エチオピア的 第14回 重なり合うカテゴリー



ぼくらの身の回りには、人間の集団をあらわすさまざまカテゴリーがあふれている。
男と女、関東人と関西人、大人と子ども、長男と次男、先生と生徒、正社員とフリーター。

そして、それぞれの集団には、その違いを強調するような性格づけがなされている。
たとえば、大人はしっかりしていて、子どもは甘えている、
関東人はクールで、関西人はおしゃべり、長男は慎重だけど、次男は奔放、といった具合に。

ここでのポイントは、それぞれのカテゴリーが、「男/女」というように、
対照的なグループ間の違いによって定義されているという点だ。
ぼくらは、こうした差異をそのつど意識しながら、人を何かのカテゴリーにあてはめている。

「あいつは、やっぱ関西人だよな〜」とか、
「ほんと、男って、単純よね!」とか言いながら、
たがいに、その「ひと」のことを説明しあったり、納得しあったりしている。

ただ、どんな人であっても、かならず同時に複数のカテゴリーに属している。
「関西人」は、同時に「男」か「女」のカテゴリーにも属しているし、
「学生」だったり、「社会人」だったり、「京都府民」だったり、「大阪府民」だったりする。

私自身も、(エチオピア人ではない)日本人であり、(女性ではない)男であり、
(学生ではない)教員であり、(関西人にはなりきれない)九州出身で、
(次男ではなく)長男・・・と、ほとんど無数にあげることができる。

このとき、それぞれのカテゴリーの一般的な性格づけをあげていけば、
「私」という存在に近づいていくかといえば、かならずしもそうとは限らない。
「私」は、九州出身だが、べつにお酒が強いわけではないし、
日ごろは、「教員」という意識をもって生活しているわけでもない。

たしかに、どれも「私」の属性であることは間違いないけれど、
つねに、そのすべてが「私」のことを示しているようにも思えない。

もちろん、大学の教室では、学生に対して「教員」であることを求められる。
その場では、「九州男児」であったり、「長男」であることは、ほとんど意味をなさない。
「教員」として、授業中に私語をしている学生がいれば注意をしたり、
「Webからコピペしたら落とすぞ」なんて言いながら、レポートの課題を与えたりする。

一方、街中をぶらぶらしているときに、「私」が「教員」であることはない。
そんな振る舞いをしていたら(偉そうに人に注意したり、説教をたれたり)、
それは、ただの変な人でしかない。
つまり、私が「教員」であるのは、学生との関係という場面に限られている。

ぼくらは、他者を理解しようとするとき、
さまざまなカテゴリーをたよりに、その人のことをわかろうとする。
そして、同時に、自分自身に対しても、同じ視線を向ける。
「自分は、やっぱ○○だから」、「自分は○○にはなれない」というように。
この「○○」なしには、ほとんど「ひと」について語ることさえできないくらいだ。

それは、自分や他人のことをわかったり、社会の成り立ちを理解するために、
とても重要なことなのだけれど、そこには、いったいどんな作用がはたらいているのか。
それは、「民族」について語ってきた文化人類学の根幹に関わる問題でもある。
次回も、さらに考えてみたい。

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