写真 |
名称 |
ふりがな |
所在地 |
付帯情報 |
形式 |
諸元 |
建造年 |
文化財 |
出典 |
保存状態 |
価値判断に係る事項 |
保存
評価
| 価値
評価 |
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五稜郭・跡 |
ごりょうかく |
北海道/函館市 |
<函館奉行> |
台場:土塁(五角・星型)、濠(石垣) |
各辺長約300m,土塁高7.5m
(247466㎡) |
慶応2(1866) |
国特別史跡 |
WEB/台場事典p47-48 |
保存修復事業により、石垣・濠が良好に残る/平成18五稜郭タワー完成(函館有数の観光地) |
わが国で最も本格的なヴォーバン式星型稜堡式要塞=17世紀のオランダで一般的だった要塞の形態をそのまま取り入れた→1866年の段階ではアナクロニズム的存在/徳川幕府(徳川家定)の命により築造/設計: 蘭学者・武田斐三郎/石工:井上喜三郎(備前)/塁壁は、寒冷地のため凍結で水堀の土手が崩壊しないよう、堀の両面を石垣とした/明治維新の最後の戦いである箱館戦争の舞台としても著名 |
1 |
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戸切地陣屋・跡 |
へきりち |
北海道/北斗市 |
<松前藩> |
陣屋:星形土塁、星形空壕、火薬庫、馬隠 |
227m×206m
(43400㎡) |
安政2(1855) |
国史跡 |
市教委/WEB/現地解説板 |
松前藩戸切地陣屋跡として、門の復元を含め、最良の状態に整備 |
現存する道内最大の陣屋跡/わが国で最初のヴォーバン式星型稜堡式要塞=東側の稜堡部のみ(そこだけで6つの砲座が置かれている)/幕府に命じられて松前藩が築造/設計:武田斐三郎(他に、藤原主馬説、竹田作郎説も) |
1 |
A |
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モロラン陣屋・跡 |
|
北海道/室蘭市 |
<南部藩> |
出張陣屋:土塁、空壕 |
120m×80m
(17520㎡),
土塁高最大3m |
安政3(1856) |
国史跡 |
市教委/WEB(城とチャシの部屋)/現地解説板 |
保存整備良好(昭和43-48に土塁と壕の修復) |
南部藩が、幕府から恵山岬から幌別間の沿岸警備を命じられ、函館に元陣屋を、室蘭・長万部・砂原に出張陣屋を置いた/勘定奉行: 新渡部十次郎/全体の規模は出張陣屋なので小さいが、土塁は高く一部二重になり非常に立派 |
1 |
A |
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白老陣屋・跡 |
しらおい |
北海道/(白老)白老町 |
<仙台藩> |
陣屋:曲輪、壕、土塁、井戸 |
66000㎡、外曲輪の門から内曲輪の門までの距離約210m、内曲輪は長径125m,短径100m、土塁高最大約3m |
安政3(1856) |
国史跡 |
町教委/WEB(城とチャシの部屋)/WEB/現地解説板 |
史跡公園として保存整備→昭和59に仙台藩白老元陣屋資料館/井戸は表面だけ再現 |
仙台藩は、幕府に白老から知床岬までと国後・択捉両島を持ち場に警備を命じられ、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・国後の泊・択捉の振別に出張陣屋を置いた(幕府からは勇払に元陣屋を置くよう指示されたが、出入司・三好監物の現地調査で白老に変更)/施主: 伊達慶邦/広大な敷地に外、内の二重の曲輪を配置した堅固な構造/外曲輪入口は弧状の枡形、馬出し付き/外曲輪~内曲輪の間は東を土塁、西を川で仕切る |
1 |
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ヲシャマンベ
(砂原)陣屋・跡 |
(さわら) |
北海道/
(山越)長万部町 |
<南部藩> |
出張陣屋:土塁、空壕 |
67m×59m,土塁高約3m |
安政3(1856) |
国史跡 |
WEB(城とチャシの部屋)/WEB |
史跡公園として整備 |
南部藩が、幕府から恵山岬から幌別間の沿岸警備を命じられ、函館に元陣屋を、長万部・室蘭・砂原に出張陣屋を置いた→長万部の海岸は砂浜で異国船が近づけないため、翌安政4(1857)に撤兵・廃止 |
2 |
B |
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平舘台場 |
たいらだて |
青森/
(東津軽)外ヶ浜町 |
<弘前藩> |
台場 |
弧長111m(前面),69m(後方),高2.1m |
嘉永2(1849) |
県史跡 |
町教委/台場事典p108 |
