エチオピア的 第9回 <他者/自己>を理解するということ



生まれ育った場所とは異なる社会に身をおくと、
そこに暮らす人びとが自分たちとはまるで違うように感じることは多い。

そして、そんなとき、つい「やっぱり文化が違うよな」とか、
「物の考え方が日本人とはまるで違う」といって、
何かをわかったような気になってしまう。

この「違和感」や「ずれ」をどう理解したらいいのか?
「異文化」という<他者>を研究対象としてきた文化人類学にとって、
それは、つねに大きな問いであった。

私自身、最初にエチオピアで生活をはじめたときは、
エチオピアには日本とは異なる「所有観」があると考えて、
どうしたら、その異なる「所有観」を把握できるのか、悩んでいた。

A社会にはAという所有観があり、B社会にはBという所有観がある。
きっとエチオピアの農村社会にも、固有の所有観があるはずだ。
そんな構図を思い描いていた。

しかし、たびたびエチオピアと日本とを往復していうちに、
こうした社会に固有の「所有観」という視点が、
とても短絡的な見方だったことに気づかされるようになった。

たとえば、われわれ日本人が「わたしが所有するもの」という場合、
その「所有」をどういう概念として認識しているだろうか。

「わたしが所有するもの」は、「わたし」が自由に使用できるし、
それで何らかの利益を得ることもできるし、売却することもできる。
「わたし」の許可なしに他人がそれを勝手に使用したり、利益をあげたり、
処分したりすることはできない。

日本人の所有概念がこの「私的所有」の原則に則っていると考えることは、
われわれの日常感覚からしても、それほどかけ離れたことではない。

しかし、たとえわれわれがそうした所有概念をもっていたとしても、
じっさいに現象としてあらわれる「所有」はその通りにはいかない。

「わたしが所有するもの」の「もの」に、
いろいろな言葉を入れてみれば、それがよくわかる。

「土地」であれば、そのまま当てはまるかもしれない。
ところが、それが「臓器」だと同じようにはいかない。
私的所有の原則からすれば、わたしは自分の「臓器」を使用したり、
利益をえたり、売却したりできることになる。
しかし、社会の制度や倫理的な制約のなかで、
少なくとも日本では「売却」することは法的に許されていない。

法律や制度のほかにも「所有」を制約するものはいくらでもある。
「わたし」に「男」を、「もの」に「口紅」を入れると、「男が所有する口紅」となる。
もちろん、男が化粧することを禁じる法律はない。
ただ、たとえば大学のゼミに男子学生が口紅をつけて(使用して)あらわれたら、
それは異様な逸脱の行為となる。

この背後には「男は口紅をつけるものではない」という
暗黙のうちに共有された規範があって、
「男」の「口紅」に対する所有のあり方を制約している。

ある社会にあらわれる「所有」という現象は、ひとつの概念で規定できるほど、単純ではない。
A社会にも、B社会にも、Aというあり方も、Bというあり方も、ともに存在する。
違うのは、それぞれの所有のかたちが結びつけられる「ふさわしさ」の配置。
何かを独り占めしたり、分け合ったりすることが、どのようなモノや関係や場に「ふさわしい」とされているのか。
どんなに個人主義や私的所有権の浸透したといわれる日本であっても、「家庭」では、食事や生活空間を共有することが「ふさわしい」とされる。
「夫婦」や「恋人」の関係では、寝室をともにすることも許される。
みんなが、どんなモノも、どんな関係においても、どんな場であっても、いつも何かを独り占めしているわけではない。

エチオピアの人びとに投げかけていた視線を
そのまま自分たちの日々の営みに向けてみる。
すると、<他者>を理解しようとして、とらわれていたものの見方が、
かなり偏ったものだったことがみえてくる。

遠く離れたエチオピアから日本に生まれ育った自分の姿を見つめなおす。
そこに、<他者/自己>を理解することの鍵が隠されている。

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