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長崎県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
天満坂
てんまん
長崎市
万才町(長崎地方検察庁~長崎地方法務局)
石階段
元禄13(1700)以前
WEB(みさき道人)/長崎石物語
保存状態良好
「長崎喧嘩騒動」が起きた場所
1
C
オランダ坂の石畳
長崎市
東山手<外国人居留地>
石畳
切通・オランダ坂:切石布目敷(斜)、活水坂:切石布目敷(直)/長330m
文久2(1862)以降
馬場/WEB
拡幅・石畳の敷き直しなど改変点は多いが、全体の雰囲気には「長崎らしさ」が色濃く漂っている/マンホールを敷石の下に埋設
文久元年居留地設定計画書の中で、石橋から教会に至る緩やかな坂道を造り舗装することを決定した旨の記述があり、翌2年、東山手11番にプロテスタントの教会堂が完成しているので、この頃に石畳も整備されたと思われる
3
丸山オランダ坂
(阿蘭陀坂)
まるやま
長崎市
丸山町
石階段
28段
江戸期
WEB(みさき道人)
C化
女性として唯一、出島阿蘭陀商館に出入を許されていた丸山遊女〔丸山は花街の名称〕が、出島に向かう時、丸山の表門を通らずにこの階段を下だり、玉帯川から小舟に乗って出島に向かっていたとされる〔出島に住むオランダ人が妻子を連れてくることを許されなかったことへの代償措置〕/別の説もある
3
C
長崎眼鏡橋
ながさき
長崎市
人道/中島川
石アーチ橋
(安山岩)
長22.35m,S8.07m
(2A)
寛永11(1634)
→慶安元(1648)修復(前年の洪水による被害を受けて)
国重文
日本百名橋p229-231/馬場俊介/林 一馬/市教委
昭和57の長崎水害で右岸側のスパンドレル部流失→日本で初めてバイパス水路を造って原位置保存を行った
興福寺の第2代住持・黙子如定禅師(寛永9に中国から渡来)により寛永11に創建されたとされる(文書記録が寛文3(1663)の火災で滅失しているので、一部に異説もある)/如定が技術指導までしたのか、勧進のみ行い技術者が別にいたかも不詳〔如定の出身地・江西省には、中国で現存する最古級の石アーチ橋「栖賢橋(1014)」をはじめ16世紀以前に起源を持つ石アーチ橋があるが、すべて壁石・迫石背面が布積されており、長崎眼鏡橋との構造上の類似が目立つことから、如定の発案と見てよいのではないか〕/正保4(1647)の洪水で崩壊し、翌慶安元(1648)に「重修」されたとの18世紀以降の史料が複数あるが、この「重修」が修復か新架についても説が分かれる(初代の橋は石橋ではなく木造の虹橋であったという説もある、しかし、「寛永年間長崎港図」の写しをそのまま信ずれば、寛永11の当初から眼鏡橋だったと考えるのが素直)/沖縄を除く日本国内で最初の石アーチ橋(17世紀の沖縄は琉球王国だったので、「国内最古」からは除外)/撥型の束柱をもつ高欄→その後の石橋に大きな影響
1
大手橋
おおて
長崎市
一般道/堂門川
石アーチ橋
長12.5m,S4.5m
(A)
慶安3(1650)
→享保6(1721)修復
WEB(石橋)/市教委
昭和7頃、階段付きの上部を水平に改造/昭和57水害後改修(石アーチは橋の下に残る)
唐通事(中国語の通訳)・高一覧(寛永6に中国から渡来)の私財と、募った浄財で架橋/沖縄を除く日本国内で、現存する2番目に古い石アーチ橋(下記の「袋橋」が2番目だとする説があるが、論理的根拠がない)
3
A
一瀬橋
いちのせ
長崎市
一般道<日見街道>
/中島川
石アーチ橋
長13.5m(A)
承応2(1653)
WEB(石橋)/市教委
側面に管類がみっともなく装着/高欄束柱一部補修/親柱後補
唐通事(中国語の通訳)・陳道隆が私財を投じて架橋
2
B
古橋
(旧・中川橋)
ふる
(なかご)
長崎市
鳴滝川
石アーチ橋
長7.6m(A)
承応3(1654)
市有形
WEB(石橋)
親柱・高欄をそのまま埋め込んだ形で野面石で約1m嵩上げし、路面を水平に改造
唐通事(中国語の通訳)・林守殿が私費を投じて架橋/創架後崩流記録はない/径間が小さいため、布積になった壁石と迫石の接合部での鋭角が目立つ→破損を防ぐため矢じり形に加工
3
B
桃溪橋
ももたに
長崎市
西山川
石アーチ橋
長13.0m,S9.8m
(A)
延宝7(1679)
市有形
WEB(石橋)/市教委
昭和57水害で迫石がかろうじて残るまで被災→修復・復元
僧卜意の募財により架橋/河畔に桃の木が多くあり、桃の名所として有名だったことから命名
2
B
羅漢橋
らかん
長崎市
滝の観音
石アーチ橋
長5.8m(A)
元禄13(1700)
WEB(石橋)
昭和57水害で流失→昭和61復元
中国人の商人・許登受が加護御礼に献じたと言われる/中国風の太鼓型の石アーチ
2
C
袋橋
ふくろ
長崎市
一般道/中島川
石アーチ橋
長17.3m,S15.2m
(A)
17世紀中葉?
市有形
WEB(石橋)/市教委
昭和57水害で迫石がかろうじて残るまで被災→修復・復元
「長崎眼鏡橋」の1つ下流側にあり、形態も非常に良く似ている/中島川の石アーチ橋については由来の判っているものが多いが、袋橋については架設者を含めて不明/「長崎眼鏡橋」に次いで古いとの説もあるが、論理的な根拠は一切ない
2
B
若宮神社参道橋
わかみや
長崎市
若宮神社・参道
石アーチ橋
長2.8m,S1.9m(A)
元治2(1865)
WEB(石橋)
保存状態良好
石アーチとしては最小の部類(石桁で十分架設可能)/撥型の束柱をもつ高欄
1
C
高麗橋
こうらい
長崎市
西山ダム河川公園
<中島川>
石アーチ橋
長15.5m(A)
<承応元(1652)>
→慶応2(1866)架替
WEB(石橋)/市教委
昭和57水害後、昭和60解体、平成5移設・復元(端部に石材追加、高欄復旧)
初代の石アーチ橋は明国人により架設、慶応2に麹屋町の商人・池島正助により拡幅架替/江戸末期の架替だが、外観は「長崎眼鏡橋」に酷似
2
B
本河内高部貯水池内石橋
(まぼろしの橋)
ほんごうち
長崎市
本河内高部貯水池
石アーチ橋
長8.7m(A)
江戸末期?
市有形
WEB(石橋)
普段は水没し、渇水期に出現
迫石の加工度が例外的に低い特異な石アーチ、しかも、迫石だけで構成されている
4
C
松ノ森神社の御神橋
まつのもり
長崎市
松ノ森神社・参道
石桁橋
長5.8m(2G)
文化15(1818)
WEB(石橋)
保存状態良好
石工:原田嘉兵衛(北有馬)/構造は単純だが橋面石を使用/高欄の束柱に四神(青龍、玄武、朱雀、白虎)の浮彫
1
C
脇岬町の道標1
わきみさき
長崎市
国道499・脇<みさき道>
石道標
元禄10(1697)
WEB(みさき道人)
原位置?
(正面)「従是 觀音道」、(左面「山道 十丁」/17世紀の道標
1
B
十人町の道標
じゅうにん
長崎市
石道標
17世紀末?
WEB(みさき道人)
道標そのものが経年劣化でボロボロ/刻字は消失
(正面)「みさき道」(古老の話では、こう刻字されていたとされる)/十人町から野母崎の観音寺までの街道の出発点/17世紀の道標(?)
3
B
新小が倉の道標
しんこがくら
長崎市
高比良園芸・内<みさき道>
石道標
文政6(1823)
WEB(みさき道人)
下部埋設
(正面)「御崎道」
2
-
以下宿町の道標
いがやど
長崎市
徳道車道三叉路
<みさき道>
石道標
文政7(1824)
WEB(みさき道人)
原位置
(正面)「御嵜ヨリ 二里」、(右面)「長崎ヨリ 五里」
1
C
脇岬町の道標2
わきみさき
長崎市
観音寺・石段脇<みさき道>
石道標
天明4(1784)
WEB(みさき道人)
移設
(正面)「道塚五拾本」、(左面)「今魚町」
2
C
清水寺の奇縁氷人石
きよみず
長崎市
清水寺
石標
不詳
WEB
原位置/“迷い子知らせ”ではなく“縁結び”として信仰の対象
(正面)「奇縁氷人石」、(右面)「たつぬるかた」(変体仮名不明)、(左面)「をし由類可多」(=教ゆる方)、/迷子だけでなく縁結びにも使われた(紙を貼るくぼみはない)/大正12の『長崎市史』では大正5の建立としているが、平成14刊行の『長崎の史跡・南部編』では不詳、平成17の清水寺住職の談話では江戸期(ただし、寺録などの記録なし)→ここでは、
1
B
三方境~小ヶ倉間の藩境塚群
さんぽうざかい、こがくら
長崎市
大山町・戸町・小ヶ倉町ほか
境界塚(石積)
総延長6㎞,
69基→33基
天明7(1787)
WEB(みさき道人)/大村藩戸町村郷村記p34
ほぼ半数が現存確認され、保存状態は良好
大村藩戸町村と佐賀藩深堀領小ヶ倉村の境界塚
1
A
新小ケ倉町の藩境石
しんこがくら
長崎市
(1丁目)
境界石(尖頭角柱)
高155㎝,24.5㎝角
天明7(1787)?
WEB(みさき道人)/WEB(筑前国境石散歩)
バイパスの工事中発見→再建立
(新聞記事によるものとされるが、誤報の可能性も指摘)
(正面)「從是南 佐嘉領」/佐賀深堀領(家老・深堀氏の自治領)
2
C
小ケ倉町の藩境石
こがくら
長崎市
(1丁目)
境界石
高127㎝,
幅24.5㎝
天明7(1787)以降
WEB(筑前国境石散歩)/WEB(みさき道人)
個人宅の石垣に埋め込まれて正面のみ見える
(正面)「従是南 佐嘉領」/佐賀深堀領(家老・深堀氏の自治領)/上記の「新小ケ倉町の藩境石」では「從」、こちらでは「従」が使われており、同時期に建立された可能性は低い
4
C
西出津町の藩境石1
にししつ
長崎市
とひ崎海岸
境界石
高80㎝,23㎝角
文化10(1813)
WEB(みさき道人)
海岸の転石の中に転倒した状態で発見された(場所移動)
(正面)「從是、東 大村領/西 佐嘉領」/大村領内の佐賀領の飛地
3
C
藤田尾町の目印石
とうだお
長崎市
境界石(2基)
高70㎝,14㎝角
天保8(1837)
WEB(みさき道人)
原位置
無刻字の石柱/天保4(1833)年10月28日、川原村の弥三が茂木村の山林の松を伐採、それが為石村を巻き込んだ騒動となり、天保8になり証文を取り替えわして茂木村と為石村の境界を定めた時の目印石。「…獺越ゟ浜辺迄双方境之目印石相極メ、留リゟ三ッ石江御料ニ而は三ッ瀬与唱見渡境ニ相極メ、双方一同承知仕候…」
1
-
古賀町の藩境石1
こが
長崎市
境界石(尖頭角柱)
高124㎝,
幅22.5㎝,厚23㎝
安政5(1856)
WEB(みさき道人)/WEB(筑前国境石散歩)
個人宅に移設(もと、井樋尾峠付近?)/一時 水車小屋の基礎石に転用
(正面)「従是南 大村領」/フェートン号事件の影響で大村領の戸町と古賀村(公領)の一部上古賀を交換し、上古賀が大村領となった際に建立/下記「古賀町の藩境石2」と並ぶ
4
C
古賀町の藩境石2
こが
長崎市
境界石(尖頭角柱)
高124㎝,
幅23㎝,厚22.7㎝
安政5(1856)
WEB(みさき道人)/WEB(筑前国境石散歩)
個人宅に移設(もと、上古賀と下古賀の境?)/一時 水車小屋の基礎石に転用
(正面)「従是東北 大村領」/フェートン号事件の影響で大村領の戸町と古賀村(公領)の一部上古賀を交換し、上古賀が大村領となった際に建立/下記「古賀町の藩境石1」と並ぶ
4
C
矢上町の藩境石
(古賀楠渡瀬御境石)
やがみ
長崎市
<長崎街道>
境界石
高164.5㎝,
幅24.5㎝,厚24㎝
弘化3(1864)以降
WEB(筑前国境石散歩)
原位置(初代を建て替え?)
