エチオピア的 第13回 「民族」/わたし/あなた



文化人類学は、別名で「民族学」とも呼ばれるように、
「民族」を研究する学問として知られてきた。

おそらく「民族」という言葉を聞くと、
自分とはあまり関係ないな、と思ってしまう人も多いだろう。
でも、じつは「民族」を考えるということは、
ある人間の集団やカテゴリー、そして、われわれ/かれら、
わたし/あなた、という区別を理解することにもつながっている。

これから、何回かにわけて、
文化人類学が研究してきた「民族」を考える視点が、
日本で暮らすぼくらの物の見方や考え方にも
ヒントを与えてくれる、という話をしていこうと思う。

「所有」の話では、エチオピアの例から日本の自分たちのことにつなげてみたけど、
今度は、日本の自分たちのことから、エチオピアの例について考えてみたい。

もともと、文化人類学は、ある民族が、
ひとつの独特な文化や慣習、言語、宗教などをもっていると考えてきた。
しかし、そうした「民族」についての研究が積み重なっていくと、
ひとつの民族のなかにも、複数の慣習や宗教があったり、
逆に、異なる民族とされていても、共通の文化をもっていたりすることがわかってきた。
(むしろ、わかってはいながら、それをあえて問題化してこなかったのだけど)

さらに、「国家」というものを考慮にいれると、
その「民族」の定義は、ますます難しくなっていく。

たとえば、日本民族といえるのは、どういう人びとのことなのか?
日本国籍をもつ人なのか、日本語を話す人なのか、
日本の文化を身につけている人なのか?

日本の国籍があって、日本語が話せて、日本の文化を身につけている、
ということであれば、金髪で青い目の日本人であっても、
黒い肌の日本人であっても、まったくいいのだけれど、
ぼくらは、そういう人を目の前にすると、
なんとなく「日本民族」とは言いにくいな、と感じてしまう。

逆に、ふつうに日本語も話せて、
他の日本人とほとんど変わらない生活をしていても、
日本の「国籍」をもたない人は、たくさんいる。

「民族」、あるいは「○○人」という人間の集団について突きつめていくと、
「われわれ」とは、いったい誰なのか、それは、どう「かれら」と異なるのか、
「わたし」とは、「あなた」とは、なぜ、どういう意味で、「わたし」であったり、
「あなた」であったりするのか、考えざるをえなくなる。

文化人類学について聞きかじった人なら、
おなじみのテーマかもしれないけれど、
ここで、あらためて、考えなおしてみたい。

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