害防備林
江戸期
市天然
市教委(大洲市歴史的風致維持向上計画)
保存状態良好
下記のナゲと並ぶ大洲藩による肱川の治水対策の要/川に近い所にホテイチク、マダケが植栽され、防水林の強度を増すため榎が混植された/歴史的経緯は不明だが、「御用藪」「藩用藪」と呼ばれることと、榎の大きさから江戸期に植えられたことは間違いない/文化財指定されているのは柚木地区の榎だが、榎樹叢は肱川の随所に見られる
1
菅田の逆ナゲ
すげた、さか
大洲市
肱川①(上流からの順番)
石水制
長7m,天端幅3m
江戸初期
市教委
/WEB(伝統工法)
先端の半分は明治以降の改修
大洲藩第2代藩主・加藤泰興(1623-74)の頃に石垣施工の名人・反田八郎兵衛に築かせたとされる /上流側に突き出た水制→小規模だが稀少
3
C
渡場ナゲ
わたしば
大洲市
肱川②
石水制
長40m,
天端幅2.5-6m
江戸初期
市教委(同上)
/WEB(伝統工法)
大規模な修復/中央部分は後補
同上/肱川の水制群の代表的存在
3
B
若宮ナゲ
(下流側)
わかみや
大洲市
肱川③
石水制
長15m,天端幅4m
江戸初期
市教委
/WEB(伝統工法)
上流側のナゲはC改修/下流側のナゲは保存状態良好
同上
2
-
五番ナゲ
大洲市
肱川④
石水制
長60m,
天端幅20m
江戸初期?
WEB
他のナゲと違い石が組まれていないので、外覆石は近代の補修によるものと思われる
同上〔WEB(伝統工法)等に記載されていないため、江戸期のものかどうか不明〕
3
C
本郷ナゲ
ほんごう
大洲市
肱川⑤
石水制(自然岩)
長50m,天端幅7m
江戸初期
市教委/
WEB(伝統工法)
保存状態は良いが、ナゲとして“意図的”に手を加えられたものなのかどうかは不明
同上
2
C
八多喜ナゲ
はたき
大洲市
肱川⑥
石水制
長28m,
天端幅3.5m
江戸初期
市教委
/WEB(伝統工法)
天端部に石張が確認できる程度で、周囲はCとCブロックで被覆
同上
4
-
米津ナゲ
よなづ
大洲市
肱川⑦
石水制
長60m,
天端幅4-10m
江戸初期
市教委
/WEB(伝統工法)
保存状態良好
同上
1
C
須合田ナゲ
(米揚場ナゲ)
すごうだ
大洲市
肱川⑧
石水制
長30m,
天端幅3.4m
江戸初期
市教委
/WEB(伝統工法)
上流側を石材で補強
同上
2
C
中江の水
なかえ
大洲市
大洲高校
石井戸
径60㎝
江戸初期
県史跡
歴史の道6p15/WEB
井戸内部の石積みも残る/通常は蓋が被せてある
中江藤樹(1608-47、陽明学の祖)が使っていた井戸/円筒形に刳抜いた井戸枠
2
B
嘉母神社の蓬莱橋
かも、
ほうらい
西条市
禎瑞
石桁橋
長3.7m(3G)
慶応3(1867)
WEB(石橋)
保存状態良好
緩やかな弓状
1
C
丹原町鞍瀬の里塚石
(七里)
たんばら、
くらせ
西条市
<讃岐街道>
一里石
高167㎝,幅8㎝,厚17㎝
寛保元(1741)
歴史の道3p29/WEB
移設、国道沿いの飲食店の表看板に設置/上部一部破損、側面部剥離
(正面)「松山札辻より 七里」
3
C
丹原町臼坂の里塚石
(八里)
たんばら、
うすざか
西条市
<讃岐街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道3p30/WEB
原位置?/風化により「里」以外の文字が消滅
(正面)「
□□
札
□□□□
里」
(八里)
4
C
丹原町田野上方の里塚石(九里)
たんばら、
たのうわがた
西条市
田野小学校東隣の神社前
<讃岐街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道3p31/WEB
移設/下部が折損→そのまま埋設
(正面)「松山札辻より…」
(九里)
4
C
丹原町池田の里塚石
(十里)
たんばら、
いけだ
西条市
西条市丹原総合支所
<讃岐街道>
一里石
高155㎝,19㎝角
寛保元(1741)
歴史の道3p31/WEB
移設/上部一部破損
(正面)「松山札辻より 十里」
2
C
下島山甲の常夜灯
しもしまやま、こう
西条市
下島山バス停付近
石常夜灯(自然石)
高2.50m
寛政10(1798)
移設?/現役で点灯(ろうそくを使用)
(正面)「奉」
2
C
関屋の金毘羅常夜灯
せきや
西条市
石常夜灯(自然石)
高約1.8m
文政12(1829)
市有形
市教委
原位置?
(竿正面下部)「金常夜燈」/松山市の自然石常夜灯群のように石材が部位ですべて異なる
1
C
丹原町石経の金毘羅常夜灯
(石経・立石の常夜灯)
たんばら、
いしきょう
西条市
<中山道(松山道)>
石常夜灯(花崗岩)
高4.22m(うち、基壇0.57m)
万延元(1860)
市有形
歴史の道3p31/WEB
上部一部破損
「金」「村内安全」/猫脚/基壇石張り状/笠と宝珠の間に角石を挿入
1
A
小松町新屋敷の常夜灯
こまつ、
しんやしき
西条市
石常夜灯(花崗岩)
高5.23m(うち、基壇1.03m)
慶応3(1867)
WEB
移設→大正9再建立/現役で点灯(電気)
笠と宝珠の間に角石を挿入/石基壇あり
2
A
小松町新屋敷の題目塔道標
こまつ、しんやしき
西条市
JR新宮踏切・南
石道標(尖頭角柱)
高65㎝,幅16㎝,厚15㎝
元文4(1739)
伊予の遍路道p212
/WEB
移設
(右面)「左 遍んろ道」/正面に「南無大師遍照金剛」と刻字
2
-
氷見乙の道標1
ひみ、おつ
西条市
吉祥寺<讃岐街道>
石道標
高130㎝,24㎝角
安永9(1780)
歴史の道3p59/WEB
移設/右面の刻字が判読困難
(正面)「四國第六十三番 吉祥寺」、(右面)「これより一丁南 かち水あり」、(裏面)「右 へんろみち これよ里 前神寺へ 廿丁」
2
C
楠の徳右衛門道標
くす
西条市
御来迎臼井水・前
石道標(蒲鉾型)
高100㎝,幅20㎝,厚24㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設→斜面に横倒し/下部埋設
(正面像下)「是より/横峯迄、四…」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
丹原町古田の徳右衛門道標
たんばら、
こた
西条市
出合橋たもと
石道標(蒲鉾型)
高120㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設/下部で水平に折損→修復/下部埋設(「里」の下半分から下見えない)
(正面像下)「是より/横峯迄、三里半」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
小松町妙口の徳右衛門道標
こまつ、
みょうぐち
西条市
妙雲寺・門前左
<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高160㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p32/伊予の遍路道p211
移設(もと、国道11号の大頭信号付近)/願主が他の徳右衛門道標と異なり右面にあるため、左面の刻字は当初からのものであろう/右面に近接して道標を移設
(正面像下)「是ゟ/横峰寺迠、百丁」、(左面)「 是ゟ かうおん寺迄 二十五丁」、(右面下部)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
B
小松町大郷の徳右衛門道標
こまつ、
おおご
西条市
大郷馬返付近
石道標(蒲鉾型)
高152㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
伊予の遍路道p211
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
原位置/山中藪化して時期により接近困難
(正面像下)「是より/横峯迄、五十丁」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
小松町南川の徳右衛門道標
こまつ、
みなみがわ
西条市
香園寺・駐車場入口北
<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高148㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p58
下部で水平に折損→修復(石材の色は異なるが同材と思われる)/右面は追刻?
(正面像下)「是よ里/一の宮迄、八丁」/(右面)「(右手差し)左 一ノ宮寺」、(左面下部)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
小松町新屋敷の徳右衛門道標
こまつ、
しんやしき
西条市
宝寿寺・前
<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高137㎝,幅25㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
原位置?/左面に他の道標が近接していて読めない
(正面像下)「右、これより 吉祥寺迄、七丁」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/右面の施主が「越智郡朝倉上村」と徳右衛門と同郷/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
1
C
氷見乙の徳右衛門道標
ひみ、おつ
西条市
吉祥寺・北門<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高128㎝,幅24㎝,厚20.5㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p59/WEB
移設?
(正面像下)「吉祥寺」、(同最下部)「これよ里/前神寺へ 廿丁」、(右面下部)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/正面を四角削り込んで現在位置の寺名を大きく表示し、目的地の寺を小さく最下部に表示するなど異例の構成/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ
(120基程度現存)
2
C
洲之内甲の徳右衛門道標
すのうち、
こう
西条市
前神寺・北参道口
<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高144㎝,幅24㎝,厚20.5㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p35
移設
(正面像下)「是よ里/三角寺迄、十里」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
福武甲の徳右衛門道標
ふくたけ、
こう
西条市
<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高72㎝,幅24㎝,厚23㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p36/WEB
移設、集約/下部欠損
(正面像下)「是より/三角寺…」、(左面)「願主 徳…」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
4
-
飯岡の徳右衛門道標1
いいおか
西条市
(中野口)<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高130㎝,幅24.5
㎝,厚21.5㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p37
移設
(正面像下)「是ヨリ/三角寺迄、九里」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
飯岡の徳右衛門道標2
いいおか
西条市
(半田)祖父崎池・北、堂の本の地蔵屋敷・付近
石道標(蒲鉾型)
高122㎝,幅27㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
原位置?
(正面像下)「是ヨリ/三角寺マデ、八里」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
1
C
丹原町長野の道標
たんばら、ながの
西条市
(西長野)<讃岐街道>
石道標
文化8(1811)
歴史の道3p31
近接移設?
(正面)「(右手差し)右 こんひら道」
1
C
丹原町池田の廻国塔道標
たんばら、いけだ
西条市
石道標
高65㎝,幅23㎝,厚22㎝
文化13(1816)
WEB
移設/右面に植栽のためのCブロックが置かれ「へ」以下が見えない→道標の私物化
(右面)「此方 へ…」/正面に「奉納、四國/秩父、…」と陰刻
3
-
玉津の金毘羅里程道標
たまつ
西条市
吉祥庵・門前<今治街道>
石道標
高190㎝,幅27㎝,厚18.5㎝
天保14(1843)
歴史の道1p47
移設?
(正面)「古ん飛ら大門へ 十七里」/上記の「こんひら大門ゟ ○里」の金毘羅里程道標とペアになる一連の道標で、讃岐街道から今治街道が分岐した後に建てられた→讃岐街道の基点で唯一年代が記されている三豊市の「山本町神田の金毘羅里程道標」が弘化4(1847)なのに、分岐の方が創建が古い理由は不明
2
B
北条の金毘羅里程道標
ほうじょう
西条市
多賀公民館・駐車場角<今治街道>
石道標
高213㎝,幅27㎝,厚20㎝
天保14(1843)
歴史の道1p41/WEB
原位置?
(正面)「古ん飛ら大門へ 二十里」/同上
1
B
三芳の金毘羅里程道標
みよし
西条市
大明神橋南たもと
<今治街道>
石道標
天保13(1842)
歴史の道1p39
原位置?
(正面)「古ん飛ら大門へ 二十一里」/同上
1
B
小松町新屋敷の道標1
こまつ、
しんやしき
西条市
(西町)<讃岐街道>
石道標
高181㎝,幅27㎝,厚20㎝
弘化4(1847)
歴史の道3p33/WEB
移設?
(正面)「(右指差し)右 遍んろ道」
2
B
飯岡の金毘羅里程道標
いいおか
西条市
六地蔵・前<讃岐街道>
石道標
高155㎝,幅24.5
㎝,厚20㎝
弘化4(1847)?
歴史の道3p36/WEB
移設?
(正面)「こんひら大門ゟ 十七里」/三豊市の「山本町神田の金毘羅里程道標」と一連のものなので、同一時期に建立と推定
2
C
楢木の金毘羅里程道標
ならのき
西条市
橘公民館横の阿弥陀堂内<讃岐街道>
石道標
高155㎝,幅24.5
㎝,厚20㎝
弘化4(1847)?
歴史の道3p34
(正面)「こんひら大門ゟ 十九里」/同上
C
小松町新屋敷の金毘羅里程道標
こまつ、
しんやしき
西条市
三嶋神社・前<讃岐街道>
石道標
高168㎝,幅29㎝,厚19㎝
弘化4(1847)?
歴史の道3p32
移設?
(正面)「こんひら大門ゟ 廿里」/同上
2
C
丹原町長野の金毘羅里程道標
たんばら、ながの
西条市
(西長野)<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
弘化4(1847)
市史跡
歴史の道3p31/WEB
移設(もと、もっと中山川に近い場所)
(正面)「金毘羅大門ヨリ 二十二里」
2
C
丹原町臼坂の金毘羅里程道標
たんばら、
うすざか
西条市
笹ヶ峠<讃岐街道>
石道標
弘化4(1847)
市史跡
歴史の道3p30/WEB
(正面)「金毘羅大門ヨリ 二十三里」
C
氷見乙の道標2
ひみ、おつ
西条市
歯科医院駐車場・隅
<讃岐街道>
石道標(円柱)
高102㎝,
直径42㎝
安政5(1858)
歴史の道3p33/WEB
近接移設?/下部埋設
(正面)「(右指差し袖付き)逆へんろ道」、(裏面)「(左指差し袖付き)左 へんろ道」/円柱道標が多いのが西条市の特徴
1
C
広江の道標
ひろえ
西条市
和霊神社・前<今治街道>
石道標
高72㎝
安政5(1858)
歴史の道1p42
移設(もと、広江の集落)/下部C埋設
(正面)「右 今治」、(左面)「左 金毘」
3
-
小松町新屋敷の道標2
こまつ、
しんやしき
西条市
(舟山)三嶋神社・前
<讃岐街道>
石道標(円柱)
高130㎝,径38㎝
文久4(1864)
歴史の道3p32/伊予の遍路道p212/WEB
移設?
(正面)「(右指差し)古久ふん寺 四里半」、(右面)「(右指差し)い王やさん 十里」、(左面)「(左指差し)古うおんし」、(正面と右面の間)「今治道」、(右面と裏面の間)「松山道」/円柱に刻字してあるので上記の面は便宜的/円柱道標が多いのが西条市の特徴
2
C
小松町新屋敷の道標3
こまつ、
しんやしき
西条市
JR伊予小松駅東踏切西線路横<讃岐街道>
石道標(円柱)
高109㎝,直径38㎝
文久4(1864)
歴史の道3p59/WEB
原位置?
(正面)「(左指差し)一之宮道」、(左面)「(右指差し)吉祥寺」/円柱道標が多いのが西条市の特徴
1
C
小松町新屋敷の道標4
こまつ、
しんやしき
西条市
(中町)
石道標
高150㎝,幅18㎝,厚25㎝
慶応4(1868)
WEB
原位置?