(正面)「從是南 佐嘉領」
2
C
東出津町の藩境石
(外海深入の辻傍示石)
ひがししつ
長崎市
黒崎中学校・前
境界石(尖頭角柱)
高94㎝,幅23.5㎝,厚23㎝
江戸期
市史跡
WEB(みさき道人)/WEB(筑前国境石散歩)
原位置
(正面)「從是、東南 佐嘉領/西北 大村領」/大村領内の佐賀領の飛地
1
C
田中町の藩境石
(日見御境石)
たなか
長崎市
(切通)
境界石
高136.5㎝,24.5㎝角
江戸期
WEB(みさき道人)/WEB(筑前国境石散歩)
近接移設
(正面)「從是北 佐嘉領」
2
C
西出津町の藩境石2
にししつ
長崎市
外海歴史民俗資料館
境界石(尖頭角柱)
高127㎝,24.5㎝角
江戸期
WEB(みさき道人)/WEB(筑前国境石散歩)
移設(もと、牧野)
(正面)「従是 下川側舫塚迄 川中境」、(右面)「東北 大村領」、(左面)
「西南 佐嘉領」、(裏面)「自此塚 川中境迄 四間壹尺四寸」/大村領内の佐賀領の飛地
2
C
西出津町の藩境石3
にししつ
長崎市
ド・ロ神父記念館
境界石(尖頭角柱)
高123㎝,24.5㎝角
江戸期
WEB(みさき道人)/WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面)「従是南 佐嘉領」、(裏面)「川中境迄 貮間貮寸」/大村領内の佐賀領の飛地
2
C
樫山町の藩境石
かしやま
長崎市
天福寺・正門横
境界石(尖頭角柱)
高93㎝,23㎝角
江戸期
WEB(みさき道人)
移設
(正面)「従是、東北 大村領/西南 佐嘉領」
2
C
三重町の藩境石
みえ
長崎市
三重支所・前
境界石
高84㎝,幅24㎝,厚22.5㎝
江戸期
WEB(みさき道人)
移設
(正面)「從是、東南 大村領/西北 佐嘉領」
2
C
三川町の藩境石
みかわ
長崎市
境界石(尖頭角柱)
高168㎝,
幅21.5㎝,厚20㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
個人宅に移設
(正面)「従是東北 大村領」
4
C
西出津町の藩境塚群
にししつ
長崎市
へん岳
境界塚(石積)
江戸期
WEB(みさき道人)
尾根沿いの山中に点々と残る
『大村郷村記6』には「一大塚七拾五、内貳ツ舫塚」と書かれている
1
B
出島和蘭商館
・跡
でじま
長崎市
人工島
南側233m,
北側190m,
東・西側70m
(当初)
寛永13(1636)
国史跡
WEB(甦る出島)/長崎市・出島復元整備室
中島川の変流工事で北側が削られた以外は、凡そ形を留めている(
航空写真の下の絵図の中島川の中にある点線が、かつての出島
)
キリスト教の布教阻止を目的に、雑居していたポルトガル人を収容するため幕府が築かせた人工島(「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資)/発想・計画・設計・監督名は不明/島原の乱が起こったため、寛永18(1641)和蘭商館をここに移した
3
出島和蘭商館の護岸
・跡
でじま
長崎市
石護岸
長200m以上
寛永13(1636)
WEB(甦る出島)
創建後経年的に補修→南側の護岸を復元(下部はオリジナル、上部は同様の技法で想像復元)/
上記の「出島和蘭商館・跡」の航空写真の
A
人工島・出島の外海側の弧状の護岸
3
B
出島和蘭商館の荷揚げ場
・跡
でじま
長崎市
石護岸
寛永13(1636)
WEB(甦る出島)
復元(下部はオリジナル、上部は同様の技法で想像復元/
上記の「出島和蘭商館・跡」の航空写真の
B
人工島・出島の西側にあった荷揚げ場/中島川の変流工事で北側の長い石護岸が消失した現在、その最下流にあって唯一当時の姿を留める、という意味で価値が高い
3
A
深堀の御船手
・跡
ふかほり
長崎市
石護岸
寛永8(1631)以降
WEB(みさき道人)
埋立により形態は改変→石垣護岸のみ残る
佐賀藩海軍の船溜/長崎警備のために設けられた
3
B
元・
梅香崎の唐船繋場の繋石
うめがさき
長崎市
(玉園町)杉山宅・旧迎陽亭
舟繋石
弘化3(1846)
WEB(みさき道人)
門柱に転用/西道仙(1836-1913)による「唐船維覧石」の書が刻字
長崎市立博物館「長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」(平成16)には、宝暦12に梅香崎に唐船繋場が造られた際、石垣とともに設置されたとされる、との記載がある。しかし、清水寺や梅香崎天満神社境内の燈籠の棹石に転用されているとの記載には疑問があるし、『長崎周辺“石・岩・陰陽石”』(平成14)では、長崎駅近くの波止場に唐船継纜用の石だとされており、由来は定かでない
3
B
福田大番所の船囲場
・跡
ふくだ
長崎市
小浦町
石護岸、石防波堤
石護岸: 長約50m
,石防波堤: 先端部の長約20m
弘化3(1846)
WEB(みさき道人)
石積を含め比較的良好な保存状態
長崎に異国船が来航した時、この港から大村藩士が乗り込んだ番船が出港し長崎の警備に当たった(警備役人の詰所としての御舟蔵)
2
B
川平金山
・跡
かわひら
長崎市
六枚板
金山(坑口)
元禄6(1693)以降
WEB(みさき道人)/大村郷村記6p250
現存遺構の年代は特定されていない
元禄6に長崎淵村の庄屋・藤右衛門が試掘を許可されたとの経緯はあるが、採掘の最盛期は明治期(金の含有量は国内最大級)
3
C
鷹ノ巣石鍋製作所
・跡
たかのす
長崎市
神浦下大中尾町タカノス
石鍋製作場
平安末期~鎌倉初期
市史跡
WEB(みさき道人)/現地解説板
露頭する岩壁面に、方眼状に割り付け粗型を剥ぎ取った痕跡や、ソロバン玉状に整形され取り残された粗型などが認められる
滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/外海地方の石鍋製作所跡の中でも規模が大きく、保存状態も良好/鷹ノ巣岩周辺に6ヶ所確認されている
2
B
鍋岩石鍋製作所
・跡
なべいわ
長崎市
三和町大字為石字鍋岩
石鍋製作場
平安末期~鎌倉初期
WEB(みさき道人)
同上
滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/中規模(高15m、長30m)
2
C
福田の千本松原
ふくだ
長崎市
海岸防潮林
長約1.4㎞(当初)
元文元(1736)
WEB(みさき道人)
植樹後120年の安政4(1857)には162本、昭和5には80数本、昭和25にすべて枯れ、補植の松も少ない
福田の地頭・福田長兵衛兼明が津波の波除けとして田子島~崎山まで植樹したとされる/宝永地震(1707)による津波被害を受けたものと推測できる/津波除けの防潮林は、現在判明している限り、他には和歌山県にしか存在しない
4
A
丸尾石積群
まるお
長崎市
石塀・石積壁
(温石石)
江戸期?