全国の台場の中でも、最高レベルの保存状態 |
設計: 貴田惟邦/わが国初の扇形をした西洋式台場/擬装のため松前街道松並木と連続させ、土塁に33本の松を植えた |
1 |
A |
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朝日山古戦場 |
あさひやま |
新潟/小千谷市 |
<長岡藩> |
塹壕、砲台 |
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慶応4(1868)以前 |
市史跡 |
WEB |
公園整備(アクセスに徒歩40分) |
北越戊辰戦争(長岡・会津・桑名×薩摩・長州)の激戦地/朝日山山頂付近に砲台跡や河井継之助が築かせたフランス式塹壕(非常に珍しい)が残る |
2 |
B |
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助川海防城・跡 |
すけがわ |
茨城/日立市 |
<水戸藩> |
城郭 |
面積68万㎡ |
天保7(1836) |
県史跡 |
WEB |
遺構として残るのは本丸表門の礎石の一部と、二の丸の鳩石のみ |
水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が家老の山野辺義観に命じて助川村の高台に造らせた城郭で、異国船の侵入に備えたもの/台場と違い大砲はなく、三の丸、二の丸、本丸を有する城郭(本丸には見張り櫓もあった) |
4 |
A |
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大土手山 |
おおどて |
千葉/四街道市 |
<佐倉藩> |
射場 |
標高37.209m(市内の最高地点) |
天保11(1840)? |
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市教委 |
明治6にフランスのルボン砲兵大尉が改築→戦後大規模な削平(半分程度遺存) |
計画:佐倉藩砲術指南・斉藤弥一左衛門、築造: 佐倉藩士・大築尚志
(天保11当時はまだ5歳なので建造年か築造者のどちらかが間違い)/大砲の標的として人工的に築かれたもの |
3 |
B |
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御殿山下台場 |
ごてんやました |
東京/品川区 |
台場小学校 |
台場 |
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嘉永6(1853) |
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区教委/WEB |
台場の輪郭→5角形の道として残るのみ/台場の石垣に使用されていた石材→ミニチュアの品川灯台の基壇 |
ペリー提督の「黒船来航」を契機に江戸湾に計画された11ヶ所の台場の一つ |
5 |
B |
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品川第三台場・跡 |
しながわ |
東京/港区 |
東京湾 |
台場 |
高7.8m,
173.8m×173.3m
(基部)
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安政元(1854) |
国史跡 |
区教委/岩屋隆夫/WEB |
台場公園として整備され、周囲には、海面から5~7mの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられる |
江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡/陣屋、弾薬庫跡、石組みの船着場跡どが残される/石護岸(布積+谷積) |
2 |
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品川第六台場・跡 |
しながわ |
東京/港区 |
東京湾 |
台場 |
高7.8m,124.6m×121.9m
(基部) |
安政元(1854) |
国史跡 |
区教委/岩屋隆夫/WEB |
立入禁止して保存(チャーター船でしか接近不能) |
江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡/石護岸(布積+谷積)、石護岸(谷積) |
1 |
A |
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神奈川台場・跡 |
かながわ |
神奈川/
横浜市(神奈川区) |
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台場(石塁) |
