調査・研究の紹介

ブルガリアのトルコ語話者 

-トルコ語ルメリ方言・ガガウズ語-

はじめに

 トルコといえばチャイ、イスラム文化のイメージがとても強い気がします。たとえばトルコのことを日本人に紹介するときのシンボルとしてチャイと呼ばれるトルコ風紅茶の容器や口ひげをはやしたおじさんの顔などがパンフレット等に使われることがあります。 しかし日本人によく知られているトルコ人像はほとんどがアナトリア(小アジア)のトルコ人の文化であって、眼をバルカン半島のトルコ人に向けてみると我々が抱いているトルコ像といささか異なることに気づきます。ここではあまり一般的に知られていないバルカン半島に居住するトルコ人の言語と文化について簡単に紹介したいと思います。



ことばについて

 ユーラシア大陸全域に分布するチュルク諸語のなかでバルカン半島のトルコ語は最西端に位置しています。言語の系統(親縁関係)としてはアナトリアのトルコ語と近い関係にあります。近い関係というよりも一方言といったほうが正確です。 さてバルカン半島で話されているトルコ語は主に二種類に分かれます。一つはイスラム教徒のトルコ人の用いるトルコ語(ルメリ方言)で、もう一つはキリスト教徒のガガウズ人が用いるトルコ語(ガガウズ語)です。そのほかロム人(ジプシー)の用いるトルコ語などがあります。ロム人はキリスト教徒の場合も、イスラム教徒の場合もあります。 ここでは主にトルコ語話者(ルメリ方言)とガガウズ語話者について述べてゆきたいと思います。なおトルコ語ルメリ方言をバルカン-トルコ語と呼ぶこともあります。またガガウズ語は主にモルドバ共和国南部のガガウズ人自治区でも話者がいます。言語としてみるとバルカン半島のトルコ語とガガウズ語では少し文法構造や音韻の面で相違が認められます。トルコ共和国のトルコ語とバルカン-トルコ語の間でも方言差というべき差がみられます。印象的には共和国のトルコ語が理解できると男性が用いるルメリ方言を理解するのにそう苦労はありません。しかしガガウズ語についてはトルコ語とはかなり異なった印象を受けます。この理由は単にガガウズ語の文法構造や音声が異なること以上に、ガガウズ語話者自身も日常的にブルガリア語を用いており、いわば無理にガガウズ語を使っている面があるからかとも思います。例えば思い出せない単語等はブルガリア語に置き換わってしまいます。ブルガリアのガガウズ語話者についてはここ40年間位の間、まとまった研究がありません。それは彼らがキリスト教徒であるがゆえにトルコ人ではなくブルガリア人と認定されてきたことに由来します。従って学校教育でもガガウズ語話者の子弟はトルコ語教育を受けることなく家庭内で細々と親から子へと引き継がれてきました。今回の聞き取り調査では3世代にわたるガガウズ人家庭の場合、第二世代はかろうじて片言でガガウズ語が話せるものの、第三世代である孫の世代ではほとんどガガウズ語の運用能力がなくなっていることがわかりました。つまり若い世代は圧倒的にスラブ系の言語であるブルガリア語の影響下にあるわけです。これに反して トルコ語話者(ルメリ方言)の場合は全世代をとおして家庭内やトルコ人地域社会内ではトルコ語、トルコ人地域社会外ではブルガリア語という二言語併用をしています。もちろん、これはいささか単純化した言い方で正確には男女差やより細かい世代差などにより両言語の使用実態は異なります。 シューメン近郊に住むバルカン-トルコ語の話者(ロム人)  さてガガウズ語話者とトルコ語ルメリ方言話者の出自はどうなっているのでしょうか? ガガウズ語話者については諸説があるようですがまだよくわかっていないというのが実状かと思います。有力な説としてアナトリアからきたオグズ族の末裔であるというものや、アナトリアからきたオグズ族と黒海北方からきたトルコ系民族が混合したという説などがあります。またトルコ語ルメリ方言話者自身は自分たちは15世紀にアナトリアのコンヤから移住してきたオグズ族の末裔であると認識しています。
  バルナ市内在住のブルガリア人(ブルガリア語のモノリンガル)

 

