エチオピア的 第15回 血液型が当たる理由



喫茶店の片隅。
あなたの目の前にひとりの女性が座っている。
その人は、さっきから自分のことばかり喋りつづけている。

さて、あなたはその人のことをどう思うだろうか?
そのとき、あなたには、いろんな「説明/理解」の選択肢がある。

「やっぱり女性っておしゃべりだよな」
「さすが関西人、話し始めたら止まらない」
「この子、血液型○型だったな。さすがマイペースなわけだ」
「今どきの若い子って、ほんと人の話を聞こうとしない」

ここであげた“女性”“関西人”“血液型”“若い子”というのは、
すべてその人の属性の一部であることに間違いはない。
でもふつうは、そのどれかひとつだけが選ばれることになる。

日本人が大好きな「血液型」。
たしかに、日常生活を送っていて当たってるよな、と思う場面も多い。
でも、なぜそれは当たっているように思えるのだろか?
上の例をちょっとだけ冷静に考えてみれば、その理由がわかる。

こんな会話を交わしたことはないだろうか?
「ぜったい血液型○型だよね?…え?違うの?意外ー!」

そう。血液型が当たっているのと同じくらい、
血液型が予想とは違っているケースだってよくあること。
でも、なぜか血液型は当たる、と思えてしまう。
どうしてなんだろうか?

それは、「血液型」が当たるときにだけ、持ち出されているから。
それぞれの血液型の人がどのような性格なのか、それはあらかじめ決まっている。
A型は○○で、B型は○○、O型は○○、AB型は○○、と。

それを逆にして理解しようという人はほとんどいない。
たとえば、あなたの目の前の人がA型だとしたら、
その人の性格をA型のデーターベースの一部として収集して、
A型の性格をより正確に理解しようなんて人は、いない。

A型の性格は、もうすでに○○であることが決まっていて、
○○な人があらわれたときに、その「説明/理解」の根拠として持ち出される。
だから、血液型は外れない。

大きく外れているときには、他の根拠が探し出されて、
血液型が当たっていないことは、ほとんど意識の外に追いやられてしまう。
「やっぱり女性は…」「さすが関西人は…」「今どきの若い子は…」という具合に、
人の性格を説明するための枠組みは、他にいくらでもある。

前回、人は潜在的に複数のカテゴリーに属していて、
それが状況によって顕在化すると書いた(私はつねに「教員」であるわけではない)。
それは、他人のことを「理解/説明」しようとするときも同じなのだ。

“女性”“関西人”“血液型”“若い子”…
その人が何者であるかの「理解/説明」には、つねに複数の可能性がある。
でも、そのうち、その状況でもっとも当てはまりそうな属性だけが選びとられる。
そして、その人は、それを「理解/説明」しようとする人たちによって、はじめて「何者か」になる。
(その人は、あらかじめつねに「A型の人」なわけではなく、
「血液型」という理解/説明の枠組みが選ばれたときにだけ「A型の人」となる)

「あの子、血液型○○だからねー」。
そうやって、なんだか妙に納得できてしまうと、
今度は、「血液型が人の性格をよくあらわす」というイメージが、
よりいっそう、その神秘的な説得力を強めていく。
「血液型って、やっぱよく当たる」。

そう。血液型は、当たるときに持ち出されるから、よく当たる。
ま、簡単なカラクリですね。

すぐに「そんなことない!やっぱ、当たるって!」という声が聞こえてきそうですが…。

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