WEB(みさき道人)/現地解説板
保存状態良好
西彼杵半島の外海・琴海エリアに多く見られる石塀・石積壁の中で最も美しいもの
1
B
元・
立山役所
(石階段)
たてやま
長崎市
長崎歴史文化博物館
<長崎奉行所立山役所>
石階段
24段
延宝元(1673)
WEB(みさき道人)/WEB
平成17に長崎歴史文化博物館が開館した際、石階段、石垣、井戸等を修復・復元
長崎奉行所の東役所/寛文3(1663)の大火で焼失したため東役所・西役所に分けて再建(隣接)、10年後に火災時の類焼を避けるため東役所を立山に移したもの/西役所は現・長崎県庁(遺構なし)
3
B
立山役所の境界石
たてやま
長崎市
長崎公園六角堂近くの立山側
役所の境界石
(自然石)
延宝元(1673)以降
WEB(みさき道人)
(正面)「従是御立山…」
-
唐人屋敷の境石
とうじんやしき
長崎市
天后堂・裏
唐人屋敷の境界石
高100㎝,24㎝角
元文元(1736)以降
WEB(みさき道人)/長崎石物語
煉瓦塀に埋め込み/他に高さ50㎝以下のものが1基現存
唐人屋敷は、清の「遷界令」の撤廃(1684)を受けて、元禄2(1689)、長崎奉行所が設けた中国人居留地であるが、境界石の設置年代は不明(左記の年代は天后堂の建立年)→安政の開国により廃屋化したので、下記の外国人居留地境石よりは古いと推測される(刻字が浅く、居留地境石と同時期の建立とは考え難い)/(正面)「福建地堺」
3
B
戸町御番所
・跡
(四・五・六・七番石標柱)
とまち
長崎市
番所の境界石
(4基)
五番標柱:
高90㎝,21㎝角
天保8(1825)
県史跡
WEB/WEB(みさき道人)/市教委
元治元(1864)廃止→境界標柱9本のうち4本が残る
(五番標柱)「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間、弐拾九間半/亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」/寛永16(1639)に海外交易をオランダ・中国の2国に限定した後、来津するポルトガル船に対応するため、寛永19、幕府が筑前・佐賀両藩に隔年で長崎港警備に当たるよう命じた際に造られた番所(仮小屋)→慶安元(1648)本建築し石火矢台を設置、1000人規模で駐留
3
B
長崎居留地の境石1
ながさき
長崎市
南山手町16-30
居留地の境界石
高111㎝,幅30㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No6/WEB(みさき道人)
原位置?/本リストでは高さ50㎝以上のもののみを取り上げるが、それ以下のものを含めれば80基以上が現存し、大半が原位置もしくはその近くに残る
安政の五カ国条約により外国人に開放され、安政7以降、大浦の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。グラバー邸の完成が文久3(1863)、長崎大学附属図書館が作成した慶応3(1868)の長崎居留地の敷地割の地図では丘陵部の敷地割は完成しているので、現存する当該地区の居留地境石、地番標石は幕末~明治初期のものと推測される
/(正面)「居留地境」
1
B
長崎居留地の境石2
ながさき
長崎市
南山手町16-30
居留地の境界石
高78㎝,幅27㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No7/WEB(みさき道人)
原位置?/同上
同上/(正面)「居留地境」
1
C
長崎居留地の境石3
ながさき
長崎市
小曽根町1-13
居留地の境界石
高92㎝,幅28㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No27/WEB(みさき道人)
原位置?/同上
同上/(正面)「居留地境」
1
B
長崎居留地の境石4
ながさき
長崎市
グラバー園
居留地の境界石
高111㎝,幅28㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No31/WEB(みさき道人)
移設・集約/同上
同上/(正面)「居留地境」
2
B
長崎居留地の境石5
ながさき
長崎市
東山手町1-41
居留地の境界石
高145㎝,幅27㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No
69
/WEB(みさき道人)
煉瓦塀に埋め込み/同上
同上/(正面)「
□
留地境」
3
B
長崎居留地の地番標石1
ながさき
長崎市
南山手町15-39
居留地の地番標石
高50㎝,幅15㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No
1
/WEB(みさき道人)
原位置?/同上
同上/(正面)「35、南山手 三十五番」
1
C
長崎居留地の地番標石2
ながさき
長崎市
南山手町13-30
居留地の地番標石(尖頭角柱)
高59㎝,幅18㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No
14
/WEB(みさき道人)
原位置?/同上
同上/(正面)「B乙 十六番/B乙 十五番」
1
C
長崎居留地の地番標石3
ながさき
長崎市
南山手町10-25
居留地の地番標石
高56㎝,幅17㎝
文久元(1861)以降
どじょう会No
26
/WEB(みさき道人)
塀に埋め込み/同上
同上/(正面)「乙 十四番」
3
C
長崎居留地の地番標石4
ながさき
長崎市
出島復元整備室<出島>
居留地の地番標石
高70㎝,幅17㎝
文久元(1861)以降
WEB(みさき道人)
保管
同上/(正面)「十一番、No.11」
2
C
旧・
「長崎開港旧町」の石垣
ながさき
長崎市
桜町~興善町~賑町~築町~県庁・南~樺島町~五島町~金屋町
石垣
長約1.6㎞(当初)
16C後半 or
江戸期
WEB(みさき道人)/長崎石物語
県庁南側と、五島町~金屋町にかけて3ヶ所に分かれて残る
長崎の語源となった「海に長く突き出た岬」を囲むように築かれた石垣/長崎開港(16世紀後半)当時の長崎の遺構と見る説もある(大村・長崎対深堀・西郷の抗争の中で次第に構築されていった)/表題の「長崎開港旧町」は最初の6ヶ町を意味する→決まった名称はない
3
A
倉田水樋の木管
くらた
長崎市
長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水幹線施設>
木管(上水道)
延宝元(1673)
WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp4-6
長崎市水道資料館に展示/明治24(1891)に本河内水道が完成し自然消滅→銭屋川の堰・揚水のための水車などは一切残っていない/展示されている木管は年代不明(木管の寿命は長くないので、後世の更新時のものの可能性あり)
寛文の大火後に、回船問屋・倉田次郎右衛門吉重が生活用水+消火用水を兼ねた水樋の建設に着手(寛文7)→私財だけでは工事費が足らず、宅地3ヶ所、回送船3隻を売却し、さらに長崎奉行所から銀10貫目を拝借(要・返済)して延宝元に完成(寛文11には商人でありながら水樋役に任命)/水源は銭屋川の伏流水/2本の幹線路と多数の支管から構成(火災の際に、火災現場に多量の消火用水を供給できるよう木製の「堰子」が支管の分岐点毎に設置)/水の恩恵に与った50余ヶ町の人々が感謝を込めて「倉田水」と名付けた/江戸初期の町民による大規模上水は他に例がない
4
狭田井
せばた
長崎市
<立山役所専用水樋?>
湧水井
延宝2(1674)
WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7
保存状態良好
長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)の水源?/水源は背畠(狭田)山とされるが、現存する「狭田井」との関連がどの程度正しいのかは不明
1
C
立山役所専用水樋の土管
たてやま
長崎市
長崎市水道資料館<立山役所への給水施設>
土管(上水道)
寛政8(1796)以降?
WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7/館内展示解説
長崎市水道資料館に展示/当初は竹樋だったが、いつの時点からか土管が使われるようになった(ここでは、寛政8に竹樋から土管に布設替えされたとの説を採択)
長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)/水源は背畠山/享保2(1717)には椿原の水源から長1400mの水樋を引く拡張工事が倉田源次兵衛常政により施工/宝暦11(1761)には長600mの支樋、文化7(1810)には長730mの水樋、万延元(1860)には長710mの水樋が完成
4
A
倉田水樋の支管用土管
くらた
長崎市
長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水支管施設>
土管(上水道)
寛政8(1796)以降??
WEB(みさき道人)/館内展示解説
長崎市水道資料館に展示/木管からの変更時期・規模ともに不明
上記の「倉田水樋の木管」の支管部分を土管に更新したもの
3
C
高鉾島台場
・跡
たかぼこじま
長崎市
(高鉾島)
神の島町
台場
(古台場・新台場・増台場)
東西250m,
南北120m
承応2(1653)(古台場)、
文化5(1808)(新台場)、
文化7(1810)(増台場)
市教委/WEB(みさき道人)
御石蔵・道具小屋跡の石垣、二ノ増台場、新規御台場跡は残る(台場跡は竹薮化)
古台場は肥前・平戸藩、新台場は肥前・佐賀藩、増台場は筑前・福岡藩が構築
3
B
神崎台場
・跡
こうざき
長崎市
木鉢1丁目・西泊町
台場
(古台場・新台場・増台場)
東西300m,
南北700m
承応2(1653)(古台場)、
文化5(1808)(新台場)、
文化7(1810)(増台場)
市教委/WEB(みさき道人)
二ノ増台場跡、新規御台場跡、常住小屋跡・御石蔵跡と思われる遺構が僅かに残る
長崎湾防御の最重要台場/古台場は肥前・平戸藩、新台場は肥前・佐賀藩、増台場は筑前・福岡藩が構築/「従是神崎御焔硝藏掛並常住小屋境内」と刻字された標柱2本が現存
3
B
長刀岩台場
・跡
なぎなたいわ
長崎市
香焼町
台場
(新台場・増台場)
文化5-7(1808-10)
市教委
立入禁止(海岸沿いにあり船から石垣がよく見える)/三・四ノ増台場跡、常住小屋跡の石垣が残存
古台場は肥前・平戸藩、増台場は筑前・福岡藩が構築(新台場は不明)/旧香焼島の北端・長刀鼻に設置
3
B
魚見岳台場
・跡
うおみだけ
長崎市
戸町3丁目
台場(増台場)
文化7(1810)
国史跡
市教委/WEB
御石蔵、一~三ノ増台場、常住小屋跡・道具小屋跡の石垣が良好に保存
文化5のフェートン号事件を受けて改定された外国船渡来時の取扱法に準じて筑前・福岡藩が構築/対岸の神崎台場と相対して幅500mの港口を押さえる要地に設置/山麓台地に設け全面石垣が構築/中枢として海抜約65mの地点に五角形をした二ノ増台場を構築、御石蔵・常住小屋跡・道具小屋を設けた/その上部、海抜約80m地点に一ノ増台場、南側に突出した海抜約42mの地点に三ノ増台場を設置
1
四郎ヶ島台場
・跡
しろうがしま
長崎市
神の島3丁目
台場(佐賀台場)
東西200m,
南北90m
嘉永6(1853)
国史跡
市教委/WEB
海に突き出た状態で良好に保存/台場内は雑木・竹が密生
肥前・佐賀藩が構築/神ノ島と長い石堤で結ばれた小島上に築かれた台場
1
A
田子島台場
・跡
たごしま
長崎市
台場(大村台場)
(一)18ポンド砲1,12ポンド砲1
(二)12ポンド砲2
(三)12ポンド砲1
(四)12ポンド砲1
安政2(1855)
WEB(みさき道人)
石塁が残る(総延長約400m)
大村藩が長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に築いた4つの台場の総称(一の台場~四の台場)
3
B
東望山砲台
・跡
とうぼうやま
長崎市
田中町
台場(佐賀台場)
内径3.6m(円形台座:300度)
慶応2(1866)
市史跡
WEB(みさき道人)
/市教委/諫早史談40
直径3.6mの円形台座が残る
肥前・佐嘉藩が領内の東望・牧島・蠣道の3ヶ所に築いた砲台の1つ/円形台座の上に2個2組の「ころ」(現存せず)で支えた「応変台」を置き、中心軸受けに入れた軸(現存せず)の回りに大砲を回転させたとされる
2
C
蛎道台場
・跡
かきどう
長崎市
かき道
台場(佐賀台場)
慶応3(1867)
WEB(みさき道人)
台場石塁は滅失/直径3.6mの円形台座が残る
肥前・佐嘉藩が領内の東望・牧島・蠣道の3ヶ所に築いた砲台の1つ
3
C
烽火山かま
・跡
ほうかざん
長崎市
鳴滝3丁目
狼煙場(石積)
径4.8m,高3.6m
寛永15(1638)
県史跡
WEB(みさき道人)/市教委
その他(一部埋没、滅失)/烽火台を修復された
島原の乱平定後、長崎を巡視した老中・松平信綱の命により構築、外国船来航は野母から五挺立て船で注進、ここから狼煙を上げて近国に通報する手順となっていた/明和元(1764)廃止→文化5(1808)のフェートン号事件で復活再造→翌文化6廃止
2
B
野々岳烽火台
・跡
ののだけ
長崎市
三重地区
狼煙場(石積)
寛永15(1638)
WEB(みさき道人)
円形に配置された石が不完全に残る
島原の乱平定後、長崎有事の際の緊急連絡手段として設置されたとされる/式見の鶚岳→ここ→神の浦と伝達するとともに、近郷の村人に知らせた
4
-
遠見岳の遠見番所
・跡
とおみだけ
長崎市
香焼島
遠見番所
寛永20(1643)
市史跡
WEB(みさき道人)
石垣の一部が残る
佐賀藩により設置/異国船を発見→深堀領主(佐賀藩家老)に連絡→長崎奉行所に連絡
3
C
脇岬烽火台
・跡
わきみさき
長崎市
脇岬、モトクロス場内
狼煙場
径4m,高1.5m
寛永期?
