エチオピア的 第8回 <ふさわしさ>の配置と再配置



エチオピアの村で「調査」という名の生活を続けながら、
「所有」について、いったい何を理解できたのだろうか?
ここで、簡単にポイントをまとめて、最初の問いに立ち戻っておこう。

私の感じた「所有」をめぐる違和感は、どこから生じたのか?
エチオピアの村で短波ラジオが大家に黙ってもっていかれたとき、
私は、エチオピアには「誰のものでも、みんなのものとして扱う」といった、
日本とはまるで違う「所有観」があるのではないか、と感じた。
(それが、古典的な人類学の見方にそっていることは、第5回で指摘した)

しかし、村で過ごす時間が積み重なっていくうちに、
少しずつ、人びとのあいだに潜む「分配」を求める圧力や
微妙な駆け引きの存在に、気づかされるようになった。

人びとは、いつも自分のものを寛容に分け与えているばかりではない。
あるときは、「分け与える」ことをあからさまに拒んだり、巧妙に避けたりしていた。
与えすぎると今度は自分が困ってしまう、という現実的なジレンマにも直面していた。

そこでは、人びとがモノの所有や分配について、
ひとつの原理や原則にそって行動しているのではなく、
さまざまな社会関係の網の目のなかで、相互に「ふさわしさ」を作り上げていたのだ。

貧しい者が、「もらって当然だ」という態度をとったり、
「豊かな者は呪術をつかって儲けた」、と非難することは、
「分け与える」という行為の正当性をつくりだすひとつの「働きかけ」であり、
与える側が、ときにその申し出を厳しく拒絶したりすることは、
それが、つねに「ふさわしい」わけではないという「牽制」でもあった。

こうした日々の攻防のなかで、「分け与える」という行為が遂行され、
さまざまな場面や社会関係におけるモノの<所有>という現象がかたちづくられていく。

「わたしのもの」をめぐる独特の所有観という最初の直感。
それは、じつは、私自身の想像力の欠如でしかなかった。
そうしたことが日本でもふつうに起こりうることに、思いが至らなかった。
今なら、そう考えることができる。

たとえば、そのラジオが一緒に暮らしている家族のものだったらどうだろうか。
とくに断りもせずに別の場所にもっていくようなことがあったとしても、
それほど不思議なことではない。

ここでは「家族」という社会関係における「ラジオ」の所有が、
他の社会関係における場合とは異なっている点がポイントになる。

エチオピアにおいて私が違和感を抱いたのは、
じつは「わたしのもの」がそうでないように扱われた、ということ自体ではなく、
むしろ私と大家との間柄において、私が「ふさわしい」とは思えないかたちで
ラジオが扱われたことだったのだ。

もちろん、こうした社会関係のなかの「モノ」の位置づけには、
意味が曖昧な領域が、かならず存在する。
人によって解釈にずれが生じ、その解釈の正当性をめぐって争いや駆け引きが起きる。

大家が私のラジオを持っていったとき、たとえば私が強い口調で怒っていれば、
彼は私との関係がそれほど親密でないことを、
ラジオなどを互いに自由に使えるわけではないことを確認することになっただろう。

私が何も言わずラジオを持たせたことで、彼は私との関係について、
モノを共有できるくらい親密なものなのだと認識したに違いない。
あるいは、彼としてもあまり確信はもてないままラジオを部屋にもっていったあと、
私が返せと主張しなかったことで、
それならこのまま職場にもっていってもよかろう、と思ったのかもしれない。

少なくとも、私と大家との一連の相互行為によって、
結果として、二人がそうしたモノを共有するような親密な間柄なのだと、
互いに認め合うことになった。

モノの所有の「ふさわしさ」は、社会関係によって異なる現れ方をする。
そして、その「社会関係」は、互いの行為の積み重ねによって、定義・再定義されていく。
そこには、「ふさわしさ」を、どういう関係や場面に配置していくのか、という攻防がある。

こうしてみていくと、日本に暮らすわれわれも、
じつにさまざまな所有の<ふさわしさ>を配置・再配置しながら生きていることがわかる。
次回は、エチオピアの村から、日本の自分たちのことを眺めてみよう。

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