文化について

 次に文化的な違いについてアナトリアのトルコ人と対比させながら述べたいと思います。 興味深いのはステレオタイプ的なトルコ人像(冒頭で述べたような)からずれている点です。
・バルカンのトルコ人はチャイを飲まない。
トルコでおなじみのあのチャイの容器はありません。またトルコ人のように一日に何杯もお茶を飲む習慣はありません。朝起きた時に野生のバラを乾燥させたものからつくったお茶を数杯飲みます。また客をもてなすときにはトルコ風コーヒー(Kahve)を頻繁に飲みます。トルコではトルコ風コーヒー(Kahve)が出されるのは外食したときとか、フォーマルな客のもてなし時に限られますがブルガリアでは日常的に飲みます。トルコでのチャイの代わりになるものがトルコ風コーヒーでしょう。
・バルカンのトルコ人は豚肉を食べる。
イスラム教徒にとって豚肉は御法度ですから、通常イスラム圏では食する事はありません。またトルコ人の中でどんなに信仰心が薄くて、イスラムのタブーを破っている人であっても豚に関するものだけは食べないという人も多いです。しかしこの中にあって、ブルガリアのトルコ人は豚肉に対する抵抗感はかなり薄いように感じました。豚肉そのものを食べることを見たことはありませんでしたが、村の食堂ではドイツから輸入した豚肉60パーセント入りのソーセージをケバブと呼び日常的に食べていました。トルコではケバブというと羊の肉を指すわけですからこれには驚きました。もちろん成分を知った上で食べるわけです。ビール等のアルコール類も村でも昼間から堂々と飲まれます。
・男女交際
 60歳以上の年輩の人でも自分の配偶者を知人からの紹介で見つけたという人にはお会いできませんでした。どうやって男女が知り合うかというと結婚式などのお祭り時に見つけるのだそうです。村にバーがあり週末には夜通しそこが若者のたまり場になっているようです。これは1997年にモルドバ共和国のガガウズ人自治区に行ったときも状況は同じでした。トルコの村では若い男女が夜通し遊ぶことは許されないでしょう。イスタンブルやアンカラなどの都会の一部の階層の人たちを除いて、男女間のつき合いはかなり保守的であるといえます。また女性の服装に関しても、トルコ共和国のようにスカーフの着用を巡っての意見の対立は皆無であり、自由な格好をすることができ、またそれを咎める人もいません。女性はスカーフを着用せず、ミニスカートや半袖シャツは村であっても当たり前であるということです。また村にすむ人々は男女関係なく遅い時間まで談笑し、アナトリアのトルコの村のように眼に付くのは男性だけということはありません。
 ブルガリアの黒海沿岸都市バルナで会ったイスラム教のトルコ人中年女性は1989年の強制移住でブルガリアからイスタンブルに行って暮らしたときの違和感を次のように語ってくれました。
「半袖で歩いていると感じる男たちのぶしつけな視線に辟易しましたよ。あたかも山から下りてきて初めて女を見たかのような、そんな視線でした。同じトルコ人なのに、私は外国人女性としてみられていたのですよ。ブルガリアから来たトルコの女たちに対する眼はみんなそうなのよ。」
これらから、ブルガリアのトルコ人は一応イスラム教徒ですが形の上だけであるという印象を受けます。少なくともトルコの人たちよりもずっと宗教色は薄いといえます。
・ブルガリアのトルコ人とトルコのトルコ人
 上述したような考え方の違いは、ブルガリアのトルコ人がトルコに行ってトルコ人と接触することによって文化的な摩擦を生み出します。トルコ人のブルガリア生まれのトルコ人に対する印象は「人間的に冷たい」「利己的」であるというもので、ブルガリア生まれのトルコ人はアナトリアのトルコ人に対して「怠け者」「人を利用する」などのイメージをもっているようです。あまりお互い仲がよいとはいえないようです。その証拠としてブルガリア生まれのトルコ人はトルコに長く住んでいても未だにブルガリア生まれのトルコ人で構成される組織を持っており相互扶助を行っているようです。60代のブルガリア生まれのトルコ人男性は次のようにいいます。
「10年前の強制移住で我々は着の身着のままでこの国にやってきたんです。当時、我々を受け入れてくれ援助してくれたトルコ政府には深く感謝していますよ。この10年間で我々は必死に働いてきました。その結果、ここでの生活はゼロから始めたが今では自分の持ち家もあるし車もあります。それに比べてここにずっと住んでいるトルコ人はどうか?貧乏なやつは10年前と一つも変わらなく貧乏じゃないか。それを政治や経済が悪いと人のせいにばかりしている。結局は彼らは怠け者なんだよ。」これに対し30代のあるトルコ人男性は「移民の奴らは国からの補助金を沢山もらって有利な立場にあるんだ。」といいます。
現在トルコとブルガリアを比べた場合、大きな経済格差があるのは事実だと思います。ブルガリアに行ったことがあるトルコ人は異口同音にブルガリアはなんと貧乏な国だといいます。またブルガリア国内でも失業率が大変高いため不法入国してまでトルコを目指す若者が多くいるそうです。ブルガリア移民のトルコ人はブルガリアが貧しいのは認めつつも現状のトルコの制度と比べ旧社会主義体制時の教育制度は大変優れていたことを強調します。つまり彼らがトルコで成功している秘訣はきちんとした教育の大切さを自分たちがよく認識しているからだといいます。
さて次に私の眼からみたトルコ民族としての共通性についてふれてみたいと思います。
・おしゃべり好き
ブルガリアに滞在している間、60代の中年男性に同行して一日の生活を参与観察してみました。一日中、誰かが訪ねてくるか自分から誰かのところへいっておしゃべりに興じることを繰り返します。一所にはあまり長居せず1~2時間で次のところにいきます。また年寄り同士固まるのではなく若い年代も含めて広く分け隔てなく付き合うようです。また村人は全員知り合いであるということや、本人がもと地元の学校の教員であったという立場上、顔が広いというのもあったのかもしれません。さてこの場合の私の立場ですが、日本からきた自分たちの言葉について調べている研究者ということで紹介してくれますが、必要以上に干渉をしてこないし、自然に受け入れてくれるという感じです。これが同じようなトルコの村であるなら、私はまるで動物園の猿のように好奇の対象になることは間違いありません。また上に述べた理由で女性の人とも自由に会話ができる雰囲気なのもトルコとは違うかもしれません。
       バルカン-トルコ語話者(左)とガガウズ語話者(右)           バルナ近郊にて
・もてなし好き
これも基本的にアナトリアのトルコ人と共通する部分だと思います。また自分たちもこの慣習を自分たちの美徳であると考えています。この点で村での滞在は非常に快適なものでした。
・長寿
イスタンブルにすむ人たちの寿命が結構短いのは納得できます。脂っこい食べ物と糖分のとりすぎや排気ガスによる空気汚染や経済問題などからくる心理的なストレス等によるものでしょう。ブルガリアで感じたのは長寿の人が結構多いということです。80歳を過ぎていても現役で仕事をしている人も多いのです。その理由を尋ねてみたのですが、ヨーグルトなどの乳製品や食べ物、空気のきれいさ、ストレスになるような原因があまりないことによるものだそうです。これもトルコ人は短命であるという認識を改めるものでした。
終わりに
 以上、アナトリアのトルコ人とブルガリアのトルコ人を簡単にみて来ましたが、まとめるとブルガリアのトルコ人は西洋風の味付けがされたトルコ人なのに対してアナトリアのトルコ人はよりアジア的であるのかなというのが直感的な印象です。以前にモルドバ共和国に行ったときモルドバのガガウズ人の特徴についてガガウズ人の若者から興味深い意見を聞きました。モルドバではモルドバ人が多数で少数民族としてガガウズ人やロシア人がいるのだが、外見でどれがどの民族かはすぐわかるそうです。民族性としては他の民族に比べてガガウズ人は結構狡猾なところがあるとのことでした。しかし客好きなところはトルコ民族としての共通性であるような気がしました。
 ブルガリアのガガウズ人とトルコ人の違いは外見にも現れているようで、より東ヨーロッパ系の感じがし、アナトリアのトルコ人との差がより顕著です。実際に自分たちの自己認識もトルコ人との認識はなく、少なくとも建前の上ではブルガリア人であると思っている人が多かったです。ブルガリアにおけるガガウズ人の立場については政治的に微妙な状況にあるため、その背景を説明する必要がありますが、今回はそれにはあまりふれないでおきます。ブルガリアでは1970年代より同化政策がとられ、結果的にトルコ系住民の強制移住が行われたりしましたが、歴史を通してトルコ系民族が迫害を受けていたわけではなく学校教育等でトルコ語教育が保証されていた時期もありました。
このHPがトルコ民族理解の一助になれば幸いです。