WEB(みさき道人)
土塁の中が埋まり木が生えている
5
-
御岳烽火台
・跡
おんだけ
長崎市
三重地区
狼煙場(石積)
文化7(1810)
WEB(みさき道人)
円形に配置された石が残る
大村藩第九代藩主・大村純昌により再構築/有事の際に大村藩に知らせるためとされ、上記の「野々岳烽火台」と同地区にあるが別ルート
3
C
恵美須浦の鯨供養塔
えびす
壱岐市
<前目浦>
石碑
(笠付き、花崗岩)
高240㎝
享保2(1717)
市教委/WEB
原位置
(正面)「奉讀誦大
乗
妙典一千部」(
緑字
は異体字)、(右面)「鯨鯢速証菩提」、(左面)「此組連綿吉祥」、(台石正面)「布屋/土肥/布谷/許斐/篠崎」/捕獲した鯨の霊を慰めるための供養塔/前目浦を見下ろす高台に設置
1
B
瀬戸浦の碇石1
せとうら
壱岐市
少弐公園
碇石(韓国産の花崗岩に似ている)
長242㎝
弘安4(1282)以前
市教委
公園内に展示(左京鼻沖合で発見)
弘安の役で使われた軍船の碇/碇石は韓国産の花崗岩に近いと考えられているが、当時は日本でも韓国産の碇石を使用していたので、日本の軍船の碇か、中国の軍船の碇かは不明
2
C
芦辺浦の碇石1
あしべうら
壱岐市
(安泊)千人堂
碇石(韓国産の花崗岩に似ている)
弘安4(1282)以前
市教委
下端部を埋め込み垂直に立ててある(発見場所不明)
同上
3
C
芦辺浦の碇石2
あしべうら
壱岐市
(滝の上)旧町役場・横
碇石(韓国産の花崗岩に似ている)
弘安4(1282)以前
市教委
下端部を埋め込み垂直に立ててある(発見場所不明)
同上
3
C
芦辺浦の碇石3
あしべうら
壱岐市
(田町)大師堂
碇石(韓国産の花崗岩に似ている)
弘安4(1282)以前
市教委
下端部を埋め込み垂直に立ててある(発見場所不明)
同上
3
C
瀬戸浦の碇石2
せとうら
壱岐市
壱岐神社・拝殿内
碇石(韓国産の花崗岩に似ている)
弘安4(1282)以前
市教委
神社拝殿所前の木箱内・展示(発見場所不明)/加工+中央で折損
同上
4
C
鳥山井
とりやまごう
壱岐市
(郷ノ浦町大原触)
湧水
寛保2(1742)以前
市教委
非飲用
柄杓や竿で汲むタイプの井戸(上井戸と下井戸に分かれる)/『壱岐国続風土記』(1742)に「水東流、大雨にもまさず、旱魃にもへらず甚だ清水なり」と記されている
2
C
旧富岩家の八角井戸
とみいわ
壱岐市
壱岐風土記の丘古民家園
石井戸(八角)
江戸期
市教委
井戸枠のみ移設
整形された石版を八角に並べた井戸枠
4
C
大村街道
おおむら
諫早市
破籠井町<長崎街道>
道路
長1.46㎞
(指定範囲)
江戸期
市史跡/歴史の道百選
WEB(みさき道人)
保存状態良好
長崎街道の一部区間/雰囲気を良く留める
1
B
諫早眼鏡橋
いさはや
諫早市
諫早公園内の園池
<人道/本明川>
石アーチ橋
長49.25m,S17.4m(2A)
天保10(1839)
国重文
日本百名橋p232-233
/WEB
昭和32の諫早大水害後、橋はびくともしなかったが、被害を大きくした原因となったため諫早公園に移設(昭和36)
「幕府の公儀巡検使を迎えるのに本明川に橋がかかっていないのは諌早の面目が立たない」という理由で、本格的な石橋の架設が検討→天保9に藩士2名が修理方に任命→藩主が経費の1/3、托鉢僧侶による寄付で1/3、残りは賦役で完成/ただし、巡見使の諌早訪問が天保9年6月15日と着工直後で、橋の片鱗も見なかったことから、上記の定説に疑問を呈する説もある/2径間だが中央の橋脚が九州の複数径間の石アーチ橋としては異例に頑強/スパン17.4mは世界標準からすれば小型だが、美しさという点では日本を代表する石アーチ橋
2
幸仏橋
こうぶつ
諫早市
廃橋<長崎往還>?
石アーチ橋
長3.5m,S2.6m
(A)
江戸期?
WEB(石橋)
「渡ることが可能」という程度
橋のほとんどが迫石だけで構成された石アーチ→かつ、迫石は割り石で加工度が低い→南島原市の「面無橋」ほどではないが、石アーチとしては異例な施工レベル
2
C
慶巌寺の参道橋
けいがん
諫早市
慶巌寺・参道
石桁橋
長8m(3G)
享和3(1806)
WEB
3径間の各桁中央をRC柱で補強
横桁の上に桁石を置き、その上に橋面石を並べるタイプ
3
C
くじら橋
諫早市
諫早公園<好古館・裏門>
石桁橋
長5m(2G)
安政3(1856)
WEB(石橋)
大正末期に移設→諫早眼鏡橋移設に際し再移設
土橋貞恵が学館「好古館」のために寄付/桁は直線でΛ型だが、橋面石はきれいな虹型
2
C
宗方神社の参道橋
むなかた
諫早市
宗方神社・参道
石桁橋
長1.5m(G)
江戸期?
WEB
保存状態良好
両岸とも野面積の石垣の上に虹型に加工された5枚の桁石が載る/石垣上部の石がやや迫り出しているので、石刎橋に近い構造
1
C
下大渡野町の藩境石
(破籠井日野御境石)
しもおおわたの
諫早市
風観岳・山頂
境界石(尖頭角柱)
高190㎝,25㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設/明治期に右面に「遥拝所」と追刻
(正面)「従是東 佐嘉領」
2
C
多良見町化屋の藩境石
(井樋尾御境石)
たらみ、けや
諫早市
(井樋尾)
境界石(尖頭角柱)
高165㎝,幅26㎝,厚25㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面)「從是東 佐嘉領」
2
C
真崎町の藩境石
(今村御境石)
まさき
諫早市
今村川沿い
境界石(尖頭角柱)
高137㎝,幅26㎝,厚25.5㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
下部欠損→Cで補填
(正面)「從是、東 佐嘉領真嵜村/西 大村領今村」/村境界を明記
3
C
下大渡野町の藩境塚群
しもおおわたの
諫早市
風観岳
境界塚(石積)
享保10(1725)
WEB
300基以上が造られ約60基が現存
藩境に沿って30mほどの間隔で造られた石積の塚/諫早藩が築いたものは「角塚」、大村藩が築いたものは「丸塚」と呼ばれる/これら以外に両藩が共同で築いた「舫塚」と呼ばれる塚がある
2
C
森山~愛野間の藩境塚群
もりやま、
あいの
諫早市・雲仙市
境界塚(石積)
総延長1.5㎞→575m
42基→31基
安政4(1857)以前
WEB(みさき道人)
ほぼ2/3が現存確認され、保存状態は良好/
写真
は上が円形、下が四角形
諫早藩唐比村~島原藩愛津村の境界塚/諫早藩の境塚は円形(18基)、島原藩の境塚は四角形(13基)
1
B
西川内堤改修記念碑
にしのこうちつつみ
諫早市
多良見町西川内
石碑(自然石)
安政6(1859)以降
市有形
WEB(みさき道人)
移設
(正面)「安政六年/未春普請/堤敷井樋替」/灌漑用水
1
A
水ノ浦のスクイ
みずのうら
諫早市
高来町
魚垣(石垣)
外周330m,
高最大3m(沖合)
江戸期~明治中期
WEB
保存状態良好/現役で漁業利用
干満の差の大きい有明海の特徴を活かした漁法/沖縄の島嶼部には比較的多く残っているが、九州で保存状態の良い魚垣は2ヶ所のみ(島原市の「大手浜のスクイ」は再現的復元なので、オリジナルはここだけ)
1
経ヶ岳台場
・跡
きょうがたけ
諫早市
飯盛町池下
台場(佐賀台場)
内径7.4m(円形台座:300度)
慶応3(1867)
諫早史談40
直径7.4mの円形台座が残る/中心軸受けに丸石(後から置かれた)
肥前・佐嘉藩が領内の東望・牧島・蠣道の3ヶ所に築いた砲台の1つ/円形台座の上に2個2組の「ころ」(現存せず)で支えた「応変台」を置き、中心軸受けに入れた軸(現存せず)の回りに大砲を回転させたとされる→県内では長崎市の「東望山砲台」の倍の大きさ
2
B
琴ノ尾岳烽火台1
・跡
ことのおだけ、ほうかだい
諫早市
琴ノ尾岳山頂・南
(標高410m地点)
狼煙場(石積)
9.5m×9.5mの方形基壇上に外径3.5mの円形の竈が載る
寛永15(1638)
WEB(みさき道人)
昭和48復元/竈上部から内部に降りる鉄梯子を設置
島原の乱平定後、長崎有事の際の緊急連絡手段として設置されたとされる/正保4(1647)にポルトガル軍艦2隻が長崎に来た時と、文化5(1808)のフェートン号事件の2回のろしをあげたと『大村郷村記』(1862)に記されているが、発掘調査によればのろしを上げた後の炭の層は1回分しかない/曇天や霧の際に見えにくかったため文化6(1809)に廃止
1
B
琴ノ尾岳烽火台2
・跡
ことのおだけ、ほうかだい
諫早市
琴ノ尾岳山頂の1㎞北
狼煙場(石積上に土盛)
直径3.5m,高2m
寛永15(1638)?
WEB(みさき道人)
原形を保持
同上?/上記「琴ノ尾岳烽火台1」の補助的なものだとの説もある
1
C
高来烽火山烽火台
・跡
たかき、ほうか
諫早市
いこいの村 長崎公園
狼煙場(石積)
直径2.5m,高1.5m
寛永15(1638)
WEB(みさき道人)
実際の烽火台から800mほど離れたふもとに再現
島原の乱平定後、長崎有事の際の緊急連絡手段として設置されたとされる/有喜の普賢岳→ここ→太良の風配と伝達するルート
3
C
金浜眼鏡橋
かなはま
雲仙市
人道/金浜川
石アーチ橋
(太鼓型)
長14.5m(A)
弘化3(1846)
WEB
平成5解体後、イメージ的再現
架設: 地元の有力者・岡右衛門
4
C
萬松橋
ばんしょう
雲仙市
一般道/下峯川
石アーチ橋
長6.5m,S4.4m
(A)
江戸末期
WEB
上流側は路面拡幅でアーチ隠れる/高欄ガードレール化
小規模な石アーチ
4
-
森山~愛野間の藩境塚群
もりやま、
あいの
雲仙市・諫早市
境界塚(石積)
総延長1.5㎞→575m
42基→31基
安政4(1857)以前
WEB(みさき道人)
ほぼ2/3が現存確認され、保存状態は良好/
写真
は上が円形、下が四角形
諫早藩唐比村~島原藩愛津村の境界塚/諫早藩の境塚は円形(18基)、島原藩の境塚は四角形(13基)
1
B
国見町神代の藩境石1
くにみ、
こうじろ
雲仙市
国見神代小路歴史文化公園鍋島邸
境界石
高150㎝,30㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設(神代鍋島家)
(正面)「従是西 佐嘉領」
2
C
国見町神代の藩境石2
くにみ、
こうじろ
雲仙市
国見神代小路歴史文化公園鍋島邸
境界石
高98㎝,21㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設(神代鍋島家)/上部欠損
(正面)「…東 佐嘉領」
3
C
瑞穂町古部の藩境石1
みずほ、こべ
雲仙市
境界石(尖頭角柱:頂部が平ら)
高120㎝,幅21㎝,厚19㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面)「從是東 佐嘉領」/旧瑞穂町では、島原領と神代鍋島領がモザイク状に配置されていた
2
C
瑞穂町古部の藩境石2
みずほ、こべ
雲仙市
境界石(尖頭角柱:頂部が平ら)
高110㎝,幅21㎝,厚19㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面)「從是西 佐嘉領」/旧瑞穂町では、島原領と神代鍋島領がモザイク状に配置されていた
2
C
瑞穂町西郷辛の藩境石
みずほ、
さいごうしん
雲仙市
(伊古)旧庄屋宅前
境界石(尖頭角柱)
高135㎝,19.5㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設・転用(「貯水池記念」碑)
(裏面)「此村 島原領」
3
C
守山のスクイ
もりやま
雲仙市
本村名地先
魚垣
長約300m
江戸期?