総面積260ha,
砲14門 |
万延元(1860) |
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三瓶裕司/神奈川考古No46 |
一部現存→整備・公開 |
幕府が海防のため伊予松山藩に神奈川宿周辺の警備を命じ、勝海舟の設計で安政6(1859)着工、翌年に完成した/他の台場では見られない船溜りを有する |
4 |
A |
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猿島台場・跡 |
さるしま |
神奈川/
横須賀市(猿島) |
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台場 |
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弘化4(1847) |
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市教委 |
平成12の調査で長18.4mの敷石遺構と道路状遺構
(大輪戸台場への切通し道路面)が発見された |
島の北~東側に造られた大輪戸台場、卯ノ崎台場、亥ノ崎台場の3ヶ所の台場と焔硝蔵などの付属施設の集合体/明治17に猿島砲台を構築した際に島全体が大改造を受けた |
4 |
B |
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龍岡城の稜郭 |
たつおか |
長野/佐久市 |
<龍岡藩> |
土塁(五角・星型)(堀に石垣) |
各辺長約150m |
慶応3(1867) |
国史跡 |
中部の土木史p173 |
5辺中2辺のみ残る |
藩主: 松平乗謨/わが国に造られた稜堡式城郭・台場の最後の事例(函館五稜郭の3年後)/台場以外で稜堡式石垣を持つのは、他に人吉城(熊本県)がある程度で、稀な存在 |
3 |
B |
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三穂ヶ崎台場・跡 |
みほがさき |
静岡/下田市 |
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台場(石塁) |
大砲3門 |
天保年間(1830-44) |
市史跡 |
市教委 |
全体の形態が保持されている |
水野藩/軟質の岩盤を掘り込んで造られた石塁台場 |
2 |
B |
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生地台場 |
いくじ |
富山/黒部市 |
加賀藩 |
台場(弧状土塁) |
長63m,幅8m,大砲5門 |
嘉永4(1851) |
県史跡 |
市教委/現地解説板 |
復元(現在の土塁の下に、台場の原形が保存)=復元の盛土高1.5m |
土塁だけでできた弧状台場としては先駆的な存在(青森の平舘台場(嘉永2)に次いで古い)/台場構築年代としては、第Ⅰ期に該当 |
2 |
A |
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梶台場・跡 |
かじ |
福井/坂井市 |
<丸岡藩> |
台場(土塁、背面は石積) |
長約33m,高1.8m |
嘉永4(1852) |
国史跡 |
市教委/WEB |
規模は小さいが、海を間近に望むスタンディグは全国的にもベスト |
砲術家・高島秋帆に教えを受けた栗原源左衛門が設計、南常太郎が建設に携わったとされる/へ字型に突き出した海岸線上に弓型に築かれた土塁→5個の砲眼が4.5m間隔で配置 |
1 |
 |
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堺南台場・跡 |
さかいみなみ |
大阪/堺市(堺区) |
大浜公園 |
台場(石造稜堡式) |
長南北295m,東西195m |
安政2-5(1855-58)
→慶応2(1866)改修 |
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台場辞典p399/WEB |
石垣、外堀の半分程度が残る |
安政元(1854)にロシア船が大坂に来航したのを受けて、大阪湾防衛のため沿岸部各所に築かれた台場群の中で最大級のもの/翌安政2から直線状の台場が築かれたが、慶応2、彦根藩により大砲18門を擁する稜堡式の台場に全面的に改造された |
2 |
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元番所台場・跡
(番所の鼻) |
もとばんしょ
(ばんどこ) |
和歌山/和歌山市 |
番所庭園内 |
台場 |