本稿は平成12-14年度文部科学省科学研究費補助金(基盤研究C2 研究者代表 栗林裕 課題番号12610557 研究課題名 バルカン-トルコ語における統語法についての総合的研究) による成果の一部である。
 


ガガウズ語(ブルガリア)の音声サンプル

WAV形式 約1.01MB カラアーチ村(ブルガリア)在住 65歳男性 


音声を再生

Simdi bis Gagauzlar burada, cok in... insan karsilariz, nereden de olsa,
さて 私たち ガガウズ人は ここで、沢山の人を出迎えます。何処の方であっても

nereden de gelsin, bis insan yolda kalmaz, bis caaracaz, gelsin buyursun,
どうぞお越しください、私たちは旅人を放っておかない、我々は皆さんをご招待します、

otursun, iisin, icsin, yok sen evde yatsin o gece,  topliyoruz evde,
どうぞ座って、食べて、飲んでください、夜はお泊まりください。 我が家で語り合いましょう。

musafir kalsin bize.
私たちのところで客人としてご滞在くださいますように。
 


ガガウズ人のことばと暮らし

-キリスト教徒のトルコ人-

  大多数のトルコ人はイスラム教徒ですが、そのなかで客をワインや豚肉を使ったごちそうでもてなしてくれる人たちがいます。ガガウズ人といわれる黒海沿岸北西部を中心に分布するトルコ系の少数民族です。ガガウズ人のルーツとしては諸説あるようですが、オウズ族、キプチャク族、セルジュク族等のトルコ系か、あるいはトルコ系諸民族の混合説が有力です。ことばの面からするとガガウズ語はトルコ語の一方言であり、モルドバ共和国を中心にブルガリア、ウクライナ等に話者を持っています。

