私は今年40歳になる。そして、少し前から40歳となるこの年の春に、醍醐桜を見に行きたいと思っていた。醍醐桜は、丘の上にそびえる巨大な一本桜で、その名は、後醍醐天皇が隠岐に流される際に賞賛したことに由来する。樹齢は千年といわれている。なぜ醍醐桜を見に行きたいと思ったのか?それは、ここ 2、3年、私が公私ともども停滞し、以前のように毎年自分が成長しているという実感を持てなかったからである。40歳といえばもういい歳で「不惑」である。ところが情けないことに、今の私は胸をはって自分が不惑であるとはいえない・・・しかし、そのことと醍醐桜がどう関係があるのか ?それを説明するには、やや小恥ずかしいが、私が働き始めた頃に書いた詩を読んでもらうのがよいと思う。
新芽の頃
午後の暖かい日差しを浴びて
窓の外の木々がその枝先で
新芽の赤ん坊を育てている
赤ん坊はまるくなってすやすや眠りながら
むくむくと膨らんでいく
やがて赤ん坊が目を覚まして手を伸ばすと
それはみずみずしい若葉となって
いっせいに四月の空に広がるだろう
僕よりもずっと長く生きているだろうに
毎年こんなに新鮮に生まれ変われるのか
木って すごいなと思う
しかもその間に幹は確実に一回り太く
梢はちょっぴり高くなっているんだ
就職して一年が経った
うまくいったこともあれば
うまくいかなかったこともある
そのこと自体はごく当たり前のことで
これからもずっとずっとそうだろう
しかし毎年この季節には
あの新芽のように希望と夢に満ちていたい
そして一年の終わりには必ず一回り大きくなり
いつかは多くの人々に喜ばれる果実をたわわに実らせたい
(2003年4月)
この詩にあるように、私にとって、木は、新しく生まれ変わりながら成長し続け、人々に豊かなものを与えてくれるものの象徴である。そして、千年もの間 、毎年花を咲かせ人々を魅了し続けてきた醍醐桜は、その最たるものであるように感じていた。私はまだ醍醐桜を直に見たことがなかったのであるが、醍醐桜に会いに行くことで、再び成長し続ける自分に変われるきっかけが得られるのではないかと思ったのであった。