市有形民俗
市教委/
WEB(みさき道人)
形は残っているが、管理や補修は行われていない
この地域で江戸期に遡るスクイもあるが、昭和25以後廃業が相次ぎ、現存するスクイが江戸期由来に該当するかどうかは不明
2
B
杭出津の道標
くいでつ
大村市
<長崎街道>
石道標
高75㎝,幅29㎝,厚22㎝
文化9(1812)以前
WEB
原位置
(正面)「そのぎ道」(=彼杵)/文化9(1812)の伊能忠敬による第8次測量の際に杭出津に道標があったことが記録されている
1
C
鈴田峠の藩境籠立場
・跡
すずた
大村市
<長崎街道>
籠立場
江戸期
歴史の道百選
WEB(みさき道人)
石垣が残る/地形がフラットというだけで分かりにくい
3
-
板敷浦の新蔵波止
(大村藩御船蔵)
いたじき、
しんぐらばと
大村市
<大村藩>
石防波堤
長約60m
貞享3(1686)
県史跡
WEB
保存状態良好
貞享3に幕府が官米3000石を筑前から運んで預けた時2棟の新蔵が造られた→波止もその時築かれた→以後は藩船などの発着に利用された
1
B
板敷浦の御船蔵
いたじき、
おふなぐら
大村市
<大村藩>
石埠頭
長約40m弱と約30m弱の2本の突堤を囲む水域
元禄年間(1688-1703)頃
県史跡
WEB
保存状態良好
4代藩主・大村純長が外浦小路から移して構築/藩主が乗る御座船や藩船が格納された(藩主が長崎や領内各所を訪れる際に利用)
1
A
板敷浦の玖島城船役所の突堤
いたじき、
くしま
大村市
<大村藩>
石突堤
長約30m
江戸期
県史跡
WEB
保存状態良好
藩の船役所のための船着き場の附属施設
1
B
板敷浦の玖島城船役所の護岸
いたじき、
くしま
大村市
<大村藩>
石護岸
長約90m余
江戸期
県史跡
WEB
保存状態良好
藩の船役所のための船着き場の附属施設
1
B
野岳の堤
のだて
大村市
溜池
堤長145m,
堤高21m
寛文3(1663)
ため池百選
WEB(みさき道人)/WEB/市教委
堰堤Cダム化
初代・深澤儀太夫(捕鯨で富を築いた)の献金(4200両)を用いて、大村藩が主導して行った農業開発により造られた溜池
4
B
石田城の本丸眼鏡橋
いしだ、
ほんまる
五島市
(福江島)
県立五島高校・正門入口
<石田城>
石アーチ橋
長8.6m(A)
嘉永6(1857)
WEB(みさき道人)
保存状態良好
標準的な石アーチだが、中央部の迫石4個の上部に独自の加工→4個(奇数でない)なのでキーストーンがない
1
C
石田城蹴出門の石橋
いしだ、
けだし
五島市
(福江島)
<石田城>
石桁橋
(2G)
嘉永6(1857)
WEB(みさき道人)
保存状態良好
橋面石を載せたシンプルな石桁橋
1
C
福江港の常灯鼻
ふくえ、
じょうとうばな
五島市
(福江島)
<福江川港>
灯明台の石垣
弘化3(1846)
市史跡
WEB/市教委/WEB(みさき道人)
保存状態良好
第30代五島盛成が石田城を築く際、北東からの荒波を防いで築城を容易に進めるため構築(総監督:城代家老・松尾頼母、施工責任者:蔵奉行・小田幸右衛門)/城郭石垣と同一の見事な
穴太
積
1
A
福江港の常灯鼻導水堤
ふくえ、
じょうとうばな
五島市
(福江島)
<福江川港>
石防波堤
嘉永元(1848)
WEB
常灯鼻の部分のみ保存/
その他の部分は付け替え(異なる場所に新設)
野面積で巻石構造とした防波堤(当初)
4
C
白石のともづな石
しらいし
五島市
(福江島)
八坂神社近く
舟繋石
延暦23(804)以前
<岐宿町史跡>
WEB
移設→白石観音堂内(底部C固定)
遣唐使たちが船の修理や食料補給・風待ちのために港に入った際、とも綱を結わえたと言われている
3
B
三井楽のスケアン
みいらく
五島市
(福江島)
魚垣
長約80m
不詳
WEB(みさき道人)
入札で漁業権を貸し出しているが、最近では漁獲量が減り、観光や小学校の漁業体験などで利用
江戸期代から魚垣は使われているが、唯一五島で現存する三井楽のスケアンがそれに該当するかどうかは不明(構築年代不明)
1
C
富江町黒瀬の鯨供養塔
とみえ、
くろせ
五島市
(福江島)
石碑(丸彫)
元禄3(1690)
市教委
/松崎憲三
道路拡幅→移設/Cブロック覆屋内
(台石正面)「爲鯨鯢成佛」/台石上に地蔵坐像(蓮台)を載せる/台石正面左に「紀劦 湯浅津 新右衛門」→五島では慶長2(1589)には突捉法による捕鯨が始まったとされるが、興隆するのは紀州湯浅の庄助が来てからで、碑の建立者・新右衛門はその孫にあたる/恐らく九州最古の鯨供養塔
2
A
福江の六角井戸
ふくえ
五島市
(福江島)
江川町
石井戸(六角)
天文9(1540)以降
県史跡
WEB/市教委/WEB(みさき道人)
保存状態良好/金網で蓋
天文9、倭寇の頭目・王直が深江(現・福江)に来航し藩主に通商を求めた→江川城主・宇久盛定は海外貿易の必要を認め通商上の黙約を結び、彼らに居住地(現・唐人町)を与え、更に飲料・船舶用に江川城本丸下に井戸を掘らせた/平戸市には2つ六角井戸があるが、いずれも井戸枠の上辺が平らで国内各地の六角井戸と同様だが、福江の六角井戸だけは井戸枠の上辺が山型(三角断面)になっている
2
A
岩川湧水
ゆわがわ
五島市
(福江島)
上大津町
湧水(石造)
江戸期
WEB(みさき道人)
上部水源はCブロック塀で囲まれている(飲用不可)/上部水盤は全面に石が敷き詰められている(現在は使われていない)/下部はC改修だが現役
湧水を利用した洗い場/道路をはさみ上部は水源とは野菜・食器の洗浄用の水盤、下部は洗濯用の水盤
3
C
遠見番山の烽火台
・跡
とめばんやま
五島市
(奈留島)
奈留町
狼煙場(石積)
正保4(1647)
市史跡
WEB
原形を留める
長円形の「かま」→かまに薪を積み、日中は煙、夜間は炎を上げて急を知らせるようになっていた/役人は番頭1人、足軽2人
1
B
山崎の石塁
(勘次が城)
やまさき
五島市
(福江島)
富江町岳
砦状遺構
13~16世紀 or
江戸期
県史跡
WEB(みさき道人)/WEB
保存状態かなり良好
人頭大の火山礫によって構築され、複雑な平面構造を持ち(延長180mに及ぶ迷路状の石積み),蛸壺状の構築物を配している/倭寇の根拠地であったという伝説もあるが明確ではない(覗き穴、明銭の出土例がある。明国沿岸に築かれた海賊の築城と似ているとされる)(この場合は13~16世紀)/狂人の大工・勘次が構築した(あるいは、既にあった廃墟に住み着いた)とも言われ「勘次が城」の称もある(大工・勘次は江戸末期)/所在地「山崎郷」は松浦党の田尾氏の所領であり、田尾氏との関係ある構築物である可能性もある/本データベースには明らかな山城・城郭は対象外としているが、「謎の構築物」なので掲載する
2
A
西彼杵半島の猪垣
にしそのぎ
西海市
西彼杵半島全域
猪垣(石塁)(結晶片岩・玄武岩)
延長約70㎞
(当初),高約1.5m
享保7(1722)着工
県有形民俗(基点石のみ)
矢ヶ﨑孝雄/WEB
西彼杵半島の尾根部に一部が残る
中浦村庄屋・郡仙右衛門が8年余をかけて構築した猪垣→大村藩から資金援助がなく、労苦を農民に課したことから、農民の直訴により追放→事業は隣村の共鳴を得て完成/基点の自然石に「享保七/
□
寅年」と着工年が刻字/完成時には全国屈指の規模/野面石を積み上げた構造
3
江島の鯨納屋場
・跡
えのしま
西海市
(江島)
納屋場
(石塀?、石井戸)
明暦2(1656)以降
市史跡
現地解説板/市教委
江戸期の井戸の奥には明治期に軍施設が設置されたため、納屋場の遺構か軍の遺構かは不明(市教委)→
写真
左奥の石塀は、石の積み方から江戸期の納屋場の遺構である可能性が高い(馬場)
深澤組(推定、江戸時代に西海捕鯨の先駆として活躍した鯨組=紀伊の太地浦で突取捕鯨法を学んだ浅井太郎左衛門を始祖とする)の納屋場
(鯨の解体・加工場)→明暦2は、2代目の儀太夫勝幸が大村藩から操業を許された年→深澤の名を賜るのは第4代大村藩主(1651-1706)の時なので、「深澤組の納屋場」と断定すると時代はさらに下る→実際には、現存遺構の建設年代は不明で江戸期の施設であることが明確なのは井戸のみ/捕鯨遺産
3
B
大串金山
・跡
おおくし
西海市
網代・鳥加・中の島
金山(坑道)
寛永4(1627)
市史跡
WEB(みさき道人)
坑道が数ヶ所残る(放置)
採掘開始は寛永4の鳥加地区/現存する最大の坑道は中の島の奥行150m余,高1.7m,幅0.7mの坑道/大村藩の財源の1つで、万治元
(1658)の最盛期には年間4.5貫(約17kg)が採掘されたと言われる
/
写真は鳥加郷涌上りの坑道跡
2
C
ホゲットウ石鍋製作所
・跡
西海市
瀬戸羽出川郷
石鍋製作場
平安末期~鎌倉初期
国史跡
WEB(みさき道人)/現地解説板
第6製作所では、高5m、幅2mの岩壁に取り残した石鍋粗型まそのまま付いている
滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→最も規模が大きいとされるのがホゲットウ石鍋製作遺跡→11を数える製作所が集中
2
A
ツル掛石鍋製作所
・跡
つるかけ
西海市
平山郷ツル掛
石鍋製作場
平安末期~鎌倉初期
WEB(みさき道人)
奥行数10mのクレバス状の遺跡
滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→本遺構は中規模/第一・第二の2ヶ所があるとの報告もあるが、現在確認できるのは1ヶ所
2
B
下茅場の石鍋製作所
・跡
しもかやば
西海市
平山郷茅場
/石鍋橋の南側橋脚一帯
石鍋製作場
平安末期~鎌倉初期
WEB(みさき道人)/東 貴之
広域農道建設時に発掘調査(平成8)/ゴミが散乱して荒れている
滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→本遺構は小規模
3
C
お茶の水
おちゃのみず
西海市
白崎郷
井戸(湧水)
正暦5(994)以前
市史跡
WEB
現存遺構は江戸期
大村家の始祖遠江権守直澄が上陸した時、この井戸(湧水)より清水を汲み茶を供したという伝承がある
3
B
伊ノ浦第一台場
・跡
いのうら
西海市
小迎郷双合谷/西海橋の西彼町側橋脚から約100m大村湾寄りの海岸
台場
元治元(1864)
市史跡
WEB(みさき道人)
高5mの石垣が残る
大村藩が築造した内海の台場(外海だと外国船の標的になりやすいため)/「元治元年大村湾の迫口伊ノ浦の岸頭に三箇所の新塁を築き、それぞれ一八封度(口径13㎝)並びに二四封度(同15㎝)の大砲を備えつけてその土地の砲士をして主管せしめたり」
2
C
早岐の平戸往還石畳
はいき
佐世保市
<平戸街道・早岐宿>
石畳道
約70m(現存)
江戸初~中期
市教委
残存部の保存状態良好
早岐宿内の平戸街道に敷かれた石畳(往時には宿場内の街道にがすべて石畳が敷かれていたとされる→江戸期の石畳の99%は峠道なので、宿場の石畳は極めて稀)
3
C
小岩橋
こいわ
佐世保市
人道/竜の氏川
石桁橋
長2.9m,幅1.35m
江戸末~明治初?
