エチオピア的 第19回 境界線の引き方




言語や宗教の違いも、軽やかに超えてしまうエチオピアの村人たち。
ふつうに複数の民族の言語を話せるし、宗教が違っても、
困ったときには、ためらいもなく別の神様に頼っている。
いっけん「民族」というものが、あまり重要でないかのようにも思えてしまう。

でも、人びとの付き合い方をよくみていると、
やっぱり「民族」が、ひとつのベースになっているのも事実。
こうした状況をどのように理解したらよいのだろうか?

文化人類学の有名な理論に「エスニック境界論」というのがある。
これは、フレドリック・バルトという人類学者が1960年代末に唱えた理論。

簡単にいうと、民族は、中身が違うから違うのではなくて、
違う民族だという境界線が引かれることで、違うものになる。
なんだか、なぞなぞのようだけど、もう少し具体的に説明していこう。

ふつう、民族が違えば、文化も違うと考える。
でも、よく調べると、同じような文化要素を共有していても、
異なる民族とされるケースが、たくさんある。

言語も、関西弁と東京弁ほどの違いしかないのに、
別の民族だ、とされることもあれば、
それが日本人というひとつの民族になっている場合もある。

つまり、中身=文化の違いが大きいから、
別々の民族になっているとはかぎらない。
「違いがある」という前提で、異なる民族だと線が引かれる。
そこで「あいつらは○○で、おれらは××だ」と差異が強調されていく。

エチオピアの村でも、民族が違うからといって、
見た目が変わるわけでも、生活習慣に大きな違いがあるわけでもない。
同じ村に住んでいれば、手に入る食糧も同じだから、
似たような食事にもなるし、いろんな習慣だって、
他の地域に住んでいる同じ民族のほうが違いが大きかったりする。
言葉も、世代が変われば、もとの民族の言語より、地元の言語になじんでしまう。

でも、人びとは、そうした人びとのあいだに、
なんだかんだと理由をつけては線引きをして「差異」を強調する。
「あいつらは、こっそり豚肉を食べている」。
キリスト教徒も、ムスリムも、互いに相手を非難するときによく使う言葉だ。

こうしたことは、少し前の回で書いたことにもつながっている。
それまではふつうに接していたのに、相手が中国人だとわかったとたん、
その人の振る舞いのすべてが「中国人だからだ」と思えてしまう。
差異の理由が、「民族」という境界線の引き方につなげられてしまうのだ。

血液型の回で書いたことも同じ。
同じ日本人であっても、いろんな性格の人がいる。
そこで、ぼくらはさまざまな境界線の引き方を使い分けている。
「若者/大人」、「男/女」、「血液型」…。

どの境界線がひかれるかによって、同じ人であっても、
相手に対する理解・説明のしかたが変わってくる。
「やっぱ、いまの若い子は…」「女ってやつは…」「アイツ○型だからな…」

ネット上で、よく中国や韓国の人を中傷する書き込みを目にする。
日本にもいろんな人がいるように、中国や韓国にだって、いろんな人がいる。
その違いの理由を、すべて「中国」とか「韓国」という線引きのせいにしている。

中国で何か犯罪がおきれば、「やっぱ中国人は…」となり、
同じような犯罪が日本でおきると、今度は「悪徳業者は…」とか、
「金儲け主義が…」とか、いろんな線引きが持ち出されることになる。

ぼくらは、さまざまな差異に囲まれている。
その差異のなかに、どんな線引きをするか。
その線引きをするということ自体のなかに、
「民族」/わたし/あなた、それぞれの「差異」を理解する鍵がある 。


→「エチオピア的」バックナンバー・トップ