(正面)「(左手差し)六十番大峯寺道」
1
C
氷見乙の道標3
ひみ、おつ
西条市
吉祥寺・本堂右
石道標
江戸期
WEB
移設/中央で斜めに折損→修復
(正面)「(右指差し)右 へんろ道」、(右面)「前神寺迄 二十丁/三角寺迄 十里半/ 金毘羅大門迄 十九里八丁」/「金毘羅」の標記は江戸期
2
C
石鎚横峰の町石(一丁)
いしづち、
よこみね
西条市
横峯寺隣稲荷大明神参道入口
町石(尖頭角柱)
元文3(1738)
WEB
元々の参詣道から別の道沿いに移動
石鎚横峰の町石群は、麓から山上に向けて並んでいたが移動が多い(山頂が一丁
⇒逆順
)
/(正面)「從峯 一丁」/これ1基のみ紀年銘があるが、すべて同型のため「二丁」以降も同年の建立と推測される
3
C
石鎚横峰の町石(二丁)
いしづち、
よこみね
西条市
横峯寺駐車場登り口
町石(尖頭角柱)
元文3(1738)?
WEB
元々の参詣道から別の道沿いに移動
(正面)「從峯 二丁」
3
C
石鎚横峰の町石(三丁)
いしづち、
よこみね
西条市
町石(尖頭角柱)
元文3(1738)?
WEB
原位置
(正面)「從峯 三丁」
1
C
石鎚横峰の町石(七丁)
いしづち、
よこみね
西条市
町石(尖頭角柱)
元文3(1738)?
WEB
転倒(場所は変わっていない可能性)
(正面)「從峯 七丁」
2
C
石鎚横峰の町石(十丁)
いしづち、
よこみね
西条市
町石(尖頭角柱)
元文3(1738)?
WEB
原位置
(正面)「從峯 十丁」
1
C
石鎚横峰の町石(十一丁)
いしづち、
よこみね
西条市
町石(尖頭角柱)
元文3(1738)?
WEB
原位置
(正面)「從峯 十一丁」
1
C
石鎚横峰の町石(十二丁)
いしづち、
よこみね
西条市
町石(尖頭角柱)
元文3(1738)?
WEB
移設(十丁と七丁の間にある)
(正面)「從峯 十二丁」
2
C
飯岡の小松藩境石
いいおか
西条市
飯岡公民館<讃岐街道>
境界石(花崗岩)
高161㎝,25㎝角
天保6(1835)
歴史の道3p36
2度移設/上部一部欠損、縦に割劣、C補修
(正面)「従是東 小松領」/小松藩~西條藩
3
C
小松町明穂の松山藩境石
こまつ、
あかお
西条市
<讃岐街道>
境界石(花崗岩)
江戸期
歴史の道3p32
移設
(正面)「従是西 松山領」
2
C
小松町新屋敷の西条藩境石
こまつ、
しんやしき
西条市
<讃岐街道>
境界石(花崗岩)
高164㎝,23㎝角
江戸期
歴史の道3p33/WEB
移設/2ヶ所で水平に折損→修復
(正面)「従是東 西條領」/西條藩~小松藩
3
C
周布の西条藩境石1
しゅう
西条市
周布公民館・前
境界石(花崗岩)
江戸期
WEB
移設/中央下部で水平に折損→修復/基部露出
(正面)「従是北 西條領」
〔右の写真〕
3
C
周布の西条藩境石2
しゅう
西条市
周布公民館・前
境界石(花崗岩)
江戸期
WEB
移設/頂部と下部の2箇所で水平に折損→修復
(正面)「従是南 西條領」
〔左の写真〕
3
C
朔日市の石鎚常夜灯
(新堀石鎚常夜灯)
ついたち
西条市
(新堀)本陣川沿い
石常夜灯(海運)
高4.92m(うち基壇0.65m)
弘化3(1846)
WEB
基壇C補修、基壇内部空洞化
(竿正面)「石鉄山大權現」/寄進者は「備前岡山」「橋本町大手」「伊部屋永吉」→かつては、ここが石鎚参詣の上陸港であった
2
A
妹背川
(前神寺川)
掛樋
・跡
いもせ(まえがみじ)
西条市
禎瑞新田用水/妹背川
<石桁橋>(水路)
当初長不明→残存長6.60m(2G),幅2.65m(内寸)
天明2(1782)
市教委/現地解説柱/WEB
妹背川の拡幅工事のため左岸側2径間を除き撤去
禎瑞新田の灌漑・生活用水のため神戸地区の泉から導水
4
B
志川掘抜隧道
しかわ
西条市
志河川(右岸)
素掘トンネル(水路=上段・下段の2本)
長25.4m(2本)
寛文7(1667)
市史跡
市教委/WEB
明治35(1903)改修/現役/開削水路部はC
志河川の水を灌漑に利用するために造られた隧道/藩営事業/施工: 石工・米屋三郎右衛門/志河川より上下に段隧道として前面水路と東部水路とに分けた
2
C
劈巌透水路
へきがん
西条市
中山川(左岸)
掘割水路(素掘トンネル4ヶ所)
掘割長137.5m
+隧道長計36.2m
(幅約1m,高約1m)
寛政元(1789)
市史跡
市教委/現地解説板/WEB
明治19・大正2に後裔村長が改修/非現役/保存状態良好
大庄屋・越智喜三左衛門が9年の歳月と私財を投じ、自らもノミを振って岩を穿った導水路(中山川の来見堰→兼久の大池)
2
B
関屋切抜隧道
せきや
西条市
南谷川
素掘トンネル
(水路)
長81m,幅1.2m,高2.4m
弘化元(1844)
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態良好(毎年、田植え前に内部を掃除)/現役
玉井又兵衛、渡部伊勢八の主唱/藩営事業
1
C
禎瑞の南蛮樋(大石樋)
ていずい
西条市
(難波)禎瑞新田→海
石樋門(排水)
幅2.10+2.12+2.14m
安永9(1780)
市教委/ふるさと禎瑞p173-186
一部改造を受けれるが、かつて5基あった樋門中唯一現存、かつ、現役
西条藩祖・松平頼純が紀州徳川家から拝受した御私金をもとに造成した干拓地の排水樋門/全国的に見ても最大級の石樋門
1
A
兼久の大池
(池之内池)
かねさ(いけのうち)
西条市
中山川(釜之口)から引水
溜池
堤長425m
寛政3(1791)
WEB
湿地ビオトープ・遊歩道が整備
劈巌透水の完成を受け、松山領周布・桑村両郡代官の星野七郎正直の元で、大庄屋・越智喜三左衛門が設計監督者として大池と延長2.86㎞の釜之口導水路を築造/皿池に近い
2
C
釜の口の石碑
かまのくち
西条市
武丈公園
石碑
嘉永5(1852)
木谷幹一(西條史談p8-9)
/市教委(西條市誌p616-618)
覆屋内だが、石碑の表面の劣化が進行→中央部が一部剥離
(第1面)「水に険悪あり山に険阻あり険阻は人皆これを知とも険悪は人或はこれを辨へす険阻は我避てこれを踏されは彼より暴をなすものにあらす険悪は我これを避といふ共彼より溢て虐をなし良田美地をも沼ともなし或は淵ともなし又甚き時は村落を浸し人命を害ふ恐さるへけんや是を以所謂金堤錢塘の固め良吏は慎てこれを修理す惰人の踈かに心得たる者とは禹貢の成績治水の大業を語へからす爰に此國此加茂川の水むかし険悪甚たしく今といへ共時あつて祟をなすこと衆庶見てしる所なれはこゝに贅せす然に大町村加茂川懸りの用水俗に所云の釜乃口昔は今の伊曽乃渡瀬の辺にありて水懸り悪く田畑を潤す事も隘く常心と云処より南は水少く旱損多く常心より北といへ共滋潤の利十分ならすしかのみならす釜乃口しは
しは
破て傷害をなし秋の洚水の頃に至れは傍」、(第2面)「近の人民枕を髙ふして眠る事能はす於是天の祐かなんそ共云へきか不思議に一个の人出来りて巧者なる普請を興し傍近の民安泰なる事を得たり其人を田中喜兵衛と云舊の大町組の大庄屋田中喜左衛門が先祖也時の領主は一柳侯にて頃は万治四丑の歳喜兵衛願出かの釜乃口を福武村の内八堂山の麓今の処へ附替度と乞そこの水あて強く洚水に損壊せは良田を砂入にするのみか下の村々の人民魚鼈となるを免れましと有司かえして其願を不被許喜兵衛猶剛く乞て若させる事あらは喜兵衛か首を斬て釜乃口へ梟木に懸らるへし又此後此処の普請の姿舊に仍て改玉はすは干載水患無るへしと揚言して猶請ふ事の止さりしかは終に其願に任たりと云しかありしより以来患害なく石畠変して水田となり旱損やみて豊収を得ることは皆田中喜兵衛かいさをし也然に不幸にして其家たへ只其隠居して分れたる者の子孫善五右衛門か盧舎依然たるのみ也喜兵衛か功績人の口碑に遺り有しも世と共に消亡し近き頃は其事を語る者もなし可歎かな今の大庄屋」、(第3面)「松本常太昌言の父を十左衛門昌懐といひ隠居名を不求と称す此不求数十年の勤謹慎にして
□
官の賞譽を得たり又善を好むの心厚く彼喜兵衛か功の湮没せんとするを憂ひ
□
官に請て釜乃口に碑石を立其事を文に綴り其績を不朽せしめんと謀り
□
官の允許を得て著作を予に求むこれ此誌あるゆゑ也喜兵衛か云し言の遺りたると又不求か所存とを交へて不求申には今の釜乃口の普請累石の法堤の髙低長短また二重の釜の戸前等の事は其関係する所尤大切也是等総て旧の姿を少許も動すへからす新に旁通の溝洫支流を附添へからす又下の井手川の廣狭淺深改むへからす右等の事もし姿を変へ形を改め水を導の法を誤らは滔々たる衝突を防難く険悪の禍に罹り良田を失ひ人命を害はんと喜兵衛これを二百年の上に申二百年の下不求喜兵衛が普請巧者にて見込たる事有しを察し又千載の後をも慮り前の如く云しことの傳て不求か耳に遺たるを石に鐫後世永く此釜乃口のさまを改ることなきを欲すと最ねもころなるこゝろ言詞に顕れけるに感し其口述」、(第4面)「の儘を録し
□
官私雅俗の人に告るにしかしと予か學ひたる漢文を用ひすいまた學ひさる假字を交へ斯く読みやすき辞に綴しは予も亦少しくこゝろありての事也後の人讀得て悟りかへす
かえす
も此堤防を動し改る事勿れ釜乃口二重の戸前一重となす事勿れ過し年の大水の前の戸破れ堤大崩になるへかりしを後の戸にて防き止し事を聞すや又河潤九里漸洳三百歩といふこと有を聞すや時ならすして井手筋へ水を通し所謂河潤九里のうるほひ土地を濕らし麦を不作せしむること勿れ井手川筋旧に仍へし新に支流を鑿こと勿れ是れ
□
官の不求か願を許し玉へる深き御こゝろ也と承はる又云今度建碑の一舉當村の諸人甘心して奔走経営すと聞は村に善人多く喜兵衛の功に酬んとする也喜兵衛地下に於よろこふへし善を好むの心ある事不求のみならすと云へし」(
緑字
は異体字)/大町組の大庄屋田中喜兵衛が万治4(1661)に行った釜の口の普請に対する感謝を込め、200年近く後の嘉永5に建立された石碑→完成後かなり時代が経過した後の建立のため、建立の経緯の方が詳しく書かれている
3
A
市之川鉱山
・跡
いちのかわ
西条市
アンチモン鉱山
延宝7(1679)→享保(17
30)までに135ヶ所開坑
市教委
最盛期は明治時代/昭和32閉山/坑口は近代の改修/Cで閉鎖
大浜の庄屋・曽我部親信により保野山の仏ヶ峠で偶然発見
4
B
弘法水
こうぼう
西条市
加茂川(左岸)
自噴井
古代?
WEB
現役飲用/昔は干潮時には見えていた→ポンプで汲み上げ
海底にある水源から清水を汲み上げている弘法大師の伝説が残る湧水/海に突き出た石突堤の上に水汲み場がある
1
嘉母神社のうちぬき
かも
西条市
(禎瑞)加茂川(左岸)
自噴井
江戸期
WEB
名水として著名
1
B
芝井の泉
しばい
西条市
加茂川(左岸)
自噴井
水源奥行0.9m,幅1.63m,水板幅(内寸)1.80m,長(内寸)3.10m
江戸期?
現地解説板
保存状態良好
水洗い場(野菜、洗濯)/湧水場所の上に大師堂が建立
1
B
三軒家泉
さんげんや
西条市
加茂川(右岸)
自噴井
江戸期?
WEB
飲用不可
2
C
渕の川
ふち
西条市
加茂川(右岸)
自噴井
江戸期?
WEB
飲用不可
3
C
馬立本陣下の石畳
うまたて
四国中央市
<土佐街道から馬立川を渡り本陣に登る箇所>
石畳道
長約15m
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態良好
笹ヶ峰越えの道から別れ、土佐藩の本陣に行く分岐道
1
-
下り付集落上の石畳
おりつき
四国中央市
<土佐街道>①
石畳道
長約15m
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態やや良好(手付かずのまま)
笹ヶ峰越えの愛媛県側の最下部にある石畳/笹ヶ峰越えの道は、紙の原料としての楮・三椏が運ばれた(以下同文・省略)
2
-
腹包丁の急坂と石畳
はらぼうちょう
四国中央市
<土佐街道>②
坂道、石畳道
長約1.5㎞,石畳は38ヶ所(5-50m)
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態やや良好(手付かずのまま)
土佐街道最大の難所(標高差400m)/武士が坂を下る際、刃を腹の方に廻し持ったことに由来するとされる
2
A
樫の休場の石畳
かし、
やすば
四国中央市
<土佐街道>③
石畳道
長約30m
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態良好
腹包丁の急坂の後の休憩所
1
-
笠取峠の石畳
かさとり
四国中央市
<土佐街道>④
石畳道
11ヶ所(4-30m)
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態良好
笹ヶ峰越えの道の中間点(標高800m)
1
-
水無峠手前の石畳
みずなし
四国中央市
<土佐街道>⑤
石畳道
長約40m
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態良好
水がないため茶店があったとされる
1
-
七曲りの石畳
ななまがり
四国中央市
<土佐街道>⑥
坂道、石畳道
8ヶ所(長約100m,50m他)
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
保存状態やや良好(手付かずのまま)
笹ヶ峰に向かう最後の急坂
2
C
川之江八幡神社の辨天橋
かわのえ、べんてん
四国中央市
川之江八幡神社
石桁橋
(G)
天明6(1786)
WEB(石橋巡礼)
昭和57に河川改修に伴い移設
擬宝珠付き高欄
2
C
豊岡町の金毘羅常夜灯
よとおか
四国中央市
長田観音堂・手前
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
寛政9(1797)
歴史の道3p67
移設?
