「所有」という問題を考えるために、何をどう調査したらいいのだろうか?
文化人類学のフィールドワークでは、「問い」を現場で見つけるだけでなく、
その「問い」へのアプローチ方法も、現場で模索していくことになる。
「わたしのもの」をめぐる彼らの感覚には、何か腑に落ちないものを感じる。
でも、あまり現地語を話せなかった私には、できることは限られていた。
私は、当時、沖縄で牛の共同放牧の調査をしていた。
そこで、とりあえず村の放牧地に通うことにした。
毎朝、長靴をはいて低湿地におり、
頭数をかぞえるカウンターを片手に、牛の背中を追いかけた。
緑のあざやかな草原では、
村人のもちよった牛たちの群れが、のどかに草を食んでいる。
私は、まず村の放牧地の簡単な地図をつくり、
何時にどこに何頭の牛がいるのか、ノートに記録することからはじめた。
村には3つの放牧集団があり、
それぞれが村の低湿地をおおまかに使い分けながら牛を放牧している。
こんな基本的なことを理解するまでに2〜3週間はかかった。
さらに、だいたいの牛の放牧経路や放牧集団の構成などを把握するまでには、
1ヶ月以上、牛の動きを記録しつづけなければならなかった。
朝、あるところに50頭の牛がいる。
次の日、同じ場所に行ってみると、100頭に増えている。
なぜ牛の数が2倍に増えたのだろう。
またしばらく通い続けると、村の別の群れが同じ場所で合流していたと知る。
そんな単純なことか、と思われるかもしれないが、
当時は、そんな小さな謎を毎日ひとつひとつ解いては、
また別の謎にぶつかる、というくり返しだった。
村に滞在しはじめた最初の2ヶ月を終え、
私は、ようやく牛の放牧の全体像を理解できたという思いで村を離れた。
ところが、1ヶ月後に再び村に戻ってきた私は、
以前とはまったく違う光景を目の当たりにすることになる。
まず、低湿地にあれだけいた牛の姿がまるで見当たらない。
話を聞いてみると、別の場所で放牧されているという。
その場所に行くと、牛の数が前に記録したものとはまるで合わない。
一度はすべて解けたと思っていた謎が、
またいっそう深い謎に包まれてしまったかのようだった。
「なんでなんだ?」という失望感と、
「何が起こったんだろう?」というドキドキ感を胸に、
また牛の記録をつける日々がはじまった。
村では、ちょうどトウモロコシの収穫が終わり、
丘陵地に広がる畑は、刈り株だけが残っているような状態になっていた。
この刈り跡の畑で、牛が放牧されるようになり、
3つあった放牧集団も5つほどに分裂していたのだ。
畑の収穫が終わると、
それまで個人の畑として耕されていた土地が、みんなの共同の放牧地となる。
たとえ牛をもたない人の畑でも、他人の牛の群れがずかずかと入っていく。
日本では考えられるだろうか?
私の頭には、何も使っていない空き地でも「立ち入り禁止」の看板が立てられ、
厳重に柵で囲われている光景が浮かんでいた。
エチオピアでは、自分の土地であっても、他人の牛が入ることを許容している。
この「わたしのもの」をめぐる寛容さ。そこには何があるのだろうか?
短波ラジオをめぐる出来事と、手探りではじめた牛の放牧調査とが、
「所有」という問いの周りで小さな渦を巻きはじめた。
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