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幕末 |
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台場辞典
/WEB(城めぐ) |
土塁が一部残る/公園化 |
海に突き出した長約170m、幅約50mの自然の舌形突堤状の岩盤の上に造られた台場 |
2 |
B |
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舞子台場・跡 |
まいこ |
兵庫/神戸市(垂水区) |
<明石藩> |
石垣台場
(半星形稜堡) |
幅70m,高約10m
→明治期に高6m |
元治元(1864) |
国史跡 |
WEB/市教委 |
上部石積み4mを撤去、ほぼ埋没し、西側の前面石垣露出部分を公園化 |
指導:勝海舟、施工:明石藩/4㎞の海峡を挟んだ淡路島に阿波藩の松帆台場と共に海峡を防衛するために築造された台場/文久3(1863)の将軍家茂巡視の際、明石藩の台場が小規模である事を問題視→幕府が1万両貸与、勝海舟を派遣し舞子台場を築造/明石藩砲術師範・萩野六兵衛が萩野流に適さないと砲を据えることを拒否し明治維新に至る |
3 |
B |
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和田岬砲台・跡 |
わだ |
兵庫/神戸市(兵庫区) |
三菱重工業・神戸造船所 |
石砲台(円筒形) |
高11.5m,
直径15m |
元治元(1864) |
国史跡 |
市教委/WEB |
星型土塁は消失/内部には当時の木造部が残る/改修のため平成26まで見学中止 |
設計:勝海舟/中央に円筒の堡塔を築き、周囲に長約70mの星型土塁が築かれていた/堡塔は、外郭部は石、内部は木造2階建てで1階には砲冷却用の井戸が掘られている/同時期に川崎、西宮、今津に同型の砲台が築かれたが、内部の木造部が残るのは和田岬砲台のみ |
3 |
A |
 |
松帆台場(松尾台場)・跡 |
まつほ |
兵庫/淡路市 |
神戸製鋼・保養所
<阿波藩> |
台場(半星形稜堡、石垣) |
(砲台部)長150m
(目隠し土塁)約250m,
80・60・24ポンド砲各4・3・5門,
29ポンド臼砲1門 |
文久元(1861) |
国史跡 |
WEB/市教委 |
台場上に保養所施設を建造→立入には神戸製鋼の許可が必要/一部の石垣、火薬庫、弾薬置き場が残る→添付写真は発掘調査時のもの(現状はもう少し埋設) |
4㎞の海峡を挟んだ舞子台場と対となって明石海峡を防衛する目的で築造された台場/三角形の突出部が2基並んだM字型/基礎に高約2mの切石積み、その上に粘土を傾斜約50度で土塁を持った構造/台場本体の東側に150mの目隠し土塁が続く/文久3に幕府旗を揚げずに台場に接近航行した幕府軍艦に対して砲撃、舵に着弾させている |
4 |
B |
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松尾湊(松帆湊)・跡 |
まつお |
兵庫/淡路市 |
<阿波藩> |
軍事掘込港湾 |
北東長約43m,
南東長約41.5m,深約4m |
着工:安政6(1859)
→工事中止:文久3(1863) |
国史跡 |
市教委/WEB |
普段は水が溜まり詳細が分かりにくい→添付写真は調査のために水位を下げた時のもの(現状ではただの池にしか見えない) |
明石海峡の両岸に位置する松帆・舞子台場の射程外を航行する敵を迎撃する小型船を係留する港湾施設(全国的に見てきわめて珍しい)/松帆台場の後方南側の風化花崗岩を掘削し築造/船先端部の大砲積み下ろし用の凹状の岸壁2ヶ所、接岸用の階段状の岸壁が残る/発掘調査報告書(平成16)では開口部は西側とされるが、明治期の測量図では東側が開口しているため、詳細不明であるものの明治期に再び東側を開口し利用されたためとされる |
4 |
A |
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高崎台場・跡 |
たかさき |
兵庫/洲本市(成ヶ島) |
高崎灯台<徳島藩> |
台場(半楕円形) |
東西100m,南北370m |
文久元(1861) |
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WEB(城めぐ)/幕末海防史の研究p172,251/台場辞典p420 |
南側の一部をC護岸化/明治期に洋式台場として改築/灯台を設置/石積の火薬庫が残る |
設計:徳島藩西洋砲術指導者・勝浦安右衛門/徳島藩の紀淡海峡防衛の中核として築造された洋式台場/安政3に幕府から大坂防御計画の一部として紀淡海峡に台場築造が命じられる→徳島藩は12基の台場を築造/高崎、六本松、生石、丸山の4基の台場で計64門の砲を設置/北面から南面にかけて大規模な花崗岩の宮積みの石垣が残る/淡路島は花崗岩が採れないため、廃城した由良城の石垣を転用→由良城の石垣も岩屋城のものを転用したと推測されている |
