貧しい者は、作物を分け与えてもらうために、
さまざまな方法を駆使しながら働きかけを行っていた。
たとえキリスト教徒であっても、イスラームの祝福の言葉を投げかけ、
異なる民族の言葉を流暢に操って、「持てる者」にアプローチしていた。
村で生活をつづけていると、こうした対面的な「働きかけ」だけでなく、
豊かな者が、つねに見えない圧力に晒されていることがわかってきた。
ある農民が耕している畑に行ったときのことだ。
牛に犂をひかせて畑を耕しはじめた農民が、
土のなかに何かが埋められているのに気がついた。
掘り起こした物体をみながら、兄弟で何やらささやきあっている。
のぞいてみると、こぶし大の黒っぽいものが、
ちょうど「おひねり」のようなかたちでビニール袋に包まれてあった。
彼らはそれが何なのか、その場では詳しく説明してくれなかった。
そして後日、それが作物を実らせないようにする「呪物」だと打ち明けてくれた。
しかも、親戚の者が埋めたものであるらしい。
彼らがあまり働かないように、自分たちよりも豊かにならないように、
という願いが込められているのだと言う。
収穫がたくさんあれば、近親の者には分け与えてもらえる可能性もでてくる。
親戚の収穫が多くなったからといって、なんの不利益があるというのか?
自分たちよりも豊かになることが、それほど許せないことなのだろうか?
ほんとうにそれが親族が埋めた「呪物」なのかを確かめる術はない。
ただ、彼らの真剣な表情をみていると、
そうした行為がリアリティをもって受けとめられていることは間違いない。
ある農民は、次のように説明してくれた。
「作物を与えて助けてあげても、あとで仲が悪くなってしまうことがある。
悪い噂を流されたり、呪術でこれ以上、豊かにならないようにされたりする。
『なぜそんなに豊かになるんだ』と責められ、
『どうせ、ちゃんと働いて手にしたものではないだろう。
呪術のおかげで豊かになったんだ』と言われてしまう。
なんで自分よりも豊かになって恵むようなことをするんだと、それが許せないんだ」
「豊かになる」。そこには、つねに何らかの嫌疑がかけられてしまう危険が潜んでいる。
じっさい村で豊かになった者たちの話を聞いていくと、ほとんどすべての者に
「呪術をつかって儲けた」といった疑いがかけられていることがわかってきた。
「豊かさ」には、つねにネガティブな「まなざし」が向けられている。
それが、富を独り占めさせない見えない圧力となっていたのだ。
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