エチオピア的 第16回 ○○人になる




前回と前々回で書いてきたことを整理しておこう。

まず、人は潜在的に複数のカテゴリーに属している。
日本人、教員、九州出身、長男、30代…。
どのカテゴリーがその人をあらわすのに適切なのかは、状況によって決まる。

そして、それは自分が何者として相手に対面するか、というだけでなく、
相手に何者としてみなされるか、という相互の作用によって成り立っている。

私は学生を前に教壇に立つとき「教員」としてふるまうことを自らに求めると同時に、
学生から「先生」と呼びかけられることで、「教員」であることを強いられる。
ほんとは「友達」くらいに思ってほしくても、「先生」という呼びかけによって、
否応なく「学生―教員」という関係で接することが求められ、
話す言葉から、立ち居ふるまいまでが変わってくる。

この「呼びかけ」というは、けっこう重要なもので、
たとえば、男女が恋愛関係になったとき、最初に「呼び名」を変えることは、
今後ふたりが関係を築いていくための、とても大切なきっかけになる。
ふたりが親密になったから呼び名が変わったわけではなく、
あえて呼び名を変えることで、親密な関係にあることが互いに確認されているのだ。

自分が「○○」として振る舞おうとするとき、
そして、他の人から「○○」として受け入れられるとき、
ぼくらは、いくつかの可能なカテゴリーのなかから、
その状況でもっとも適切なひとつを選びだしている。

こうしたことを、少しだけアカデミックに言うならば、
ぼくらのアイデンティティ(=何者であるか)は、他者との関係のなかで決まる。

相手との関係によって、自らを何者かにし、
相手からの呼びかけや眼差しによって、何者かであることを強いられる。
つまり、ぼくらは、もともと強固なかたちで「何者か」であるわけではない。

「日本人」や「アメリカ人」といったカテゴリーにも同じことが言える。

前回の喫茶店の例をもう一度、考えてみよう。
あなたの目の前にいた女性が、ふとこんな言葉をもらす。
「じつは、わたしの両親、中国人やねん…」。

日本で長いあいだ生活していた彼女は、
日本語もふつうに話すし、見た目も日本人と変わらない。
でも、この言葉を聞いたとたん、はじめて、あなたと彼女は「日本人」と「中国人」として対面することになる。

突然、それまで見えなかった関係のあり方が顕在化して、
あなたのふるまいや話す言葉までもが微妙に変化するかもしれない。
それまでは何の意識もせずに話していたのに、難しい日本語の語彙を口にするのをためらったり、
話題を選ぶのに気をつかいはじめるかもしれない。

彼女が自分の話ばかりしていることを、「血液型」のせいにしていたのに、
今度は、「中国人」であることが説明のもっともらしい根拠となるかもしれない。
こうしてあなたは「日本人」になり、目の前にいる女性は「中国人」になる。
(少なくとも、そう意識するまで、あなたは「日本人」としてふるまう必要はなかったはずだ)

この「〜人」や「民族」といったカテゴリーは、
人間の集団をあらわす指標のなかで、とても強力な枠組みとして作用しはじめる。

目の前の人が「中国人」であることが意識されたとたん、
"女性" "関西人" "血液型" "若い子"といったカテゴリーは、
すべて背景に退いて、ほとんど意味をなさなくなってしまう。

それまであなたが知っていたり、観察していた彼女の特徴は、
いったん無効になり、「日本人」と「中国人」という枠内で再編集されることになる。

もちろん、この「日本人―中国人」という関係も、不変のものではない。
ふたりで何度か会っているうちに、「年上―年下」という関係、
あるいは「血液型○型―○型」としての関係、「男―女」の関係といった
別の間柄が顕在化して、国の違いが意味を失うような場面はいくらでも起こりうる。

ぼくらは、「日本人」であることを最初から決まった自明のものだと思って生活している。
自分が日本人であること、隣に住んでいる人が日本人であるだろうことを、
ほとんど意識することもなく、不思議に思うことなく暮らしている。
だから、その前提が崩れそうになると、ちょっと身構えてしまう。

でも、ぼくらはつねに「○○人である」のではない。
ある状況において、ある関係において、「○○人になる」のだ。




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