1 |
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西宮砲台・跡 |
にしのみや |
兵庫/西宮市 |
|
石砲台(円筒形) |
高約12m,内径約17m,壁厚1.21m,底部1.53m |
慶応2(1866) |
国重文 |
市教委/WEB |
明治期の火災により内部の木造構架が焼失、昭和9の室戸台風後屋根を復元補修、50に鉄骨補強 |
石造三層の円堡/1階は中央に井戸、一部に弾薬庫を設置し、木造の2階は砲眼11基、窓口1基、大砲2門が周囲に向けられていた/和田岬砲台と並び円筒形砲台の代表(4基→2基現存)/換気悪く実用に耐えず |
2 |
A |
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 |
境台場・跡 |
さかい |
鳥取/境港市 |
(花町)台場公園 |
台場(土塁)
(鈍角で弧状に屈曲した四辺の前面をもつ) |
長約250m,幅約25m,高約6m/18斤砲2門,6斤砲1門,5寸砲5門 |
文久4(1864) |
国史跡 |
鳥取県文化財報告書16p13-16/歴史の道7p22 |
由良台場に次いで旧状をよく残す/公園として整備(台場の雰囲気が喪失) |
松波宏元の設計で境水道の入口に計画、大庄屋・山根作兵衛が工事を指揮/鳥取藩領内で由良台場と並ぶ規模の(土塁は3つの鈍角コーナーを持ちつつ約250m連続し、内側には約1haの広場がある)/砲数は計8門と由良台場の倍だが、口径は圧倒的に小さかった |
3 |
A |
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浦富台場・跡 |
うらどめ |
鳥取/(岩美)岩美町 |
|
台場(土塁) |
長92m,幅約10m,高約3m/12斤砲1門、6斤砲1門、5寸砲1門 |
文久3(1863) |
国史跡 |
歴史の道8
p22/現地解説板 |
公園として整備 |
藩執政職にあった鵜殿長道が浦富海岸に築いた因幡に現存する唯一の台場 |
2 |
B |
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徳万の石塁 |
とくまん |
鳥取/(東伯)琴浦町 |
琴浦町の海岸 |
石塁(玉石) |
|
江戸末期 |
|
町教委 |
保存状態良好/鳴り石の浜プロジェクトにより、遊歩道が整備 |
幕末に外国(中国)の侵略から守るために作られたと言われる石積みが海岸線に沿って延々と残っている(徳万地区のものが最良)/一部二重/建造時期は、台場が築造された頃と推測されている |
2 |
B |
 |
由良台場・跡 |
ゆら |
鳥取/(東伯)北栄町 |
|
台場(土塁)
(五角形に屈曲した前面をもつ) |
東西125m,南北84m,前面高4.5m/60斤砲1門,24斤砲1門,18斤砲1門,5寸砲1門 |
文久4(1864) |
国史跡 |
鳥取県文化財報告書16p13-16/町教委/歴史の道8p68 |
保存状態良好/お台場公園/国道9号の北条バイパスによって海との連続性が断絶 |
伯耆5台場の中で最初に着手されたものと言われている(竣工は淀江・橋津台場の方が早い)/文久3(1863)6月に武信潤太郎を総指揮者として建設に着手→藩の財政窮乏のため出資金なし→男女を問わず16-50歳までの者が使役に出された(延べ75000余人)→人夫賃は中・大庄屋らの献金/西洋式の城塞プランが採用されるなど藩築造の台場としては極めて特徴的で、江戸末期史の理解に欠くことのできない重要な遺構/台場には下記の「六尾反射炉」で製造された大砲が配備された(砲数は計4門と境台場の半数だが、口径は遥かに大きい |
2 |
 |
 |
橋津台場・跡 |
はしつ |
鳥取/(東伯)湯梨浜町 |
<橋津湊> |
台場(土塁) |
両翼:長約50m,高4m/18斤砲1門,6斤砲1門,3斤砲1門,5寸砲1門 |
文久3(1863) |
国史跡 |
鳥取県文化財報告書16p13-16/歴史の道8p60,62 |
波により前方部が浸食/正面が滅失、両翼と後方及び目隠し土塁のみ残る |
藩倉のある橋津湊に、大庄屋・戸崎久右衛門以下が取締役となって築造/当初は由良台場と同じ左右対称の構造/台場建設に馬ノ山古墳群の土が使われた |
4 |
B |
 |
横井上台場・跡 |
よこいかみ |
岡山/岡山市(北区) |
<津山往来> |
台場(土塁) |
直径40m |
幕末 |
市史跡 |
歴史の道2p7 |
公園化=すたれている |