WEB
保存状態良好
両岸とも野面積の石垣の上に自然石の一枚岩が載る/石垣上部の石がやや迫り出しているので、石刎橋に近い構造
1
C
相浦川の飛び石
あいのうら
佐世保市
人道/相浦川
飛び石(砂岩)
長16m(石23個)
+中洲
+長13m(復元)
江戸初期?
市教委
数年ごとに補修/近年流失した飛び石を追加/13m部分は復元
短冊形の石を50㎝ほどの隙間を空けて並べた実用目的の飛び石→現在も使われている稀有な例
2
A
早岐瀬戸の突堤
はいきせと
佐世保市
早岐
石突堤
嘉永元(1848)以前
市教委
側壁C化/基部に道路/C製の付属物
早岐瀬戸の最も狭い部分に築かれた石突堤/急潮を狭め、沿岸を港として利用できるよう考えられたもの/『平戸八景』(1848)に石でできた突堤の様子がリアルに描かれている
3
B
高後崎藩所の御船江
・跡
こうござき
佐世保市
俵ヶ浦半島
石防波堤、石突堤
正徳4(1714)
WEB/市教委
石突堤は天端部がC化
平戸藩が領内各地に設けた船番所の1つ、高後崎番所の御船江
2
B
大潟新田の潮受堤防
おおがた
佐世保市
土堤防
長
2182
m
慶応元(1865)
相浦駐屯地広報室/市教委
陸上自衛隊駐屯地内/海側の石垣は近代の補修/遊水地側は原形
石炭長者・草刈太一左衛門が自費で相浦川河口の干潟を締め切り約70haの新田を造成/巨大な締切堤防と、排水口に設けられた石樋門、樋門を守る水制、締切堤防内の遊水地の一式がよく残る/近世の締切堤防としては最大規模/広さ70haの干拓地は第2次大戦前に軍用地となり多くの兵舎が建てられた
2
A
大潟新田の石樋門
おおがた
佐世保市
石樋門
(3門)
慶応元(1865)
市教委
陸上自衛隊駐屯地内/樋門は修景修復(オリジナル石積は陸側のみ)
同上/石樋門としての形態は独自(他地域に類似のものがない)
3
B
大潟新田の水制
おおがた
佐世保市
石水制
長17m
慶応元(1865)
現地調査
陸上自衛隊駐屯地内/保存状態良好
同上/小規模だがきれいな巻石構造
1
C
大潟新田の遊水地
おおがた
佐世保市
遊水地
慶応元(1865)
WEB
陸上自衛隊駐屯地内/保存状態良好
同上/相浦川の排水と潮の逆流を調整するための広大な遊水地
1
B
世知原町太田・岩谷口の用水
せちばる、おおた、いわやぐち
佐世保市
太田~岩谷口
用水路、
素掘トンネル
(水路)
長
○
㎞
宝暦7(1757)
→安政2(1855)拡張
市教委
近年の修復
岩谷口に開削時の「宝暦七丁丑/石工/久谷」の銘が、太田に拡張時の「○○○○○○」の銘が残る/用水路そのものに刻字があるのは稀
2
C
郷美谷池
ごみたに
佐世保市
溜池
享和年間(1801-03)
市教委
昭和12の拡張により、堰堤水没(渇水時のみ姿を現す)
藩の事業として築造された灌漑用溜池
3
C
平戸藩御用鯉御囲池
ひらど
佐世保市
石池(長方形)
20m×8m
安政3(1856)
市有形
市教委
保存状態良好
藩御用の養鯉池として建設、藩の御料理方役人・松尾氏が管理/近世由来の鯉の養殖池としては国内で唯一現存
1
B
平川原の狼煙台
・跡
ひらがわら
佐世保市
狼煙場(石)
文化5(1808)以降?
市教委
保存状態良好
円形に積まれた乱石/設置はフェートン号事件(1808)以降と推察
1
C
高島遠見番所狼煙台
・跡
たかしま
佐世保市
(高島)
番岳山頂
狼煙場
文化5(1808)以降?
市教委/高橋輝吉
半壊状態(狼煙台跡という可能性が推定できる程度)→復元
狼煙台の設置はフェートン号事件(1808)以降と推察(遠見番所自体は寛永17(1640)に設置)
2
C
錐崎の狼煙台
・跡
きりざき
佐世保市
針尾東町
狼煙場
直径約5m
文化5(1808)以降?、
文化9(1812)以前
市教委/WEB(みさき道人)
樹木により崩壊が進行
設置はフェートン号事件(1808)以降と推察/伊能忠敬の『壬申測量日記』の文化9年12月15日の項に「桐崎回左ノ山上ニ放火台阿里」とあり、この時にはすでに存在していた
4
C
天神さんの橋
てんじん
島原市
人道/ハタナカ川
石アーチ橋
長3.5m(A)
弘化3(1846)頃
WEB(石橋)
河川改修工事で基部はC護岸の中
アーチ中央部は迫石だけで構成/前後に階段のある太鼓橋
2
C
大手浜の石干見(スクイ)
おおてはま
島原市
大手浜海岸
魚垣(石垣)
長280m
(半楕円形)
江戸期
WEB
何度も修復され、平成20には地区住民約40人で修復した
干満の差の大きい有明海の特徴を活かした漁法/沖縄の島嶼部には比較的多く残っているが、九州で保存状態の良い魚垣は2ヶ所のみ(島原市内だけで、かつては29ヶ所のスクイがあった)
2
A
音無川
おとなし
島原市
白土湖→海
排水路
長約1㎞,幅3-4m
寛政4(1792)以降
WEB/WEB(みさき道人)
C護岸
寛政4の眉山大崩壊により誕生した白土湖(地下水の湧出してできた湖:日量約4万t)の水を排水するための人工河川/勾配が緩やかで、水の流れる音がほとんどしないことからきた呼称
3
B
下の丁の武家屋敷
したのちょう
島原市
<鉄砲町>
石水路、石塀
長407m,幅5.6m
寛文9(1669)
武家屋敷町並み保存地区
市教委/WEB
良好に保全された歴史的空間
扶持取り70石以下の徒士屋敷が石塀の内側に並ぶ/街路の中央には、北西の熊野神社を水源する清水(飲用)が流れ、水奉行により厳重に管理されていた
1
A
御用御清水
ごよう、
おしみず
島原市
城内1丁目
湧水(石造)
寛文9(1669)
市史跡
市教委/WEB(みさき道人)
保存状態良好/木戸を復元
城主の居館があった三の丸の用水の水源地/石塀で囲まれた長方形の取水場(入口に木戸)
1
B
浜の川湧水
はまのかわ
島原市
白土桃山
湧水(石造)
寛政4(1792)以降
名水百選/水の郷
WEB/WEB(みさき道人)
現役利用
寛政4の眉山大崩壊による地殻変動に伴い誘発された湧水(地下の地層帯が、火山灰と砂礫層が互層する帯水層となっていたため、地下水に強い圧力が加わり自噴したとされる)/切石で4つに仕切られ、①魚・食品の洗い場、②食器・食品のすすぎ場、③食器・食品の洗い場、④洗濯場と分かれている
1
B
清水川
しみず
島原市
天神元町
石水路
長4.5㎞(当初)
安政5(1858)
市史跡
市教委/WEB
平成2の雲仙普賢岳の噴火で上流が土石流で埋没
寛政4(1792)の眉山大崩壊後、生活用水を失った村人が必死に探し当てた湧水を引水した水路(中心となったのは庄屋・下田吉兵衛)/文政4(1821)に木樋→安政5に切石・漆喰に改造
2
C
対馬藩主宗家墓所
(万松院)の参道入口橋
(ばんしょういん)
対馬市
人道/金石川
石桁橋(弓型)
(3G)
元和元(1615)以降
WEB(みさき道人)
保存状態良好
対馬藩主である宗家の菩提寺に架かる橋/寺の創建時に木橋だったものを比較的早い時期に石造化した可能性が高い/2ヶ所に立てた2本の太い円柱(流れ方向に3本)の上に横桁を置き、中間部2ヶ所にほぞ穴を開けて橋軸直角方向に上下2本の梁で連結する/両岸と2ヶ所の横桁を支点として、3本のやや反った石梁を緩やかな弧状に配置/擬宝珠付き高欄/滋賀県に多い「石材を木材のように使用した桁橋」→他地域で見られることはまずない
1
A
大船越瀬戸堀切
おおふなこしせと、ほりきり
対馬市
運河、切通し
長117m,幅19m
(開削当初)
→長260m,幅23-53m
寛文12(1671)
WEB/現地解説板/市教委
C護岸
対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/南北に長細く地続きだった対馬の地峡部を延べ35000人の人夫を使って開削した海面式運河(1月に着工、6月下旬に竣工)/運河ができるまでは積荷を降ろし船をかついで越したため「船越」の地名が残ったとされる
3
厳原港の中矢来
・跡
いづはら、
なかやらい
対馬市
厳原港<府中港>
石防波堤
寛文11(1670)
市教委
(厳原町誌)
陸側が埋め立てられ護岸として残る/石垣は当時のまま
対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ。府中(現厳原)の港湾機能の整備と海上運輸の拠点とするため、外やらい(矢来)長さ30間、広さ4間、高さ2間半、中やらい(矢来)長さ70間、内やらい(矢来)長さ16間、広さ3間半を構築
2
B
厳原港の内矢来
・跡
いづはら、
うちやらい
対馬市
厳原港<府中港>
石防波堤
寛文11(1670)
市教委
(厳原町誌)
一部残存
同上
3
C
久田のお船江
(対馬藩お船江)
くた
対馬市
石突堤(4基)
寛文3(1663)
県史跡
WEB/市教委
保存状態良好(石垣は当時の原形を保つ)
対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/対馬藩の御用船専用の港(北の厳原は商人・漁民の港)/久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠が残る
1
殿様開き遺構 イビ
とのさまびらき
対馬市
仁位
(土手)+石樋門
推定4tの一枚岩
元禄4(1691)
市史跡
WEB(みさき道人)
当時の実物は残るが、全く整備されていない
現地解説板では対馬藩主・宗 義貞が行った有名な仁位ハロウの干田の遺構と書いてあるが、歴代藩主に「義貞」はいない/干拓堤防に設けられた樋門(イビ)が残る
3
C
豊玉の猪垣
とよたま、
いがき
対馬市
横浦<長崎牧?>
野馬土手(石垣)
長145+96m,
高1.1m
中世~江戸期
県有形民俗
WEB(みさき道人)
/市教委
残存部の保存状態良好
対馬の農事業で有名な儒者・陶山訥庵の猪鹿追詰の際に築かれた石垣と伝承されてきた/近年の研究では、中世から近世元禄の頃まで設置されていた宗氏の馬牧場の一つ長崎牧の石垣であった可能性が指摘
1
B
阿須川の開削
あずがわ
対馬市
阿須川
付替え
万治2(1659)
WEB(みさき道人)
/市教委
一部C護岸
対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/府中(現厳原)を水害から防ぐ目的で、府中の北にある振袖山から東の後山に連なる丘陵の鞍部を開削し、阿須川を新たに開削した
2
B
辰の口堀切
たつのくち、ほりきり
対馬市
佐護川
付替え(切通し)
享保8(1723)
市史跡
市教委(上県町の文化財)/WEB
保存状態良好
対馬最大の佐護川は、しばしば洪水氾濫を起こしていた→儒者・陶山訥庵は、川筋を変え水利を計り農作物の自給を高めようと考え、齋藤四郎治を八郷普請奉行に推薦→岩盤を切り通して佐護川の流れを変えた
1
B
池田の堤
いけだ、
つつみ
対馬市
廻地区の海岸
石塁(野面積)
長約100m
(現存部)
文化・文政(1804-30)頃
市史跡
WEB/現地解説板/市教委
残存部の保存状態は良好/水門部は近代に入り改修
土木の名人といわれた増田定七が設計・指導して八郷普請によって築かれた石堤/雨期になると冠水していた場所を水田にすることを目的に築かれる。海側からの風波を防ぎながら、堤防内の水を海に流す水門を堤防の中央底部に設置
2
B
今屋敷の防火壁
いまやしき
対馬市
厳原市街
石塀(防火)
高3.9m
天保12(1841)以降
県有形
現地解説板/土木史研究15p598
/市教委
数ヶ所残るのみ
対馬藩の首府・府中がしばしば大火に見舞われたため、類焼を防ぐために築かれた石塀(天保12に桜井一右衛門が「府中城下町は南北に細長く、火災が発生すると南北に火が流れて大火になるので、要所要所に高い石垣を造っておけば火災の広がるのを防ぐことができる」と藩に献策)/写真の石塀は最も立派で、「天保十五年甲辰/正月 消防為/火切築え/高サ一丈三尺/根幅五尺」と刻字した石がはめ込まれている/他にも、「嘉永二/酉三月日/町中/火切」という刻字のある石塀もある
3
A
元・
耶良埼の遠見台
やらざき
対馬市
厳原港
石望楼(四角錐)
高3.5m,頂辺1.9m,底辺3m
江戸末期?
