エチオピア的 第18回 困ったときの「神々」だのみ





 前回、村にはさまざまな民族が生活していることを紹介した。
 彼らは、大きくムスリムとキリスト教徒にわけられる。

エチオピアは、中東に近い北東アフリカに位置しているため、
古くから、キリスト教とイスラームの両方に接してきた。

村にも、多数派のムスリムのほかに、エチオピア正教のキリスト教徒、
そして、少数ながらプロテスタントのキリスト教徒が生活している。

以前、「エチオピアの食べ物」についての回で、
人びとは異なる宗教の肉を絶対に口にしない、と書いた。
このタブーは、かなり厳格なもので、
肉の入ってない料理が、いっしょに食べられることはあっても、
肉入りの料理がともに食されることは、まずありえない。

それでも、宗教が異なるからといって、
離れて生活しているわけでも、交流がないわけでもない。

とくに、「困ったときの神だのみ」は、「神様」の違いさえも乗り超えてしまう。

昔、村にはムスリムの聖者として崇敬される人が住んでいた。
その聖者は、雨が少なくて困ったときには、遠くの空から黒い雲を引き寄せ、
雨を降らすことができた、といわれている。

いまでも、雨が降らずに日照りが続くと、
その聖者のモスクに村人が集まり、お祈りを捧げる。
その場には、ムスリムだけでなく、キリスト教徒も来て、
ともに、ムスリムの祈りの言葉に合わせて、雨乞いをする。

村で病気が流行したり、大きな問題が起きたときも、
宗教を超えて、ともに聖者への祈りが捧げられる。

村の問題に限らず、人びとは、個人的な問題についても、
いくつかの「神」をうまく使い分けている。

あるムスリムの男性が、精神を病んでしまった。
困った家族は、毎日のようにアッラーにお祈りをして、病が治るように願った。

しばらくして、家族は、異民族のキリスト教徒の呪術師のもとに行き、
どうしたら治るのか、相談にのってもらい、呪薬を処方してもらった。

それでも、治らないとなると、
離れた街に、病気がよく治ることで知られた教会があることを聞きつけ、
男性の父親は、彼をつれて、その教会をたずねた。
教会の牧師は、十字架で男性の頭をたたいて、聖水を頭からかけ、
病気の原因となっている悪魔を追い払う儀式を行ったそうだ。

結局、男性は、すぐにはよくならなかったものの、
病気などの問題がおきたとき、人びとがいろんな「神々」を頼りにしていることがわかる。

キリスト教やイスラーム、と聞くと、
宗教の戒律に厳格で、異なる宗教に敵意をもっているイメージが強い。

でも、エチオピアの村で生活している人びとは、
けっこう柔軟に「神様」を使い分けている。

その点、クリスマスも、初詣も、お墓まいりも、
とくに「神様」の違いを気にすることのない日本人だって、
それほど、特別ではないのかもしれない 。


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