岡山藩が津山往来の防備のため建設/5世紀頃と推定される直径40mの円墳の上に築かれた二重遺構 |
2 |
B |
 |
網屋浜台場・跡 |
あみやはま |
島根/出雲市 |
|
台場(石塁) |
|
寛政11(1799) |
|
市教委 |
発掘調査の結果2ヶ所の石構造を確認 |
台場としては全国最初期/完成期の石垣と後年の拡張期の石垣の2ヶ所が残る→奥行きが浅くため平坦なため、大砲を用いたとは考えにくく、大筒を用いた可能性が高い |
3 |
B |
 |
河下台場・跡 |
かわしも |
島根/出雲市 |
|
台場(石塁) |
|
文久3(1863) |
|
市教委 |
発掘調査の結果2ヶ所に分かれた石防塁を確認 |
東西の台場に分かれる/東側前面と背面の石垣が良く残る・西側石材の保存状態が悪いが、規模が3倍以上/西側の「排水溝」の真の目的は不明だが、火薬庫の可能性もある |
3 |
B |
 |
菊ヶ浜台場(女台場) |
きくがはま(おんな、おなご) |
山口/萩市 |
|
台場(土塁) |
長約50m,高約5m,下部幅約18m,上部幅約9m |
元治元(1864) |
市史跡 |
WEB/台場事典p526 |
西側の土塁が一部残存 |
文久・元治の頃萩の沖合にも黒船が出没した際、海防のために菊ヶ浜の南側に6ヶ所にわたって築造した砲塁/女台場という通称は郷土を守る老人や婦人によって築塁されたことに由来 |
2 |
B |
 |
室積台場(女台場) |
むろづみ
(め) |
山口/光市 |
(象鼻ヶ岬) |
台場(石塁) |
2基,底面7×3m,高1.8m |
弘化3(1846)以前 |
市史跡 |
市教委/WEB |
3基中2基現存/平成15小規模な修復 |
台場の芯礎を赤土で盛り固め、外周を付近の海岸から採集した円礫の積石で覆っている四角錐台形の台場/女台場という通称は郷土を守る老人や婦人によって築塁されたことに由来→萩市の菊ヶ浜台場も同由来で女台場と呼ばれており、室積台場が後からあやかったものとされる |
2 |
B |
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勝坂砲台・跡 |
かっさか |
山口/防府市 |
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台場(石塁) |
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文久3(1863)頃 |
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市教委/歴史の道1p106 |
西側台場撤去/東側台場法面下部C改修/上部畑地化 |
藩主・毛利敬親による山口防備のための勝坂への関門の設置に併せて、関門の東西両側に設けた台場/当初2基があったが明治維新後、西側の台場は徹去され、現在は東側台場の石垣・土塁の一部が残る |
2 |
B |
|
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長崎ノ鼻砲台・跡 |
ながさきのはな |
香川/高松市 |
屋島最北端 |
台場 |
(中・下)大砲各3門 |
文久3(1863) |
|
現地解説板/WEB |
全体が風化して上・中・下段が判然としない |
高松藩が、勤皇家の藤川三渓に命じ、屋島の先端・長崎ノ鼻に築かせたもの/上・中・下段の3段に分かれた構造/下段台場は海に突き出ている→これほど眺めのいい台場は他にない |
2 |
B |
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津田台場・跡 |
つだ |
徳島/徳島市 |
津田砲台場史跡公園
<徳島藩> |
台場(土塁) |
長約110m,15㎝砲2門を含む30門の大砲 |
元治元(1864) |
|
台場事典p535
/WEB(城めぐ) |
公園整備/残存規模は当初の一部/台場の土塁の一部と火薬庫の壁の一部が残る |
築造:徳島藩士・勝浦安右衛門、小出由岐右衛門/徳島藩内では最大規模の台場 |
3 |
B |
 |
樺崎台場・跡 |
かばさき |
愛媛/宇和島市 |
宇和島歴史資料館
<宇和島藩> |
台場(石塁) |
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安政2(1855) |
市史跡 |
市教委/台場事典p555/WEB |
石組みは当時のまま/横に砲台の復元あり |
宇和島藩が家老・桜田佐渡を頭取、宇都宮九太夫綱敏・松田源五左衛門常愛を用掛りとして築いた台場 |
3 |
B |
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久良台場付属石塁・跡
(天嶬の砲台場石塁) |