WEB(みさき道人)
/市教委
耶良埼山頂付近にあったものを移設/乗船客しか入れない
「灯台役人が見張りに使用していた望楼の土台石組跡」と推定されている→いわゆる「遠見台」と異なり、他では見られない小城郭石垣のような構造/粗加工の石材を布積崩し風に積み上げる
2
B
御部屋の坂
おへや
平戸市
(平戸島)
石畳道
江戸期?
市史跡
WEB
保存状態良好
石畳敷設の経緯
1
法音寺橋
ほういんじ
平戸市
(平戸島)
人道/鏡川
石アーチ橋
長5.3m(A)
元禄10(1697)
WEB(石橋)
/WEB
保存状態良好
幸橋着工前に試しに架けられたものだと言われてきた(証拠はない)/幸橋よりもスパンドレル部が少なく、ほとんど迫石だけで安定を保っており、技術的にはより高度(「試し」という通説には一定の疑問が派生する)
1
B
幸橋
さいわい
平戸市
(平戸島)
人道/鏡川
石アーチ橋
(玄武岩)
長18.6m(A)
元禄15(1702)
国重文
WEB
昭和59解体復元
松浦家30代棟(雄香)の命により、地元の石工たちによって架設/アーチの技術は、豊前という名の大工が、和蘭商館の石造倉庫建造に携わって覚え、その技術を地元の石工に伝授したものと伝えられる/『御家世伝草稿』には、「長崎の石工に見積もりを頼んだら金額が高かった。そうしたところ、平戸の石工が、長崎の橋は、もともとオランダ商館倉庫建築の技術をもとにしている。自分たちもその技術を受け継いでいるので、自分たちに作らせてほしいと申し出た」との記載がある→長崎市内の石アーチ橋の起源にも係わる重大な記述(長崎眼鏡橋については明僧・如定の貢献は否定できないが、その他の石アーチの一部には、オランダ商館で働いた石工の経験が生かされた可能性もある)
1
A
誓願寺橋
せいがんじ
平戸市
(平戸島)
誓願寺・参道/鏡川
石アーチ橋
長5.3m(A)
嘉永元(1848)頃
WEB(石橋)
/WEB
保存状態良好
典型的な「長崎様式」の石アーチ橋/幸橋を架けた平戸石工の技術が150年後まで残されていたか疑問が残る→長崎石工の可能性が高い
1
C
平戸のオランダ埠頭
(恵比寿埠頭)
ひらど
(れびす)
平戸市
(平戸島)
平戸和蘭商館跡
石雁木
12段
江戸初期
WEB
雁木の保存状態良好
商館の船着場として、商館員・船員の乗り降り・積荷の上げ下ろし運搬に用いられた
1
C
常燈の鼻
じょうとう
平戸市
(平戸島)
平戸和蘭商館跡
石護岸(逆L字型、玄武岩)
長辺35m,
短辺10m,高5m
元和2(1616)
WEB
平成25修復検討開始
オランダ商館の倉庫の増設にあたり、護岸として築造
1
B
大久保町のオランダ船鉄錨
おおくぼ
平戸市
(平戸島)
平戸オランダ商館
鉄錨
長約3m
16世紀後半~17世紀初頭
県工芸
WEB
館内展示
戦国末期から江戸初期にかけて海外交易で栄えた平戸ならではの遺構
2
B
岩の上町のオランダ船鉄錨
いわのうえ
平戸市
(平戸島)
平戸市役所・敷地内
鉄錨
長約3m
16世紀後半~17世紀初頭
市有形
WEB
/現地解説板
昭和27、川内港から引き上げられたもの/覆屋内に展示
戦国末期から江戸初期にかけて海外交易で栄えた平戸ならではの遺構
2
B
御崎浦鯨組納屋場
・跡
みさきうら
平戸市
(生月島)
生月町御崎
捕鯨解体場
享保14(1729)以降
<生月町史跡>
WEB(みさき道人)
土地の区画石組、水路、石桁橋が残る
史実がはっきりした当時最先端、かつ、最大規模の捕鯨解体場で、各種納屋・油貯を備えた一大工場であった/捕鯨遺産
3
A
前平の鯨供養碑
まえひら
平戸市
(的山大島)
真教寺
(鯨組井元氏の墓域)
石碑(駒型)
高122㎝,幅45㎝
元禄5(1692)
市有形
市教委
/松崎憲三
原位置/中央で水平に折損→修復
(正面)「(梵字)鯨鯢三十三 死生」/西海捕鯨発祥の地とされる度島(旧・多久嶋)に近い的山大島に残る鯨供養碑/建立されている井元氏は寛文4(1664)~享保(1726)の間捕鯨に携わった家系/捕鯨遺産
2
B
岩の上町の鯨供養塔
いわのうえ
平戸市
(平戸島)
最教寺
石碑(キャップ状の突起付き)
高113㎝(うち、台石20㎝),25㎝角
元禄8(1695)
WEB(動物のお墓)
原位置
(正面)「鯨鯢供養塔」/捕鯨遺産
1
C
前津吉町の鯨供養塔
まえつよし
平戸市
(平戸島)
長泉寺
石碑
(五重塔型、砂岩)
高539㎝
(うち、台石79㎝)
元文4(1739)
県有形民俗
WEB
原位置
第1層軸部に龕を抉り、多宝如来(合掌印)と釈迦如来(禅定印)の高20㎝座像を安置し、法華経見宝塔品の諸仏の名を刻む/側面の銘文に鯨供養のため財を募り、長泉寺第8代海純大和尚が建てたと刻んである/平戸島前津吉の浜は、元禄5(1692)、小値賀島の小田組が捕鯨の基地を定めてから、安政の開港頃(1859)の捕鯨の休止まで167年間鯨組で繁昌した/捕鯨遺産
1
A
的山の朝鮮井戸
あづち
平戸市
(的山大島)
石井戸
縄文・弥生起源
市史跡
WEB/現地解説板
現在の形態となった時期は不明/海岸だが真水が出る
遣隋使船・遣唐使船寄港の口伝/足利時代に遣明使船が半年間滞在/豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加した船団が水を汲んだという伝承からの命名
1
B
平戸のオランダ井戸
ひらど
平戸市
(平戸島)
平戸和蘭商館跡
石井戸(大小2基)
1.5m角
元和4(1618)
WEB
非現役
オランダ商館の井戸/大小2つの石枠を組み合わせて造られた井戸
(2つの井戸は中でつながっており、大きな井戸は屋外からの水汲み用、小さな井戸は、商館の屋内から調理等に用いられたとされる)
2
B
神浦の六角井戸
こうのうら
平戸市
(的山大島)
石井戸(六角)
寛文7(1667)
<大島町史跡>
WEB
保存状態良好
鯨組井元氏の真教寺創建時に寺付きの井戸として掘られたもの/五島市の「福江の六角井戸」や、下記の「平戸の六角井戸」とも違う構造(井戸枠の上辺が平らな点は日本風)/一種の捕鯨遺産
1
B
平戸の六角井戸
ひらど
平戸市
(平戸島)
石井戸(六角)
16-18世紀?