(竿正面)「金毘羅常夜燈」
2
B
中之庄町の金毘羅常夜灯
なかのしょう
四国中央市
今宮神社・参道前
<讃岐街道>
石常夜灯
寛政9(1797)
歴史の道3p50
原位置?/火袋を木枠で補強
(中台正面)「金/毘/羅/大/權/現」/石基壇なし
1
C
川之江町の金毘羅常夜灯1
かわのえ
四国中央市
(農人町)<讃岐街道>
石常夜灯
天保10(1839)
歴史の道3p68
原位置?
(中台正面)「金/毘/羅」〔陽刻〕/(上段台石)「町/内/安/全」
1
C
川之江町の常夜灯
かわのえ
四国中央市
(井地)<讃岐街道>
石常夜灯
天保12(1841)
歴史の道3p68
原位置?/火袋更新
2
C
川滝町の常夜灯
かわたき
四国中央市
<土佐街道>
石常夜灯(自然石)
弘化3(1846)
歴史の道4p40
移設
3
C
川之江町の金毘羅常夜灯2
かわのえ
四国中央市
(井地)<讃岐街道>
石常夜灯
嘉永7(1854)
歴史の道3p68
原位置?/笠、宝珠とも欠損
(中台正面)「八/太/金」
4
C
川之江町の金毘羅常夜灯3
かわのえ
四国中央市
井地神社<讃岐街道>
石常夜灯
慶応2(1866)
歴史の道3p68
移設(もと、井地)
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿右面)「正八幡武宮」、(竿左面)「天照両皇太神」/猫脚
2
C
土居町上野の常夜灯
どい、うえの
四国中央市
<讃岐街道>
石常夜灯
高1.92m
安政7(1860)
歴史の道3p43/WEB
移設→個人宅の畑の中
(竿正面)「當立家中」/火袋の窓に雲形の浮彫/竿が角柱→頂部が火袋と一体化
3
C
中曽根町の真念道標
なかぞね
四国中央市
(中田井)桃山新墓地・南
<三角寺道>
石道標(尖頭角柱)
高66㎝,幅17㎝,厚16㎝
1680年代?
歴史の道4p38/WEB
移設(C台石)
(正面)「右 遍ん路みち、願主/真念」/17世紀の道標
2
B
新宮町馬立の真念道標
しんぐう、
うまたて
四国中央市
(市仲)下記「新宮町馬立の道標」の300m西
石道標
1680年代?
WEB(四国の古道・里山を歩く)
上部欠損/左面の字は後刻
(正面)「…みち、願主/真念 」、(左面)「…の院」/17世紀の道標
4
C
新宮町馬立の道標
しんぐう、
うまたて
四国中央市
(市仲)大岳神社鳥居の南西50m
石道標
高71㎝,18㎝角
享保14(1729)
歴史の道4p35/WEB
基部露出→移設?
(正面)「是より奥之院江 十八丁」
2
-
上柏町の道標1
かみがしわ
四国中央市
(横尾)山上集会所東150m
の三叉路<三角寺道>
石道標(自然石)
高84㎝,幅50㎝,厚8㎝
元文4(1739)
歴史の道4p38/WEB
移設もしくはそれに近い劣悪な設置状況/頂部やや欠損か?
(正面)「三角寺迄 十八丁」
3
C
中曽根町の地蔵道標1
なかぞね
四国中央市
(石床)石床大師堂
石道標(丸彫)
高144㎝(うち、台石75㎝)
宝暦5(1755)
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
移設、集約
(台石右面)「三角寺へ 四十七丁」/台石正面に梵字と「三界萬霊」の陰刻/台石上に丸彫の地蔵坐像(蓮台)を載せる
2
B
土居町上野の地蔵道標
どい、うえの
四国中央市
(本郷)しるべの地蔵尊小祠<讃岐街道>
石道標(舟型)
高105㎝
安永6(1777)
歴史の道3p44/WEB
原位置?/木祠内
(光背右)「右 へんろ道 三角寺へ 五り」/光背中央に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻
1
C
中曽根町の道標1
なかぞね
四国中央市
(六塚)
<阿波街道(はしくら道)>
石道標(尖頭角柱)
高69㎝,幅23㎝,厚25㎝
天明8(1788)
歴史の道4p36/WEB
移設/下部埋設
(正面)「(左手差し)左 へん…」
3
-
中曽根町の地蔵道標2
なかぞね
四国中央市
(六塚)
<阿波街道(はしくら道)>
石道標(尖頭角柱)
高76㎝,幅23㎝,厚21㎝
天明8(1788)
歴史の道4p36/WEB
移設/折損→下端部欠損のまま
(正面像下)「此方 へんろ…」/正面頂部を光背状に削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻
3
C
中曽根町の地蔵道標3
なかぞね
四国中央市
(中田井)今村家屋敷南の三叉路<三角寺道>
石道標
高138㎝,幅24㎝,厚23㎝
寛政3(1791)
歴史の道4p22/WEB
原位置?/下部埋設
(正面像下)「此方 へんろみち、三角寺/三十一丁」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻
1
C
土居町津根の徳右衛門道標
どい、つね
四国中央市
(東大道)村山神社・南口前<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
高155㎝,幅29.5
㎝,厚28㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p47/WEB
ブロック塀の中に挟まれて残る→原位置?/側面は全く見えない
(正面像下)「これより /三角寺へ、三里」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
1
C
寒川町の徳右衛門道標
さんがわ
四国中央市
(西浜)寒川中部集会所の駐車場・隅
石道標(蒲鉾型)
高80㎝,幅30㎝,厚28㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
移設、集約/折損→上半部のみ残る
(正面像下)「これより/三角寺、…」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
中曽根町の徳右衛門道標
なかぞね
四国中央市
(石床)石床大師堂
石道標
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
移設、集約/上半分欠損(風化しているので、かなり以前)/基部露出
(正面)「
□
れより/
□
角寺へ、一里」/(左面)「徳右ェ門」/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
4
-
金田町三角寺の徳右衛門道標
かなだ、
さんかくじ
四国中央市
三角寺・本堂前
石道標(蒲鉾型)
高115㎝,幅24.5
㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設/下部で折損→修復
(正面像下)「是より/奥院迄、五十八丁」、(左面)「願主 与州 徳右エ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
川滝町下山の徳右衛門道標
かわたき、
しもやま
四国中央市
椿堂
石道標(蒲鉾型)
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
下半分欠損
(正面像下)「是より/ 雲辺寺、…」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
4
-
土居町津根の地蔵道標
どい、つね
四国中央市
(西大道)西大道集会所向かい<讃岐街道>
石道標(丸彫)
高106㎝(うち、台石56㎝)
寛政8(1796)
歴史の道3p47/WEB
移設、集約
(台石正面右)「三角寺へ 三里」、(同左)「奥野院へ 四里」/台石正面中央に「三界萬霊」と陰刻/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる
2
C
中曽根町の道標2
なかぞね
四国中央市
(中田井)八幡神社東の四辻<三角寺道>
石道標(尖頭角柱)
高191㎝,幅33㎝,厚31㎝
文化5(1808)
歴史の道4p37/WEB
移設/中央で水辺に折損→修復/下部C埋設
(正面)「左 遍んろミち」、(同下部)「三角寺江 三十四丁」
3
B
中曽根町の道標3
なかぞね
四国中央市
(上秋則)
<阿波街道(はしくら道)>
石道標
高96㎝,幅25㎝,厚24㎝
文化14(1817)
歴史の道4p19/WEB
移設、集約/下部埋設
(正面)「(右手差し)右 へんろ道」、(正面最下端)「三角寺/三十
□
丁」、(右面)「(左指差し)」
2
C
中曽根町の大師道標
なかぞね
四国中央市
(中田井)今村家屋敷西の三叉路<三角寺道>
石道標
高145㎝,幅39㎝,厚38㎝
文化15(1818)
歴史の道4p38/WEB
原位置?
(正面)「(左手差し)此方 遍路道」、(同最下部右端)「三角寺迄」、(同最下部左端)「三十二丁」/右面頂部を長方形に削り込み大師坐像を陽刻
1
C
金田町三角寺の道標1
かなだ、
さんかくじ
四国中央市
石道標
高196㎝,幅33㎝,厚27.5㎝
文政7(1824)
WEB
原位置?
(正面)「(左指差し)三角寺道 是ヨリ四丁」、(左面)「左 前神寺道 是ゟ十里」
1
B
中曽根町の道標4
なかぞね
四国中央市
(中田井)中田井橋西たもと<三角寺道>
石道標
高145㎝,30㎝角
文政8(1825)
歴史の道4p37/WEB
原位置/下部埋設
(正面)「(梵字)(左指差し)此方 遍んろミち」、(同最下部左端)「三角寺江 三十三丁」
2
C
川之江町の道標1
かわのえ
四国中央市
高原ふるさと館・入口
<讃岐街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高249㎝,29㎝角
文政13(1830)
歴史の道3p62/WEB
移設/下部で水平に折損→修復
(正面)「右 古ん飛らミ知」、(右面)「左 ま川山道」(=松山)、(左面)「左 婦奈は道」/下記「川之江町の道標5」と並ぶ
2
B
川之江町の道標2
かわのえ
四国中央市
本陣南の三叉路
<土佐街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高252㎝,29㎝角
天保2(1831)
歴史の道4p8/WEB
移設?/2ヶ所で水平に折損→修復
(正面)「右 満川やまミち」(=松山)、(右面)「左 古ん飛らミち」、(左面)
「左、阿は/とさ、 於久の以んミち」(=奥の院)
2
B
金田町半田の大師道標
かなだ、
はんだ
四国中央市
<土佐街道>
石道標(蒲鉾型)
高135㎝,幅43㎝,厚27.5㎝
天保2(1831)
歴史の道4p12/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設
(正面像下右)「(右指差し)此方 於くのいん道」、(同左)「(左手差し)此方うんへん寺道」、(左面)「左、土佐/阿波/上山、道」、(同最下部)「水ヶ峰迄/十二丁」/正面頂部を蒲鉾型に削り込み大師座像を陽刻、正面像下中央部に「南無阿弥陀佛 日本廻國供養」と陰刻
2
B
中之庄町の道標
なかのしょう
四国中央市
(宮ノ上)銀行支店西の三叉路
石道標
高65㎝,幅18㎝,厚14㎝
天保3(1832)
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
移設/中央で折損→修復/下部埋設
(正面)「(右指差し)右 へんろ…」
2
-
川之江町の道標3
かわのえ
四国中央市
高原ふるさと館・入口
<土佐街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高255㎝,28㎝角
天保6(1835)
歴史の道4p11
移設
(正面)「左 阿ハみち」、(同下部)「うん遍ん寺迄 五里」、(右面上部)「右 とさ」、(同下部)「さんかく寺/於く乃ゐん、道」(=奥の院)、(同最下部)「三十五丁/七十八丁」/上記「川之江町の道標1」と並ぶ
2
B
金田町三角寺の道標2
かなだ、
さんかくじ
四国中央市
石道標
高98㎝,幅22㎝,厚19㎝
天保7(1836)
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
原位置?
(正面)「(左手差し)左 へんろみち」
1
C
金田町三角寺の道標3
かなだ、
さんかくじ
四国中央市
三角寺・南入口
<三角寺道>
石道標
高75㎝,20㎝角
天保7(1836)
歴史の道4p38/WEB
原位置/左・裏面の頂部一部欠損
(正面)「(右手差し)三角寺 一丁」、(左面)「雲辺寺 五里」
1
-
金田町金川の道標
かなだ、
かながわ
四国中央市
東金川集会所・西
<土佐街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高177㎝,幅31㎝,厚28㎝
天保14(1843)
歴史の道4p11/WEB
原位置
(正面)「(左指差し袖付き)遍んろミち」、(同最下部)「あ者/とさ、道」、
(同右端)「うん辺寺 四里十丁」、(同左端)「おくのいん 五十八丁」、(右面)「此方、大西宮/并 庄屋、道」
1
B
川滝町下山の道標
かわたき、
しもやま
四国中央市
(七田)<阿波道>
石道標
高180㎝,39㎝角
天保14(1843)
歴史の道4p22/WEB
原位置?
(正面)「(右指差し)うん遍んじ道」、(左面右上端)「左 山道」
1
B
上柏町の道標2
かみがしわ
四国中央市
(横尾)<三角寺道>
石道標
高151㎝,幅30㎝,厚29㎝
天保14(1843)
歴史の道4p38/WEB
原位置?
(正面)「(右指差し)此方 遍んろミち」、(右面)「前神寺迄 九里半」、(左面)「於くのいんまで 七十六丁」
1
C
金田町三角寺の道標4
かなだ、
さんかくじ
四国中央市
石道標
弘化3(1846)
WEB(四国の古道・里山を歩く)
道上に倒れていた→再設置
(正面)「(左指差し)左 三角寺 六丁」
1
C
上柏町の大師道標1
かみがしわ
四国中央市
(柱尾)銅山川疎水公園内
石道標
高187㎝,31㎝角
弘化4(1847)?
WEB
移設
(左面)「へんろみち」/正面頂部を四角に削り込み大師坐像を陽刻、その下に「光明真言二百万遍爲…」と陰刻
1
B
三島中央の金毘羅里程道標
みしま、
ちゅうおう
四国中央市
三島神社・門前
<讃岐街道>
石道標
弘化4(1847)?
歴史の道3p50
移設?/中央で2ヶ所折損→修復
(正面)「こんひら大門ゟ 九里」/三豊市の「山本町神田の金毘羅里程道標」と一連のものなので、同一時期に建立と推定
2
C
土居町土居の金毘羅里程道標
どい、どい
四国中央市
延命寺辻・東北角
<讃岐街道>
石道標
弘化4(1847)?
歴史の道3p45/WEB
移設、集約(手前に金網)
(正面)「こんひら大門ゟ 十二里」/同上
3
C
土居町上野の金毘羅里程道標
どい、どい
四国中央市
薬師堂付近<讃岐街道>
石道標
弘化4(1847)?
歴史の道3p44
塀の改修時に行方不明
(正面)「こんひら大門ゟ 十三里」/同上
5
C
上柏町の道標3
かみがしわ
四国中央市
(平木)
石道標
嘉永5(1852)
WEB(四国の古道・里山を歩く)
原位置
(正面)「(梵字)(左指差し)左 へんろみち」、(正面最下部右端)「三角寺迄 十二丁」、(同左端)「奥之院迄 七十丁」
1
C
川之江町の道標4
かわのえ
四国中央市
八幡神社・門前
<讃岐街道>
石道標(花崗岩)
高188㎝,幅36㎝,厚26㎝
嘉永7(1854)
歴史の道3p53
原位置?
