「わたしのもの」は、いったい誰のものなのか?
そんな素朴な問いかけを考えはじめて、ずいぶんと歳月が流れた。
私のモノを「わたしのもの」にしていたのは、
多様なコンテクストにむすびつけられた「ふさわしさ」の配置である。
これが、いま言えるぼんやりとした結論だ。
ある場面で、女性が口紅をつけているのは「ふさわしい」と思うのに、
男性が口紅をつけていたり、ポケットに口紅を入れて持ち歩いたりしているのは、
「ふさわしくない」と感じてしまう。
その「ふさわしさ」という感覚が、「誰かのもの」をつくりだす「力」になっている。
もう少し話を大きくすると、
日本では、自分のものを自分だけで消費するという「私的所有」の原則が
ふさわしい、あたりまえのことだと考えられている。
だから、「オレのものをどうしようと、オレの勝手だろう!」という言葉を前にすると、
それを頭からは否定しにくい、と感じてしまう。
でも、そのような論理を「あたりまえのこと」として行為している状況は、
むしろ例外に近いことに、ぼくらはもっと思いを馳せるべきなのだ。
身の回りにあるさまざまな「モノ」に目を向けてみると、
それがおかれたコンテクストに応じて、さまざまな所有のあり方をみせているのがわかる。
「口紅」であれば、所有のあり方がそれに関わる人の性別や
使われる場によって、その「ふさわしさ」を変える。
ほかにも、たとえば、友人たちと居酒屋にいるとき、
瓶ビールを独り占めして飲むことがあるだろうか?
自分が飲んだ分だけ計算して、勘定を支払うことがあるだろうか?
ぼくらは、「酒場」というコンテクストの「瓶ビール」に対して、
限りなく「分かち合う」という行為のかたちを結びつけている。
そして、それが「自分の(支払った)分を自分で勝手に飲む」という
「独り占め」のかたちとは、あくまでも区別しなければならないと、無意識のうちに感じている。
もちろん、その席にいる「人」がどういう社会関係にあって、
その飲み物が「ジョッキの生ビール」なのか、「ウーロン茶」なのか、
「瓶ビール」なのか、という「モノ」の性質によっても、
このコンテクストとそこに結び付けられる行為のあり方は変わってくる。
ぼくらは、そのつど、どういう振る舞いがふさわしいかを感じとりながら、
ある所有や分配の「かたち」を選択しているのである。
ひとつの原則を支える枠組みだけが「ふさわしい/あたりまえ」だと、
ぼくらが思い描いて行為するとき、その原則は、
いっそう強力に拘束力を発揮しはじめる。
「私的所有」が近代社会の基本的な原則だと、ぼくらが想像するとき、
その所有のかたちは当然のもので、交渉されるべきものでも、
侵害されるべきものでもない、という思いにとらわれるようになる。
そして、あらたな所有をめぐる状況が生じたときにも、
当然のこととしてその原則を援用することが擁護される。
そういう、「あたりまえだ」という想像自体が、
私的所有という所有者の論理の拘束力と権威を高める
「力」を生み出していることに、気づかないでいる。
エチオピアの人びとからしてみれば、
気の遠くなるような富を手にしてきた日本に生きるぼくらは、
自分のものとして所有している富の正当性を信じて疑わない。
日本人が汗を流し、働いて手にした富を自分たちのものにしていることに、
なんの後ろめたさも感じることはない。
でも、ほんとうにそれは正当なのだろうか?
その「正当性」は、もしかしたら、ひとつの所有者の論理だけを
唯一の正しい原則として「想像」してしまっているからではないのか?
エチオピアの村で人びとが土地や作物をいろんなかたちで
「誰かのもの」にしている姿をみているうちに、
その「正当性」の空疎さが透けて見えはじめたような気がする。
「他者」を理解するということは、「自己」を含めた世界の多様なあり方や
その可能性の広がりについての想像力を鍛えあげていくこと。
「文化人類学」は、そんなことに気づかせてくれる学問です。
ということで、「所有」についての話は、これでおしまい!
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