「豊かさ」には、つねにネガティブな「まなざし」が向けられ、
富を分け与えるよう圧力がかけられている。
豊かな者は、妬まれたり、悪い噂をたてられることを恐れ、
つねに寛容に振る舞うことを強いられている。
ただし、富を与える側も、その圧力に一方的に屈しているわけではない。
あるとき「サトウキビ」をめぐって、こんなことがあった。
ある農民が、自分の屋敷で栽培していたサトウキビを
一度に安い値段で村の青年に売却した。
その青年は、毎日、サトウキビを刈り取りにきては、
小学校の前や村の大通りで売っていた。
町の商人に売却するのならわかる。
しかし、すべてのサトウキビは村の中で売られていた。
不思議に思った私は、「なぜ自分で刈り取って売らないのか?」とたずねた。
そのほうが当然、多くの利益をあげられると思ったからだ。
すると彼からは予想もしなかった答えが返ってきた。
「うちのサトウキビが大きくなってきたのを見たり、
その噂を聞きつけたりして、たくさんの人が分けてくれないかと言ってきていた。
そんなとき、『じつは、ちょうどこのまえ、税金の支払いに困って売ってしまったんだよ』
と答えればいい。もし、彼に売ってなければ、今ごろ少なくとも10人には分け与えていて、
もうなくなってしまっていたはずだ。少ない額でも人に売った方がずいぶんとましだよ」。
もし、サトウキビを自分の手もとにおいたままにしていたら、
それはすぐに「分配」の対象になって、
親族や村の知人などに分け与えなければならなくなる。
そこで、熟して他人に乞われる前にすべて売却したというのだ。
欲しいといって人から乞われると、
サトウキビのように「商品」になりうる作物であっても「分配」せざるをえなくなる。
だから、早めに現金へと換えてしまえば、だれも「よこせ」とはいえなくなる。
前もって他者に売却することで、サトウキビという富を現金にかえ、
「分配」の領域からはずすことができたのだ。
「自分のもの」への寛容な態度の裏側には、
富の所有をめぐる目には見えないさまざまな攻防が隠されていた。
こうした場面を「観察」するために、事前に準備を重ねたり、
調査計画を綿密に立てていたわけではない。
フィールドワークにおける「問い」が、
現地で時間を過ごすという営みのなかで芽生えてくるのと同じように、
その問いを解く鍵も、人びととの日常的な暮らしのなかに埋もれているのだ。
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