(正面)「(左指差し袖付き)古んひら道」、(同最下部)「大門迄 八り/丸亀城下 十り」
1
B
妻鳥町の道標1
めんどり
四国中央市
JR踏切北の公園<阿波道>
石道標(尖頭角柱)
嘉永7(1854)
歴史の道4p37
移設/下部の大半を欠損、もしくは、埋設
(正面)「左 古ん…」、(右面)「右 者し…」
5
-
妻鳥町の道標2
めんどり
四国中央市
<阿波道>
石道標
安政3(1856)
歴史の道4p21
原位置?/下部C埋設
(正面)「(左手差し)此方 あ王み…」、(右面下部)「右、三皇宮/三角寺、…」
2
C
中曽根町の正観音像道標
なかぞね
四国中央市
(中田井)横地山の北山麗<三角寺道>
石道標(笠付き)
高193㎝(うち、台石29㎝),
幅39.5㎝,厚30㎝
安政3(1856)
歴史の道4p22/WEB
移設/頂部に勝手に平石が置いてある
(正面像下)「(左指差し袖付き)遍ん路道」、(同最下部右端)「三角寺 三十丁」、(同最下部左端)「奥之院 八十八丁」、(左面)「(右指差し袖付き)是ヨリ/前神寺江 九里廿丁」/正面頂部に聖観音坐像(蓮台)を浮彫り/この地域は指差しの上に大師坐像を載せた形が特徴だが、大師ではなく聖観音を載せている
2
A
上柏町の大師道標2
かみがしわ
四国中央市
(横尾)横尾・平木地区の境<三角寺道>
石道標(笠付き)
高190㎝,幅30㎝,厚23㎝
万延2(1861)
歴史の道4p38/WEB
原位置?/下部埋設
(正面像下)「(右指差し袖付き)此方 遍ん路道」、(右面)「左 前神寺道」/正面頂部を四角く削り込み大師坐像を陽刻/この地域は指差しの上に大師坐像を載せた形が特徴
1
A
上分町の道標
かみぶん
四国中央市
<土佐街道>
石道標
万延2(1861)
歴史の道4p10/WEB
移設
(正面)「左、ミしま 五十丁/西条 十里/八和多濱 三十八里、道」、(右面)「右、川之江 二十五丁/古んひ良 八里二十五丁/丸可"め 十里二十五丁、道」
2
B
金田町金川の大師道標
かなだ、
かながわ
四国中央市
大西神社・南西
<土佐街道>
石道標(尖頭角柱)
高162㎝,幅31㎝,厚30㎝
文久3(1863)
歴史の道4p11/WEB
原位置だとしても向きが変わっている
(正面像下)「(右指差し袖付き)(左指差し袖付き)此方 遍ん路道」、(同右端)「雲辺寺 四里十二丁」、(同左端)「三角寺 三十丁」、(右面)「右 金毘羅道」、(同右端)「川之江 三十五丁」、(同左端)「上分 十丁」/正面頂部を光背型に削り込み大師坐像を陽刻
2
C
上柏町の大師道標3
かみがしわ
四国中央市
(柱尾)<三角寺道>
石道標
高178㎝,幅29㎝,厚28㎝
元治元(1864)
歴史の道4p38
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
原位置?
(正面像下)「(左指差し袖付き)此方 へんろ道」、(同最下部)「三角寺/廿七丁」、(左面)「右 前神寺 九里」/正面頂部に大師坐像を浮彫り/この地域は指差しの上に大師坐像を載せた形が特徴
1
B
上柏町の道標4
かみがしわ
四国中央市
<土佐街道>
石道標(尖頭角柱)
慶応4(1868)
歴史の道4p20
原位置?
(正面)「(右指差し)三角寺道」、(同最下端左)「丗五丁」、(左面)「(左指差し)はしくら寺道 」、 (同最下端左)「七り」
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(五十八丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
六十五番三角寺~奥之院仙龍寺
<地蔵峠越えのへんろ枝道>
/三角寺境内
町石(舟型)
高94㎝
(うち、塔身82㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
伊予の遍路道
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
原位置?
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石は、六十五番三角寺から奥之院仙龍寺の不動堂に向けて丁数順に並んでいる(不動堂北の分岐点の町石が九丁
⇒逆順
)
/(光背頂部)「五十八丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻
1
B
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(五十六丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高62㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「五十六丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(五十五丁)?
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高66㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設/中央で水平に折損→簡易修復
(光背頂部)「五十五丁」(?)/光背中央に地蔵立像を陽刻
3
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(○丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高62㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「…丁」(距離から52丁の可能性が高い)/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(五十丁)?
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高75㎝
(うち、塔身61㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石の下に小石→移設?/上3分の1が斜めに折損→簡易修復
(光背右)「五十丁」(?)/光背中央に地蔵立像を陽刻
3
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(四十八丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高62㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背右)「四十八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(四十七丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高63㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石更新→移設?
(光背頂部)「四十七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(四十二丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高76㎝
(うち、塔身62㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背右)「四十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(四十一丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高59㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背右上)「四十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(四十丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高74㎝
(うち、塔身62㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「四十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十八丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高56㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背右)「三十八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十七丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高54㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背右)「三十七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十六丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高80㎝
(うち、塔身62㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背右)「三十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十五丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高75㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「三十五丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十三丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高61㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「三十三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十二丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高76㎝
(うち、塔身61㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「三十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十一丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高52㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「三十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(三十丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高60㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「三十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(二十九丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高56㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背右上)「二十九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(二十六丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
/地蔵峠
町石(舟型)
高83㎝
(うち、塔身59㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
下段台石更新?→移設の可能性?
(光背頂部)「二十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(二十五丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高71㎝
(うち、塔身59㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「二十五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(二十三丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高70㎝
(うち、塔身58㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「二十三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(二十二丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高68㎝
(うち、塔身60㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「二十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(二十丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高62㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石更新→移設?
(光背右上)「二十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十九丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高74㎝
(うち、塔身61㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「十九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十八丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
/桜馬場
町石(舟型)
高63㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「十八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十七丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高72㎝
(うち、塔身58㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背右)「十七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十六丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高65㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石更新→移設?
(光背頂部)「十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十五丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高63㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石更新→移設?
(光背右上)「十五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十四丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高75㎝
(うち、塔身63㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「十四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十三丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高78㎝
(うち、塔身66㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「十三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十二丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高76㎝
(うち、塔身62㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十一丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高73㎝
(うち、塔身62㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
三角寺~奥之院仙龍寺の地蔵町石(十丁)
さんかく、
せんりゅう
四国中央市
同上
町石(舟型)
高59㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
台石なし→移設?
(光背頂部)「十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
三角寺~奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(九丁)1
さんかく、
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
六十五番三角寺~奥之院仙龍寺~平山
<へんろ枝道>
/不動堂北100mの分岐点
町石(舟型)
高104㎝
(うち、塔身88㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
伊予の遍路道
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
集約→移設?/中央で水平に折損→修復
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石は、奥之院仙龍寺の不動堂から平山(六十六番雲辺寺への分岐点)に向けて丁数順に並んでいる(不動堂北の分岐点の町石が九丁)
/(光背頂部)「九丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/下記「九丁2」と並ぶ
2
B
三角寺~奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(九丁)2
さんかく、
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高76㎝
(うち、塔身62㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
伊予の遍路道
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
集約→移設?
同上
/(光背頂部)「九丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/上記「九丁1」と並ぶ
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
奥之院仙龍寺~平山
<堀切峠越えのへんろ枝道>
町石(舟型)
18世紀(享保・宝暦年間)
伊予の遍路道
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
(光背頂部)「十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十一丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
(光背頂部)「十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十二丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高57㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
下部埋設/像容の磨耗大
(光背頂部)「十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
3
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十三丁)?
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高76㎝
(うち、塔身61㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
両側に石板→移設?/刻字判読困難
(光背頂部)「十三丁」?/光背中央に地蔵立像を陽刻/丁数が判読不可能だが、位置関係から十三丁と推測される
3
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十四丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高76㎝
(うち、塔身62㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?/像容・刻字不明瞭
(光背頂部)「十四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十五丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高87㎝
(うち、塔身72㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「十五丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻
1
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十六丁)?
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高59㎝
(うち、塔身43㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
移設/C擁壁の洞内/光背頂部欠損→丁数不明
光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/頂部が欠損して丁数はないが、位置関係から十六丁と推測される
4
-
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十七丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高70㎝
(うち、塔身57㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
浅い岩窟?の中→移設?
(光背頂部)「十七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(十八丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高75㎝
(うち、塔身59㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
C祠内→移設
(光背頂部)「十八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(二十四丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
(光背頂部)「二十四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(二十八丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高69㎝
(うち、塔身59㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
移設?/像容・刻字不明瞭
(光背頂部)「二十八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(二十九丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高59㎝
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
転倒
(光背頂部)「二十九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(三十丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高78㎝
(うち、塔身63㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
中央で水平に折損→修復/顔が破損
(光背頂部)「三十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(四十六丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高77㎝
(うち、塔身61㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
原位置?
(光背頂部)「四十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
1
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(四十七丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
町石(舟型)
高77㎝
(うち、塔身60㎝)
18世紀(享保・宝暦年間)
同上
石祠内→移設?
(光背頂部)「四十七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
奥之院仙龍寺~平山の地蔵町石(四十八丁)
せんりゅう、
ひらやま
四国中央市
同上
/平山の「六十五番三角寺~六十六番雲辺寺のへんろ道」との分岐点
町石
(舟型、道標兼)
高100㎝
(うち、塔身77㎝)
宝暦11(1761)
同上
原位置/中央で水平に折損→修復
(光背頂部)「四十八丁」、(光背左)「右 へんろミち」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻
1
B
八丁坂の町石(八丁)
はっちょう
四国中央市
不動堂~奥之院仙龍寺・本堂
<へんろ枝道>
/不動堂
町石(尖頭角柱)
高92㎝,幅17㎝,厚17㎝
享保14(1729)
歴史の道4p12
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
原位置
奥之院仙龍寺(不動堂)~同(本堂)までの八丁坂に建てられた町石は、六十五番三角寺からの道と、六十六番雲辺寺に向かう平山への道の分岐点(不動堂北)に向けて丁数順に並んでいる(奥之院・本堂が一丁
⇒逆順
)
/(正面)「是より奥院迄 八丁」
1
C
八丁坂の町石(七丁)
はっちょう
四国中央市
同上
町石(尖頭角柱)
高57㎝,幅18㎝,厚17㎝
享保14(1729)
同上
原位置?
(正面)「是ゟ奥院迄 七丁」
1
-
八丁坂の町石(六丁)
はっちょう
四国中央市
同上
町石(尖頭角柱)
高64㎝,幅18㎝,厚17㎝
享保14(1729)
同上
原位置?
(正面)「是ゟ奥院迄 六丁」
1
-
八丁坂の町石(五丁)
はっちょう
四国中央市
同上
町石(尖頭角柱)
高80㎝,幅18㎝,厚17㎝
享保14(1729)
同上
原位置?
(正面)「是ゟ奥院迄 五丁」
1
C
八丁坂の町石(四丁)
はっちょう
四国中央市
同上
/清滝分岐
町石(尖頭角柱、道標兼)
高91㎝,幅18㎝,厚17㎝
嘉永7(1854)
同上
原位置
(正面)「(左指差し)奥の院 四丁」、(右面)「清瀧道」
1
C
八丁坂の町石(三丁)
はっちょう
四国中央市
同上
町石(尖頭角柱)
高75㎝,幅18㎝,厚17㎝
享保14(1729)
同上
原位置?
(正面)「是ゟ奥院迄 三丁」
1
-
八丁坂の町石(一丁)
はっちょう
四国中央市
同上
/奥之院・本堂
町石(尖頭角柱)
高98㎝,幅18㎝,厚17㎝
享保14(1729)
同上
原位置(基部露出)?
(正面)「是ゟ奥院迄 一丁」
1
C
上分町の西条藩境石
(槍下げの松の支え石)
かみぶん
四国中央市
<土佐街道>
境界石
江戸期
歴史の道4p10/WEB
原位置?
(正面)「従是南 西條領」/松の枝を支える石が領界石だった(現在は松は枯死)
1
B
金田町の西条藩境石
かなだ
四国中央市
<土佐街道>
境界石
江戸期
歴史の道4p11
原位置?
(正面)「従是西 西條領」
1
C
寒川町の西条藩境石
さんがわ
四国中央市
<讃岐街道>
境界石
江戸期
歴史の道3p49
移設
(正面)「従是西 西條領」
2
B
土居町土居の西条藩境石
どい、どい
四国中央市
延命寺
境界石(花崗岩)
高185㎝,幅23㎝,厚22㎝
江戸期
岡邊 眞
移設
(正面)「従是西 西條領」
2
B
土居町野田の西条藩境石
どい、のだ
四国中央市
熊野神社<讃岐街道>
境界石
江戸期
歴史の道3p47
移設
(正面)「従是西 西條領」
2
B
土居町小林の西条藩境石1
どい、
こばやし
四国中央市
<讃岐街道>
境界石
江戸期
歴史の道3p46
移設/下半分欠損 or 埋設
(正面)「従是東 西…」
4
-
土居町小林の西条藩境石2
どい、
こばやし
四国中央市
<讃岐街道>
境界石
江戸期
歴史の道3p46
移設/下半分欠損 or 埋設
(正面)「従是西 西…」
4
-
寒川町の常夜灯
(寒川石戸八幡宮常夜灯)
さんがわ
四国中央市
石戸八幡神社・入口
石常夜灯(海運、凝灰岩)
江戸期
市史跡
WEB
移設/火袋を木枠補強
もとは鳥居の東方にあり、燧灘で操業する漁船にとって灯台の役目をしていたとされる/宝珠の形に特色があり、笠のそりはやや鋭く、中台には唐草模様がほどこされ、竿は角錐状
2
B
新宮の渡場
・跡
しんぐう
四国中央市
<土佐街道>/銅山川
渡し場
江戸期
歴史の道4p14-15
渡し場の雰囲気が残る
河岸の岩盤を削って造成した跡が歴然と残る/川の両岸に岩がせり出している/人馬ともに渡せる船/渡し船は9隻
2
C
坂之内の隧道
さかのうち
四国中央市
素掘トンネル
(水路)
長45m,幅0.7m,高1.5m
寛延年間(1748-51)
市教委
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
坑口はCピット内で視認不可/イベント時のみ入坑可(
写真
)/現役使用
坂之内池の水を上天満地区に引くために寺尾九兵衛が開削
4
-
飼谷池
かいたに
四国中央市
飼谷川
溜池
堤長180m,高18m
寛文3(1663)
WEB
堤体改修/森と湖畔の公園=オートキャンプ場・菖蒲園・斜張橋がある
2
C
寒川たんぽ
さんがわ
四国中央市
江之元港
掘留港
長90.9m,幅18.m,川入口幅約21.8m
天保8(1837)以降
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
改修/プレジャー・ボートの係留地として現役活用
天保の飢饉に困窮する民衆救済のため、西条藩は寒川村江之元港の改修工事を実施した
2
B
三島たんぽの台場
・跡
みしま
四国中央市
台場
安政年間(1854-60)
市史跡
歴史の道3p.50-51/WEB
3
C
法華津峠の石畳
ほけづ
西予市
<宇和島街道>
石畳道
長約500m
→約230m
江戸中期
歴史の道6p29/WEB(四国の古道・里山を歩く)
片側にC側溝→すりつけ部の石畳に一部C充填
割石を敷き詰めた石畳/赤土地帯でよく滑り浸食もひどかったため急な坂道に石畳を敷き詰めた
2
B
信里の金毘羅里程常夜灯
のぶさと
西予市
<宇和島街道>
石常夜灯(道標兼)
安政2(1855)
歴史の道6p24/WEB(四国の古道・里山を歩く)
宝珠・火袋欠損
(竿正面)「金毘羅宮江/四十六り」/宇和島街道で最も遠い金毘羅宮への里程標
3
C
元・
宝寿寺の真念道標
ほうじゅ
西予市
愛媛歴史博物館
石道標(尖頭角柱)
1680年代?
