エチオピア的 第20回 存在の手がかりとしての<差異>




エチオピアの村で暮らすさまざまな民族の人たち。
彼らは、まず互いが違う「民族」であることを前提に境界線を引き、
それぞれの<差異>を誇張したり、指摘しあったりしている。

道で会うと、きまって私にオロモ語を話させる男性がいた。
日ごろ、私はエチオピアで広く話されているアムハラ語を使うことが多かった。
でも、この男性は、しきりにオロモ語で話しかけ、
私とオロモ語で会話するのを周囲の人にも見せつけて喜んでいるようだった。
心のなかで、私はこの男性のことを「オロモ・ナショナリスト」と呼んでいた。

あるとき、村人の出身民族について調査していたとき、
お世話になっていた年長の農民が、その男性の父親がクッロという、
エチオピア南部の出身者であったことを教えてくれた。
まだ、エチオピアで奴隷が売買されていた時代に、
男性の父親は、奴隷として村につれてこられ、
1940年代に奴隷が禁止されたのちに、ふつうの農民として生活するようになったという。

いつも「オロモ・ナショナリスト」と呼んでいた男性は、
もともとは「オロモ」ではなかったのだ。
そのとき、なぜ彼が「オロモ」であることをあれほど強調する必要があったのか、
少しだけわかったような気がした。

ぼくらは、自分たちが何らかの集団に属していて、
それが別の集団とは異なる文化や性質をもっていることを強調することで、
「○○人」であるというアイデンティティを確かなものにする。

逆にいうと、他の集団との<差異>を示すことで、
はじめて「われわれ」として存在することができる。

そうやって考えると、
日本人がしきりに「韓国人」や「中国人」との違いを強調する理由も理解できる。
エチオピア人からみれば、見た目も、文化も、ほとんど同じにしかみえないのに、
ぼくらは、何かあると、身近な隣人との違いを示そうとする。

身近であればあるほど、それが自分たちと似ていれば似ているほど、
日本人が「日本人」でありつづけるためには、
あえて彼らとの<差異>を発見しつづけなければならないのだ。

それは、エチオピアに80を超える民族がいることの理由のひとつでもある。
もちろん「民族」の生成には、さまざまな歴史が関係している。
それでも、民族の違いを生み出してきた背景には、最初から相容れない差異があるのではなく、
「われわれ/かれら」の境界線をひき、その集団の差異を「想像/創造」する人間の営みがある。

線が引かれることで、違いが強調され、生活空間や社会関係が区別され、
しだいに、いろんな<差異>が現実のものになっていく。

まずは境界線ありき。<差異>は発見され、つくりだされる。
ここで重要なのは、境界線を引くためには、かならず「他者」が必要だということ。
「われわれ」が存在するためには、「かれら」という存在がいる。

それは、民族などの集団間の関係だけにとどまらない。
「わたし」が存在するためには、かならず「あなた」が必要となる。


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