県史跡
WEB
保存状態良好
明の商人との関連を示唆する書き込みは多いが、証拠は全くない/五島市の「福江の六角井戸」は井戸枠の上辺が山型(三角断面)となっていて、国内では見られない顕著な特徴だが、平戸の六角井戸は上辺が平ら→この種の六角・八角の井戸は、少数だが日本各地にある
1
B
神浦の勘定場の井戸
こうのうら、かんじょうば
平戸市
(的山大島)
石井戸
江戸期
<大島町史跡>
WEB
保存状態良好
鯨組の勘定場で使用されていたと言われる井戸/四周に巨石を配した井戸端/一種の捕鯨遺産
1
C
平戸のオランダ塀
ひらど
平戸市
(平戸島)
平戸和蘭商館跡
石塀(漆喰)
長約30m,高約2m
元和4(1618)
WEB
保存状態良好
オランダ商館の増築にあたり、商館を覗かれないよう、防火も兼ねて設置された
1
B
日ノ浦本陣の目隠し石塀
ひのうら
平戸市
<平戸街道・日ノ浦宿>
石塀
江戸期
WEB
保存状態良好
見事な乱積の石塀、頂部に矩形の石板を敷き並べる/旅人から見下ろされないよう本陣の裏手には築かれた石塀
1
B
元寇防塁(逃の浦)
にげのうら
松浦市
城山山麓の鷹島に面する汀線
石防塁
長約300m,高2m,幅0.5m
文永11(1274)以降
WEB/WEB(みさき道人)
元来は延長約1㎞程度はあったとされる/台風被害等により損壊
文永11年10月16-17日の松浦襲来により松浦党の基地が壊滅→それを受けて領主・領民が一体となって構築したと推定される
3
B
殿様道路の石畳
とのさま
南島原市
有家町<島原街道>
石畳道
長40-50m
江戸期
市教委
保存状態良好
1
-
厳吼寺の太鼓橋
がんくう
南島原市
厳吼寺・参道
石アーチ橋
長5.9m(2A)
文政12(1829)
WEB(石橋)
保存状態良好
跨ぐべき空間は狭いのにわざわざ中間に橋脚を立て、その上に小さな半円アーチを2つ並べる/擬宝珠付き高欄
1
C
飯野の眼鏡橋
いいの
南島原市
人道/新川
石アーチ橋
長7.9m,S5.7m(A)
嘉永6(1853)
<布津町有形>
WEB(石橋)
/市教委
橋中央で高欄の石材同士に隙間が生じ、キーストーンの一部に亀裂/車の通行のため一部拡幅
石工:平治兵衛/迫石の中央3分の1は、迫石だけでアーチを構成する特異な構造⇒下記の「面無橋」は現存する“最も原始的な”石アーチだが、本橋は逆に扁平かつ壁石が最少限の最も洗練された石アーチ
3
B
面無橋
おもなし
南島原市
農道/高江川
石アーチ橋
長12m,S3.9m(A)
江戸末期
市有形
WEB(石橋)
保存状態良好
迫石の加工度が例外的に低い特異な石アーチ⇒石アーチは迫石同士のせん断摩擦で安定性を確保する構造なので、“迫石同士の密着が確保できない”こうした石材の使用は異例(橋の側面はまだ“きれい”だが、内面は“乱積み”に近い外観)/スパンドレル部の石積はさらに荒く、石積のセオリーと関係なく大小様々な形状の石が“詰めて”あるだけ
1
A
元・
岩戸山入口の太鼓橋
いわと
南島原市
加津佐町巳
石桁橋(弓型)
長3.3m(G)
寛延元(1750)
WEB(みさき道人)
平成13、木の下川の改修工事に伴い撤去→移設後に復元展示
2
-
中通熊野神社の神橋
なかどおりくまの
南島原市
中通熊野神社・参道
石桁橋(弓型)
長4.6m(2G)
文化元(1804)
WEB
保存状態良好
3本の中間柱上に横桁を置き、その上に石梁を架けただけの簡単な構造
1
-
口之津町の灯明台
(唐人常夜灯)
くちのつ
(とうじん)
南島原市
口之津公園
石灯明台(海運)
高3.8m
寛永19(1642)以降
<口之津町有形>
WEB(みさき道人)
原位置/火袋は後補
灯明台に多い角錐状の構造だが総石造で、かつ、石組が見事な布積崩しになってのが珍しい/笠は自然石/琴平宮の献灯だが、航行船舶の標識として利用された
1
B
旧・
小田邸前の石畳
おだ
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
笛吹地区
石畳道
江戸期
WEB
保存状態良好
旧小田邸前の石畳→石をストライプ状に並べた特異な形態
2
C
柳田水道の上の石橋
やなだ、かみ
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
笛吹地区
石桁橋
長約1m(G)
享保3(1718)
町教委
小規模な修復
石梁2本
2
-
柳田水道の下の石橋
やなだ、しも
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
笛吹地区
石桁橋
長約1m(G)
享保3(1718)
町教委
保存状態良好
石梁4本
1
-
沖の神島神社参道船付場
おきのこうじま
(北松浦)小値賀町
(野崎島)
石突堤
長約10m
元禄2(1702)
町教委
アクセス困難/保存状態良好
野面積の突堤
2
C
舟瀬の古波止
ふなせ
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
石突堤
長約10m(現存部)
寛永元(1848)以前
〔原形は建武元(1334)?〕
町教委/WEB(牛の塔建設物語)
天端部C/かつて突堤中間に建っていた「牛の塔」の石造覆屋が大正元に落成したため大きく改変/石積も創建時のものかどうか不明
野面積の突堤/建造年不明→寛永元に郡代により作成された船瀬牛の塔界隈の絵図に描かれている/突堤の中央に、下記の「建武の新田」築造の際に建立された「牛の塔」があるため、港湾目的がどうかは別として突堤状の構築物は「牛の塔」の建立時からあったものと推測される
3
B
柳田水道
やなだ
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
笛吹地区
水路
長約300m,
幅約1m
正徳元(1711)
町教委/WEB
保存状態良好(C化された箇所もある)/石護岸の部分は落し積みだが、創建時のものかどうか不明
壱岐の八幡浦から小値賀へ移住し、小田鯨組を組織して初期の西海捕鯨を担った初代・重憲に次いで、新田開発や海産物の廻船業などを営み小田家の経済基盤を確立した二代・重利により構築
2
C
建武の新田
けんむ
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
水田(10枚程度)
幅2m×長約20m
建武元(1334)
町教委/WEB(牛の塔建設物語)
幅が狭くて機械が入らないため残ったが、耕作放棄地も混在
松浦家第十五代・源定が小値賀島の小海峡部を埋め立てて新田19haを造成/中世の典型的な短冊型の水田/難工事で多くの牛が犠牲になったため、下記の「牛の塔」を建立
3
B
牛の塔
うし
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
舟瀬の古波止
石碑
高160㎝,幅30㎝,厚20㎝
建武元(1334)
町教委/WEB(牛の塔建設物語)
風波で損傷→大正元に落成した頑強な石造覆屋内に安置
(正面)「(梵字)奉納妙法蓮華経」、(同右下)「大願主 地頭肥前守源定」/上記の「建武の新田」の難工事で多くの牛が犠牲になったため建立されたもの
2
B
笛吹集落の石塀
ふえふき
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
笛吹地区
石塀(玄武岩)
江戸期
WEB
良好な歴史的景観
平戸藩の五島領地経営の中心地→古い町並みが残る
1
B
旧正興寺古井戸
しょうこう
(北松浦)佐々町
<正興寺>
石井戸(石積)
径1.2m,深3m
正応3(1290)
町史跡
WEB
保存状態良好/飲用不適
井戸の内壁を人頭大の玉石で築き上げる
1
B
平木場郷の洗切継ぎ場
・跡
ひらこばごう
(西彼杵)長与町
<長崎往還>
石垣
江戸期
長与町郷土誌・上
p515-516
石垣のみ残る(個人宅)
長崎奉行や大名の長崎往来の際、馬・わらじの交換、飲水などを行った場所
3
C
七葉迫の堤
ななはさこ
(西彼杵)長与町
溜池
慶応2(1866)
長与町郷土誌・上
p517-518
保存状態良好
横平地区の水不足解消のために築造
1
-
藤の棟堤
ふじのむね
(西彼杵)長与町
溜池
堤長23m
江戸期
長与町郷土誌・上
p519
保存状態良好
町内最大の溜池
1
-
浦郷のともづな石
うらごう
(西彼杵)時津町
八幡神社・前
舟繋石
文政年間(1818-30)以前
WEB(みさき道人)
移設(もと、中通り)(昭和60)
現在の中通りの辺りが波止場だった時代(文政年間)に舟繋石として使われていた
2
C
立花河地堤
たちばなこうち
(西彼杵)時津町
溜池
堤長33m
天和2(1682)
→天保4(1833)嵩上げ
町教委
一部C改修
施工: 奉行・松尾好之助、田中九兵衛
3
-
平島の碁盤目状街路
ひらしま
(東彼杵)川棚町
平島地区
道路
外周不定形: 東西2本、南北2本
天保4(1833)以降
町教委
当時の区画割がそのまま残る
天保4の大火後に造られた碁盤目状の街路
2
C
ひっぽがし石垣
(東彼杵)川棚町
平島地区
護岸石垣
文政11(1826)以前
町教委
ごく一部を鉄柵で囲んで保存
文政11の台風で被災した護岸石垣
4
C
平島の古井戸
ひらしま
(東彼杵)川棚町
平島地区
石井戸
天保4(1833)以降
町教委
史跡(無指定)されているのは1ヶ所のみ
天保4の大火後に碁盤目状の路地が造られ、防火用水を兼ねて20数ヶ所の井戸が掘られた
3
C
白岳の狼煙場
・跡
しらたけ
(東彼杵)川棚町
狼煙場
文化5(1808)以降
町教委
くぼ地状になっているが、円形に配置されているはずの石は点在のみ
文化5のフェートン号の長崎への不法侵入・乱暴以降に大村領内に8ヶ所程度設置された狼煙場の一つ
3
C
千綿の石橋
ちわた
(東彼杵)東彼杵町
人道<長崎街道>
石桁橋
長3.2m(G)
天保年間(1830-44)?
WEB
橋面の半分がC補修
天保年間に長崎街道の矢上~彼杵の間に多くの石橋が掛けられたが、この橋はその時の数少ない現存する石橋だと言われる
3
-
俵坂の領境石
たわらざか
(東彼杵)東彼杵町
俵坂峠
境界石
高170㎝(元の高さ)→高87㎝,幅20.5㎝,厚20㎝
元禄3(1690)
WEB(筑前国境石散歩)
上部欠損/昭和33に発見・再建立(原位置ではない)
(正面)「…南 大村領」/大村領~佐嘉領
3
C
彼杵の元禄船着場
そのぎ
(東彼杵)東彼杵町
彼杵港
石護岸(雁木)
長約50m
元禄年間(1688-1704)
町教委
現役で使用
彼杵宿郷・長崎街道の渡し場/雁木状の護岸は貴重/元禄年間に開港した彼杵港に因んで命名
1
B
三井木場堤
みいこば
(東彼杵)東彼杵町
千綿高原の四ツ池
溜池
堤長約180m
明暦元(1655)
町教委/WEB/大村市教育委員会
堰堤改修
初代・深澤儀太夫(捕鯨で富を築いた)の献金を用いて、大村藩が主導して行った農業開発により造られた溜池
2
C
鹿ノ丸堤
かのまる
(東彼杵)東彼杵町
千綿高原の四ツ池
溜池
堤長約100m
元禄7(1694)以前
町教委/WEB/大村市教育委員会
堰堤改修
鹿ノ丸一帯が深澤家の私領となった後、深澤家が主体となって行った農業開発により造られた溜池→二代・深澤勝幸の没年は元禄7なので、それ以前の完成と思われる
2
C
中堤
なか
(東彼杵)東彼杵町
千綿高原の四ツ池
溜池
堤長約160m
元禄7(1694)以前
町教委/WEB
堰堤大改修
同上
3
C
蕪堤
かぶら
(東彼杵)東彼杵町
千綿高原の四ツ池
溜池
堤長約110m
元禄7(1694)以前
町教委/WEB
堰堤大改修
同上
3
C
綿打堤
わたうち
(東彼杵)東彼杵町
千綿高原の南
溜池
堤長約120m
享保2(1717)以前
WEB/大村市教育委員会
堰堤改修
深澤家の農業開発により造られた溜池→深澤勝幸の次男・重昌の没年は享保2なので、それ以前の完成と思われる
2
C
大田代堤
おおだしろ
(東彼杵)東彼杵町
千綿高原の南
溜池
堤長約100m
享保2(1717)以前
WEB
堰堤改修
同上
2
C
村木郷の三領石
むらきごう
(東彼杵)波佐見町
境界石
高215㎝,幅30㎝
寛保2(1742)
町史跡
WEB
原位置
(正面)「比三領境東西峯尾續雨水分南大村領」、(右面)「比三領境東西峯尾續雨水佐嘉領」、(左面)「比三領境西北峯尾續雨水分平戸領」/佐賀・大村・平戸領の境界を示す標柱/焼き物用の薪を確保するために度々争いが起こったため、3藩の役人が立ち合って建立
1
B
境野一本杉跡の領境石
さかいの
(東彼杵)波佐見町
境界石(自然石)
文化12(1815)
町史跡
WEB
原位置
(正面)「壹本杦跡」/昔ここに老杉があり、それが枯れたので境石を建てたと『郷村記』に書かれている/佐賀・大村領の境界を示す標柱
1
C
小樽の仏坂の領境石
こだる
(東彼杵)波佐見町
境界石(自然石)
江戸期
WEB
原位置
佐賀・大村領の境界を示す標柱
1
C
有川の横浦捕鯨基地
・跡
ありかわ、
よこうら
(南松浦)新上五島町
(中通島)
港
江戸期
WEB(みさき道人)
建物は何も残っていないが、港の護岸石垣が半分ほど残る
有川捕鯨の基地となった港
3
A
有川郷の鯨供養碑
ありかわ
(南松浦)新上五島町
(中通島)
舟津
石碑
正徳2(1712)
町史跡
WEB(みさき道人)
RC覆屋内/刻字が磨耗
有川捕鯨の開祖・江口甚右衛門が鯨見山の山頂近くに建立/元禄4(1691)-正徳2(1712)までの約20年間に捕獲された鯨1312頭を供養
2
B
遠見番岳のろし台
・跡
とおみばんだけ
(南松浦)新上五島町
(中通島)
番岳
狼煙場(石積)
正保4(1647)
町史跡
町教委
原形を留める
正保4に祝言島から遠見番所を遠見番岳に移す/のろし台も同時期と推定される
1
C