歴史の道3p59/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設(もと、西条市)/館内展示
(正面)「(右指差し)遍ん路みち」、(同最下部)「願主/真念」/右面に
「南無大師遍照金剛」と刻字
2
B
明石の徳右衛門道標
あげいし
西予市
明石寺・山門左
<宇和島街道>
石道標(蒲鉾型)
高140㎝,幅28㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道6p42/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設
(正面像下)「これより/菅生山迄、二拾壹里」、(左面)「願主 越智郡、朝倉上村/徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
下松葉の徳右衛門道標
しもまつば
西予市
満慶寺・参道入口
石道標(駒型)
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設?/下部埋設(「十里」と刻字されている)
(正面像下)「これより/すがう山へ、二…」、(左面)「豫州越智郡/徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下を光背型に削り込み大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
信里の徳右衛門道標
のぶさと
西予市
信里庵・前<宇和島街道>
石道標(尖頭角柱)
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道6p41/WEB(徳右衛門)
移設?/下部なかり埋設(「迠十八里」と刻字されていると)
(正面像下)「是ヨリ 菅生山…」、(左面)「願主 武田徳右衛門」/正面頂部に梵字陰刻、その下を光背型に削り込み大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
下川の大師道標
ひとうがわ
西予市
<宇和島街道>
石道標(駒型)
高90㎝,幅25㎝,厚23㎝
寛政7(1795)
歴史の道6p37/WEB(四国の古道・里山を歩く)
原位置?
(正面像下)「明石寺」、(その下部)「江/是ヨリ二里」/正面頂部を光背型に削り込み大師坐像を陽刻/枯れてしまった大きな一里松の根元にある
1
C
川津南の道標
かわづみなみ
西予市
<檮原街道>
石道標(尖頭角柱)
慶応3(1867)
歴史の道8p48
(位置情報間違い)
移設
(正面)「右 石鉄山道/左 土佐道」
2
C
卯之町の牓示石1
うのまち
西予市
(4丁目)<宇和島街道>
石標(尖頭角柱)
高152㎝
天保14(1843)
市教委(宇和の文化財p87)/歴史の道6p27
原位置?/現存する石柱は再建立時のもので、それ以前は木柱の可能性も
「従是西 驛内」/楷書体で刻字/西園寺氏が居城を黒瀬山に移した時、山下に町人町を設け、松葉町と名付けた→その範囲を示すため牓示石を建立→度々火災に遭ったため慶安4(1651)に卯之町と改名
1
C
卯之町の牓示石2
うのまち
西予市
(2丁目)<宇和島街道>
石標(尖頭角柱)
天保14(1843)
市教委(宇和の文化財p87)/歴史の道6p27
同上
「従是東 驛内」/行書体で刻字/以下同上
1
C
卯之町の牓示石3
うのまち
西予市
<宇和島街道>
石標(尖頭角柱)
天保14(1843)
市教委(宇和の文化財p87)/歴史の道6p27
同上
「従是北 驛内」/草書体で刻字/以下同上
1
C
信里の宇和島藩藩境石
のぶさと
西予市
<宇和島街道>
境界石
高220㎝
江戸期
歴史の道6p24/WEB
移設
(正面)「従是南 宇和嶋領」
2
B
久保の大洲藩藩境石
くぼ
西予市
<宇和島街道>
境界石
江戸期
歴史の道6p24/WEB
移設
(正面)「従是北 大洲領」
2
C
中組茶堂
なかぐみ
西予市
男河内・中組
茶堂(Cブロック壁瓦葺)
慶安2(1649)
ふるさとの茶堂と石佛p129/
WEB(城川の茶堂)
台風で倒壊→Cブロックに
慶安2の棟札が残る→もしこの棟札が茶堂創建時のものだとすれば、恐らく城川地区最古の起源をもつ茶堂/木彫りの阿弥陀如来坐像と毘沙門天立像の他、享保7(1722)の安置仏
4
A
岩本上組茶堂
いわもと
西予市
嘉喜尾・岩本
茶堂(瓦葺)
天保7(1836)
ふるさとの茶堂と石佛p135-6/WEB(城川の茶堂)
大正7改築→昭和6改修→平成16建替え
天保7の棟札(城川の茶堂群で唯一江戸後期の棟札)/茶接待が行われていた/宝暦4(1754)の安置仏
3
B
串屋茶堂
くしや
西予市
窪野・串屋
茶堂(瓦葺)
慶応2(1866)
ふるさとの茶堂と石佛p109/
WEB(城川の茶堂)
慶応2建立→大正5改築→昭和43屋根改修→移転・建替え
慶応2建立/慶応2の安置仏もある→現在はない/形態も全く異なるため、現在「串屋茶堂」と称されているものと、資料とが合致するか不明
3
B
泉川茶堂
いずみかわ
西予市
遊子谷・泉川
茶堂(銅板葺)
江戸期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p96/
WEB(城川の茶堂)
明治34改修→昭和5改修→昭和33改修
昭和18頃まで茶供養が行われていた/城川の茶堂の中で唯一柱が6本
3
B
下遊子茶堂
しもゆす
西予市
遊子谷・下遊子
茶堂(茅葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p98-99/
WEB(城川の茶堂)
昭和48茅葺の葺き替え→平成8建替え
落人か侍に因んだ「槍投げの岩」の伝承のある地/宝暦4(1754)、明和4(1767)、明和5(1768)の安置仏→この頃建立された可能性が高い
2
C
窪川茶堂
くぼかわ
西予市
三滝渓谷自然公園
茶堂(茅葺)
江戸末期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p103/WEB(城川の茶堂)
昭和26頃建替え→移転・再建
茶接待が行われていた
2
C
安尾茶堂
やすお
西予市
川津南・安尾
茶堂(茅葺)
江戸中期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p116/
WEB(城川の茶堂)
昭和35改修→屋根葺替え/かかし人形を6体置く
2
C
沖の堂茶堂
おきのどう
西予市
田穂・沖の堂
茶堂(茅葺)
2.94m四方
江戸中期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p124/
WEB(城川の茶堂)
改修履歴は不明だが、建替えは原型に忠実か?
茶接待が行われていた
2
C
ごまじり茶堂
西予市
田穂・下組ごまじり
茶堂(茅葺)
2.26m四方
江戸中期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p125/
WEB(城川の茶堂)
石垣をC補修(原位置)/改修履歴は不明だが、建替えは原型に忠実か?
茶接待が行われていた/文化5(1808)の安置仏
2
C
蔭之地茶堂
かげのぢ
西予市
魚成・蔭之地境
茶堂(茅葺)
江戸中期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p126/
WEB(城川の茶堂)
改修履歴は不明だが、建替えは原型に忠実か?
茶接待が行われていた
2
C
古市茶堂
ふるいち
西予市
魚成・古市
茶堂(茅葺)
2.34m四方
江戸後期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p128/
WEB(城川の茶堂)
平成4移転・再建
宝暦10(1760)、文化13(1816)の安置仏
2
C
宮成茶堂
みやなる
西予市
男河内・宮成
茶堂(茅葺)
江戸期起源??
ふるさとの茶堂と石佛p130/
WEB(城川の茶堂)
平成7移転(墓地脇)・再建
現存する茶堂には明治8の棟札→創建か再建かは不明
2
C
杭茶堂
くい
西予市
嘉喜尾・杭
茶堂(茅葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p131/
WEB(城川の茶堂)
恐らく原位置で建替え
幕末には建っていた/享保20(1736)、宝暦2(1752)の安置仏
2
C
本村茶堂
ほんむら
西予市
嘉喜尾・本村
茶堂(茅葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p132/
WEB(城川の茶堂)
昭和21改修→昭和47改修
安永9(1780)の安置仏/城川地区には高野子にもう1つ「本村茶堂」が現存するが、本村茶道と本村くず原茶道を合体させた新設茶堂
2
C
下惣川茶堂
しもそうがわ
西予市
下相・下惣川
茶堂(茅葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p139/
WEB(城川の茶堂)
平成12移転・再建
屋根の勾配が急で反りがある→移転前は普通の屋根なので建替え時に形態を変えた/延享4(1747)の安置仏→この頃建立された可能性が高い
2
C
スイキ庵跡茶堂
西予市
野井川・上影
茶堂(トタン屋根)
江戸期起源??
ふるさとの茶堂と石佛p87-89/
WEB(城川の茶堂)
放置
正保2(1645)に九州の尼僧が薬師堂を建立→薬師堂跡に建てられた茶堂
3
C
五輪田茶堂
ごりんだ
西予市
野井川・泉田分校前
茶堂(瓦葺)
江戸期起源??
ふるさとの茶堂と石佛p90/
WEB(城川の茶堂)
移転/昭和38瓦屋根
安永3(1774)銘の安置仏を含め10体の石仏を集約→最初からあったわけではない
3
C
供養の松茶堂
くようのまつ
西予市
野井川・重谷
<惣川越えの往還道>
茶堂(瓦葺)
江戸期起源??
ふるさとの茶堂と石佛p91/
WEB(城川の茶堂)
昭和30屋根改修
3
C
宝泉茶堂
(ホーセン茶堂)
ほうせん
西予市
野井川・重谷
<惣川越えの往還道>
茶堂(瓦葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p92/
WEB(城川の茶堂)
昭和初期に瓦葺→昭和40改修/木材で支保
元禄12(1699)の安置仏→当初からの可能性
3
C
下陰茶堂
しもかげ
西予市
野井川・下陰
茶堂(瓦葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p93/
WEB(城川の茶堂)
昭和43C瓦屋根
宝暦6(1756)の安置仏→当初からの可能性
3
C
城ヶ峰茶堂
(城がうね茶堂)
しろがうね
西予市
遊子谷・城がうね
茶堂(瓦葺)
江戸期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p94/
WEB(城川の茶堂)
明治39改修→昭和4改修→昭和47トタン屋根→移転・再建
牛馬を堂の柱につないで茶の接待を受けていた記録あり(時代不明)/明治39改修時の棟札と安置仏が同じなので資料と合致
3
C
南平茶堂
みなみだいら
西予市
遊子谷・南平
茶堂(瓦葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p100/WEB(城川の茶堂)
明治36改修→昭和36瓦屋根
天明2(1782)の安置仏→この頃建立された可能性が高い
3
C
桂茶堂
かつら
西予市
窪野・桂
茶堂(茅葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p104/WEB(城川の茶堂)
移転・再建
明和9(1772)、安永7(1778)の安置仏→この頃建立された可能性が高い/形態も全く異なるため、現在「桂茶堂」と称されているものと、資料とが合致するか不明
3
C
程野茶堂
ほどの
西予市
窪野・程野
茶堂(茅葺)
江戸期起源??
ふるさとの茶堂と石佛p105/
WEB(城川の茶堂)
昭和4建替え→昭和40屋根改修→建替え
茶接待が行われていた/川津南・程野にもう1つ「程野茶堂」があるが、昭和54の資料では4本柱の茶堂が6本柱となっており、形態が踏襲されなかった、もしくは、昭和54の資料とは全く別の茶堂以外の宗教施設の跡であり、現存はここだけ
3
C
男地茶堂
おんじ
西予市
窪野・男地
茶堂(銅板葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p107/
WEB(城川の茶堂)
明治初期建立→改修履歴不明
安永2(1773)2体、文政10(1827)の安置仏→この頃建立された可能性が高い
3
C
河内茶堂
かわち
西予市
窪野・河内
茶堂(茅葺)
江戸期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p108/
WEB(城川の茶堂)
明治初期建立/平成21建替え
武士風の安置仏→江戸期に建立された可能性が高い
3
C
下里茶堂
さがり
西予市
窪野・下里
茶堂(茅葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p110/
WEB(城川の茶堂)
移転/昭和10大改修
明和3(1766)の安置仏→この頃建立された可能性が高い
3
C
川後岩茶堂
かごいわ
西予市
窪野・川後岩
茶堂(瓦葺)
江戸期起源??
ふるさとの茶堂と石佛p111/
WEB(城川の茶堂)
建替え
3
C
つゞら茶堂
西予市
土居・つゞら地門
茶堂(瓦葺)
江戸末期
ふるさとの茶堂と石佛p112-113/WEB(城川の茶堂)
明治中頃改修→昭和30頃改修
10体の安置仏が祀られている
3
C
伏越茶堂
ふしごえ
西予市
古市・伏越
茶堂(銅板葺)
江戸期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p114/
WEB(城川の茶堂)
移転・再建
横死した遍路にまつわる伝承のある茶堂/形態も全く異なるため、現在「桂茶堂」と称されているものと、資料とが合致するか不明
3
C
太郎原茶堂
たろうはら
西予市
高野子
茶堂(瓦葺)
江戸後期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p117/
WEB(城川の茶堂)
昭和35改修→建替え
茶接待が行われていた/嘉永7(1854)の安置仏
3
C
菊之谷茶堂
きくのたに
西予市
高野子
茶堂(銅板葺)
江戸後期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p121/
WEB(城川の茶堂)
明治初期に移転/その後の改修不明
茶接待が行われていた
3
C
池野々茶堂
いけのの
西予市
高野子
茶堂(C瓦葺)
江戸後期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p122/
WEB(城川の茶堂)
明治初期に移転→昭和5再移転
茶接待が行われていた
3
C
桜んとう茶堂
さくら
西予市
田穂・桜峠
茶堂(銅板葺)
2.09m四方
江戸中期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p123/
WEB(城川の茶堂)
戦後移転
茶接待が行われていた
3
C
北谷茶堂
(旭町茶堂)
きただに
(あさひ)
西予市
魚成・旭町
茶堂(銅板葺)
江戸中期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p127
改修履歴不明
茶接待が行われていた
3
C
ナカゴウラ茶堂
西予市
嘉喜尾・ナカゴウラ
茶堂(切妻・瓦葺)
江戸期起源??
ふるさとの茶堂と石佛p133/
WEB(城川の茶堂)
昭和47屋根改修→瓦葺
3
C
吉之沢茶堂
よしのさわ
西予市
嘉喜尾・吉之沢
茶堂(瓦葺)
江戸中期起源?