このほかにもロシアやカザフスタンなどの旧ソ連領の諸国や、ブラジルへの移民を含めると全体で30万人ほどにもなるといわれています。今回は、ガガウズ人がもっとも多く居住しているモルドバ共和国南部のガガウズ人自治区を1997年の夏に訪問したとき実際に見聞したことをお話ししようと思っています。
モルドバ共和国ではガガウズ語の話者はガガウズ人に限られています。ちなみにこの国の主要言語はルーマニア語系のモルドバ語ですが、ガガウズ人の間では従来学校教育で用いられてきたロシア語が第一言語として浸透しています。ガガウズ語話者はモルドバ共和国の全人口の約3パーセントであり話者数は約150,000人程度と推測されます。しかしロシア語との2言語併用が進んでおり、完全にガガウズ語を保持しているのは中高年層が中心で若年層はこの言語を失いつつあるというのが現状です。ガガウズ人は宗教的には他のトルコ系民族と異なりキリスト教徒で、またモルドバ人とは違った独自の文化を持つ民族です。正書法は現在はラテン文字を使用していますが、ソ連崩壊後までキリル文字を使用していました。一貫した書き言葉を持ったのは比較的最近(1957年)であり、それまでは口承の文学などを保持してきました。その民謡を中心とする口承文学には中央アジアからのトルコ民族の民謡との共通性が数多くみられ同じトルコ民族としての自覚を促す要因の一つとなっています。
 ガガウズ語の文法的特徴で大変興味深いのは語順の自由さです。述語が文頭にきたり、文中にきたりするような語順が頻繁に見られます。これはロシア語をはじめとするスラブ系の言語との言語接触により影響を受けた結果であるといわれています。トルコ語よりもかなり自由な語順を許す点はバルカン半島一帯で使用されているバルカン-トルコ語にも当てはまる特徴です。
 さて次に現地の様子を簡単にお話ししたいと思います。一般の日本人がモルドバ共和国に入国するのは少々手間がかかります。まず査証をとらなくてはなりません。その際に受け入れ先の招待状が必要です。私の場合はトルコの大学で留学生として学んでいる学生さんと一緒に行くという形でアンカラのモルドバ大使館で査証を入手することができました。モルドバへの交通手段はトルコからですとバスで2日、列車で3日かかるそうですが飛行機なら1時間弱の距離です。飛行機はモルドバ航空という日本では予約不可能な航空会社でイスタンブルに代理店があります。コムラットではコムラット大学という小さいながらもガガウズ人のための国立大学があり、ガガウズ人はもとよりトルコからの学生たちも学んでいるそうです。近郊の村にはガガウズ民族博物館があり、訪問者の中で私が二人目の日本人ということで、帰りにはおみやげにガガウズの民族音楽のレコードをプレゼントしてくれました。ガガウズ人の人たちは、みんなとても気さくで、見知らぬ外国人に対しても非常に親切にしてくれました。客をもてなすことが好きなことはトルコの人たちと同じで、またガガウズ人が誇りにしているところです。また容姿に関しては肌の色はそれほど白いわけではなく、全体的に小柄で親しみやすく感じました。しかしトルコ人に言わせるとトルコ人とは容姿の上では明らかに違いがあるそうです。また道を歩いていても外国人だからとじろじろと凝視されることありませんし、また通りでは女性の姿もよく見かけることができます。ワインの産地としても有名で、食卓に着くとまずワインで乾杯し、おしゃべりに興じます。料理は東ヨーロッパ風の煮込み料理が主体で、トルコ料理ほどオリーブ油を多用しないので日本人の口にはよく合うと思います。同行した留学生によると、ガガウズ人自治区とはいうものの警察等の治安組織はモルドバ人に委ねられており、賄賂が横行し窃盗を中心とする犯罪が増えているなどの問題があるそうです。ガガウズ人は元来、農業に従事する人たちです。市場には想像以上にさまざまな商品や農産物が出まわっておりますが比較的高い値が付いているため自由に買えるわけではありません。宗教は異なるけれども同じトルコ民族としてトルコ政府も積極的に経済支援をしているようです。
日本ではガガウズ人についてはほとんど知られていませんが、私は今回の短い訪問でモルドバ共和国で自治区を手にしたガガウズ民族の自信と誇りを感じることが出来ました。
   
日本トルコ文化協会 発行
KOPRU通信 Vol.37 1999 Summer より
(第53回 トプカプさろん/1999年6月12日 講演要旨)