エチオピアは、中東に近い北東アフリカに位置しているため、
古くから、キリスト教とイスラームの両方に接してきた。
村にも、多数派のムスリムのほかに、エチオピア正教のキリスト教徒、
そして、少数ながらプロテスタントのキリスト教徒が生活している。
以前、「エチオピアの食べ物」についての回で、
人びとは異なる宗教の肉を絶対に口にしない、と書いた。
このタブーは、かなり厳格なもので、
肉の入ってない料理が、いっしょに食べられることはあっても、
肉入りの料理がともに食されることは、まずありえない。
それでも、宗教が異なるからといって、
離れて生活しているわけでも、交流がないわけでもない。
とくに、「困ったときの神だのみ」は、「神様」の違いさえも乗り超えてしまう。
昔、村にはムスリムの聖者として崇敬される人が住んでいた。
その聖者は、雨が少なくて困ったときには、遠くの空から黒い雲を引き寄せ、
雨を降らすことができた、といわれている。
いまでも、雨が降らずに日照りが続くと、
その聖者のモスクに村人が集まり、お祈りを捧げる。
その場には、ムスリムだけでなく、キリスト教徒も来て、
ともに、ムスリムの祈りの言葉に合わせて、雨乞いをする。
村で病気が流行したり、大きな問題が起きたときも、
宗教を超えて、ともに聖者への祈りが捧げられる。
村の問題に限らず、人びとは、個人的な問題についても、
いくつかの「神」をうまく使い分けている。
あるムスリムの男性が、精神を病んでしまった。
困った家族は、毎日のようにアッラーにお祈りをして、病が治るように願った。
しばらくして、家族は、異民族のキリスト教徒の呪術師のもとに行き、
どうしたら治るのか、相談にのってもらい、呪薬を処方してもらった。
それでも、治らないとなると、
離れた街に、病気がよく治ることで知られた教会があることを聞きつけ、
男性の父親は、彼をつれて、その教会をたずねた。
教会の牧師は、十字架で男性の頭をたたいて、聖水を頭からかけ、
病気の原因となっている悪魔を追い払う儀式を行ったそうだ。
結局、男性は、すぐにはよくならなかったものの、
病気などの問題がおきたとき、人びとがいろんな「神々」を頼りにしていることがわかる。
キリスト教やイスラーム、と聞くと、
宗教の戒律に厳格で、異なる宗教に敵意をもっているイメージが強い。
でも、エチオピアの村で生活している人びとは、
けっこう柔軟に「神様」を使い分けている。
その点、クリスマスも、初詣も、お墓まいりも、
とくに「神様」の違いを気にすることのない日本人だって、
それほど、特別ではないのかもしれない
。