ふるさとの茶堂と石佛p134/
WEB(城川の茶堂)
昭和28改修→平成13建替え
3
C
くぼがいち茶堂
西予市
嘉喜尾・窪ガ市
茶堂(瓦葺)
江戸後期(推定)
ふるさとの茶堂と石佛p137/
WEB(城川の茶堂)
昭和6補修→昭和46改修→移転・再建
形態・場所ともに全く異なるが安置仏が同じなので資料と合致
3
C
狩浜の常夜灯1
かりはま
西予市
春日神社
石常夜灯(自然石、石灰岩の海石)
高3-4m
江戸期
市教委(明浜町の文化財p41)
原位置(鳥居の向かって左)/火袋は後補
(竿正面)「奉獻」、(同右下)「大網」、(同左下)「古網」/石基壇あり/神社内の常夜灯だが、大網・古網の人々により奉納され、若者組が火を点けていたことから、漁に出る人々にとって灯台の役目を果たしていたと考えられている
2
B
狩浜の常夜灯2
かりはま
西予市
春日神社
石常夜灯(自然石、石灰岩の海石)
高約3m
江戸期
市教委(明浜町の文化財p41)
原位置(鳥居の向かって右)/火袋は後補
(竿正面)「奉獻)、(同右下)「元網 新網」/石基壇あり/神社内の常夜灯だが、元網・新網の人々により奉納され、若者組が火を点けていたことから、漁に出る人々にとって灯台の役目を果たしていたと考えられている
2
B
元・
大洲藩鳥坂口留番所
おおず、
とさか
西予市
<宇和島街道>
番所
瓦葺平屋建
天保年間(1830-44)
市史跡
歴史の道6p23/市教育(宇和の文化財p49)
天保年間に鳥坂峠から移転/番所の建物は原形をよく留める
宇和島街道鳥坂峠登り口に位置し、通行人を厳しく取り締まったとされる/乱積の石垣が残る
1
B
関地池
せきじ
西予市
溜池
堰堤長約100m
寛永21(1644)
WEB
昭和36大規模改修
伊予宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗により築造
3
C
南方の里塚石
みなみがた
東温市
<讃岐街道>
一里石
寛保元(1741)
歴史の道3p23/WEB
近接移設
(正面)「松山札辻より 四里」
2
C
山之内の金毘羅常夜灯
やまのうち
東温市
石常夜灯(自然石)
明和8(1771)
近接移設?
(竿正面)「石鉄山/金毘羅、常夜燈」
1
C
上村の金毘羅常夜灯
うえむら
東温市
(上ノ段)<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
寛政10(1798)
歴史の道3p64
移設?(すべての石がC接合、火袋木造)
(竿正面)「石/金、常夜燈」
2
C
下林の常夜灯1
しもばやし
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
寛政12(1800)
歴史の道3p65
原位置?
(竿正面)「大権現夜燈」
1
C
牛渕の金毘羅常夜灯1
うしぶち
東温市
南吉井小学校・前
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
文化6(1809)
歴史の道3p27
移設?
(竿正面)「金毘羅/石鉄山、常夜燈」/東温市内では最もアンバランスな笠石/下記の「牛渕の金毘羅里程道標」と並ぶ
2
B
南方の金毘羅常夜灯1
みなみがた
東温市
(竹の鼻)<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
文化10(1813)
歴史の道3p28
移設
(竿正面)「金/石、夜燈」
2
C
南野田の金毘羅常夜灯1
みなみのだ
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
文化11(1814)
歴史の道3p64/WEB
竿中央に水平に亀裂
(竿正面)「金/石、常夜燈」
1
B
志津川の金毘羅常夜灯1
しつかわ
東温市
黒住教敷地内<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
文化12(1815)
歴史の道3p21/WEB
近接移設?/竿石材の劣化が進行/火袋は後補
(竿正面)「金/石、常夜燈」
2
B
南野田の金毘羅常夜灯2
みなみのだ
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
高2.40m
文化13(1816)
歴史の道3p27/WEB
原位置?
(竿正面)「金/氏(=氏神)/石」/東温市内では最も巨大な自然石常夜灯/下記の「南野田の道標1」と並ぶ
1
B
牛渕の金毘羅常夜灯2
うしぶち
東温市
石常夜灯(自然石)
文政2(1819)
WEB(塔MAP)
移設
(竿正面)「奉、石/金、常夜燈」
2
C
吉久の金毘羅常夜灯
よしひさ
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
文政8(1825)
歴史の道3p65
原位置?
(竿正面)「金/氏/石、常夜燈」
1
C
志津川の金毘羅常夜灯2
しつかわ
東温市
石常夜灯(自然石)
天保3(1832)
WEB(塔MAP)
近接移設?/接合部に多量のC
(竿正面)「金/石、常夜燈」
2
C
松瀬川の金毘羅常夜灯
ませかわ
東温市
吹上池手前の三叉路
<讃岐街道>
石常夜灯
天保5(1834)
歴史の道3p63
移設/下部2段の台石C、蓮根池に張り出したC基壇上
(竿正面)「奉献、金/石」
3
C
下林の金毘羅常夜灯1
しもばやし
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
高2.93m
天保15(1844)
歴史の道3p64/WEB(塔MAP)
原位置?/基部C
(竿正面)「金/石、奉燈」/東温市内では最も量塊感のある巨大な笠石
1
B
下林の金毘羅常夜灯2
しもばやし
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯
弘化3(1846)
歴史の道3p65
移設、集約
(火袋右面)「石
○
」、火袋左面)「金
○
」/石基壇なし/「文化3」と間違った資料もある
1
C
南方の金毘羅常夜灯2
みなみがた
東温市
(曲里)<讃岐街道>
石常夜灯
嘉永4(1851)
歴史の道3p65
原位置?
(竿正面)「金毘羅大權現」/石基壇なし
1
C
松瀬川の常夜灯
ませかわ
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯
嘉永4(1851)
歴史の道3p24-25
原位置?
(竿正面)「奉獻」/立派な宝珠/石基壇なし
1
C
南方の常夜灯
みなみがた
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯
嘉永7(1854)
歴史の道3p65/WEB(塔MAP)
原位置?
中台に雲形の浮彫/猫脚/石基壇なし
1
B
北方の金毘羅常夜灯1
きたがた
東温市
石常夜灯
安政元(1854)
WEB(塔MAP)
原位置?
(笠正面)「金/石」/石基壇なし
1
C
下林の金毘羅常夜灯3
しもばやし
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯
安政年間(1854-60)
歴史の道3p28/WEB(塔MAP)
石基壇は再構築→移設
(竿正面)「金毘羅」/猫脚
2
C
南野田の常夜灯
みなみのだ
東温市
南野田集会所・東
石常夜灯(自然石)
安政7(1860)
WEB(塔MAP)
移設?
(竿正面)「長明燈」
2
C
南方の金毘羅常夜灯3
みなみがた
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
文久元(1861)
歴史の道3p28
原位置?
(竿正面)「金/石、奉燈」
1
C
北方の金毘羅常夜灯2
きたがた
東温市
石常夜灯(自然石)
文久3(1863)
WEB(塔MAP)
原位置?
(竿正面)「金/石、常夜燈」
1
C
下林の常夜灯2
しもばやし
東温市
<讃岐街道>
石常夜灯(自然石)
高2.85m
江戸期?
市有形
(歴史資料)
歴史の道3p28/WEB(塔MAP)
原位置?/石基壇上には竿石があったものと推測される(詳細不明)
宮勾配の付いた石基壇が特徴的→石の積み方から江戸期と推定される
2
B
下林の金毘羅里程道標
しもばやし
東温市
<讃岐街道>
石道標(尖頭角柱)
高188㎝
文化10(1813)
市有形
(歴史資料)
歴史の道3p28/WEB
原位置?
(正面)「従 金毘羅大門 二十八里」
1
B
牛渕の金毘羅里程道標
うしぶち
東温市
南吉井小学校・西
<讃岐街道>
石道標(尖頭角柱)
文化11(1814)
歴史の道3p27
原位置?
(正面)「従 金毘羅大門 廿八里」/上記の「牛渕の金毘羅常夜灯1」と並ぶ
1
C
田窪の道標1
たのくぼ
東温市
香積寺・参道口右
<讃岐街道>
石道標
文政8(1825)
歴史の道3p57
移設
(正面)「右 松山道/左 大洲道」/正面頂部に「金/石」と陰刻
2
C
田窪の道標2
たのくぼ
東温市
宇気洲神社・前
<讃岐街道>
石道標
文政8(1825)
歴史の道3p27
移設
(正面)「右 金毘羅道」
2
C
松瀬川の金毘羅里程道標
ませかわ
東温市
<讃岐街道>
石道標(尖頭角柱)
弘化4(1847)
歴史の道3p24
近接移設(もと、約10m西の田のあぜ)
(正面)「金毘羅大門与梨 廿六里」(=より)/金毘羅道標の中でも最も見事な筆風
1
B
北方の金毘羅里程道標
きたがた
東温市
<讃岐街道>
石道標(尖頭角柱)
嘉永7(1854)
歴史の道3p23
損壊/途中から折られ盗難にあい下方の一部のみが現存
(正面)「…七里」/文献には「金毘羅大門より 廿七里」と刻字されていたと記載
4
-
南野田の道標1
みなみのだ
東温市
南野田集会所・前
<讃岐街道>
石道標
文久3(1863)
歴史の道3p57
近接移設?
(正面)「(右手差し袖付き)右 金毘羅道」、(右面)「(左指差し)左 和霊社道」
1
C
南野田の道標2
みなみのだ
東温市
<讃岐街道>
石道標
文久3(1863)
歴史の道3p27/WEB
移設/下部埋設
(正面)「(左手差し袖付き)左 金毘羅道」/上記の「南野田の金毘羅常夜灯2」と並ぶ
2
C
北野田の道標
きたのだ
東温市
<讃岐街道>
石道標(自然石)
慶応元(1865)
歴史の道3p57
近接移設(もと、30m北の右折点?)
(正面)「右 金毘羅道/左 わ禮ゐ道」
1
-
河之内の金毘羅里程道標
かわのうち
東温市
土谷の西の集落札場
<讃岐街道>
石道標
江戸期?
歴史の道3p25
原位置?
(正面)「金毘羅大門よ里 二十五里」、(右面)「右 名越金毘羅江 壹里」、(左面)「(左手差し)土州 久萬山道」/「金毘羅」の標記は江戸期
1
B
源太桜
げんた
東温市
<中山越>
桜〔路肩の崩壊防止〕
2本
貞享4(1687)
市天然
歴史の道3p5/WEB
樹勢は元気
松山藩代官・矢野五郎衛門源太が、街道の路肩崩壊を防ぐために植えた桜(エドヒガン)
2
C
三ヶ村集水暗渠
(三ヶ村堀貫水門)
さんがむら
東温市
重信川の伏流水
暗渠
長247m
天保10(1839)
WEB
保存状態良好/現役利用
下記「三ヶ村泉」だけでは不足したため計画されたもの/重信川床に暗渠を設け、伏流水を取水したものを「水門」(坑口)から水路に流す構造/暗渠部は両側壁は野面空積、蓋石は幅60㎝、長50㎝程度の切り石または自然石
1
A
三ヶ村泉
さんがむら
東温市
重信川の伏流水
湧水池
寛政2(1790)
WEB
護岸改修(H26)/現役利用
代官・金子文左衛門が裁許→旧牛渕・南野田・北野田の三つの村が共同で、重信川の伏流水を得るために掘った泉(泉の名称の由来)
3
B
柳原泉
やなぎはら
東温市
重信川の伏流水
湧水池
寛政9(1797)
WEB
護岸改修/現役利用
代官・舛柳忠次/明和7(1778)に灌漑水源として試掘したが湧水量が少なく失敗、寛政6(1794)に現在地を試掘して湧水を発見したもの
2
B
萩生の徳右衛門道標
はぎゅう
新居浜市
萩生寺・山門<讃岐街道>
石道標(蒲鉾型)
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道3p39/WEB
移設/最下部で折損→修復/下部埋設
(正面像下)「是より/三角寺迄、七里」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
上泉町の徳右衛門道標
かみいずみ
新居浜市
泉地蔵堂
石道標(蒲鉾型)
高88㎝,幅24㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
WEB
移設/折損→下部滅失
(正面像下)「是よ里/三角寺迄、…」
(六里)
、(左面)「願主…」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
4
C
船木の金毘羅里程道標
ふなき
新居浜市
<讃岐街道>
石道標
弘化4(1847)?
歴史の道3p6/WEB
移設、集約
(正面)「こんひら大門ゟ 十四里」/三豊市の「山本町神田の金毘羅里程道標」と一連のものなので、同一時期に建立と推定
2
C
喜光地町の金毘羅里程道標
きこうじ
新居浜市
<讃岐街道>
石道標
弘化4(1847)?
歴史の道3p40
移設、集約/下部埋設
(正面)「こんひら大門ゟ 十五里」/同上
3
C
萩生の金毘羅里程道標
はぎゅう
新居浜市
<讃岐街道>
石道標
弘化4(1847)?
歴史の道3p38
民家敷地内で、かつ、Cブロック塀が近接設置されているため「こんひら大門」までしか見えない
(正面)「こんひら大門ゟ 十六里)」/同上
5
C
本郷の西条藩境石
ほんごう
新居浜市
<讃岐街道>
境界石
江戸期
歴史の道3p39
移設(もと、黒岩橋東詰)
(正面)「従是東 西條領」
2
C
池田池
いけだ
新居浜市
市場川
溜池
堤長約250m,
高18.5m
奈良時代→明暦3(1657)→寛文10(1670)改修
市教委(船木物語p100-103)/WEB
起源は奈良時代(東大寺諸国床々文書の目録に「古池」と(記載)→明暦元、西條藩による大改修で現在の姿に/四国で、満濃池に次ぐ2番目の大きさの溜池、灌漑面積120ha
3
A
亀池
かめ
新居浜市
<溜池>
嘉永3(1850)
県名勝
市教委(旧広瀬邸建造物調査報告書p9-10)/WEB
明治24以降庭園化
住友が経営する別子銅山の支配人・今沢卯兵衛が、稼人の飯米を確保するため、中之町池(通称:亀池)、高尾池(鶴池)を築造して新田開発を試みる→溜池の水不足により稲作失敗→桑茶栽培→広瀬邸の「後園」として整備→公園化/農業遺産というよりは、広い意味での住友関連の産業遺産
2
C
歓喜間符
・跡
かんき
新居浜市
<別子銅山(歓喜坑付近)>
坑口
元禄4(1691)
WEB(旧別子の間符)
平成13開坑当時の状態に復元
(入口のみ)
別子銅山で最初の坑道/元禄3、坑夫・長兵衛が嶺南で有望な露頭を発見→備中・吉岡銅山(住友家経営)の支配人・田向重右衛門らが優れた鉱脈を発見→幕府の許可を得て元禄4.9.22に採鉱開始
3
観東間符
・跡
かんとう
新居浜市
<別子銅山(歓喜坑付近)>
坑口
元禄4(1691)
WEB(旧別子の間符)
平成13開坑当時の状態に復元
(入口のみ)
上記の「歓喜間符」とともに、江戸時代の別子銅山の中心的存在/寛延2(1749)頃から産出量で歓喜間符を抜く
3
A
大和間符
・跡
やまと
新居浜市
<別子銅山(銅山峰付近)>
坑口
元禄4(1691)
現地解説板/WEB(旧別子の間符)
元禄4に開かれた旧別子の坑口中、唯一原形を留める(閉鎖)/江戸時代に閉坑
元禄8(1695)に西条藩・立川銅山の大黒間符と地中で偶然に貫通→境界争い→元禄10に幕府が「分水嶺を境界」とする裁定を下した
2
B
大和間符疎水坑
・跡
やまと
新居浜市
<別子銅山(銅山峰付近)>
坑口
元禄4(1691)?