ひさよし
(てんぎ) |
愛媛/(南宇和)愛南町 |
<宇和島藩> |
台場の付属施設
(石塁) |
長100m,高2.5m |
嘉永3(1850) |
町史跡 |
町教委 |
保存状態良好 |
上記の「久良台場」の付属施設/設計:高野長英/台場下の海岸に沿って造られた野面石乱積の石塁(砲台員の待避所、弾薬庫?) |
1 |
B |
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須崎西台場・跡
(土佐藩砲台・跡) |
すさき |
高知/須崎市 |
(中町2丁目) |
台場(石塁) |
長116m,砲7門 |
文久3(1863) |
国史跡 |
市教委 |
保存状態良好 |
工事責任者:高岡郷郡奉行/文久3年7月16日着工、郡中に寄付を命じ、一戸三人役の賦役を課し、突貫工事で8月27日には3ヶ所の台場(須崎東・中・西)を完成→そのうち、最大規模の西台場が残る/弓形/大砲は実戦には使われなかったが、試射時の能力は低かった(飛距離200m) |
2 |
A |
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高鉾島台場・跡 |
たかぼこじま |
長崎/長崎市(高鉾島) |
神の島町 |
台場
(古台場・新台場・増台場) |
東西250m,
南北120m |
承応2(1653)(古台場)、
文化5(1808)(新台場)、
文化7(1810)(増台場) |
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市教委/WEB(みさき道人) |
御石蔵・道具小屋跡の石垣、二ノ増台場、新規御台場跡は残る(台場跡は竹薮化) |
古台場は肥前・平戸藩、新台場は肥前・佐賀藩、増台場は筑前・福岡藩が構築 |
3 |
B |
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神崎台場・跡 |
こうざき |
長崎/長崎市 |
木鉢1丁目・西泊町 |
台場
(古台場・新台場・増台場) |
東西300m,
南北700m |
承応2(1653)(古台場)、
文化5(1808)(新台場)、
文化7(1810)(増台場) |
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市教委/WEB(みさき道人) |
二ノ増台場跡、新規御台場跡、常住小屋跡・御石蔵跡と思われる遺構が僅かに残る |
長崎湾防御の最重要台場/古台場は肥前・平戸藩、新台場は肥前・佐賀藩、増台場は筑前・福岡藩が構築/「従是神崎御焔硝藏掛並常住小屋境内」と刻字された標柱2本が現存 |
3 |
B |
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長刀岩台場・跡 |
なぎなたいわ |
長崎/長崎市 |
香焼町 |
台場
(新台場・増台場) |
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文化5-7(1808-10) |
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市教委 |
立入禁止(海岸沿いにあり船から石垣がよく見える)/三・四ノ増台場跡、常住小屋跡の石垣が残存 |
古台場は肥前・平戸藩、増台場は筑前・福岡藩が構築(新台場は不明)/旧香焼島の北端・長刀鼻に設置 |
3 |
B |
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魚見岳台場・跡 |
うおみだけ |
長崎/長崎市 |
戸町3丁目 |
台場(増台場) |
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文化7(1810) |
国史跡 |
市教委/WEB |
御石蔵、一~三ノ増台場、常住小屋跡・道具小屋跡の石垣が良好に保存 |
文化5のフェートン号事件を受けて改定された外国船渡来時の取扱法に準じて筑前・福岡藩が構築/対岸の神崎台場と相対して幅500mの港口を押さえる要地に設置/山麓台地に設け全面石垣が構築/中枢として海抜約65mの地点に五角形をした二ノ増台場を構築、御石蔵・常住小屋跡・道具小屋を設けた/その上部、海抜約80m地点に一ノ増台場、南側に突出した海抜約42mの地点に三ノ増台場を設置 |
1 |
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四郎ヶ島台場・跡 |
しろうがしま |
長崎/長崎市 |
神の島3丁目 |
台場(佐賀台場) |
東西200m,
南北90m |
嘉永6(1853) |