WEB(旧別子の間符)
原形を留める
上記の「大和間符」の排水用と推測される
2
C
中西間符
・跡
なかにし
新居浜市
<別子銅山(銅山峰付近)>
坑口
元禄4(1691)
WEB(旧別子の間符)
原形を留める
小規模な坑口
2
C
中西疎水坑
・跡
なかにし
新居浜市
<別子銅山(銅山峰付近)>
坑口
元禄4(1691)
WEB(旧別子の間符)
原形を留める
上記の「中西間符」の排水用
2
C
長榮間符
・跡
ちょうえい
新居浜市
<別子銅山(歓喜坑付近)>
坑口
元禄4(1691)
WEB(旧別子の間符)
坑口上部が崩落
歓東間符の東にある小規模な坑口
3
C
天満間符
・跡
てんま
新居浜市
<別子銅山(延喜の端付近)>
坑口
元禄4(1691)
WEB(旧別子の間符)
坑口は閉鎖
小規模な坑口
3
C
大和間符近くの大露頭
やまと
新居浜市
<別子銅山(銅山峰付近)>
露頭
WEB
保存状態良好
地表に現われた銅鉱が数千年の永い年月の間に風化作用によって酸化したもの/大和間符の西10m
3
C
高柳泉
たかやなぎ
新居浜市
高柳公園
湧水
長130m
天正年間(1573-92)以前
市教委(ふるさと泉川p4-5)
現役/土地改良区が清掃活動
天正年間に泉があったことが記されている/国領川の伏流水/農業用の現役湧水池としては全国最大級
1
喜木津越の石畳
ききつ
八幡浜市
<吉田街道>
石畳道
長30-40m
文政5(1822)以前
市教委
/WEB(四国の古道・里山を歩く)
放置
吉田藩の海の玄関・喜木津の港への峠道
3
C
川之内の大師道標
かわのうち
八幡浜市
石道標
高69.5㎝(うち、台石19㎝)、幅20㎝
文政4(1821)
市教委
原位置?
(正面頂部)「(左指差し)」、その下に大師坐像、その下に「左、遍/ろ」
1
-
保内町宮内の道標
ほない、
みやうち
八幡浜市
石道標(花崗岩)
慶応2(1866)
市教委/WEB(四国の古道・里山を歩く)
移設/「左 みさきへ 十三り」は追刻の可能性
(正面)「右 こんひら道」、(正面左)「左 みさきへ 十三り」
2
C
磯崎港の石波止
いさき
八幡浜市
磯崎港
石防波堤
(緑泥片岩)
弘化4(1847)頃
市有形
市教委
昭和33にCによる嵩上げ(本体は石のままだが、嵩上げ部がかなり大きい)
地元の通玄寺が願主となり、藩に助成と寄付を請願した「磯崎浦波戸勧化之事」の願文が現存/天保14に多くの難破船が出た→波戸が完成すれば生命・船・物資の損失がなくなる
3
C
総津の大師道標
そうづ
(伊予)砥部町
(落合)大師堂・下
石道標
高90㎝,幅20㎝,厚18㎝
嘉永8(1855)
原位置/像下で水平に折損→修復
(正面像下)「(右手差し)右 へんろ/左 さぬき、道」/上部に左手に笠を持った大師立像を陽刻
1
C
通谷池
とおりたに
(伊予)砥部町
砥部川
溜池
高25.6m?
寛政5(1793)
ため池百選
WEB
昭和42大改修/桜の名所
明和8(1771)の大旱魃の際、村同士の対立で死者まで出した経緯を受け、宮内村と麻生村の共有という形で築造
3
B
北川原の太神宮常夜灯
きたがわら
(伊予)松前町
石常夜灯(自然石)
寛政12(1800)
WEB(塔MAP)
移設?/中台と火袋が分厚いCで接合されている→火袋から上は別の常夜灯からの転用か?
(竿正面)「大神宮、金毘羅/石鉄山/瑜伽山」
4
C
中川原の金毘羅常夜灯
なかがわら
(伊予)松前町
石常夜灯(自然石)
文化12(1825)
WEB
近接移設?
(竿正面)「奉、金毘羅/高忍宮/石鉄山」/笠に突起のある風化岩塊を使用
1
B
徳丸の金毘羅常夜灯
とくまる
(伊予)松前町
石常夜灯(自然石)
文化12(1825)
WEB
原位置?
(竿正面)「金/高/石、常夜燈」
1
C
出作の道標
しゅっさく
(伊予)松前町
<大洲街道>
石道標
嘉永7(1854)
歴史の道5p37
移設
(正面)「(左指差し)左 古ん飛ら道」
2
C
鶴吉の藩境石
つるよし
(伊予)松前町
境界石(自然石)
江戸期
WEB
大洲藩~松山藩/境界と路面高を決めた石(浸水防止)
1
-
岩城の金毘羅常夜灯
いわぎ
(越智)上島町
(岩城島)
浜公民館
石常夜灯
文政6(1823)
町教委/歴史の道4p34
移設
(竿正面)「金毘羅大權現」、(竿左面)「濱若中」/海運や漁業で潤っていた当時の濱集落を彷彿とさせる/猫脚/石基壇あり
2
B
御神塔
ごしんとう
(越智)上島町
(岩城島)
岩城八幡神社
石常夜灯(海運)
文政8(1825)
町教委/歴史の道4p34
原位置
沖合を航行する船舶の燈台/四角錐の屋根、円柱状の竿、四角錐状の石基壇など灯明台と常夜灯をミックスしたような特異な形態
1
B
城ノ鼻の桟橋の柱穴
・跡
じょうのはな
(越智)上島町
(岩城島)
城ノ鼻岩礁部
柱穴
江戸期
町教委/歴史の道4p34
視認可能
亀山城の建つ城ノ鼻の崖の先端部/かつて造られていた桟橋を支える柱穴が2列直線状に並ぶ
2
C
露峰の切石道
つゆみね
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
切通し
寛文年間(1661-73)の最初の頃
WEB
道路(廃道化)が拡幅され雰囲気が変わってしまった
仰西渠を完成させた仰西の私財による救済事業の一つ/三坂峠鍋割坂の改修の経験を活かし、岩崖を開削して道を開いた難工事
2
B
東明神の里塚石(六里)
ひがしみょうじん
(上浮穴)
久万高原町
(野地)<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
町史跡
歴史の道2p30/WEB
近接移設(もと、50mほど北の民家のかたわら)/基部露出
(正面)「松山札辻より 六里」
2
C
入野の里塚石(七里)
いりの
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
町史跡
歴史の道2p29/WEB
移設(昭和40代に道路の縁石にされていたのを現在地に移す)
(正面)「松山札辻より 七里」
2
C
菅生の里塚石(八里)
すごう
(上浮穴)
久万高原町
(宮ノ前)<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
町史跡
歴史の道2p32/WEB
昭和40代にテレビ受信塔の工事中発見/山の字下で2つに折損→修復
(正面)「松山札辻より 八里」
2
C
有枝の里塚石(九里)
ありえだ
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
町史跡
歴史の道2p33/WEB
転倒、放置
(正面)「松山札辻より 九里」
3
C
七鳥の里塚石(十里)
ななとり
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
町史跡
歴史の道2p34/WEB
原位置
(正面)「松山札辻より 十里」
1
C
東川の里塚石(十一里)
ひがしがわ
(上浮穴)
久万高原町
(簑川)<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
町史跡
歴史の道2p35/WEB
原位置
(正面)「松山札辻より 十一里」
1
C
黒藤川の里塚石(十二里)
くろふじかわ
(上浮穴)
久万高原町
(うつぎょう)大師堂
<土佐街道>
一里石
寛保元(1741)
町史跡
歴史の道2p38/WEB
移設
(正面)「松山札辻より 十二里」/土佐の相撲取りが自分の力自慢のために400mほど土佐よりにあったものを引き抜いてここまで担いできたという話が伝わる
1
C
東明神の金毘羅常夜灯
ひがしみょうじん
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
石常夜灯(自然石)
慶応3(1867)
歴史の道2p28/WEB
原位置?
(竿正面)「天/金、石、奉燈」(=地元の天満神社)、(同最下部)「組中安全」
1
C
二名の道標
にみょう
(上浮穴)
久万高原町
森田大師堂
石道標
天明6(1786)
WEB
移設(基部C)
(正面)「右 遍路道」、(同右端)「へんろ」(=振り仮名)
2
-
入野の道標
いりの
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
石道標(自然石)
寛政3(1791)
歴史の道2p28
近くに倒れていたものを30年ほど前に移設
(正面)「三十三所/觀世音、十五番札所へ」
2
C
東明神の徳右衛門道標
ひがしみょうじん
(上浮穴)
久万高原町
(三坂)三坂峠・南
<土佐街道>
石道標(蒲鉾型)
高130㎝,幅25㎝,厚22㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道2p27/WEB
移設?(もと、旧街道沿いにあった可能性が高い)
(正面像下)「(梵字)是より 浄るり寺へ 二里」、(右面)「願主、越智郡/朝倉村、徳右衛門」/頂部に大師坐像の浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
菅生の大師道標
すごう
(上浮穴)
久万高原町
千本峠・上り道
石道標(舟型?)
高65㎝,幅30㎝,厚23㎝
寛政7(1795)
WEB
原位置?
(光背左)「右へんろ道」/光背頂部に「(梵字)大師」と陰刻、その下に丸彫に近い大師坐像(右手に五鈷杵?、蓮台)
1
C
二名の徳右衛門道標
にみょう
(上浮穴)
久万高原町
(由良野)
石道標(蒲鉾型)
寛政9(1797)
WEB
原位置?
(正面像下)「菅生山ヨリ 二名村此
所
江一里」(
緑字
は異体字)、(左面)「越知郡朝倉上村 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱
1
B
菅生の地蔵道標
すごう
(上浮穴)
久万高原町
峠御堂峠道・頂上
石道標(駒型)
高100㎝,幅20㎝,厚14㎝
文化11(1814)
WEB
原位置?
(正面像下)「岩屋へ 七十五丁」/頂部に梵字を印刻し、その下に地蔵坐像(蓮台)の浮彫り〔梵字が地蔵菩薩の「カ」なので、大師像ではない〕
1
C
久万の道標1
くま
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
石道標
高130㎝,30㎝角
弘化5(1848)
歴史の道2p43/WEB
下部C打設・埋没
(正面)「(右指差し)右 へんろ道」、(同最下部左)「當町」、(右面)「(左手差し)きやく(=逆)遍ん…」、(左面)「浄るり寺江…/道後湯之町江…」/道後温泉の方向を刻字〔温泉遺産〕
2
C
二名の墓碑道標
にみょう
(上浮穴)
久万高原町
葛城神社・南下
石道標(蒲鉾型)
高222㎝,31㎝角
嘉永元(1848)
WEB
近接移設?
(左面)「(左指差し)左 へんろ道」、(同最下部)「菅生山江/五拾八丁」/正面頂部を光背型に削り込み大師座像を陽刻、その下に「(梵字)智澄妙果大姉」と陰刻
1
B
菅生の道標
すごう
(上浮穴)
久万高原町
<槇谷公会堂>
石道標(自然石)
高195㎝,幅60㎝,厚10㎝
嘉永4(1851)
WEB
移設?/刻字不鮮明
(正面)「(左手差し)いわやへ 二十二丁/左 へんろみち」
2
B
二名の廻国塔道標
にみょう
(上浮穴)
久万高原町
「四国のみち」休憩所
石道標
高104㎝,幅20㎝,厚19㎝
嘉永4(1851)
WEB
移設?/中央で水平に折損→修復
(左面)「是より 菅生山江 三十三丁」/正面に「(梵字)奉納四國四十度大願成就」と陰刻
2
C
下野尻の道標
しものじり
(上浮穴)
久万高原町
石道標
嘉永4(1851)
WEB
移設(回転?)/上部で水平に折損→修復
(正面)「(右手差し)右 い王やし江 二り」、」、(左面)「左 すが王山道 二十五丁」、(裏面)「左 す加"王山道 二十五丁」
2
C
久万の道標2
くま
(上浮穴)
久万高原町
<土佐街道>
石道標
高185㎝,幅30㎝,厚20㎝
嘉永5(1852)
歴史の道2p30/WEB
原位置?
(正面)「左 (左指差し)へんろミち」、(正面最下部)「岩谷寺江 九十一丁/當町江 うち毛どり」、(左面)「きやく(=逆)/右 (右手差し)へんろみち」
1
B
下畑野川の道標1
しもはたのかわ
(上浮穴)
久万高原町
立石橋たもと
石道標(尖頭角柱)
高185㎝,幅30㎝,厚28㎝
嘉永6(1853)
WEB
原位置?
(正面)「(左手差し)遍んろ道」、(同左端)「是より 浄るりじ江 四里十丁」、(裏面)「(右指差し)遍んろ道」、(同左端)「是より い王やぢ 六十丁」/同上
1
B
下畑野川の道標2
しもはたのかわ
(上浮穴)
久万高原町
「四国のみち」休憩所
石道標(尖頭角柱)
高200㎝,幅31㎝,厚27㎝
嘉永6(1853)
WEB
移設?、集約
(正面)「(左手指し)遍んろ道」、(同左端)「古連より 志ようるりぢへ 四里八丁」、(右面)「(右指差し)遍んろ道」、(同左端)「是より 岩やぢへ 六十丁 うちもどり」/正面が四十六番、右面が四十五番を差すので逆遍路
2
B
三坂峠の駒つなぎ石
みさか
(上浮穴)
久万高原町
馬繋石
江戸期?
WEB
移設?