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市教委/WEB |
海に突き出た状態で良好に保存/台場内は雑木・竹が密生 |
肥前・佐賀藩が構築/神ノ島と長い石堤で結ばれた小島上に築かれた台場 |
1 |
A |
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田子島台場・跡 |
たごしま |
長崎/長崎市 |
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台場(大村台場) |
(一)18ポンド砲1,12ポンド砲1
(二)12ポンド砲2
(三)12ポンド砲1
(四)12ポンド砲1 |
安政2(1855) |
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WEB(みさき道人) |
石塁が残る(総延長約400m) |
大村藩が長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に築いた4つの台場の総称(一の台場~四の台場) |
3 |
B |
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経ヶ岳台場・跡 |
きょうがたけ |
長崎/諫早市 |
飯盛町池下 |
台場(佐賀台場) |
内径7.4m(円形台座:300度) |
慶応3(1867) |
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諫早史談40 |
直径7.4mの円形台座が残る/中心軸受けに丸石(後から置かれた) |
肥前・佐嘉藩が領内の東望・牧島・蠣道の3ヶ所に築いた砲台の1つ/円形台座の上に2個2組の「ころ」(現存せず)で支えた「応変台」を置き、中心軸受けに入れた軸(現存せず)の回りに大砲を回転させたとされる→県内では長崎市の「東望山砲台」の倍の大きさ |
2 |
B |
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洲崎台場・跡
(将棋頭台場・跡) |
すさき |
大分/臼杵市 |
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台場(石塁) |
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文久3(1863) |
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WEB/市教委 |
石垣が残る(東中学校の東) |
臼杵藩の台場中最大規模で、延べ32000人の農民を使役して構築/洲崎の先端部に造られた大規模な石垣の中央部が突出しているため、「将棋頭」の別称がある |
3 |
B |
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牧島台場・跡 |
まきしま |
宮崎/日向市 |
牧島山・東端付近 |
台場(石塁) |
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文久2(1862) |
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市教委/現地解説板 |
山中に石塁や土塁が残る |
岬の先端(延岡藩の牧場のあった場所を、幕末に台場として整備)/地元では「東九州屈指」と評価されている |
3 |
B |
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天保山砲台・跡 |
てんぽざん |
鹿児島/鹿児島市 |
天保山公園 |
台場 |
内径6.4mと3.0mの二重円 |
嘉永3(1850) |
市記念物 |
現地解説板 |
砲台の石台座の一部が残る |
薩摩藩27代藩主・島津斉興が構築/次の藩主・斉彬は天保山で連合調練を行い自ら閲兵するほど海防に熱心だった/文久3(1863)の「薩英戦争」でイギリス艦隊と交戦し破壊された |
4 |
B |
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祗園之洲砲台・跡 |
ぎおんのす |
鹿児島/鹿児島市 |
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台場(石塁) |
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嘉永6(1853) |
市史跡 |
現地解説板 |
石塁が残る |
薩摩藩28代藩主・島津斉彬が構築/文久3(1863)の「薩英戦争」でイギリス艦隊と交戦し破壊された |
3 |
B |