2
C
仰西渠
こうさい
(上浮穴)
久万高原町
久万川(右岸)
切通し(水路),
素掘トンネル
(水路)
長57m(うち、隧道12m),幅2.2m
明暦年間(1655-58)
県史跡
WEB/市教委
保存状態良好
久万の町人・山之内彦左衛門光実(晩年、仰西と称した)が私財を投じて硬質安山岩の岩盤を開削→足立重信が行った重信川の改修、石手川の付替えや岩堰等を視察・参考にしたとされる
1
B
赤蔵ヶ池
あぞが
(上浮穴)
久万高原町
溜池
周囲575m
仁平元(1151)頃創建
ため池百選
WEB
希少種ジュンサイ・ドブシジミが生息
標高870mの山頂の窪地にある湧水池→小規模/平安時代に「源三位頼政が安曽布ヶ池(赤蔵ヶ池)から出てきた妖怪・鵺(ぬえ)を退治したとの伝承が文政年間(1800年頃)に伝わっている
1
C
幟立の地蔵堂と旧街道
のぼりたて
(喜多)内子町
<大洲街道>
道路
江戸期
歴史の道5p9
地蔵堂は昭和54の再建だが、旧街道と合わせ景観の保全に貢献
2
C
茶谷の旧街道
ちゃや
(喜多)内子町
<大洲街道>
道路
江戸期
歴史の道5p9
旧状をよく留める
1
C
内子の金毘羅常夜灯
うちこ
(喜多)内子町
郷の谷川沿い<大洲街道>
石常夜灯
高3.77m
天保2(1831)
歴史の道5p31
移設
(竿正面)「金毘羅大權現」「村中安全」/猫脚/中台4面に雲形模様
2
B
内子の道標
うちこ
(喜多)内子町
内子町歴史民俗資料館・中庭<大洲街道>
石道標(尖頭角柱)
高70㎝,幅24㎝,厚15㎝
元禄2(1689)
歴史の道5p30/WEB
移設(もと、水戸森峠)/下部埋設
(正面)「これより みき へんろミち」/17世紀の道標
2
B
福岡の道標
ふくおか
(喜多)内子町
福岡大師堂・前
<大洲街道>
石道標
高67㎝(オリジナル部のみ),
24㎝角
元禄11(1698)
歴史の道5p30/WEB(四国の古道・里山を歩く)
再移設(福岡大師堂前→歴史民俗資料館→福岡大師堂前)/最下部に石材追加(「みち」もその際の刻字)
(正面)「みき 遍んろみち」/17世紀の道標
3
B
臼杵の道標
うすき
(喜多)内子町
(上畦々)下坂場峠道
石道標
天明7(1787)
WEB
原位置/刻字の一部に塗色
(正面)「右 遍路道」、(同右端)「みぎ へんろ ミち」→ふり仮名付き
1
C
五十埼の徳右衛門道標
いかざき
(喜多)内子町
(黒内坊)国道56号と遍路道との分岐点<大洲街道>
石道標(蒲鉾型)
高150㎝,幅28㎝,厚25㎝
寛政9(1797)頃
歴史の道5p32/WEB
移設?
(正面像下)「是ゟ 菅生山迄 九里」、(同左)「左 へんろちかみち」→追刻?、(左面)「願主 越知郡、朝倉上村/徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
五百木の徳右衛門道標
いよき
(喜多)内子町
西光寺・大師堂の下段
<大洲街道>
石道標(蒲鉾型)
高137㎝,幅25㎝,厚21㎝
寛政9(1797)頃
歴史の道5p36/WEB
移設、集約
(正面像下)「是ゟ 菅生山迄 八里」、(左面)「願主 越智郡、朝倉上村/徳右ヱ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
大瀬中央の徳右衛門道標
おおせ、
ちゅうおう
(喜多)内子町
(本町)大瀬大橋の国道側橋のたもと
石道標(蒲鉾型)
寛政9(1797)頃
WEB
移設
(正面像下)「是ゟ 菅生山迄 七里」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
大瀬東の徳右衛門道標
おおせ、
ひがし
(喜多)内子町
石道標(蒲鉾型)
高138㎝,幅27㎝,厚25㎝
寛政9(1797)頃
WEB
C擁壁上→移設
(正面像下)「是ゟ 菅生山迄 六里」、(左面)「願主 越智郡、朝倉村/徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
中田渡の徳右衛門道標
なかたど
(喜多)内子町
新田神社の鳥居左側道端
石道標(蒲鉾型)
高150㎝,幅26㎝,厚21㎝
寛政9(1797)頃
WEB
原位置?/基部露出
(正面像下)「是ゟ/菅生山迄 四里」、(左面)「願主 越智郡、朝倉上村/徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
臼杵の徳右衛門道標1
うすき
(喜多)内子町
(倉谷)バス停臼杵神社前
石道標(蒲鉾型)
高147㎝,幅27㎝,厚24㎝
寛政9(1797)頃
WEB
移設
(正面像下)「是ゟ 菅生山迄 三里」、(左面)「願主 朝倉村 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)/内子町の徳右衛門道標は「二里」が寛政9っだので、3-9里も同年建立の可能性が高い
2
C
臼杵の徳右衛門道標2
うすき
(喜多)内子町
(上畦々)上畦々の大師堂
<大洲街道>
石道標(蒲鉾型)
寛政9(1797)
WEB
上3分の1(大師像の部分)が水平に折損→折れた部分が近くに置かれている
(正面像下)「菅生山ヨリ 臼杵村此所江 二里」、(左面)「越知郡朝倉上村 德右ヱ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字(右面頂部)してあるものは2割弱
4
B
上田渡の道標
かみたど
(喜多)内子町
上田渡橋の下
石道標
高119㎝,幅23㎝,厚22㎝
慶応3(1867)
WEB
移設?/最下部で水平に折損→修復
(正面)「(右指差し)、古んひら江 三十五り/春可"う山江 三り半」、(左面)「左 奈多"濱江 五里」〔長浜を指すはずなので、変体仮名の“可”でなくてはならないが、“多”(=た)が誤用されている〕
2
C
論田の西井出堰
ろんでん、にしいで
(喜多)内子町
麓川
取水堰
長30m,高3.3m
江戸後期
国登録
WEB
昭和前期に頂部をC補強
盤面に敷いた松丸太の上に空石積で構築
2
B
大宿の茶堂
(権太大師堂)
おおじゅく
(北宇和)鬼北町
(権太)
茶堂(萱葺)
江戸期?
WEB
昭和20代の建替え
2
C
生田の茶堂
いくた
(北宇和)鬼北町
(上組)
茶堂(銅板葺)
江戸期?
WEB
平成22建替え/一部に古材を残す
3
C
笛吹池
ふえふき
(北宇和)鬼北町
溜池
天平2(730)?
町史跡
町教委
修復履歴不明
2
延野ヶの大井手
のびの
(北宇和)松野町
広見川
取水堰
鎌倉時代??
→寛文7(1667)石堰築造
町教委(遺物・遺構・文献を探し求めてp163-166)
取水堰堤はC改修
鎌倉時代に廣福寺を開山した通雄法印(正応元(1288))没)が計画し、堰と幹線水路を造ったと伝えられている→寺に残る安永2(1773)再建時の棟札に「通應法印昔教村人水道使河水引通田疇以得水道之宜至于今村人皆穪言開山通應之功也」と書かれていて、この「水道」が大井手とされているが、具体性がなく曖昧な上に、500年も時代差があるので信憑性は疑問/寛文6の洪水で大井手が流出し、翌寛文7に宇和島藩が足軽と農民の夫役で石堰を構築したと宇和島藩の租税台帳『弐野截』に書かれていることを考えると、寛文6までは簡易な堰、流失後に堅固な石堰に改造したとも解釈できる/現在堰左岸側の水中に残る柱穴列〔写真参照〕は、堰の水をコントロールする一種の木堰に用いられていたと推定されているが、寛文6以前の堰の遺構だった可能性が高い
3
A
延野ヶの大井手の水路
のびの
(北宇和)松野町
用水
寛文6(1666)以前
町教委
大井手付近は保存状態良好
寛文6(1666)に流失した大井手時代からあったと思われる用水路/堰の付近では岩を開削している
1
B
奥内遊鶴羽の棚田
おくうち、
ゆづりは
(北宇和)松野町
棚田(石垣)
17世紀末?
日本の棚田百選
町教委/WEB
保存状態良好
平家の落人が開墾したとの伝承はあるが、墓地に残る一番古い墓が元禄3(1690)なので、この時点よりは後に造られたと見る方が妥当であろう/一段の段差の大きく石垣で石の積み方は上手ではないが大胆
1
A
野坂の石塀
(野坂の石垣)
のさか
(西宇和)伊方町
防風石塀
(緑色片岩)
長140m,高4m
江戸期
未来へ残したい漁業漁村の歴史文化財産百選
WEB
世代を経て改造・増設
海に長く突き出た佐田岬半島(風の強い所として知られている)ならではの遺構
1
名取の石垣
なとり
(西宇和)伊方町
防風石塀
(緑色片岩)
江戸期
町有形
WEB
保存状態良好
複雑な地形の場所に居住するための石垣/「平積み」が多いが「矢羽根積み」など様々な石積も見られる
1
A
長崎の常夜灯
ながさき
(南宇和)愛南町
石常夜灯
高2.5m以上
安政5(1858)
町有形
町教委/WEB
原位置?/宝珠と火袋は後補
干拓工事完成記念と船の安全のために建てられとされる/干拓は岩松の豪商小西家が宇和島藩より御荘湾の一部干拓の許可を得て、長崎地区に堤防や水門、遊水池など整備して水田を開いたのが始まり
2
C
馬瀬の常夜灯
ばせ
(南宇和)愛南町
石常夜灯
高2.5m
安政7(1860)
町有形
町教委/WEB
移設/火袋とあたまの宝珠は後補
(竿正面)「奉燈」
C
増田の真念道標
ますだ
(南宇和)愛南町
一本松郷土資料館
<へんろ道>
石道標(尖頭角柱)
1680年代?
WEB(空海の里)
館内保管
(正面)「右 遍ん路み…」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/真念の標記は欠損/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存)
4
B
一本松の地蔵道標
いっぽんまつ
(南宇和)愛南町
篠山神社・二の鳥居
石道標(舟型)
元文5(1740)
WEB(四国の古道・里山を歩く)
原位置
(光背頂部)「
□
是 寺迄 五十丁」/その下に地蔵立像(錫杖)の陽刻
1
C
小山の徳右衛門道標
こやま
(南宇和)愛南町
(本村)小山番所
<宿毛街道>
石道標(蒲鉾型)
高141㎝,幅24㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道7p24/WEB
移設/下記の「宇和島領境石1・2」と並立している/
写真右端
(正面像下)」「これより/く王んじざいへ、三り」(=観自在寺)、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
増田の徳右衛門道標
ますだ
(南宇和)愛南町
増田中組<宿毛街道>
石道標(蒲鉾型)
高144㎝,幅25㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道7p35/WEB
移設
(正面像下)「これより/さゝ山へ 三り」(=篠山)、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
正木の徳右衛門道標
まさき
(南宇和)愛南町
蕨岡家長屋門・右<宿毛街道>
石道標(蒲鉾型)
高102㎝,幅25㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道7p36/WEB
原位置?
(正面像下)「これより/さゝ山へ 二り」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(12
0基程度現存)
1
C
上大道の徳右衛門道標
うわおおどう
(南宇和)愛南町
城辺町上大道中道と灘道の分岐点<宿毛街道>
石道標(蒲鉾型)
高150㎝,幅25㎝,厚20㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道7p22/WEB
移設(C台石)/中央で折損→修復
(正面像下)「これより左り/く王んじざいへ、壹里半」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
3
C
城辺甲の徳右衛門道標
じょうへん、こう
(南宇和)愛南町
豊田釈迦駄馬<宿毛街道>
石道標(蒲鉾型)
高140㎝,幅25㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)
歴史の道7p26/WEB
移設
(正面像下)「これより/く王んじざいへ、一り」、(左面)「願主 徳右ェ門」/正面頂部に梵字陰刻、その下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)
2
C
弓張の大師道標
ゆみはり
(南宇和)愛南町
松尾峠<宿毛街道(中道)>
石道標(隅丸型)
高100㎝,幅20㎝,厚15㎝
文政11(1828)
町教委/歴史の道7p23/WEB
移設/左面が隣石と密着
(正面像下)「古これより く王んじざ以寺迄 二里」/正面頂部を円形に削り込み小さな大師坐像を陽刻
3
C
脇本の傍示碆
わきもと、
ぼうじばえ
(南宇和)愛南町
脇本海岸
境界石(自然石)
万治2(1659)以前
町史跡
WEB
原位置
現在でもこの傍示碆が愛媛・高知両県の境
1
B
小山の宇和島藩境石
(先代)
こやま
(南宇和)愛南町
(本村)小山番所
<宿毛街道・松尾峠>
境界石
高240㎝
貞享4(1687)
町史跡
歴史の道7p24/WEB
中央で折って転用→発見→修復・移設/左面は追刻/
写真中央
(正面)「従是西 伊豫國宇和嶋領」、(左面)「(右手差し)(左手差し)(大師坐像線刻) 明治十三年 (右手差し)みぎ へんろみち」、(裏面)「従是 西 伊豫國宇和嶋領」/初代の松尾峠境界石/下記の二代目に更新後、明治期に道標として再利用→その後中央で折り、二代目の境界石と共に橋部材に利用/17世紀の藩境石/二代目境界石と並ぶ
3
A
小山の宇和島藩境石
こやま
(南宇和)愛南町
(本村)小山番所
<宿毛街道・松尾峠>
境界石
高270㎝
天保5(1834)
歴史の道7p24/WEB
中央で折って転用→発見→修復・移設/
写真左端
(正面)「従是西 伊豫國宇和嶋領」/松尾峠2代目の境界石/その後中央で折り、初代の境界石と共に橋部材に利用/初代境界石と並ぶ
3
B
内泊の猪垣
うちどまり
(南宇和)愛南町
猪垣
長約8.8㎞
江戸期
町教委
樹木により視認困難
海に面した内泊地区を取り巻くように権現山に築かれた猪垣
3
B
外泊の石垣
そとどまり
(南宇和)愛南町
外泊・石垣の里ミュージアム
集落石垣
(花崗岩、防風)
19世紀(江戸後期から明治初期のいずれか)
未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選
町教委/WEB
保存状態良好/観光地化
隣の中泊集落(元禄13に形成)の人口が増加したため、分家政策から計画的に造られた新しい漁村集落→区画割もほぼ均一/斜面に形成されたため石垣で区画されたが、特に冬の北風が強いため石垣上部を石塀にして防風対策とした
1
小山御番所井戸
こやま
(南宇和)愛南町
<宿毛街道>
石井戸
江戸期
町史跡
歴史の道7p23/WEB(四国の古道・里山を歩く)
井戸をC枠で保護/井戸内部の石積が残る
土佐伊予の国境番所として重視された番所→番所で残る唯一の構造物
2
C
柏崎清水の井戸
かしわざき
(南宇和)愛南町
石井戸
江戸期
WEB(四国の古道・里山を歩く)
転落防止に蓋がしてある/井戸内部の石積が残る
昭和26に柏崎簡易水道が完成するまでは、この地区の半数近くの家庭が生活用水として利用/昔は井戸のすぐ近くが波打ち際でも真水が出ていた
3
C
久良台場
・跡
(高野長英築造の台場・跡)
ひさよし
(南宇和)愛南町
<宇和島藩>
台場(土塁?)
嘉永3(1850)
県史跡
町教委/台場事典p554
台場の形態が判然としない/土塁下の低い石垣は近年の補修?
設計:高野長英
3
C
久良台場付属石塁
・跡
(天嶬の砲台場石塁)
ひさよし
(てんぎ)
(南宇和)愛南町
<宇和島藩>
台場の付属施設
(石塁)
長100m,高2.5m
嘉永3(1850)
町史跡
町教委
保存状態良好
上記の「久良台場」の付属施設/設計:高野長英/台場下の海岸に沿って造られた野面石乱積の石塁(砲台員の待避所、弾薬庫?)
1
B